「ユーストレス 第2部」 第2章
夕方、宇都木の住むマンションに東家から回された車に乗って着いたが、どこもかしこも綺麗に片づけられていて、あちこちまだ段ボールを放置させている自分の部屋とは大違いの様子に、恵太郎は肩を竦めた。
磨かれたフローリングは埃一つなく光沢を放っていて、クリーム色で統一された室内の壁は暖かみがある。所々ひっそりと置かれた小さな観葉植物は、宇都木が世話をしているのだろう。
とはいえ、3LDKの室内は、独りで住むには広すぎるような気が恵太郎にはした。なにより、聞くことができなかったのだが、玄関の表札には『如月』と書かれていたのだ。宇都木は宇都木に違いない。では本当は誰のうちなのだろうか。
リビングに通された恵太郎は、おずおずと宇都木に促されるままソファーに座った。
「お茶かコーヒー、紅茶。どれにします?」
高そうな刺繍のカーテンをぼんやり眺めていた恵太郎だったが、宇都木に問われて我に返った。
「え……あ。僕、紅茶が飲みたいです。なんだか……喉乾いちゃったし……」
暑くも無いはずであるのだが、妙に喉がカラカラになっていた。はじめて来る宇都木の住まいに緊張しているに違いない。
「分かりました。レモンとミルク、どちらがいいですか?私のイメージでは恵太郎さんはミルクなんですが……」
くすくす笑いながら宇都木は言う。
「……そ、そうです。ミルクが良いです」
照れくさくて鼻を掻きつつ、恵太郎が答えると宇都木はキッチンの方へ歩いていった。
本当にすごいところだなあ……
もちろん東家とは比べものにはならないのだろうが、それでもこうやって手を置いているテーブルもその上に敷かれているレースのクロスも細工が凝っていてとても値段など恵太郎には分からない。レザーの椅子や、置かれたクッションすら、日本であまり見ないものばかりなのだ。
宇都木さんって……
海外に住んでいたのかな……
あ、違う。
宇都木さんのうちじゃないんだよね。
……もしかして同居させてもらってるのかな。
天井からぶら下がっているシャンデリアを見つめながら恵太郎は、は~っと息を吐いた。これほど個人で室内を装飾できる相手なら随分と金を持っているに違いない。
おじさんとか?
親戚?
色々と恵太郎が考えていると宇都木が盆にカップを乗せて返ってきた。
「キョロキョロされてるんですね」
くすくすと笑いながら宇都木はカップを恵太郎の前に置き、小さな籐の籠に入ったクッキーも並べられた。
「だって……すごいおうちだから……僕、びっくりしたんです」
恵太郎の言葉に宇都木は何故か苦笑した。
「このうちに住んでいる方の趣味ですよ。元々海外でお住まいでしたのでその時に使っていたテーブルなど全部持ち帰られたので、見たこともないような家具もあるかもしれませんね。でもあちらの値段だと随分安く手に入れられると聞いていますよ。さて、やりましょうか?宿題は持ってこられましたか?」
宇都木の言葉に恵太郎は持ってきた鞄から宿題をのそのそと取り出し、テーブルに置く。
「気の進まない様子ですね」
「……今日は休みでも、僕、本当に良かったのに……」
口を少しだけ尖らせて恵太郎が言うと、宇都木はまた笑った。笑顔が本当に似合う男性だと恵太郎は思わず思ってしまった。いや、普段どちらかというと表情の読めない顔で立っていたりするものだから、余計にそう思うのだろう。クールで仕事ができる宇都木が恵太郎からすると羨ましい。
「駄目ですよ。勉強は本当に継続が大事です。嫌でも学生の間はず~っとついてくるんですよ。恵太郎さんはまだあと三年とプラス四年……ですね。七年付き合うことになるんです。今頃から嫌だといっても誰も聞いてくれませんね。それで、どこまで進みましたか?」
チラリと机の上に置いた問題集を眺めて宇都木は言う。
「あっ!」
色々なことがあったため、恵太郎は宿題のことをすっかり忘れていたのだ。だから数行程度しか進んでいなかった。
「……そのご様子では、私が見た後で一度も問題集を広げなかったということでしょうか?」
じっと宇都木に見つめられて、恵太郎は脂汗が出そうになった。
「……す、少しだけ進んだんですけど……。本当に少しだけなんです」
「……困りましたね。恵太郎さん。私は良いんですよ。でも、もうすぐ学校が始まりますよね?宿題ができていなかったら不味いのではないのですか?」
困ったように宇都木は斜めに顔を傾ける。
「こ……困ります」
「そうですね……」
宇都木は恵太郎の持っていた問題集をパラパラと繰り、パタンと机に戻す。
「一日十枚。これは譲れないですね。このペースでようやく始業式に間に合います」
「……え……ええええっ!」
そんな~と口から漏れそうになった恵太郎だったが、たとえ漏れたとしても現実は揺るがないのだ。やらなければ終わらない。終わらなければ新学期に入ったとたんに大目玉を食らうだろう。それも困る。
「……がんばります」
項垂れながらも、恵太郎はシャーペンを掴んだ。同時に玄関のベルが鳴る。
「変ですね。もしかするとマンションの回覧かもしれませんから、恵太郎さんは進めてくださいね。私は玄関まで見に行ってきます」
宇都木が立ち上がり、リビングから出ていった。恵太郎はシャーペンの頭を噛んで、ぼんやりと問題集を眺めつつ、なんとか自分で考えようと努力していた。
先に、クッキー食べても良いかなあ……。
食べて良いとは言われなかったが、東家にはおやつというものがないのだ。佐中家にいたときはいつも台所の戸棚に色々とお菓子が入っていたが、今はそんな場所など皆無だ。久しぶりの甘そうなクッキーを目の前にして、恵太郎はそろそろと手を伸ばした。
一気に口に入れてしまえば一つくらい無くなっていてもばれないだろうと思ったのだ。だが、口に入れる瞬間にリビングに見知らぬ声が響いた。
「どうしてうちにこんな子供がくつろいでいるんだ?」
恵太郎は手からクッキーをお落としそうになりつつも、声のする方を振り返ると、リビングの入り口に真っ黒な髪に真っ青な瞳を持った男性が立っていた。日本人なのか外人なのか恵太郎には分からない顔だった。
「あ……あのうう……す、すみません。クッキー勝手に食べちゃって……」
口まで入れそうになっていたクッキーを、籠に戻して恵太郎は手を振った。
「邦彦さん。ですから、玄関でお話ししましたよね?真下さんから頼まれて、今、私は彼の家庭教師をしているんです。だからあの……」
宇都木が困ったような表情で隣に立って邦彦と呼んだ男に説明していた。
もしかすると目の青い男性が如月というのかもしれない。恵太郎はそう確信して思わず口にしていた。
「あ、如月……って表札!」
「はあん。おい、未来。人の名前を呼び捨てにするような子供をうちに上げたのか?」
青い目の男は恵太郎の存在が気に入らない様子だ。
「あっ!ご、ごめんなさいっ!違うんです。ただ、僕、その……宇都木さんのうちだと思っていたんですけど、表札の名前が違ったから……どなたのおうちかな……って、不思議に思っていて……そのっ!」
「邦彦さんっ!苛めないでやってください」
「苛めてるつもりはないが……。ふうん。面白い子供が東家にいるんだな……」
まるで値踏みでもするように如月の瞳は恵太郎の姿を上から下まで眺める。その視線に恵太郎は顔が赤く染まり、足先がもぞもぞした。
「それより未来。どうする?私はすぐに戻らなければならないところを、無理矢理時間を作って戻ってきたんだぞ」
如月は宇都木の方を見て、恵太郎を眺める。
二人の雰囲気から、恵太郎は今ここにいては不味い様子だった。
「え……えっと。僕、帰ります。あの……お邪魔だと思いますし……」
とりあえず笑いを顔に浮かべて恵太郎が言うと、宇都木はため息をついた。
「駄目です。恵太郎さんは見張っていないと絶対に勉強をされないでしょう?だから、今日の分をこなすまでここから帰しませんからね」
宇都木の言葉に如月の方が抗議するような声を上げる。
「未来……それはあんまりだと思うんだが……。いや、恵太郎という子供のことではなくて私のことだよ」
その言葉に宇都木は顔を真っ赤に染めた。