Angel Sugar

「嘘かもしんない」 第2章

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 店が開店するとにわかに忙しくなる。ホストの数は二十人。他店よりやや多いかもしれないが店自体の規模が結構大きかったのでこんなものだろう。指名が飛び交いその指名の数だけ札束が飛び交う。指名があれば何割かが自分の収入になるのだ。ただ、時間帯で違う人が同時に指名をかけると大変であった。どちらの機嫌もとりながら行ったり来たりするのだ。そうしながら、両方のプライドを傷つけず尚かつ、互いを競争させるのだ。しかしなかなかそれは難しい。だが博貴はそのシーソーゲームに強かった。だからこそ、未だにトップを守ることが出来ている。
「光ちゃん。明日昼間空いてるの?」
 光とは博貴の源氏名である。
「ええ」
「明日同伴しようかしら。主人は暫く帰ってこないしね。うちまで迎えの車を出すわよ」
 うふふと笑って中里は言った。彼女は既に五十を越えている。夫は外交官でなかなか忙しく、相手をして貰えないのだ。
「そうですね。ただ、今は隣がとてもうるさい人で、違う場所で待ち合わせしても良いですか?」
「あら、まだあのちんけなコーポに住んでるの?マンションくらい買ってあげるわよ」
 頷けば本当に買ってくれるだろうが、博貴はやんわりと断った。
「自分が貧乏だった頃の苦労を忘れないように、過度の贅沢はしないことにしているんです」
「まあ、偉いわ光ちゃん。貴方って見た目と全然違うところがいいのよね。うちの息子もこれくらいしっかりしてくれたら良いのに」
「写真で拝見した中里様の息子さんですが、私から見ても立派な方だと見受けられますよ。確か東大に通われているとか……、駄目ですねえ。親から見れば、立派な息子さんもただの手の掛かる子供でしかないんですから」
 一度聞いた事は博貴は忘れないのだ。フッと話したことを覚えておくことが相手に好印象を与えることを知っていた。
「そうかしら、私から見ると、まだまだわがまま息子よ。もう少し苦労させた方が良かったのかと思うくらい……」
「苦労したからといって立派になるとは限らないではありませんか。優しく理解ある母親が父親の留守の時にしっかりうちを守って子を育てるからこそ、立派な息子さんに育つのだと思いますよ。だからこそ、期待に背かない息子さんに育ったのではありませんか。そこまでの中里様の苦労は言葉では言えない程のものがあったと思います。私はそんな貴方こそ尊敬しますよ」
「そ、そうなのよ。光ちゃんって本当に私の気持ちを良く分かってくれるわ。明日欲しいものは全部買ってあげるわね。息子がなかなかショッピングにつき合ってくれないから寂しいのよ」
 嬉しそうに中里は博貴の手を握って言った。しかし素晴らしい母親が息子と同年代の男に媚びるのはどうかと思うが、そんな事はおくびにも出さない。博貴にとって客は金づるなのだ。この店にいる間は客は女王様のごとく扱わなければならない。
 何人かをさばききり、二時に閉店になった。どっと疲れるが、いつものことであった。そこから客と待ち合わせてしているホストは帰り、残ったものはミーティングを行い、それが済むと、解散となる。博貴は帰りに待ち合わせを滅多に入れない。さっさと帰って寝たいからだった。大体、平均三時頃店を出る事が出来るが、そのころには第一版の新聞が届いている。家に帰ると五紙も届いているのだが、習慣で店のカウンターに置かれている新聞にも目を通すのだ。
「あれ?」
 そんなに大きな記事ではなかったが、大地の顔らしき写真が載っていた。何か悪いことでもしたのだろうかと内容を読むと、どうも現金を運ぶ途中、刃物を持った男が二人乱入したが、大地がそれを見事に取り押さえたという内容であった。
 へええ、やるじゃないか……と、博貴が感心していたところに仲間のホストがやってきた。
「何か面白い記事でもあったんですか?あれ、すっげーかわいい子じゃないですか」
「隣に越してきた子なんだけどね。結構やるなあと思ってたのさ」
「光さあん、紹介して下さいよ。俺こういうタイプに弱いんです」
 三つ下の南が言った。
「……この子は男の子だよ」
 呆れた風に博貴は言った。
「男でもこれだけ可愛かったら俺大丈夫です」
 何が大丈夫なのか良く分からない。そこへ榊が顔を覗かせた。
「ふうん、この子が例の子か……なかなか可愛い顔立ちをしてるねえ」
 意味深な笑顔を榊は博貴に向けた。こうなると苦笑するしかない。
「光さん駄目ですか?俺、一生大事にしますよ」
 彼の一生は日に何度も口から出る言葉だった。
「彼は刃物を持った二人組を簡単にのしてしまったんだよ。空手の有段者でね、全国大会にも出た強者なんだと聞いたけど、そんな彼に君が襲いかかったら簀巻きにされて隅田川に流されてしまうんじゃないか?」
「うえっ……それはちょっと困るなあ……もったいないなあ……可愛いのに……空手なんかしなくったって守ってくれる奴がいただろうに……」
 その言葉に思わず博貴は吹き出した。
「折角だからこれを祝いに持っていってやるといい」
 榊はそう言ってワインを博貴に渡した。
「え、良いんですか?」
「もし仕事が嫌になったら、うちでいつでもデビューさせてあげると一言付け加えておいてくれよ」
 真面目な顔をして榊は言った。何処まで本気かよく分からない。
「はあ、そうですね」
 微妙に笑顔を作って博貴はワインを片手に持って立ち上がった。背後でまだ南が「惜しいなあ……」と呟いているのが聞こえた。
 タクシーを拾い、コーポに戻ると朝方戻るはずの大地の部屋に電気が点いていた。不審に思って玄関の扉を叩いたが返事はなかった。新聞は入ったままになっていたが、どうも隣から人の気配がするのだ。
 妙だな……と、思った博貴はベランダを乗り越え隣に侵入しカーテンの間からそっと覗いてみた。すると大地は膝を抱えて座り込んでいた。不用心にもベランダのサッシは開いていたので、ワインを持ってそっと部屋へと入った。ワインを持ってきたのは泥棒ならそれで殴るつもりだったのだ。
 だが大地はピクリともせずに頭を項垂れたまま動かない。
「大ちゃん?寝てるのかい?ベランダが開いてたから入ってきたけど、不用心だよ。どうでもいいけど、どうしたんだい?おーーい。大ちゃん?」 
 こちらも姿勢を低くして様子を窺うが、大地は何も言わない。
「そうだ、新聞見たよ。うちの店のオーナーがお祝いにってワインをもたせてくれたんだ。君にだよ」
 そういうと大地はそっと顔を上げた。その顔を見て博貴は驚いた。
「大ちゃん……どうして泣いているんだい?誰か君を苛めたのか?」
「違うよ……」
 泣きはらした目で大地はそう言って左右に頭を振った。その姿はとても痛々しかった。
「……じゃあ、どうしたんだい?大活躍したって言うのに……」
「大活躍……笑えるよ。俺……逃がしてやれたのに……頭に血が登ってて……一人は肋骨折ったし、もう一人も腕を折っちゃったよ……」
 サラリと怖いことを言って大地は又項垂れた。
「でもなあ、相手は刃物を持ってたんだろ?それに強盗だよ。そんな奴らもっとこてんぱんにのしてやっても良かったんじゃないか?」 
「……一人がね、言ったんだ。逃がしてくれって……リストラされて明日食べるものがないって……妻と子供がいるんだって……俺……」
 それを聞いて博貴は変だなあと思った。新聞にはそんなことは書いていなかったからだ。
「新聞には住所不定の男二人で、知り合ったのは競馬場だと書いてたよ。ギャンブルの借金がたまった末の強盗だってさ、確か……結婚してなかったよ」
 そういうと大地が大きな目を更に大きくして驚いた顔をした。
「じゃあ……俺に言ったこと嘘?」
「逃がして貰おうと思って嘘ついたんだろ。それに家族がいてそんな馬鹿なことしないだろう……」
「う・そ?」
 もう一度大地はそう言った。
「大ちゃーん……そろそろ慣れないと……都会には嘘つきが多いんだよ。そんなのいちいちまともに受け取ってたら身が持たないよ」
 一気に力が抜けたように大地は大きな溜息をついた。
「……俺……馬鹿だよね……そんなのまともにとってずっと悩んで……くそ……。嘘つきの手本が目の前にいるのに……」
「そうそう」
 にこやかに博貴は言った。ようやく大地がいつもの大地らしくなってきて博貴は嬉しかったのだ。
「で、ご飯何作ってくれるの?」
「お前はーー!人の顔見りゃ飯飯ってそれしかないのかよ!」
「食前食後のワインを持ってきてやっただろ?」
「全く……もう!」
 食事の最中、博貴はふと聞いた。
「大ちゃんは彼女を作った方がいいねえ。いるの?」
「え、……と。学生の頃一年つき合った子がいたけど……振られちゃった」
 口をもごもごさせながら大地は言った。 
「へえ……」
「よく分かんないけど……俺と二人で歩くと嫌なんだって……。その理由が良く分からないんだけど、確かに何話していいか分からないし……俺ってつまらないかもしれない……」
 博貴にはその理由が何となく分かった。大地の性格は骨っぽいが、見た目が繊細そうで傍目には女の子より可愛い。そんな男と一緒に歩いては女性によっては不満が出るだろう。
「ふふふ……じゃあ、女の子知らないんだア」
 ニヤニヤと笑いながら博貴は言った。
「そ、そのくらいあるよ!そりゃ……あんたには思いっきり負けると思うけど……」
「経験不足な男は嫌われるからなア……。分かった。私に任せなさい!」
 博貴は胸をどんと叩いてそう言った。
「なんだよ……それ……」
「大ちゃん明日の予定は?」
「明日はやっと休み」
「じゃ、女の子を紹介しよう!君を立派な男にしてくれるよ。彼女の胸を借りて色々教わんなさい」
「はあああ???」
 茶碗を落としそうになった大地は博貴が言っていることが分かっているのか分かってないのか分からない顔をした。
「大丈夫、ちょっと年上だけど、可愛がってくれるよ。恥ずかしがらなくていいさ。男はそうやって大人になるんだからね」
 はははと笑って博貴は言った。大地は目が既に点になっている。
「そうか嬉しいか。これで食事をご馳走になっている恩返しが出来るね。お金のことは心配しなくていいよ。君はただ彼女に身体を任せるだけで良いんだから。明日電話して来て貰うから……あ、と、もちろん私はいないが、何、君も男だ。やるときはできるさ。彼女にはお礼に君の美味しい食事でもご馳走してやんなさい」
 そう言って自分の食べた皿をいつものように洗い、ベランダを越えて博貴は自分の住まいへと戻った。何となく良いことをしたような気がして気持ちよく眠れた。

 あんな事言ってたけど……マジで?
 大地は博貴が帰ってから一睡もできなかった。頭がパニックで何を言っていたのか良く思い出せないのだ。だから……何だっけ???ええっと女の人が来るんだよな……。
 部屋を行ったり来たりしながら、昼過ぎ頃まで悩み、やっぱりまずいと思った大地は逃げ出すことにした。抱いて良いよと言われ、ありがとうと言って出来るわけなどないのだ。
 玄関に出たところで綺麗な女性にぶつかった。白いスプリングコートを羽織り、長い髪を後ろでまとめた女性はニッコリと笑っていった。
「ここ、澤村さんのお宅ですよね。もしかして貴方が大ちゃん?」
 笑顔でそう聞かれた大地は頷くことしかできなかった。
「光ちゃんから電話貰ってきたのよ。川上真喜子。宜しく」
「……ひ、光?って?」
「あ、博貴さんの源氏名よ。うーん……確かに聞いていたとおり可愛いわねえ」
 と、言いながらぐいぐいと部屋へと戻された。
「あ、あの、あのう俺……よ、用事があって……その……」
「怖がってるの?いやあん可愛いわねえ。今時本当にうぶ」
 うぶといって真喜子はピンクのルージュをひいた唇に笑みを浮かべた。
「あ、あの……こういうの駄目だと思うんです……その……俺は、貴方のことなんにも知らないし……そ、その……」
 へたり込んだ大地はそう言って後ずさった。
「たかがセックスするのにそんなのいらないわよ」
 真喜子は大地の上に乗り、顔を近づけた。
「うわああっ!やめ、止めて下さい!」
「往生際の悪い子ねえ。こんないい女がやろうって言ってるの。それを断るって言うの?そんなの私のプライドが許さないわよ」
「でも……こういうことは……やっぱり好き同士がするものでしょう?俺は貴方のこと好きじゃない」
「だから、そんなものは無くていいの。はいはい、脱いで脱いで」
 言いながら真喜子は大地のシャツのぼたんを外していく。大地は慌ててその手を掴んだ。
「だからっ……駄目です。俺は出来ない。好きでもないのに……こんな事出来ないし……貴方にも失礼だと思う……」
 思わず大地は涙ぐんだ。これが真喜子の仕事だと思うと急に悲しくなったのだ。誰とでも寝ることが出来るのだろうか?彼女はその事を辛いとは思わないのだろうか?そんなことを考えると悲しいのだ。
「え?やだ……泣かないでよ……私は別に苛めた訳じゃないわよ」
 大地の潤んだ目を見た真喜子は、動揺したようにそう言った。
「駄目だと思う……こういうこと……もっと身体を大事にして欲しい……。本当に好きな人の為に取っておかないと……駄目だと思う……」
「そんなの貴方に関係ないでしょう。簡単に誰とでも寝る女とはやりたくないって……」
 ムッとしたように真喜子は言った。
「違う……。ただ……俺……、嫌なんだ。こういうことが……。好きでもないのに貴方を抱くっていう自分が許せないんだ。真喜子さんは綺麗でこんなに魅力的だけど、それに負けて、俺が貴方を抱いたら、きっとそんな浅ましい自分自身が許せない」
「……」
「俺だって男だし、真喜子さんに魅力をすごく感じてる。でもそれに流されたら、きっと俺は最低な人間になってしまうと思うんです。だから……ごめんなさい」
 そう言って大地はポロポロと涙を落とした。そんな大地を見て真喜子の方も胸が締め付けられたような表情を浮かべた。
「分かった……分かったわよ。もう、気分がそがれちゃったわよ。だから、泣かないでよ。私が悪いみたいじゃない」
 真喜子は大地の上から身体をずらすと、壁に背をもたれさせて座り込んだ。大地も身体を起こしてぐすぐすと鼻を鳴らしながら座り込んでしまった。二人が互いに座り込んだことで真喜子は笑い出した。滑稽だと感じたのだ。
「ほんっと、可笑しいわねえ。泣かれちゃうとは思わなかったわ。ほら、大ちゃんも正座なんてかたっくるしいかっこ止めてよ。なんだか見合いでもしてる気分になっちゃうわ」
 くすくすと笑って真喜子は言った。
「ごめんなさい……」
 シュンとなった大地はそう言った。
「こっちが襲われたのならまだしも、誘って振られたのに何故貴方が謝るの……もう、いいわよ。純情なんだから……今時珍しい子だわよ。国宝級ね」
 溜息とも付かない息をふうっと吐き出して言った。
「……」
「きっと貴方みたいなタイプは貴方と同じような可愛い女の子に出会えるわ。そんな気がする。あ、煙草吸っていい?」
「どうぞ……あ、これ使って下さい」
 灰皿を真喜子に差し出して大地は言った。
「……大ちゃんって性格も可愛いわねえ……お姉さんファンになっちゃったわ。光ちゃんが放って置けないのも分かるような気がする」
 ふふふと笑った真喜子は苦笑が混じっていた。
「そ、そうですか?あの、そうだ、ちょっと時間かかりますけど、お昼食べて行かれます?俺まだ昼ご飯食べてないし…良かったらですけど…」
「え?」
「大良さんが、世話になったらお礼に食事をご馳走してあげてねって言ってたから……でも、真喜子さんが嫌なら……良いんですけど……俺も一人で食べるより二人で食べる方が楽しいし……」
「嬉しいわ大ちゃん。私誰かに作ってもらう事なんて滅多にないから……本当にいいの?お礼されるようなこと何もしてないのに……」
「いえ、そんな……じゃ、ちょっと待っててください。俺腕によりをかけて作りますから。でも豪華なフランス料理なんか出来ませんから期待はしないで下さい。俺の料理って田舎料理だから……」
 ホッとしながら大地はそう言って台所に走っていった。気の変わらないうちに側を離れたかったのだ。真喜子の方は立ち上がって伸びをするとベランダに行き、煙草を吸いながら外の景色を眺めている。何となくその姿が寂しそうだと感じた。何故そう感じるのかは大地にも分からなかった。



 店が閉店し、外に出ると店の裏口で真喜子が待っていた。
「光ちゃーん……あんたねえ、相手を見てから私に声かけてくれない?酷い目にあっちゃったわよ」
「え?もしかして大ちゃんって変態なのがお好みだったとか?」
 真剣にそう博貴が言うと真喜子の拳が飛んできた。
「訳分かんないこと言わないでよ。そんな子じゃないわ。光ちゃんが一番よく知ってるはずでしょう?何でもいいわ、一杯おごりなさい」
「真喜子さんにはお世話になったことだし、一杯といわず何杯でも」
 ニコニコと博貴はそう言った。
「決まり!じゃあ、いきましょ」
 行きつけのバーに二人は行くとカウンターの端に腰を下ろした。構われることを嫌う二人はいつもそうであった。ホステスの真喜子は恋人ではない、昔つき合った訳でもない。友人でもない。腹を割って話すことなどない。だが、そりが合うのか、ごくたまにくだらない話をしながら飲む相手だった。真喜子の方もそうであるのだろう。
 注文が運ばれてくるまえに真喜子は言った。
「大ちゃんに泣かれちゃったわよ……もう……」
「そんなに気持ちよくしてやったの?」
「馬鹿、そんなんじゃないわよ。なんにもしないうちに泣いちゃったの」
「ええ?真喜子さんを拒んじゃったんだ……信じられないなあ……」
 うぶなのは分かっていたがそれほどとは博貴も思わなかったのだ。何より綺麗な女性が抱いてと迫るのだ。食わねば男が廃るだろう。
「こんなの初めてよ。最初は駄目とか何とか言ってたけど、うるさいから羽交い締めにして無理矢理服をむいちゃえって思ったんだけど、泣いちゃって……」
「泣くってねえ…」
 情けないぞ大ちゃんと、博貴は心の中で呟いた。
「あ、もしかしてすっごい化粧濃くして迫ったとか?」
 それなら泣いてしまうかもしれない。
「人を化け物みたいに言わないでよ。光ちゃんから歳を聞いていたし、一応それに合わせた薄化粧して、服装にも気をつかったのよ」
 言って小さく溜息をついた。妙に真喜子がしんみりしているのだ。
「どうしちゃったんだい?真喜子さんらしくないねえ」
「大ちゃんが言ったの。好きでもないのに私を抱くっていう自分が許せないって。私は綺麗で魅力的だけど、それに負けて、大ちゃんが私を抱いたら、きっとそんな浅ましい自分自身が許せないって……そう言って泣くの。それ聞いて、もうなんにもできなくなっちゃって……」
「ふうん……彼らしいと言えば彼らしい」
 博貴には何となく納得してしまうところがあった。
「セックスは好きな人とするものだって豪語されちゃったわよ。私に言う台詞じゃないって……でも何となく嬉しかったわ……確かに昔、そんな自分もあったなあって……」
「そうだねえ……」
「なんだか大事にされたような気がして……嬉しかった。ずっと一緒にいると、きっと私みたいな女は辛いけど……。純情に当てられてね。でも忘れてた何かを思い出せたような気がしたわ……。光ちゃんもそう思わない?」
「どうだろう……あんまり深い付き合いじゃないしねえ……お隣さんと言うことだけだから……」
「ただのお隣さんが、まして貴方が誰かのために何かをしてあげたいなんて初めてよ。自分じゃ気づかないところで大ちゃんのこと気に入ってるのよ」
「確かにからかうと面白い」
 そう言って博貴は笑った。
「……全く……面白いってねえ……。あんまり苛めちゃ駄目よ。そうそう、あの子の料理美味しかったわ……卵とじのおみそ汁にホウレンソウと豆腐の和えたのとか……昔……お母さんが作ってくれたような味……思わず泣きそうになっちゃった……」
 しんみりと真喜子は言った。
「そうか、じゃあ私もありつけるかな、ホウレンソウと豆腐の和え物。楽しみだなあ……」
 想像するだけでもお腹がなりそうであった。
「なあにい?貴方ってまさか、いっつもご馳走になってるの?そんなの狡いわ」
「お隣さんの特権だよ」
 博貴は得意げに言った。真喜子はそんな博貴に羨ましそうな目を向けた。
「でも、そんな楽しみなんて吹っ飛ぶくらいきっと大ちゃん怒ってるわよー。光ちゃんのこと、ぼろくそ怒ってたから」
 意味ありげに笑みを見せて真喜子は言った。
「ええ?どうしてだい?私は良いことをしたと思っているのに……恩を徒で返されてしまうわけ?」
「なーに言ってるの。あったり前じゃないの。本人にとってありがた迷惑だったんだから。まあ、たまには怒鳴られる立場も良いんじゃない?貴方に良い薬だわ」
「そんなに怒ってたのかい?」
「ええ」
 微笑んで真喜子はそう言った。
「困ったなあ……喜んで貰えるとばっかり思っていたのに……」
「素直に謝る事ね」
「賛成」 
 暫く大地の話を酒のつまみにし、真喜子と朝方別れた。手ぶらで帰るとやばいと思った博貴は以前差し入れをすると言った言葉を思い出して、夜開いている果物屋と八百屋に寄って色々買い込んでからタクシーを拾い、問題のコーポに戻った。自分のうちの玄関を開け、荷物を置いたところで、大地が叫んだ。

「大良ーーっ!てめ……」
 朝の早くから叫ぼうとする大地は博貴に羽交い締めにされ又彼の部屋へと引きずり込まれた。
「おまええええっ!」
 部屋に入って自由になるともう一度叫ぼうとした。しかし、博貴はその前に床に手をついて謝った。
「申し訳ないっ。悪気は無かったんだ」
「あ、謝って貰っても……」
 博貴の突然の態度に急に大地はたじろいだ。
「本当に悪かったと思っているんだ。大ちゃんがこんなに怒るとは思わなかったんだよ」
ちょっと顔を上げて反省している表情をみると、大地は振り上げていた枕を下に下ろした。枕なら怪我をしないと思ったからだ。だが予想に反して博貴は本当に反省しているようであった。そういう顔を見てしまうと何も言えなくなる。
「……そんなに低姿勢で謝られると……俺なんにも言えないじゃないか……」
「大ちゃんは優しいね。許してくれるんだ」
 いつもの口調で博貴は言った。
「仕方ないよ。確かに……大良は悪気があった訳じゃないし……あったらぶっ殺してたけどさあ、謝ってくれてるから……」
 ぶっ殺すつもりはなかったが、枕でぼこぼこにしてやろうと思っていたのは確かだった。
「良かった」
 白い歯をちらりと見せて博貴は笑顔を向けた。この顔に大地は弱かった。
「実はさ、俺、そんなに怒ってたわけじゃないんだ。真喜子さんが帰ったあと、色々考えたんだけど、大良がいてくれたから一人で暮らしてる寂しさが紛れるんだろうなあって。ほら、都会って隣同士の関係が希薄なんだろ?俺の住んでたところは、地域の人ほとんど知っていて、みんな関わりがあったから、ここに一人で住むことに実は不安があったんだ。でも大良が食事に乱入してきたり、女の人を紹介とか余計な世話を焼いてくれることで、気が紛れてたって言うか……上手く言えないけど、大良が隣に住んでいたの、良かったのかなって……」
 こちらの予想に反して、すかさず謝った博貴に罪悪感を感じた大地はつい本音を言ってしまった。
「余計な世話と言われると、ちょっと悲しいなあ……」
「変なんだよ……俺、あんたにいっつも、からかわれてむかつくんだけど、なんか許せてしまうんだよなあ……誰かに似てるんだ……」
 誰かに似ている。それがずっと気になっていた。
「あっ、兄貴に似てるんだ。戸浪兄さん!」
 思わず指を差してそう言った。
「兄さん?お兄さんがいるんだ」
「二人いるんだ。俺が一番末で長男が早樹兄さんで次男が戸浪兄さん。その戸浪兄さんが大良みたいだったんだ。だからむかつくけど許せたのかなあ……」
 と、大地は一人で納得してしまった。
「え、でも君のお父さんは大地を跡継ぎにしたかったって言ってたよね」
「上の兄さん、どちらとも空手は途中で止めたんだ。戸浪にいが建設会社に行って早樹にいが海上自衛隊に入ったんだ。俺が高校の時に二人とも出ていったから、すぐに思い出せなかったけど、戸浪にいはいつも俺を言葉でこづきまわしてたもんなあ。もっと嫌みが入った言葉で苛められたけど、なんか大良に似てる」
「そんなあ、私は別にこづき回してはいないよ。それに嫌みなんか言ってないじゃないか。で、三人とも似てるの?」
「顔は……早樹にいが父さん似で戸浪にいと俺が母さん似、でも戸浪にいは母さんに似てるけどもっとこう、男の顔で整ったかんじで、俺はその点母さんにそっくりでさあ、小さい頃は今より女の子みたいな顔してたからよくいじめられたんだけど、いっつも兄貴達が守ってくれたよ。今は自分で守れるけどね。そう言えば兄貴達もこっちに就職してるんだよな。戸浪にいは海外出張中だし、早樹にいは演習に出てて連絡付かなかったから知らせてないけど……」
 困ったなあという表情で大地は言った。
「私も大ちゃんみたいな弟がいたら守ってやりたいと思うね」
 本気か冗談か分からない顔で博貴は言った。
「大良は兄弟いないの?」
「ああ、一人っ子だよ」
 ちょっと困惑したような顔を博貴が一瞬したような気がしたが、気のせいだろうと大地は思った。
「何でもいいや、飯食ってく?」
「もちろん。それが楽しみで帰ってきたんだから、そうそうこの足元にある食料は以前約束した差し入れ。これで美味しいもの沢山作ってくれよ」
 そういうと、大地はやっと視線が下に移り、足元に沢山置いた袋の中身を確認して驚いた。野菜類が三つの袋に一杯入っていたからだ。博貴はこんなに重い荷物を持って帰ってきてくれたのだ。それが嬉しかった。
「ホントに買ってきてくれるとは思わなかったよ。ありがとう」
 中にはリンゴやバナナ、オレンジなどの果物類の袋もあった。大地は果物が大好きであったが、こっちで買おうとしてあまりの金額の高さに諦めたのだ。
「え、ああ。気にしないでね。いつもご馳走になってるからこのくらいしないと……」
「大良は仕事終わって帰ってきたとこだろ、シャワーでも浴びてから来いよ。俺準備しておくからさ」
 うんしょと言って博貴が持ち帰った袋を抱えて大地は玄関を開け、自分の部屋へと戻った。暫くするとシャワーを浴びたのか、バスローブ姿で博貴はベランダを越えてやってきた。何時になったら玄関からくるんだろうと思いながらキュウリを輪切りにしていた。
「大良、すぐに謝ったって事は真喜子さんに会ったんだ」
「あ、そうだよ。帰りにちょっと二人で飲んできたんだ」
 博貴は新聞から目を離さずにそう言った。
「ええっと……もしかして昔つき合ってたの?」
 おそるおそる大地は聞いた。すると博貴はびっくりしたような顔をこちらに向け、次に笑い出した。その笑いは暫く止まらなかった。
「俺なんか変なこと言った?」
「大ちゃん……もしそうなら君に紹介する訳ないでしょ。駄目だ……笑いすぎて、お腹が痛い」
 そう言って博貴はお腹を押さえ、まだ笑っていた。
「そ、そうだよな……」
「んー真喜子さん、大ちゃんのこと気に入ったって。でも君はもったいないことしたんだよ。彼女は銀座で五本の指に入るくらいのホステスで、普通の客は彼女を指名できないからね。政治家とか有名人とか、外交官とかね。ホステスでもかなりランクの上の人だよ。そんな人の誘いを断ったんだから……」
「そ、そんなの聞いたら益々逃げ……違う、断って良かったと思うよ。俺なんか釣り合わないよ。俺がもっと大人で社会的にも立派な立場でお金も持っていて頼れる男だったらきっと結婚迫ってたと思う」
 それを聞いて博貴は又笑い出した。
「一つ抜けてるよ。身長……」
「う、うるさいなあ!それはどうしようもないことだろ。低くてもいいの!でもそんなの心配しなくても真喜子さんモテモテなんだろうなあ」
 真喜子の姿を思い出して大地は言った。
「それを聞いたら真喜子さん喜ぶよ。でもね、彼女だって色々あったんだよ。今の地位を築くまで苦労もあったようだし、結婚を約束したのに彼女の過去を知って離れて行ってしまった男もいた。現実は難しいんだ」
「そんな男はこっちから振ればいいんだ。過去なんてどうでもいいじゃないか。そんなこと気にする心の狭い男は真喜子さんに似合わない。きっといい人が又現れると思う」
 顔も知らない男にむかついた大地はそう言った。人間は色々な事を経験して今の自分があるのだと思うからだ。確かに聞けば一日や二日復活できない程の過去を真喜子は持っているかもしれない。だからといって過去は過去なのだ。今更それを蒸し返したところで変えられないものなのだと思うからだ。
「私もそう思うよ」
 博貴は嬉しそうにそう言った。
「変な話しになっちゃったなあ……」
 大地はそう言って出来た料理を並べた。ちらりと博貴をみるとじっと壁を見つめている。
「なんか壁に付いてる?」
「え、いや。どう考えても薄そうな壁だなあと思ってさ」
「駄目だぞ、女連れ込むなよ」
「そうじゃないよ。ところで大ちゃんの今日の出勤予定は?」
 意味ありげな笑みを口元に浮かべた博貴はそう言った。 
「これ食ったらすぐに出社」
 鯛の子を箸で掴みながらそう言った。
「相変わらず不規則だねえ。で、何時戻って来るんだい?」
「ええっと、今日は夜遅くかなあ……そろそろ決まった時間帯が出来ると思うんだけど、性格的にどういうのが合うのか今テスト中だから、色々させられてるんだ。この間の強盗事件の時だって俺、正式に当番じゃなくて研修の一環でついて行かされただけなんだ」
「なるほど」
「なんだよ。なーんかまた、企んでるような気がするなあ」
 じろっと横目で博貴を睨んだが、博貴の方は何処吹く風であった。一体何を企んでいるのだろうか?それとも自分の思い過ごしなのだろうか?
「ああ、折角の恩返しも上手くいかなかったから、仕方がないから私が色々教えてあげるしかないと思ってね。それなら大丈夫だろ?」
「大丈夫って……何が?」
「もちろん女の子の口説き方。大ちゃん口べたそうだし、女性の気持ちも分からないタイプだからなあ。ちょっと知っていれば、上手くいかない恋も上手くいくこともあるんだよ。それを教えてあげるよ」
 大地は女性が何を考えているのか、からっきし駄目な方であった。ただでさえ男ばっかりの兄弟の中で育ち、空手馬鹿と言われるくらい稽古をしていた時期もあった。そんな大地に女性の扱いなど分かるわけなどないのだ。でも彼女は欲しかった。これはいい機会かもしれない。現役のそれもトップクラスのホストの博貴だ。女性の考え方や口説き方を色々知っているに違いない。
「……それなら……お願いしようかな……」
 何となく照れくさく感じた大地は小さな声でそう言った。
「よーし、大ちゃん。今度こそ任せてくれていいよ。私が立派なジゴロに育ててあげる」
「ジゴロってねえ……そういうのじゃなくて、俺、一人出来たら良いと思ってるから……」
「一人?一人でいいのかい?欲がないねえ」
 そういう考えの方が変だ。
「まあ、最初は一人をゲットするとこからスタートすればいいか。なんたって、うぶうぶ大ちゃんだからなあ」
 博貴はそう言いながら納得してた。確かに彼からみればこっちはうぶなのだろう。但し、比べる基準が違いすぎる。
 どう言われようと最終的に彼女が出来ればいい。大地はそう考えて、まだ彼女が出来たわけでもないのに妙に嬉しかった。
 その日の仕事は十一時過ぎに終わり、コーポに戻ったのは十二時であった。いつもやってくる隣の博貴は仕事中の時間であるので、ゆっくり眠れそうであった。女の子の口説き方は又、二人の生活時間がバッティングしたときに教えて貰えるだろう。
 大地は鍵を取り出していつものように玄関を開けて部屋へと入った。既に住み慣れた二Kの部屋に入るとホッとした気持ちが起こる。蛍光灯をつけ、最近買ったクッションに頭を乗せて仰向けに寝ころび思いっきり伸びをした。すると何となくいつもと部屋が違った。何が違うのかが良く分からなかった大地は身体を起こしてその違和感の原因を確かめようと、ぐるりと視線を廻した。
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