「ユーストレス 第2部」 第8章
ところで鳩谷君はもう休んでいるのだろうか……。
真下は珍しく恵太郎のことが気になった。
宇都木の一体何を見たのか予想はついたが、恵太郎がそういう行為をすんなり受け入れられたかどうか、真下には分からない。理解しろと話したところで、受け付けない人間もいるだろう。とはいえ、恵太郎が不快だという態度を宇都木に見せたとしたなら、当人はもっと慌てて真下に報告したはずだ。
はあ……
様子を見に行くか……。
真下は重い腰を上げて、立ち上がった。どんな問題でも片づけてきた真下だったが、こればかりは少々気が引ける。もちろん、ごく普通の性教育なら説明もできただろうが、男同士のセックスを、わかりやすく話す言葉も浮かばなければ、教える手だてなど持っていないのだから頭が痛い。
問われたらなんと答えてやればいいのだろうか。
裏口から屋敷を出て、真下は出てくるかも知れない問いかけを頭の中でどう答えるか、シミュレーションしたものの、どう言った言葉が恵太郎から発せられるのかすら思い浮かばないまま、離れの洋館に足を踏み入れた。
既に洋館内の電灯は半分落とされていて、薄暗い。廊下を抜けて入り口のホールに出ると、丁度階段から下りてきた鳴瀬とばったり出くわした。一瞬、鳴瀬に頼むか?という気持ちが浮かんだものの、未だ宇都木に恋慕している鳴瀬には酷というものだろう。
「真下さん。どうしたんですか?」
鳴瀬は真下が何を考えているかなど知らない様子で聞いてくる。
「いや。鳩谷君に用事があってね……」
「そうだったんですか。あの……話は変わりますが、剣さんはいつまでここにいるんですか?」
言いにくそうに鳴瀬は言った。
「……一週間ほどと聞いているが……。何か問題があるのかい?」
部屋は隣同士だが、鳴瀬と剣は馬が合わないと言うほどでも無かったはずだった。
「剣さん……なんだか変な趣味を覚えて帰ってこられたみたいで……。俺……夜、気持ち悪くて寝られないんです」
肩を竦めるようにして鳴瀬がため息をつく。
「変な趣味?」
「……剣さん、気持ちが落ち着くからって部屋で妙な音楽……。音楽って言って良いのか俺、分からないんですが、聞いてらして、隣の俺の部屋に筒抜けなんですよ。だから、ヘッドホンしてくれって真下さんから頼んで貰えませんか?」
どこか泣きそうな表情で鳴瀬は言う。
「何を聞いているんだね?」
剣はもともと変わっていて、やることなすこと少し人とは違うのだけは知っているが、妙な音楽のことは初耳だった。
「お経流してるんです……」
「は?」
一瞬、真下は耳を疑った。
お経と言えば、南無阿弥陀仏しか思い浮かばないのだ。無宗教を通してきている真下だったから仕方ないと言えばそうなるだろう。
「お経です。俺、なんか、死んだおじいちゃんが出てきそうで気持ち悪いんですっ!」
ブルブルッと何かを思い出すように鳴瀬は身体を震わせた。怖いもの知らずの鳴瀬も奇妙な剣の趣味に怯えているのだろう。とはいえ、どうせ、剣は隣に聞こえるように流しているに違いない。白川の場合は嫌がらせなのだが、剣の場合は違う。また何か、思惑があって鳴瀬に聞かせているのだ。目的は真下にも分からないが、剣とはそういうところがあった。
「一応、話しておこう。だが、あの男は何か考えがあってやっていることだろうから、鳴瀬から頼んだ方がいいのではないのかい?」
というより、それこそお互いで解決して欲しいと真下は本気で思ったのだ。とはいえ、鳴瀬は昔から剣に頭が上がらない。
「俺……俺は……。剣さんが苦手です。昔から散々小突かれて来ましたし……」
「分かった。話しておくよ」
「真下さん。本当に済みません……」
「いや……気にしなくていいさ」
仕方なしに真下はそう言って、恵太郎の部屋へとまた歩き出した。この時間であるから寝ている可能性はある。ならば、そっと覗いて屋敷に戻ればいいのだろう。
恵太郎の部屋には鍵はかかっていなかったため、真下はすんなりと中へ入ったが、予想に反して部屋の明かりはついていた。
「鳩谷君。まだ起きているのかい?」
玄関で声をかけると、恵太郎は奥から走ってきた。その手には亀を持っている。きっと今まで亀と遊んでいたのだろう。こんな時間、亀と遊んでいるような子供に、宇都木たちは自分達の行為を見られたのだ。それを思うと、なにやら悪いことを教えてしまったような気分に真下はなった。
「す、済みません。僕、さっき戻ってきたばっかりで……。ずっと……その、亀のまーちゃんと遊んであげられなかったから……あの……」
キッチンの端に置かれている水槽に亀を戻しながら、恵太郎は慌ててそう言った。その姿はどこまでも幼い。しかも恵太郎は年齢よりも幼く見えるのだからどうしようもない。
「いや。それは構わないよ。ところで、家庭教師の宇都木の腕はどうだい?理解できるように教えて貰えているのかな。彼は本職ではないから、もし鳩谷君がわかりにくいと言うなら他の専門の家庭教師を手配するよ」
勝手に真下はキッチンにある椅子に座り、いまだ水槽の前に立ってオロオロとしている恵太郎に問いかけた。
「え、いえ。宇都木さんはとってもわかりやすく教えてくださいます。僕……ちょっとだけ数学分かってきたんです!あ、でも、そんなすごく頭がよくなった訳じゃないんですけど……それよりお茶ですよね!お茶入れますっ!」
テーブルの上に置いてあった急須を慌てて恵太郎が掴むのを、真下はやんわりと止めた。
「構わないよ。それより、少し話をしようか……」
「え……はい」
真下の様子に恵太郎が怪訝な表情を見せたが、おとなしく向かい側の椅子に座った。チラチラとこちらの様子を窺う恵太郎はいつも通りだ。何かに落ち込んだり、悩んでいる様子は見られない。
宇都木は見られたと話していたが、恵太郎がもしそういう衝撃的なものを見てしまったら、もっと何か言いたそうにするか、目線を反らせたりするはずだった。だが、この恵太郎からは別段変わった様子は欠片も見受けられない。考えてみると、亀と遊んでいるくらいなのだから見なかったと考える方が真下は自然のような気がした。
「あのう。もしかして宇都木さんはもう僕を見てくれないんでしょうか?」
「いや。宇都木は鳩谷君を褒めていたよ」
嘘だったが、話の持って行き方が真下にも思い浮かばなかったのだ。もし、落ち込んでいたなら、まだ聞きやすかったのだろうが、いつも通りの恵太郎を前にして、真下の方が驚いたと言った方が正しい。
「え、本当ですか!だったら……嬉しいなあ。僕、宇都木さんみたいな人にあこがれるんです。あんな大人になれたらいいなあって」
……
一体、どういう、宇都木にあこがれているんだろうか。
あんな大人というのは一体どういう大人だ?
ふっと過ぎった悪夢のようなことを真下は頭から追い出した。
「そうか……そうだな。宇都木にあこがれる秘書は多いよ」
……あ
なんだか妙な言い方になってしまったか?
誤解していないだろうな?
自分の失言に真下は慌てつつも、平静を装った。そんな真下のことなど気付かない恵太郎は、相変わらずニコニコとした笑顔を返してくる。ということは、意味を取り違えてはいないのだろう。
「宇都木さんって……あの……真下さん、ご存じなんですか?」
問いかけるような視線を恵太郎は送ってきた。もしかして、宇都木と如月の関係を聞かれているのだろうか?
「……どういったことかな?」
「実は、宇都木さんって、すっごいクッキーを作るのが上手いんですよっ!今日、宇都木さんのうちで、クッキーを沢山ごちそうになったんですけど、よく見ると、手作りだったんです。お土産にも沢山頂いたんですが、僕、すごく尊敬しました!」
あこがれの眼差しを浮かべて、恵太郎は嬉しそうに言った。
「ああ……そ、それは初耳だな」
そうか……
あの邦彦にそんなものまでお前は作ってやっているんだな。
いや……違う。
そういう話しでも無かった。
「僕、沢山頂いてきたので、真下さんもどうですか?」
立ち上がろうとする恵太郎を押さえるように真下は言った。
「いや……私は、クッキーは食べないんだ。君が全部食べるといい。それに、鳩谷君がもらってきたものだからね」
「……あ、済みません。僕、自分が好きなもの、他の人もそうだろうってすぐ思っちゃうんです」
浮かせた腰を下ろして恵太郎は肩を竦めた。
そこで沈黙が訪れる。
一体、何をどう切り出せばいいのか真下には言葉が見つからなかったのだ。