「ユーストレス 第2部」 第7章
「どうしたんだ?何か鳩谷君に問題があったのか」
珍しく宇都木が鼻の頭を赤らめて、こちらからの視線を逸らしている。こういう仕草をするときは、たいてい如月が関係している場合が多い。とはいえ、如月は今出張中で自宅を不在にしているはずだ。
「……いえ。私は……気付かなかったのですが……邦彦さんが……いえ、如月さんが……」
頬まで赤く染め上げて、宇都木はしどろもどろだ。
「邦彦だろうと如月だろうとどちらでも構わないよ。邦彦がなにか問題を起こしたのか?」
恵太郎のことではないのだとホッとしつつも、またあの男か……と、真下は頭痛がしそうだった。ただでさえ、宇都木とのことでもめていたときも不本意ではあったが、随分真下は宇都木の知らないところで手を回してフォローしていた。宇都木を手放したくないと最後まで渋っていた東のこともあり、宇都木には知らせなかったが、間に立たされた真下の心労はかなりのものだったのだ。
ようやく丸く収まったところで、また如月の名前を聞くとは真下も思わなかった。
「いえ……その……」
宇都木が所在なげに両手を左右に振っているのを見て、真下はため息をついた。
「宇都木。邦彦が問題ばかり起こすようなら、ここに帰ってきていいぞ。私もその方が安心できる」
テーブルに置かれている紙コップを掴んで、真下はポットからコーヒーを注ぎ入れ、宇都木の方へ差し出す。すると宇都木は申し訳なさそうな顔をしつつ、紙コップを手に取った。
「違います……。あっ……ありがとうございます。頂きます……」
宇都木は砂糖もミルクも入れずに、熱いコーヒーに口をつけた。すると、赤かった表情が少し本来の肌の色を取り戻す。
「宇都木。真面目な話だよ。私は常々、あの男は……」
「本当に、違うんです。私に責任があったのです。あの……邦彦さんは出張中だったのですが……夕方……その。恵太郎さんがうちに来たと同時に少しだけ戻ってこられたんです……それで……なんと申し上げたらいいのか……その……見られると困るものを見られてしまったというか……」
紙コップを両手で持ったまま、宇都木はまた顔を赤らめた。その様子から真下の方も気がついた。
「玄関で抱き合っているところでも見られたのか?」
そのくらいなら何とでも誤魔化せるだろうと真下は楽観していたが、宇都木は俯いて顔を左右に振った。
「……まさか……キスでもしているところを……」
再度、宇都木は顔を左右に振る。しかも先程よりも激しいものだった。
まて……
キスではないとすると、他に何を見られると困るんだ?
多分、あれだ……と思いついたものの、あまりのことに真下は言葉にできなかった。いや、信じたくないと言った方がいいだろう。
だが、凍り付いたように動かなくなった真下に、宇都木は全て知られたことに気がついたのか、深く頭を下げて言った。
「申し訳ございません……っ!」
「……いや。なにが申し訳ないのか……私にはまだ分からないんだが……」
理性では理解していながらも、そんな恐ろしいことを真下は事実だと認めたくなかったのだろう。だから引きつった笑いしか表情に浮かべられず、更に何かを誤魔化すように自分のカップにもコーヒーを注いだ。
「……私は気がつかなかったのですが……邦彦さんが家から出られるときに、恵太郎さんが覗いていたと言って笑っていらっしゃいました。私……私は……全く気がつかなかったんですっ!もし、私が、気付いていたら……その……なんとか誤魔化せたと……」
未来……
それこそ、希望的観測と言うものだろう?
見られたのなら誤魔化せるわけなどないさ。
いや、どうして恵太郎が同じ屋根の下にいるときに、そういう行為をする?
なぜ、すこしばかり我慢ができなかったんだ……
本来のお前なら、そのくらいの気配りをしただろう?
ああ……
そうか。
如月が全て悪いんだな。
あの男がお前を変えてしまった……。
そんな男と一緒に暮らすことを許した私が悪いのだな……。
だが、宇都木……。
これ程、短期間に、お前が変わってしまうとは……
「私は……悲しいよ。宇都木……」
ようやく出た言葉は、真下からすると何とも情けないものだった。
「も……もも……申し訳ございません……」
俯いたまま顔を上げることなく、宇都木は両膝に置いた手をギュッと握りしめている。宇都木の方も混乱しているに違いない。とはいえ、真下ですら思考が停止している今、どう、慰めて……いや、受け止めていいのか分からない。いつだって、どんなことにでも瞬時に対応してきた真下だ。その己がこれ程、心乱される事態になるとは思いも寄らないことだった。
暫く気まずい雰囲気の中、お互い沈黙していたが、宇都木の方から言葉をかけてきた。
「……真下さん。どうすれば宜しいでしょうか?」
チラリと訴えるような瞳をこちらに向けて、半分泣きそうな表情で宇都木は真下を見つめてくる。その瞳の中には絶対的な信頼が宿っていた。真下ならなんとかしてくれる……そういう期待を裏切ることは真下にできない。どんな困難な状況であっても、真下は上手くこなしてきたのだ。今回もなんとかできるはずだった。
「……鳩谷君も、もう十六歳の男の子だ。性教育も学校で教わっているだろう。別に、問題はないさ。宇都木は気にしすぎだよ」
いや……
そうなのか?
問題がないと言えるのか?
男女ならよかったのだろうが、男同士だぞ。
男同士の恋愛を説くような性教育など学校であるのか?
自分で言ったセリフに、真下は疑問を投げかけつつも、そういう陳腐な言葉しか出せない自分がひどく情けない。とはいえ、見られた本人である宇都木の方が混乱しているのだろうから、真下はここで安心させる言葉をかけてやらなければならないのだ。
「そ、そうでしょうか?」
宇都木は期待に満ちた瞳を真下に向けた。
「宇都木は邦彦との関係に胸を張れないのか?確かに男同士ではあるが、お前は私の前で、如月との関係について胸を張っていたね。それがどうして鳩谷君に対してもできない?」
……。
こんな風に説得していいのか?
どこか間違ってないのか?
ふと、疑問を抱いた真下であったが、ここで宇都木を怒鳴りつけることなどできないだろう。彼らは自分達の関係に満足していて、それは他人がどうこういう問題ではない。異性であっても同性であっても、愛情ということに関しては同じだと真下は考えているのだ。
いや、もともと人様の恋愛観に口を出すこと自体、当事者でない真下のような他人はしてはならないことだろう。
「ええ。私は、胸を張って誰に対しても邦彦さんを愛していると言えます」
ようやく宇都木は顔を上げる。そこには自信に満ちた宇都木の表情があった。
「鳩谷君に何かそれらしいことを聞かれたのかい?」
「いいえ。ただ、少々挙動不審なところが見受けられました。私は、聞かれたらどうお答えしたらいいものかと、そんなことばかり考えていたのですが、真下さんのアドバイスを受けて、自分がどう答えたらいいのか、やっと見つけることができました。ありがとうございました」
宇都木は、すっきりした顔でにこやかに微笑む。だが、真下はどこか釈然としないものを感じていた。それがなんであるかは分からない。
「そうか……宇都木の力になれてよかったよ」
ぬるくなったコーヒーを飲み干し、真下は息を吐いた。
「では、私は帰ります。明日、また恵太郎さんのお勉強を見に参りますね。コーヒーごちそうさまでした」
スッと立ち上がって宇都木は、軽く会釈をして部屋を出ていった。それを見送りながら、真下は何がよかったのかどうか最初から考えてみたが、どの部分がどう上手く解決したのか全く見つけられなかった。