Angel Sugar

「ユーストレス 第2部」 第1章

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 ペンケースはアルミ素材で、あちこち傷のようなものが入っていて、綺麗なものではなかった。だが、ケースの右下に『駿』のネームがローマ字で彫られている。とすると、これは父のものなのだ。
 思わず恵太郎がケースから顔を上げるとどこか寂しげな真下の表情がそこにあった。
「これ……父さんのですか?」
「そうだよ」
 眼鏡の奥に見える真下の優しげな瞳がじっと恵太郎を見つめていた。なにかもの言いたげな、それでいて今はまだ語ろうとしない瞳だ。
「僕……これ、見たことあります」
 駿はいつもこれをズボンの後ろポケットに入れていたのだ。亡くなってから暫くたつころ、恵太郎が遺品の中にこのケースがないかどうか探したことを遠い記憶の底から思い出した。あのとき随分探したのだが、結局恵太郎には見つけることができなかった。その理由は真下が持っていたからなのだ。
 だが、どうして真下がこれを持っているのか恵太郎には分からなかった。
「そうか……だろうね。駿はいつもこれを持っていたから、鳩谷君が知っていてもおかしくないだろう」
「でも、どうして真下さんが持ってるんですか?」
「鳩谷君が大きくなったとき、渡して欲しいと駿に言われたんだよ。どういう意味か私も分からないが、君がこれを使いたいと思うまでは、目に触れるところから隠したかったのかもしれないね」
 眼鏡の縁に触れ、真下は手を下ろす。
「……それって、僕が父さんのやっていたことを、目指そう……なんて考えたときに渡してくれってことですか?」
 駿は特にそんな話を恵太郎にしたことはなかった。冗談で『お前も一度やってみるか?スリルがあって楽しいぞ~』などと話したことはあったが。
「さあ。私には分からない。そんなことは言わなかった。ただ、必要になったら渡してやって欲しいと言われたんだ。そして今がその時のような気がするんだが……」
 ふうと息を吐いて真下は言った。ようやく言えたという雰囲気がある。だがそれについては恵太郎も触れなかった。触れない方がいいと思ったのだ。
「……父さんはよく分からない人だったから……きっと父さんなりの考えが合ったんだろうと思います。それより鍵を開けてみますね」
 この等間隔に設置された牢屋の鍵を開けなければ逸輝をここから出してやれないのだ。今頃あちら側でなにをしているのかは分からないが、困っているに違いない。恵太郎はケースを開けて中を確かめた。遠い昔に見たそのままの状態のものが入っている。
 女性がよく使うヘアピンや、ゼムクリップを伸ばしたようなもの。鉛筆の半分くらいの長さの棒が五、六本入っていて、全ての柄の先には細長い針金がついている。それらは真っ直ぐだったり、やや斜めになっていたり様々だ。使いこまれているのが分かるように、全ての柄は汚れて、すり減っていた。
 恵太郎は南京錠を掴み、穴の形状を確認するように覗き込む。小さな頃こういった鍵を開けることを楽しんでいた時期があったのだ。しかも、当時はこんなたいそうなものなど必要とせず、恵太郎は細長いピン一つで開けていたはずだった。
 昔できて今できないということはないに違いない。恵太郎はそう強く思いながら、先端が根本よりも細くなっているタイプで、指で形の変えられるピンを手に取ると、鍵穴にそろりと突っ込んでみた。何となく違和感のある手の感触が気持ち悪い。以前はもっと、しっくりと馴染んでいたはずであるのに、今の恵太郎には手が滑るような感じで落ち着きすら失いそうだった。
 昔はできたんだ……
 今できないことなんてないはずだよ。
 恵太郎は自分に言い聞かせ、ピンの先が奥に触れている感触を確かめようと必死になった。鍵には色々な種類があるが、大抵その仕組みは同じだ。キーの先についている形状が内部につくられた形に隙間なくぴったりと収まると、初めてシリンダーが回るのだ。キーの形が違う場合、シリンダーが回る場所までキーが入らないようになっている。入ったところで形状が違うとシリンダーを回すための引っ掛ける部分に収まらないのだ。だから手前でいくら回しても開かない。
 ただ、細工された鍵だと時間がかかる。要するにシリンダーがある場所にピンを突き入れて、必ずあるシリンダーを回す部分を見つけ、そこをピンで固定し、もしくは引っ掛けて回してやれば鍵は開く。
 口で言うのは簡単だったが、実際はかなり難しい。必要なのは想像力なのだ。ピンで内部を探りつつ、鍵穴に合うキーの形状を想像しなければならない。できなければ永遠にシリンダーを引っ掛ける場所など想像もつかないだろう。
 ……う、う~ん……
 ピンの先であちこち突きながら、見えない内部を恵太郎は想像していた。なにも考えずに鍵を開けられていた昔と違い、なかなか想像がつかない。頭の中はもやもやしていて、鍵のことより何故か真下のことばかり考えてしまう。
 父親である駿と真下は本当は一体どういう関係だったのだろうか。そんなことばかり頭の中で渦巻いているのだ。
 その答えがこの先にありそうな気がして恵太郎は必死にピンの先を動かした。すると小さな音を立て、鍵が開いた。
「あ……開いたっ!やった!」
 思わず恵太郎が声を上げると、真下の大きな手が頭を撫でた。
「すごいな。やはり、駿の息子だ。私も随分昔だが、駿に教わったことがあったが、丸一日かけても鍵はうんともすんとも言わなかった。呆れた駿に散々不器用だと言われたが……確かに私は鳩谷君のような器用さは無いようだ」
 小さく笑う真下に、何故か恵太郎は嬉しい気持ちで一杯になった。頭を撫でられたから嬉しかったのか、器用だと褒めて貰えたことが嬉しかったのか恵太郎自身にも分からない。
 だが人から褒められることが少ない恵太郎だ。些細なことであっても感心されたりするととても嬉しい。
「だが、まだひとつ目だよ。まあ、これほど簡単に鍵を開けることができる鳩谷君なんだから、私が瞬きしている間に全て開けてしまいそうだね」
 恵太郎の頭から手を離し、真下は感心していた。
「カンが少しだけ戻ってきたみたいです」
 笑みを浮かべつつ、牢屋になっている戸を開けて次の鍵に挑戦する。
 恵太郎は全ての鍵を僅かな時間で外してしまうと、とうとう牢屋になった通路を渡り終えた。綺麗に開いた通路を見ると恵太郎はすがすがしい気持ちになる。昔のカンを全て取り戻すことはできなかったとしても、この程度の南京錠なら朝飯前だよ……などと考えるくらい、恵太郎はいい気分になっていた。
 なにより、真下はとても褒め上手なのだ。もちろん鍵を開けようとしている横でべらべらと話されると気が散って仕方がないのだろうが、真下は心得ているのか、恵太郎が焦っているようなときに声をかけ、鍵を一つクリアするたびに恵太郎をほめあげる。
 秘書の統括をするくらいだからあめとむちの使い分けが非常に巧みなのだろう。それが分かっていても褒められると人間は悪い気などしないものだった。恵太郎も大げさに褒められていると分かっていても、やはり嬉しいものは嬉しい。
「カンを取り戻すのは良いことなんだろうね。まあ、鳩谷君は手芸が趣味で毎日なにか編んでいるようだから、鍵を開ける手先の感覚を取り戻すことなど簡単なことだったんじゃないかな……」
 奥の突き当たりにある、鍵のかかっていない扉を開けて真下は言った。
「そ、そうなのかな……。でも、そうかもしれないです」 
 鼻の頭をかきながら、恵太郎は真下について開けられた扉から中へと足を踏み入れた。
 真下が壁に設置された蛍光灯の電源を押すと、周囲が一気に明かりに浮かび上がった。そこは十畳ほどある部屋の真ん中に大きなテーブルがあり、あちこちに紙や本、雑誌、ピンの曲がったようなものが雑然と置かれていて、全てがうっすらと埃を被っている。蛍光灯の明かりに埃が舞うのも浮かび上がっていた。地下であるからもちろん窓など無く、剥き出しのコンクリートにビスを打ったような壁が四方を取り囲み、左の端にベッド。本棚は無くて読み終わったであろう、雑誌や週刊誌、百科事典などが壁に伝うように積み上がっていた。
 左側は恵太郎の部屋にもあるような小さなシステムキッチンが設置されていて、生活をしようと思えばできそうな場所だった。
「すごい埃だな……せっかくここを開けてもらったんだから掃除をしてもらうように言っておくか……」
 独り言のように真下は呟いて、キッチンの方へ移動し、そこにある扉を越えていく。恵太郎はぼんやり部屋を眺めていたが、一人置いて行かれたことに気が付いて慌てて真下を追った。
 次の部屋で逸輝を見つけたが、座り込んで古い雑誌を読んでいた。その光景に思わず恵太郎は呆れる。散々心配させて本を読みふけっているなど一体どういうことなのだろうという怒りすら恵太郎は覚えた。
「なっ……なにやってるんだよっ!ぼ、僕がどれほど心配したと思ってるの?呑気雑誌なんか読んでる場合なの?し、信じられないよっ!」
 恵太郎が叫んでいると、真下は逸輝に近づいて雑誌を取り上げ、眉を顰めた。
「さあ、悪いことばかりしてないで、帰ってもらおうか?君は本当に問題ばかり起こしてくれる」
 首根っこを捕まえられた逸輝は鳩が豆鉄砲でも食らったような表情をして、怒るわけでもなく、ただ「はあ……」と言った。
「……逸輝?頭でも打ったの?」
 どこかぼんやりしている逸輝に恵太郎は問いかけた。
「いや……なんていうか。……なんでもない」
 なにかを言いかけた逸輝だったが、真下が睨んだのか、黙り込んでしまった。
「逸輝?……真下さん?」
 恵太郎が逸輝と真下を交互に見比べたものの、二人とも地下から出るまで口を閉ざしたままだった。



 変なの……逸輝も真下さんも……。
 真下が逸輝を屋敷から追い出し、昼食を三人で食べたものの、剣が不審がるほど真下は無言だった。それは食事を終えるまで続き、なんだか恵太郎は全て自分の責任にあるような気がして落ち込みながら、ようやく自分の部屋に戻った。
 なにか問題があったのかな……
 逸輝もなにも話してくれなかったし……。
 亀のまーちゃんが入っている水槽を眺めつつ、恵太郎が物思いに耽っていると電話が鳴った。逸輝だと確信して恵太郎は受話器を上げたが、相手は宇都木だった。
「あ、う、宇都木さん……」
『どうしました?どなたかの電話を待たれていたようですね……』
 小さく笑って宇都木は言う。
「そ、そうじゃないんですけど。どうしたんですか?宇都木さんから電話なんて、僕、びっくりしました」
『いえ、今晩はそちらにお伺いできそうにないので、申し訳ないのですが、こちらに来てもらおうと思いまして、恵太郎さんに電話をかけたんです』
 本当に申し訳なさそうな口調で宇都木は言う。
「え、お仕事なら、僕、一日くらい勉強の方は休みでもいいです!」
 弾んだ口調で恵太郎が言うと、宇都木はきっぱりと言った。
『いけません。勉強は継続が大事なのですよ。じゃあ、真下さんの方にもご連絡を入れておきますから、恵太郎さん、今晩はうちに来てください。分かりました?』
 恵太郎は当然のことながら宇都木に対し嫌だなどとは口が裂けても言えなかった。
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