「ユーストレス 第2部」 第3章
恵太郎は二人の会話に首を傾げながら眺めてるしかない。如月はひたすら不機嫌な顔をしていて、宇都木はただ、無言で顔を赤くしているのだ。なんとなく、自分が邪魔なのだというのは分かるのだが、男同士でなにがどう邪魔なのかよく分からなかった。
「……あのう……。本当に僕、帰っても良いですけど……」
窺うような恵太郎に、宇都木は『め!』という目つきを送ってきた。駄目だと言っているのだろう。渋々、浮かせた腰を下ろし、恵太郎は二人が気になりながらもとりあえず問題集の方に目を向けた。
「三十分ほど、ご自分でお勉強できますか?問題集を解いてくだされば後から私が採点して、間違っているところをお教えします……」
どことなく小さな声の宇都木に、恵太郎は頷いた。だが、如月は不満そうな声を上げる。
「……三十分?そ……それは……それこそむごいと思うが……」
「邦彦さんっ!」
更に顔を赤らめて宇都木は誰を見るわけでもなく俯き加減に声を発する。妙な雰囲気だなあ……と、思いつつも恵太郎は見ぬ振り、聞かぬ振りをした。それが最善のような気がしたからだ。
「だが、未来……」
困ったような如月の声だ。
「わっ……分かりましたっ。分かりましたから、邦彦さんは着替えてください」
声が変なふうにうわずっている。宇都木がこれほど動揺している姿を恵太郎は初めて見た。いつだって、穏やかで、何事もスマート。仕事もできる。
恵太郎にとって宇都木は理想的な男性として映っていた。それが、ごく普通の人間がするように狼狽えている姿を見ると、逆にホッとした。多分完璧な宇都木ばかり見ていたために、どこかこう近寄りがたいものを感じていたからだ。
普通なんだ……宇都木さんも。
じゃあ、真下さんもこんな風に慌てたりすることがあるのかなあ……。
シャーペンの頭を銜えて、ぼんやりと恵太郎はそんなことを考えた。宇都木よりも恵太郎にとって完璧なのは真下だ。それこそ、真下が慌てたり、顔を赤らめる姿など想像すらつかない。人であるのは分かっているのだが、どこか超越したものを真下からは感じていた。年齢も上であることが、恵太郎にそう思わせる原因になっていたのだろう。
ふと、恵太郎は真下の人間味のある姿が見てみたいと思った。別に、今、人間味が無いと考えているわけではない。ただ、完璧な相手であるから、どこか近寄りがたい雰囲気があって、面と向かうとなかなか上手く話せないのだ。
父親である駿が亡くなったときの真下も、やはり同じだった。冷静で、穏やかに恵太郎に付き添ってくれたのは遠い昔だが、それでも尚、あのときのことは忘れられない。胸に秘められたなにかを抑えるように、泣き叫ぶ恵太郎を抱きしめてくれたあの日。
あのときから、真下は更になにかを抑えているような気がする。一体なにを沈黙し、恵太郎に隠しているのだろうか。
疑問は色々あれど、少しずつ真下は恵太郎に駿のことを理解させたいと思っているようだ。昼間の事件にしても、恵太郎は初めて駿の部屋を見せられた。通路は牢屋で仕切られ、鍵がつけられていた。あれを外しながら駿は楽しそうに、奥にある己の部屋に向かったのだろう。
父が歩いた通路を恵太郎も歩いた。
その奥には、時間の経過を示すような、ただ、埃っぽい部屋があっただけだ。探索したいと思っていたにもかかわらず、真下は逸輝の首根っこを捕まえて無言で部屋から出ていくのを無視し、恵太郎はその場に留まることはできなかった。
あ……そうか。
帰ったら自分で見に行ったら良いんだ。
何となく見てはならないという真下の雰囲気が恵太郎を尻込みさせていたが、どうせ昼間は秘書たちはいない。こっそり地下に行ったところで真下は本家の方にいるのだから、気付かれることはないだろう。
多分、あそこを見せたのは、真下が恵太郎になにかを伝えたかったのだ。ただ、逸輝がいたからできなかった。
「恵太郎さん……。何度お呼びすれば私の方を向いてくれるのでしょう……」
困ったような声で、宇都木がいつの間にか隣に座り、恵太郎の方を覗き込んでいた。
「あっ……!済みません。ぼーっとしちゃってました……」
慌てて顔を宇都木の方に向けると、困惑したような表情が見える。いや、呆れていると言った方が良いのかもしれない。
「恵太郎さんは……本当に……なんといいましょうか……」
苦笑しながら宇都木は微笑した。
「あ……あは。僕……すぐ、ぼーっとしちゃうんです。あ、用事があったら行ってくださいね。僕、一人で頑張ってやってみますから……」
えへへと笑いで誤魔化しつつ、恵太郎は消しゴムを掴んで、意味もなく問題集を消していた。なにかしていないと、気持ちが落ち着かないのだ。
「……あの、それで、申し訳ないのですが、一時間ほど席を外しますね。す、すぐに戻るつもりなんですが……。仕事の打ち合わせを彼としなければならないので……その……」
言葉を濁すように、宇都木はもごもごと言った。
「大丈夫です。僕、ここで一人でできますっ!後で採点して下さいね。もちろん、お仕事を優先して下さい。それが一番大事ですよね」
ゴシゴシと、手を止めることなく消しゴムを動かして恵太郎が笑顔で言うと、宇都木はまた顔を赤くしていた。
「……僕、なにか変なこと言いました?」
「……いえ。いいのですよ。じゃあ、暫く行ってきますね。あ。分からないことがありましたら、後でまとめて質問に答えますから、私が帰ってくるまでここでおとなしくしていて下さいね。お腹が空いたらキッチンの方へ行って、勝手に冷蔵庫を開けて下さっても構いませんよ」
おとなしく……という言葉だけが妙に強調された口調で宇都木は言って立ち上がる。
「はあい。お仕事の邪魔はしません」
恵太郎はごく普通に言っただけなのだが、その言葉に宇都木の去る歩調が早くなったことには気付かなかった。
宇都木がリビングから姿を消すと、恵太郎は『やるぞ~』と、気合いを入れ、とりあえず問題集を解くことにした。嫌でもこれはやり終えてしまわないと、後で恵太郎自身が困ることになる。
恵太郎の通う学校は中学から大学まで一貫教育が売りで、坊ちゃん学校と周囲からは囁かれている。要するに恵太郎のようなぼんやりで、それほど勉強ができなくても、余程のことがない限り大学までエスカレーターで上がっていくのだ。
東家では、個人に適正な学校を選んでくれると聞いていたが、恵太郎には良かったのかもしれない。留年もせずに通えるのは、そういった学校に入れて貰えたからに他ならない。一般の中学、高校、大学と、全てに置いて受験がついて回ったとしたら、恵太郎はどこかで転げ落ちていただろう。もちろん、学歴など恵太郎本人にはどうでもいいことであったから、それはそれで受け入れていた。
ただ、毎年支払われる学費に驚愕するだけだ。いいのかなあと思いつつ、かといって遺産など一銭も無かった恵太郎だ。蓄えすらなかった。通えるだけ幸せなのだといつも感謝している。
あ……また、ぼーっとしちゃった。
ハッと我に返り、戻ってきた宇都木を困らせないためにも、例え一問でも良いから解こうと恵太郎は考え、問題を読み始めた。だが、静かになったリビングだからか、小さな声が聞こえて恵太郎はキョロキョロと辺りを見回した。
誰もいないんだけど……
やだなあ……前もこんなことがあったよね。
ブルッと身体を一つ震わせて、恵太郎はカーテンの引かれた窓を眺めた。慌てて、未来を呼びに行くようなまねだけはしないと、とりあえず恵太郎は決めたものの、時折聞こえてくるうめき声に、ビクビクと身体を反応させた。
マンションの外で酔っぱらいが歩いてるんだよ……。
シャーペンでゴリゴリと、解いた問題の答えを書きながら、恵太郎は俯いたまま顔を上げることを止めた。それでも聞こえてくる妙な声は止みそうにない。
僕……
何かに取り憑かれてたりして。
恵太郎自身が考えたことで笑いが漏れるものの、どうも外から聞こえてくるものではなかった。もし、酔っぱらいがフラフラと歩いて、歌でも歌っているか、悪態をついていたにしても、ここは十階から上にある。いくら考えても下の歩道を歩いている人間の声など聞こえてくるわけなど無い。
お隣さんかな……
壁が薄いとか?
だが、このマンションは安アパートでは無いのだから、隣の声が聞こえて来るというのもおかしい。しかも、よく耳を澄ませてみると、どうも隣の部屋から聞こえてくる。宇都木と如月が書類の読み合わせでもしているのだろうか?
気になるんだけど……。
聞こえる声に、俯いてみたり、顔を上げたりしていた恵太郎だが、とうとう耐えられなくなってソファーから腰を上げた。声のする部屋を探して、少しだけ内容を聞けばいいのだ。どうせ仕事の話でボソボソと会話しているのだろうが、それならそれで安心ができる。
意味のなさない声だから、恵太郎は不安に思っただけだった。
隣だよね……。
恵太郎は足音を立てずに、そろそろとリビングから廊下へと向かった。