「ユーストレス 第2部」 第4章
廊下はフットライトが灯っていて、明かりが床の木目を浮かばせていた。ツルツルに磨かれた表面は俯くと顔がぼんやりとうつる。歪んだ自分の顔を見て恵太郎は、冷や汗が出た。
キョロキョロと周囲を見渡し、声の聞こえる方へと足を向ける。二つほど左右に扉があったが、一番奥から声は聞こえる。それははっきりしたものではなくて、くぐもった、抑えたような声だ。
書類を読み合わせしているように思えないんだけど……。
そろそろと歩き、恵太郎は奥の扉へ近づく。すると声がはっきりと聞こえてきた。
「……ふうん。また真下さんからのことで未来が協力しているわけか」
不機嫌そうな如月の声だ。
恵太郎は扉近くの壁に背を押し当てて歩を止めた。
「邦彦さんはどうしてすぐ……っ!」
う、というか、く、というか微妙な声で宇都木は言葉を切る。なんとなく、聞いてはならないことの様な気がした恵太郎がきびすを返そうとすると、如月の声にまた足が止まった。
「その、鳩谷駿なんて男は知らないぞ」
あ……
父さんの話だ……。
父親の話題をしている二人が、一体どういう内容のことを話すのだろうかと、非常に気になった恵太郎は扉に背を向けたまま、そろそろと後退してまた振り返る。こんなところに立っていることがばれたら怒られるかも……という気持ちはあったが、ただでさえ謎の多かった父の話だ。小さなことであっても恵太郎は知りたかった。
「……く……邦彦さんがお知りになる前に亡くなられましたから……」
はあ……という、ため息に似た声と共に宇都木は言った。どこか気怠げな声に、恵太郎は首の後ろ側がこそばゆくなる。
「そうか。それにしても真下さんは随分とあの子供に肩入れをしているんだな。珍しいと思うんだが……。未来はその、駿という男を知っているのか?」
からかうようでいて、どこか真剣な如月だ。
「……やっ……どこ……どこを触ってるんですかっ!」
どこ?
なにを触ったの?
突然会話とは全く違う宇都木の言葉に恵太郎は目が大きく見開いた。この扉向こうで一体なにを二人がしているのか、気になって仕方ない。扉をじっと見ると、ほんの少しだけ隙間が開いているのだが、覗くのも躊躇われた恵太郎は、壁に背を押し当ててその場に座り込んだ。
「し~。未来。あまり大きな声を出すと、あの子供に聞こえるぞ。覗きに来たらどうする?」
如月の笑い声が恵太郎の耳に入る。笑い顔など想像がつかない如月だったが、宇都木には笑いかけているのだろうかと、恵太郎は先程見た如月の不機嫌そうな表情を思い出したものの、心の中に思い浮かべることができなかった。
「……の……覗きになど……来られるわけ……っ……!」
また、同じように宇都木の声が途切れるが、今度は外にまで聞こえるようなベッドの軋みが耳に入ってきた。
……。
安物のベッドなのかなあ……
だからギシギシ五月蠅いとか?
こんな立派なおうちなのに……
……ベッド?
二人ともベッドで何してるんだろ。
色々と考えてみるものの、恵太郎には男二人でベッドを軋ませている理由がよく分からない。プロレスごっこをするような年齢にも見えないのだ。それともヨガでもやっているのだろうか?
覗いてみたいんだけど……
見つかったら怒られちゃうよね。
宿題を放置したまま、ここに来たのだ。宇都木が戻ってきたときに一問すら解けていなかったら、きっと呆れるに違いない。それも恵太郎には困るのだが、ここから立ち去ろうという気にも何故かなれなかった。
「なあ……未来。駿はいい男だったのか?」
「……あっ……や……は……話しかけないで……っ!」
……?
恵太郎には益々不可解な会話になっている。話しかけられない状態に今宇都木はいるのだ。なにか体操でもやっていて、とても苦しい体勢になっているのかもしれない。
そっか……体操だ!
柔軟体操でもやっているのだろうと、ようやく恵太郎は結論に達した。仕事に疲れた如月の身体でもほぐそうとして、自分がお手本を見せていると言うことも考えられる。
だけど……
如月さんがやってる訳じゃないんだよね。
声出してるの、宇都木さんだもん。
チラリとまた恵太郎は、自分を誘うように開いている扉の隙間を見つめ、足先をもぞもぞと交差させる。両手は膝を抱えて座っているものの、尻がだんだん冷えてきて痺れそうだった。
「あっ……あ……嫌っ……そこは……嫌ですっ!」
相変わらず聞こえるスプリングの音と、宇都木の声に恵太郎は身体がゾクゾクするという奇妙な感じに襲われた。こんな妙な気分は初めてだった。背中の産毛がピリピリと逆立っていてそれを誰かに撫でられているような感じがするのだ。
「嫌?未来はここが好きなんだろう?素直に声に出してくれないと、私は満足出来ない」
……え~と。
そことか、こことか、どこが好きなんだろう……
じゃなくて……父さんの話はどうなったの?
首を傾げているのだが、二人がなにをしているのか見えない恵太郎には全く不可解な会話と声しか聞こえてこない。
「……苛めないで……邦彦さん……」
宇都木の、甘い声に恵太郎は顔が急に赤らんだ。あんな声を未だかつて恵太郎は耳にしたことがない。いつだって宇都木は穏やかな口調で、それでいて優しげな声をしているのだ。にもかかわらず、言葉にすると色っぽい声を宇都木が発しているなど、今、耳にしているのに恵太郎には信じられなかった。
……な……
なに?なになに?
赤らめた顔のまま、恵太郎は意味もなくキョロキョロと周囲を見渡してしまう。もし誰かに見られたらきっと挙動不審に見られるに違いない。それほど恵太郎の動作はおどおどとしたものだった。
「苛めてなどいないよ……未来。私が興奮するような声を聞かせてくれないか……」
興奮っ!
興奮ってなにーーー?
……
え~と。
それって……僕じゃないか。
一人であわあわと狼狽えているのは恵太郎だ。そのことに気が付くと、突然冷静に戻る。赤らんでいた顔がようやく冷えて、いつも通りの表情へと戻った。扉向こうでなにが行われているのか、ここまで来たのだから覗くしかないのだ。リビングに戻ったところで、二人のことが気になって、どうせまたここへ戻ってくるだろう。
恵太郎は決心して、這うように四つんばいになると、ゆっくりと扉の隙間に近づいた。心臓が鼓動を早め、すぐそこの距離が随分と遠くに感じる。熱くもないのに額にはうっすらと汗が滲んで、動かしている手足も僅かに震えている。
心のどこかで悪いことをしていると理解しているにもかかわらず、一度気になったことは確かめずにはいられない。好奇心と言ってしまえばそれまでだが、宇都木のことだから気になるに違いない。聞いたこともないような声を上げる宇都木が、不思議で仕方ない。二人でなにをすればあんな声が漏れるのか、恵太郎は見るまで引き返すことができなかったのだ。
見つかったら怒られる……
見つからないようにしないと……
一歩ずつ近づき、恵太郎は指先まで震えていることに気が付いた。ここで止めよう。引き返そうという気持ちもあるのだが、動き出した手足は止まらず、扉の隙間に向かっている。
「……あっ……愛しています……っ!邦彦さん……愛してますから……お願い……もうこれ以上焦らさないで……っ!」
その宇都木の声に恵太郎の動きが止まった。