Angel Sugar

「嘘かもしんない」 第8章

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「大良、彼大丈夫だったかい?」
 榊が聞いた。
「大丈夫でしたよ。色々大変でしたが……」 
 思い出して思わず顔が笑みになる。
「色々?」
 不思議そうな顔をするので博貴は大地がここから出て、やくざをやっつけた話しをした。すると榊は大笑いした。
「面白い。やっぱり大地君は面白いよ」
「面白いだけで済んで良かったんですよ。ホントに……彼を見つけたときはホッとしました。もう、べろべろに酔ってましたからねえ」
「いやあ、それは私も悪かったからなあ。謝っておいてくれよ」
「榊さんに責任はありませんよ。彼が自制の効かない飲み方をしたことに原因があるんですからね。その辺はきちんと言い聞かせましたから」
 大地の身体に……と、言いそうになって博貴は口をつぐんだ。
「まあ、人間そんなときもあるさ。べろべろに酔っぱらいたいときがね。余り怒らないでやってくれよ」
「ちょっと怒っただけですよ。まあ、反省しているようですので、もうあんな事はないと思いますが」
「しかし、大良。君は彼の事になると本当に嬉しそうに話すなあ……。まあ、大地君を見て君の気持ちも分かるがね」
「嬉しそうは間違いですよ。困っているんですよ。彼は田舎者ですからねえ……何でも信じてしまうところが放っておけないんです」
 そういうと榊は分かる分かると言って頷いた。榊にすれば可愛い子供に思えるのだろう。実際、自分もそんな気がしていたのだ。だが、違う。
 昨日、大地がいなくなった事を聞き、本当に心配だった。南に対しても腹立たしかった。その上、酔ったことに対して大地のあのあっけらかんとした態度……博貴は頭に来たのだ。自分が他人からどう見られているか全く分かっていない。いくら優しく言っても鈍な大地には分からないのだ。その上、大地は襲われたとしても、笑って忘れられるとまで言ったのだ。あの時どれだけ腹が立ったか。優しく言い聞かせようとしていたが、それではちっとも伝わらないと思った博貴は強引な行動に出たのだ。
 大地を怖がらせたのも、本当にそんな目にあって欲しくなかったからだ。自分以外の人間が大地の身体に触れるなど、とんでもないことだと心底思った。あの素直な彼を傷つける事などもってのほかであった。例えそれが大地が許した相手だったとしても、許せないだろう。博貴が最初に見つけて、大地に教えたのだ。だから自分のものだというはっきり言って身勝手な独占欲を昨晩程感じたことはなかった。
 自覚すると、前に本屋で女と一緒にいた大地を見つけてちょっかいをかけたのも、他の誰にも見せたくないと思ったこと、南に対して異常に腹が立ったのも、とにかく何もかもが大地を誰にも渡したくないという独占欲だった。
 そうだ、私は彼を愛しているんだ……。
 昨日大地を抱きながら何度も、そう思ったのだ。それこそ今までそれに気がつかなかったのが不思議なくらいであった。あの時言っても良かった。だが、あの状態で告白したとしても大地は信用しないだろう。こういうことは面と向かって真面目に言わなければ信じて貰えないだろう。だから本当なら今朝話したかったが、まあ、今日帰ってからでも遅くはない。
 自信はあった。なにより、南に迫られた時、大地は本能的に攻撃したようだが、こちらにはそんなそぶりは見せないからだ。本当に嫌だと思うのなら、同じ目に合っていただろう。だが、蹴り上げられたとしてもひるむつもりはない。彼の身体は既に開かれているのだ。彼の性格上、心が伴っていないのなら抱き合うことなど拒否するだろう。だから素直にこちらに身体を投げ出してくれると言うことは、大地も又、漠然とであるかもしれないが、好意を持ってくれているのだ。
 少しばかりの好意を絶対的なまでに引き上げることはそれほど難しくはない。ここは腕の見せ所……博貴はそう思って、口元に笑みが浮かんだ。
 愛していると言ったら、大地はどんな顔をするだろう?笑うだろうか?怒るだろうか?どちらにしても分からせるまで離すつもりはない。彼の口からもその言葉が出るまで、監禁したって構わない。
 自分のものにするまではどんな手を使ってもいいとさえ博貴は思った。
「大良……大良!」
 急に現実に戻されて、顔を上げると榊が電話を持って呼んでいた。何処か顔色が青い。
「はい……どうしたんですか?」
「病院からだよ。すぐ向かった方がいい。客には適当に言っておくから、さっさと行くんだよ」
「は、はい」
 博貴は立ち上がって、すぐに店を出るとタクシーを拾った。いつかこんな日が来ると分かっていた。だから既に心の準備は出来ていたのだ。

 病院に着くと、病室に向かった。ずっと世話になっていた看護婦が泣いている。その横にいた婦長がこちらに気がついて「お母さんが……今……」そう言って又項垂れた。間に合わなかったのだ。
 そっと病室に入るといつも鳴っている機械音は止んでいた。それは既に命の灯が消えてしまったことに他ならない。
 顔にかけられた布をそっと外すと、痩せた母親がひっそりと眠っているように見えた。
「母さん……」
 いつかこうなると、あの日から分かっていた。再び目を覚ますことなどないと医者からは言われていた。だから奇跡など信じなかった。いつかこんな風に眠るように逝ってしまうのだと分かっていたのだ。
 ここに来るといつも座る椅子を引き寄せて、博貴は座った。かける言葉など何もない。ただじっと、母の顔を見ていることしかできなかった。今までに何度か、どうするかと聞かれてきた。既に絶望的だったのだ。だが、博貴はその度に断ってきた。例え二度と目が覚めないと分かっていても、ただ、生きていてくれるだけで良かったのだ。自分の母であり、たった一人の肉親だからだ。ここに横たわり、機械が無ければ生きることが出来ない母であったが、一人で良い。自分の本当の姿を覚えていてくれる人がこの世にいて欲しかったのだ。
 言うことをよく聞く素直な息子……母は意識がなくなる前の博貴のことしか知らないのだ。今ではそんな所はこれっぽっちも残ってはいない。もし目が覚めたら、どう言い訳すればいいだろうと考えたこともあったが、それはただの杞憂に終わった。
「やっと……楽になれたんだね。本当ならもっと早くになれたんだろうけど、私のわがままでお母さんをずっと生かしてきて……ごめんね」
 涙は零れなかった。それだけ自分は変わってしまったのだろう。母が逝ったらきっと涙が出るのだろうと思ったが、意外に冷静に受け止めている自分がいた。それだけ感受性が鈍感になってしまったのだろう。
 大地なら一週間ほど泣き続けるだろうなあとふと思った。
「大良さん。お葬式はどうします?」
 婦長が言った。
「母は生前から葬式もお墓も嫌だといっておりましたので……」
「そう、じゃあ、簡単な供養で良いのかしら……」
「お任せします……こういうことは分かりませんので……」
「他に親戚の方は?ほら、あの方は……」
「誰もいません……」
 たまに父親が会いに来ていたらしいが、それを知ってから絶対に会わせないようにと博貴は言ったのだ。あんな男に見舞われたいと思わなかった。
「そうね、後は任せてくれて良いわ……」
 婦長はそう言った。博貴は座り直して母親の顔をもう一度眺めた。

 博貴はずっと付き添った。母親を綺麗にふいて薄化粧してくれる看護婦の側も離れず、安置所に連れて行かれ、火葬場にも着いていった。帰っても良いですよと言われたが、最後まで側にいてあげたかったのだ。
 
 博貴がお骨を抱いてうちに帰ってきたのは病院に向かってから二日後であった。あわただしかったなあと思いながら部屋へと入る。
 お骨を机に置くと、ぼんやりとソファーに座った。母親は、葬式もお墓もいらないと言っていた。その上死んだら、自分の骨を海に流してくれと冗談のように言っていた。あの時母はこんな事になるとは思わなかっただろう。だが、博貴はそれを覚えており、母親の望むようにしてやろうと思った。
 ふと隣の部屋にいる大地を思った。まだ帰っていないのか、人の気配はしない。日勤なのだろう。
 大地は泣いてくれるだろうか?多分自分の分まで泣いてくれるのだろう。それで良いと思った。それで母も納得してくれるだろうと。
 何時帰ってくるだろう……大地を無性に抱きしめたかった。以前は母が亡くなったら暫く一人でいたいと望んでいた。だが今は大地が側にいて欲しいと望んでいた。人恋しくなどなったことのない自分が大地に対してはそう素直に言える。本当に彼に参っているなあと苦笑が漏れた。抱きしめて、抱きしめられたいと考えている。一人っきりの部屋が今までになく寂しいのだ。たった一人の肉親がこの世にいないという現実が余計に寂しさに拍車をかけているのだ。
 だがいつまで経っても大地は帰ってこなかった。



 兄の戸浪のマンションは、聞いたほど狭くなかった。2DKの部屋は充分すぎるほどだ。それに都内でこの広さなのだから、いくら月に払ってるんだろうと思うとちょっと怖い気もした。
 ここに移り住んで既に二週間が過ぎようとしていた。真喜子の言うとおり、何とか生活が出来ていた。寂しいと思う。会いたいと思う。でも何とかその気持ちをコントロール出来ている。きっと博貴のことはそれほど好きじゃなかったのだ。でもそれも辛い。
 あの時真喜子が言った辛いという気持ちが良く分かった。それでもぽっかり空いた胸の空洞がいやに寒かった。
 そこに携帯が鳴った。表示はマッキーである。誰だろうと電話を受けると、真喜子だった。
「うわっ、真喜子さん!どうして俺の携帯知ってるんですか?」
『大ちゃんが酔ったときに貴方の携帯番号を調べたのよ。そっちにも入ってるはずだけど、やだあ、まだ気がついてなかったの?』
「そ、そうだったんですか……びっくりした……」
『そんなことはどうでも良いのよ。貴方今何処にいるのよ』
「え……ああ、ちょっと色々あって……」
 本当の事を真喜子であろうと言えないのだ。
『……うふ、やるじゃない』
「え、はあ?な、何ですかそれ?」
『そんなことどうでもいいのよ、大ちゃん。光ちゃんね、お母さんが亡くなって、落ち込んでるのよ。良かったら様子を見に行ってあげて、私はこの間焼香させて貰ったけど、ずっと仕事休んでるみたいだし、身体の調子も悪いみたいなの……何か美味しい物でも作ってあげてくれない?』
「え、お母さんが?」
 びっくりして携帯を落としそうになった。
『まあ、ずっと入院してたらしくて、いつかこうなるって以前に光ちゃんからちょこっと聞いたことがあったんだけど、彼、自分の事言わないから、亡くなったことが分かったのも、榊さんから聞いたのよ。ほんっと水くさいんだから』 
 そう言えば、冗談だと思っていたが、以前に、母親の入院費用を稼ぐためにホストになったと聞いたことがあったが、あれは本当の事だったのだろうか。
「俺……様子見に行ってきます……」
 大地は心配だった。仕事もいけないくらい身体の調子が悪いのだろうか?母親の死で、さすがにあの博貴も参っているのかもしれない。そう考えると大地はいても立ってもいられなかった。何が出来るわけでもない。だが、側にいてあげたいと思うのだ。
 何を持っていけば良いんだろう。オロオロしながら結局何も持たずに飛び出した。頭の中は博貴の事で一杯だった。必死に想いを否定してきた。だが、今自分の足が博貴のうちへと向かっている事で、何故か嬉しくて仕方なかった。戻る理由が欲しかったのかもしれないとふと大地は思った。
 コーポの階段を駆け上がり、博貴のうちの扉をノックした。暫くするといつもの笑顔で博貴が出てきた。
「やあ、大ちゃん。どうしたんだい?」
 少し痩せた顔だったが、それでも変わらない博貴の姿だった。
「おま……お前!お母さん亡くなったんだろ!何で連絡してくれなかったんだよ!」
「だって大ちゃん連絡先も言わずに、突然いなくなっちゃっただろ……」
 苦笑して博貴が言った。そうだ、そうだった。携帯の番号すら教えていなかったのだ。
「あ、ごめん……」
「ああ、真喜子さんに聞いたんだ……」
「うん……お母さん亡くなって……仕事も休んでるし、その……大良が身体の調子悪そうだって聞いたから……」
 やや視線をずらして大地は言った。
「大丈夫だよ……ただ母親が亡くなったことを理由にずる休みしてるだけだから、心配なんかいらないよ」
 ポンと頭を撫でられて大地は胸が一杯になった。
「どうせ、そんなことだろうと思ったけど。でもお前、痩せたぞ」
 もっと違うことを言いたいのに憎まれ口しか言えない自分が歯がゆかった。
「そりゃあ、そうだろうなあ……なんだか外に出るのも、めんどくさくてね。大ちゃんの手料理も食べられなくなったし」
 そう言って博貴は笑った。
「あのさ、焼香させて貰ってもいい?」
 このまま帰ることなど出来なかった。
「いいよ。きっと母も喜ぶよ」
 そう言って博貴は中へ案内した。
 部屋の角に置いた机にお骨が置かれ、周りに百合が沢山飾られていた。後は置いただけのような焼香用のセットが置かれている。それもなんだか博貴らしいと大地は思った。
「母は百合の花が好きだったんだよ。本当はすごく匂うからちょっと困るんだけどね」
「大良……本当だったんだ……。以前言ってたこと……」
「え?」
「ほら、ホストになった理由……俺、冗談だとばかり……。だってお前、ちゃかしたからさ、てっきり嘘だって……」
「それで同情されたくなかったからね」
 ニコリと笑って博貴は言った。らしいと言えば博貴らしい理由だった。
「そっか……」
 焼香を終えると、博貴がコーヒーを入れてくれた。なんだか急に博貴が遠く見える。それは自分の所為なのだと分かっていた。だが、博貴はいつも通りであった。彼にすれば例え大地が急にいなくなっても、何も生活には影響しないのだろう。
「……母はね……私が大学一年の時に、植物人間になったんだ。ちょっと身体の弱い人でね、洗濯物を干して二階から一階に下りようとして貧血で倒れたんだよ。上から下まで真っ逆さまに落ちてさ……。その発見も遅くてね。私も丁度留守にしていて、近所のおばさんが見つけてくれたんだけど、病院に連れて行かれたときにはもう遅かったんだ。最初は家を売ったりバイトしたりして入院費をかせいでたんだけど、全然足りなくてねえ…。仕方無しに手っ取り早く金の稼げる商売に就いたというわけだよ」
 博貴はまるで日常生活を語るような口調であった。
「大良……」
 そうだ、父親はもういなかったんだ。だから頼るものがいず、自分の力だけでここまで来たのだ。だが博貴があまりにも平静でいつも通りな分大地は辛かった。顔には出さないが、一番悲しいのは博貴なのだ。それを隠しているだけなのだ。
「なんだい?」
 何かを言いたかった。どんな慰めの言葉がいいのか分からない。
「俺……」
 涙が零れた。自分の事のように悲しいのだ。言葉が出ない分、涙が出た。
「やっぱり大ちゃんは泣くんだなあ……いいんだって……母のことは随分前に覚悟はしていたから、それほど落ち込んじゃいないよ」
 博貴はこちらを覗き込んでそう言った。もしかして抱きしめて貰えるのだろうかと密かに思ったが、博貴にその気はないのか、ハンカチを差し出すに留まった。その二人をはさむ机の距離が妙に遠く感じる。
「俺……飯作りにも来たんだ。真喜子さんが何か食べさせてって言ってたから……」
 立ち上がって大地は言った。
「嬉しいこと言ってくれるね。久しぶりに大ちゃんの手料理が食べられるんだ。あ、でも冷蔵庫にあんまり何も買い置きしていないなあ」
「あるもんで作るよ」
 大地はそう言ってキッチンに立った。冷蔵庫を覗くと確かにめぼしいものがない。
「お前……あんまりないんじゃなくて、マジなんにもねえよ」
 何を食べて暮らしていたのだろうと大地は思った。
「……すまないね。来ることが分かっていたら買い出しに行ってたんだけど……」
「俺、ちょっと買い物行ってくるから」
 そう言って玄関で靴を履いた。
「大ちゃん……」
「え?」
「戻ってくるのかい?」
 博貴は困惑したような顔だった。
「買い出し行くだけだよ、なんで?」
「いや、ただ、戻らないのなら戻らないと言って欲しいと思っただけだよ」
 突然姿を消した大地に対しての言葉なのだろう。少しは気にしていてくれたのだ。それを知って嬉しかった。
「分かってる。じゃ、ちょっと行ってくる」
「私もいこうか?」
「買い物くらい一人で行けるよ。酔ってねーし」
「そうだね」
「じゃ、な」
 うきうきとした気分で大地はコーポの階段を駆け下りた。

 色々買い込んで戻ってくると、博貴はベッドに横になっていた。真喜子の言うとおり体調が悪いのかもしれない。そっと近づくと眠っているようであった。
 博貴の寝顔をまじまじ見たことは無かった。彫りの深い顔立ちが良く分かる。俺はこの顔が好きだと、またしても思ってしまった。そんな気持ちを振り払ってキッチンに立ち、出来るだけ音をさせずに、作ろうとしたが博貴は気がついたようであった。だが、こちらに来ようとはせず、横になったまま言った。
「ねえ、大ちゃん……誰かと同棲してるの?」
 含み笑いをしながら博貴は言った。こいつがそんなことを信じるわけなどないのだ。
「お前に関係ねえよ」
「そっかあ……それもそうだねえ。で、何時帰って来るんだい?」
 博貴は帰ってきて欲しいのだろうか?
「さあな……。そうだ、なんかあったときのために、携帯番号おしえとくよ。お前も教えろよ」
 一応言っておいた方がいいんだろう。何故か何かを期待している自分がいた。
「……いや、いいんだ。教えてあげるけど、君のは聞かないよ」
 ちょっと博貴の声のトーンが下がった。
「なんで?」
「だってねえ、悪戯電話しそうだから……」 
 くくくと笑って博貴は言った。こいつは何処までもふざけている!そう思うと腹が立った。本当に落ち込んでいるのだろうか?大地はやっぱり博貴が理解できない。
「分かったよ。お前の番号だっていらねえよ!くっそー何でお前はいつもそうなんだよ。も、良いから暫く黙ってろよ。気が散って飯作れねえよ」
 思いっきり頭に来た大地はそう怒鳴った。
「了解……」
 ようやく博貴は静かになった。眠ったのだろうか?ちらりとベッドの方を伺うと、背をこちらに向けて横になったまま動かなかった。眠ったのだろう。
 料理を作りながら大地は思った。ずっとこうしていたいと……。
 ふざけあったり、からかわれたり、そんな時間がこれほど楽しいとは思わなかった。一人で暮らした二週間が酷く遠く思えるのだ。戻ろうかな……ふと大地は思った。元通りの生活を取り戻すにはただ、自分が隣に戻ってくれば良いだけなのだ。それで解決する。だが大きな問題もある。自分は博貴が好きなのだ。その気持ちを何処まで隠しておれるのだろう。隠して接すればこのまま、いつもの日常を取り戻すことが出来るのだ。
 ちらりと博貴を見て、大地は考えた。多分、又あの男に抱かれるのだろう。それは自分も望んでいることなのだから、博貴が求めてくれば身体は素直に応じるはずだ。自分の気持ちも既に応じている。
 抱かれるたびにどんどん好きになってしまうんだぞ。今だってどうにもならないくらい好きなのだ。一人で暮らしていたときのぽっかり空いた空虚なものが、ここに来て埋まっているのだ。また一人になればきっとその空虚さが戻ってくるだろう。どちらを選べばいいのだろうか?どちらも辛い。
 ただ、博貴は愛していると大地に囁いたことは無かった。それだけが救いだった。それを聞かされたらきっと終わりだ。その言葉は博貴が一番よくつく嘘だからだ。
 愛していると言われた瞬間に、俺は隣人でも友達でも無くなってしまう。彼が騙す女性達と同じレベルとなった証拠なのだ。愛していると言われるより、冗談半分で抱かれた方がマシだった。隣人であり友達であることの方が耐えられるからだ。その他大勢ではなく特別であると思えるのだ。自分は特別だと……だが、そう思う女性は沢山いるのだろう。だからこそ博貴に貢ぐのだ。同じは嫌だ……耐えられない。必死にそう思うのだが、誰だって好きな相手には自分だけが特別だと思われたいのだ。そして信じたい。だがそれを博貴に求めることが出来ない。求めた瞬間に全てが終わるのだ。
 こんな想いを抱えて……何時か自滅してしまうような恋を持ったまま、ここに留まることが俺にできるか?辛くて死にそうだぞ、それでも良いのか?いつか……あいつが飽きたとき、二度と俺に触れることなく、友達だろと言っていつものように笑いながら突き放すんだぞ、それが分かっていても……俺は……。それでも俺は……。
 天井を仰いで大地はうじうじと悩んでいることに決着をつけた。
 それでもいい。ここに帰ってきたい。例え自滅しても、こんな想いを抱えたまま日々一人で悶々と後悔するより、博貴の側で後悔した方がまだ前向きだと思った。その先で一気に失墜することになっても、いい。
 大地はそう決めた。
 料理を作り終え、博貴の様子を見に行くと、眠っていた。起こすのも躊躇われるほどぐっすりと眠っていた。そう言えば上のベッドは狭くて寝るのは嫌だと言っていたのにどうしてここで眠っているのだろう……。まあ、いつもの博貴の気まぐれなんだろうと大地は思った。
 大地はベッドを背もたれにし床に座った。すると、静まり返った部屋の中で博貴の寝息が聞こえる。何故かとても心が穏やかになる。一緒に居たい。この安心感を与えてくれる博貴の側にいたい……。大地はそう思って暫く耳を傾けていた。
「大ちゃん?」
「んー……?」
「料理済んだの?」
「うん」
「……」
「なんだよ……お前が寝てたから起こすの悪いと思って起きるまで待ってたんだよ」
 顎をベッドの上に置いた大地は、こちらを見ている博貴に言った。
「ねえ……真剣な話し……」
 博貴はじっとこちらを見て言った。顔は笑っていない。
「なに?」
「大ちゃん。もう戻ってこないのか?」 
「……別にずっと留守にするつもりはなかったけど」
 さっき決めたことであったが、大地はそう言った。
「戻って来るんだね。そっか……良かったよ……」
 満面の笑みで博貴は言った。その笑顔が眩しい。
「どうせ、俺が飯つくんなきゃ、今みたいに、お前弱ってしまうしなあ……手間のかかる奴だよ。おまえってさ」
 大地は自然と笑みが浮かんだ。
「……いやそれだけじゃないよ」
「え?」
「君がいなくなった日に……言おうと思ってたことがあるんだ」
「どうせ良い事じゃねえんだろ。いいよ別に……」
 何を言いたいのだろう?何を言おうと思っていたのだろう……大地は急に怖くなった。
「聞いて欲しい……」
「……」
「私は……大地……」
 言うな……。
「君を……」
 言わないでくれ!
「愛してるんだ」
 どうして言うんだ!何故言うんだ!戻ろうと思った瞬間に、何故こいつは一気に片を付けようとするんだ!
 様々な思いが一気に駆け抜け、言葉が継げなかった。その代わり涙が一筋落ちた。
「やあ、大ちゃんも喜んでくれてるんだねえ」
 嬉しそうに博貴は言った。この嘘つきは何処までいっても残酷な奴なのだ。
「お前は……俺にまで嘘をつくつもりなんだ……誰が嬉しいって?何が嬉しいんだよ!一番聞きたくなかった台詞を……どうして言うんだよ!」
「大地?」
 博貴は驚いた顔でこちらを見ていた。そうだろう。今までこんな反応をした女はいなかったはずだからだ。馬鹿な女達は博貴のその台詞を泣いて喜んで聞くのだ。だが俺は違う。
「お前は小狡く考えて、その台詞で俺を懐柔しようとしたんだ。それで俺が喜んで、尻尾を振って、わんわんと戻ってくるとでも思ったのかよ!騙されるものか!俺は女じゃない!お前の客でも何でもねえ!お前が今までそうやって手に入れてきた女と同じあつかいすんな!」
 悲しくて思わず大地はそう怒鳴った。胸が張り裂けそうであった。
「大地……違うよ……」
 博貴が大地の腕を捕まえようとした手を大地は払った。触られたくなかったのだ。何より引き寄せられ、抱きしめられたら、それでもいいと最後のプライドまで自分で捨ててしまうからだ。それだけは死んでも嫌だった。
「馬鹿野郎!お前なんかだいっ嫌いだ!もう二度と戻ってくるもんか!お前の嘘に振り回されて、お前が何となく欲求不満なときに抱かれるなんてもうまっぴらだ!」
「大地!聞いてくれ……」
 博貴はそう言って大地に近寄った。
「側に寄るな!これ以上お前が何を言っても、嘘の上塗りするだけだ!そんなもんに騙されねえ……。それにもう、お前から何も聞きたくない……」
 そういうと博貴は口をつぐんだ。何か言いたそうではあるが、的を射た言葉に反論が出来ないというのが正しいのだ。そらみたことか、やっぱりそうだったのだ。それが分かると急いで玄関を開け、大地は外に出た。扉を閉める前に最後に言った。
「でも、俺……それでも良いと思った事もあったんだ……馬鹿だったよ……」
 扉は閉められた。

 遠くで大地が階段を駆け下りる音が聞こえた。引き留める言葉が何も出てこなかったのだ。何をどう言えば、大地に自分が本当の事を言っていると分かって貰えるのか、いくら言葉を探しても出てこなかった。いや、何を言っても彼は信じてはくれないことが分かったから言えなかったのだ。情けないことに追いかけることも出来なかった。
「嘘つきか……」
 そうだ、否定しない。自分は嘘つきだ。そうやって仕事をし、私生活もそうだった。だから、そうでなかった頃を知っている母親に生きていて欲しかったのだ。だがそれを知るものはもう誰もいなかった。
 多分、自分が偽って生きてきた人生のつけを一気に支払わされたのだ。だから大事にしたい者達を一度に失ったのだ。
 ホストによっては客の持つ物全てをはぎ取るような奴もいるが、そこまで自分はしたことはないと胸を張って言える。だが、泣かせたことはないかと問われると自信がない。勝手に思いこんで、深みにはまった女性達は彼女たちが悪いと思うことにしていたのだ。でなければこっちが保たない。
 だが昔の自分であったなら、それは嫌悪する生き方だろう。今は日常の事と化している。所詮、大地のような人間を望めるような人生を歩んではいなかったのだ。何よりこれから自分を変えることなど出来ないのだ。戻れないところまで来てしまっていた。
 溜息が長く吐き出された
「こんにちわあー!元気光ちゃん。あら、大ちゃんは?」
 バンと玄関を開けて真喜子が来た。視線をきょろきょろとさせて、来ているであろう大地を探している。
「帰ったよ」
「帰った?どういうこと?私、大ちゃんを煽ったから絶対今日来てると思ってね。ご飯をごちそうして貰おうと思ったんだけど……。帰っちゃったの?」
「ああ、食事は作ってくれたよ」
「ふううん……光ちゃんまた苛めたのね」
 じっと真喜子は博貴を見つめた。
「いや、ははは……」
 苦笑が漏れた。
「で、今日はどういうメニューかなあ」
 真喜子はさっさと博貴のうちへ上がり込み、キッチンへと足を運んだ。こちらは何をする気もせずに、先ほど寝ていたベッドに座った。
「ねえ、大ちゃんってほんと優しい子ね……光ちゃんの事考えたメニューになってるわ」
 その真喜子の声は何となく涙ぐんでいるようであった。
「そう……」
「雑炊に豆腐の田楽……それとぶりの煮付け。どれも消化の良いものじゃない……愛されちゃってるわねえ」
 既に思いっきり嫌われた相手なのだが、博貴は何も言えなかった。
「ねえ、どうしたの?何かあった?」
 静かな博貴に気がついた真喜子が言った。
「いや、別にね。何もないよ」
「あのさあ、大ちゃんいつ隣に戻って来るって言ってた?」
「もう、戻らないと言われたよ」
「……変ね。あなた大ちゃんのこと好きなんでしょ?ほら、白状しなさい!」
 覗き込むような姿勢で真喜子は言った。言いたくないのだが、誰でも良いから聞いて欲しいと何故か思った。余程こたえているのだろう。
「ああ……」
「やっぱりね。私気がついたの……このあいだあなたが大ちゃんを迎えに来た時ね。本当に心配した顔で……大ちゃんを見たときの光ちゃんの顔ったら、惚れ直すくらいいい顔してたのよ。で、大ちゃんを抱き上げるときの顔。もう、溶けるくらい嬉しい顔してさあ。気がつかない方が変よ。でも大ちゃんもまんざらじゃないみたいだったけど……。まさか、光ちゃんが振ったとか?」
 半分怒りを瞳に宿し、真喜子は言った。 
「反対……」
 白状した。
「ええええ!信じられないわねえ。光ちゃんが振られるなんて……」
 本当に驚いた顔で真喜子は言った。
「告白したら思い切り怒鳴られて振られたよ」
 乾いた笑いを浮かべて博貴は言った。そういうと、笑うかと思った真喜子が暫く考え込んで、こちらを見た。
「なんて怒鳴ったの?」
「……いやあ、それは……」
「言いなさい」
 有無を言わさない目で睨む真喜子がいた。仕方なく溜息混じりに博貴は言った。
「愛してるといったらねえ。お前の嘘の中で一番の嘘がそれだってさ。参ったよ」
「……嘘で言ったの?」
 大地にそんな小細工などしたりしない。
「いいや……」
「じゃあ、本気だって言った?」
「何も聞いてくれない状態だったよ……だから何も言えなかった。それに考えてみると、実際そうなんだから、誤解されても仕方ないさ」
「ねえ、ホストやホステスは本気の恋をしちゃいけないの?愛していると嘘じゃなく本気で言ったら駄目なの?」
「……」
「ちょっと!聞いてるのよ答えて!」
 ものすごい剣幕で真喜子が言った。
「本気だってあるさ。恋だってする。ただ相手に通じなかっただけだよ」
「あなたそれで良いの?相手にあなたの想いが嘘だって思われたままでいいの?嫌じゃないの?私は嫌だわ!信じて貰えるまで努力したの?追いかけなかったの?本気なんでしょ?なら、相手が信じてくれるまでどうして食い下がらないの?」
「もう終わったんだよ。良いんだ……」
「ふざけないでよ!あなたは良いかもしれないけど、大ちゃんはどうなるのよ!絶対あの子はあなたを好きだわ。それなのに、酷い奴だったと一生思って暮らすのよ。それでもきっとあなたを好きだと思ってるわ……そんなの可哀相じゃない!」
「君には関係ないよ」
 何も知らない真喜子に言われたくなかった。
「そうやってすぐ自分の殻に閉じこもるのよあなたは。一人大人のフリして誰の力も借りずに生きていけると思ってるのよ。ばっかじゃないの。好きなくせに……必要なくせに……光ちゃんそんな生き方してたら、いつか自滅するわよ」
「自滅するならするさ」
 大地と会わなかった頃だってちゃんと生きてこれたのだ。
「あの子……今どこに住んでるの?考えたことないの?」
「なんだって?」
 それは聞かなかった。ただ気にはなっていた。
「大ちゃんの給料で、他を借りられる訳ないでしょう。じゃあ、何処で暮らしてるの?どうやって家賃を払ってるって言うのよ。そういうこと考えたの?」
「……」
「もしかして誰かに良いように騙されて囲われてたらどうするの?」
「か、会社には行ってるよ。それは会社に電話して聞いたからね。でも……」
 どんどん不安になってきた。大地は何処で誰のうちに世話になっているのだ?身の回りの物はほとんど持ち出していない。それは大地の部屋へ入って確認した。
「あの子騙されやすいわよ。それを知ってるあなたは、大ちゃんがどうなったって知らないって言うのね」
「友達のうちだろう……」
 そんな事は考えられないが、博貴はそう信じたかった。
「あの子に友達がいた?そんなこと聞いたことないわよ!部屋を貸してくれる恋人だって居ないわ!それについこの間田舎から出てきた子に、何処の友達が部屋を貸してくれるっていうのよ!いるんなら、下心があるからに決まってるでしょう!いいの?あの子がどこかで泣いても……もうあなたは関係ないっていうの?」
「まさか……確かお兄さんが二人いるって……あ、だが連絡つかないと言ってた……じゃあ、大地は……」
 では、何処で暮らしているのだろう。大地は誰かに騙されているのだろうか?下心を持った男に、優しくされて信じたのだろうか?それほど単純だったろうか?いや、人を疑うことより信じる方が多い大地のことだ、ころりと騙されてしまうだろう。
「……私は連絡先を知らない……」
 何故聞かなかったのだろう。今更ながら自分の馬鹿さかげんに腹が立った。あの時聞けなかったのは、怖かったからだ。望んでいたのは大地が帰ってきてくれることだけだったから……。連絡先を聞けば、またどこかに行ってしまうのではないかと思ったのだ。
「あああああ!もう、じれったいわ!まって、住所を聞き出すから」
 そう言って真喜子は携帯をかけた。
「もしもし、あ、大ちゃん?真喜子よ真喜子。あのねえ、ちょっと相談があるんだけど……え、なんのこと?そんなことは知らないわよ。そうじゃなくって、あなたがこの間酔って喧嘩をふっかけた相手覚えてる?彼らが色々言ってきてるの。その事で相談したいから、住所教えてくれない?そっちに行くわ。え、駄目よ。私のうちには怖いお兄さんがはってるから……ええ」
 真喜子が手で紙を求める仕草をしたので博貴は慌ててペンと紙を渡した。
「良いわ……はいはい。じゃあ、今から行くから待っててね」
 そう言って携帯を終えた。すごい早業だった。
「真喜子さんって……すごいなあ……」
 いつの間にか電話番号を控えていたり、大地から簡単に住所を聞き出したりと、博貴は思わず尊敬してしまった。これだから彼女は銀座で生き残っているのだろう。
「やあねえ、大ちゃんは特別よ。だって彼単純なんですもの。それが良いとこでもあって、心配するところなんじゃない。ほらあ、行くわよ」
 真喜子はそう言ってウインクをした。博貴はそんな彼女と友達であったことを感謝した。
 人は一人では生きていけないのだ。
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