「ユーストレス 第2部」 第9章
「あの……」
恵太郎が黙り込んでしまった真下におどおどした視線を向けてきた。どんなときでも、もっとこう、胸を張れないものかと思いつつ、年上を目の前にして恵太郎の年齢では無理のようにも思える。
「なんだね?」
笑みを絶やすことなく真下は言った。
「もしかして……あの。僕が覗いていたこと……み、……みみ……みつかっちゃったんですか?」
きゅうっと顔をしかめて頬を赤らめる恵太郎は、既に真下の方を見ていない。一瞬、俯いたらマイナス百円といいそうになったが、事情が事情だけに酷だろう。とはいえ、恵太郎がはっきり見たと告白したのだから、宇都木の言ったことは確かなことだったのだ。
恵太郎が見たのか、見なかったのか。どちらか分からない間は真下も対応に困るが、はっきり分かり逆によかったのかも知れない。
「……偶然なら仕方ないだろうが、人様のことをこそこそと覗き見するようなことはしてはならないことだね」
口調は冷静ではあったが、真下は表情を険しくすることはなかった。これ以上萎縮させることもないだろうと思ったのだ。怒ると言うことは、宇都木たちの行為すら否定してしまうように聞こえるだろう。覗いたことはおいて、彼らの行為自体まで悪いことだという印象を恵太郎に真下は植え付けたくなかった。
「はい。ごめんなさい……あの……宇都木さん怒ってました?もう、僕……僕の勉強を見たくないって……もしかして言ってました?」
そろりと顔をあげた恵太郎の目は涙で潤んでいた。
「いや。恥ずかしがってはいたがね。彼らは、世間で言うと少々特殊な関係だろうが、本人たちは満足して、胸を張って堂々と生きているよ。ただ、やはり二人だけのことを見られたくないと言うのは男女とも同じことだろうね」
淡々とした口調で真下は言った。
恵太郎がどういった反応を示すだろうかと様子を窺っていたが、目元を何度も拭い、べそべそと泣いているだけだ。
「宇都木は怒っていたわけではないさ。鳩谷君の勉強はこれからも見てくれると話していたしね。ただ、宇都木に申し訳ないと思っているなら、こう言ったことを口にしないのが大人だろう。いいね。宇都木に対して興味本位で聞いたり、あれこれ詮索するのは絶対に駄目だ。これだけは約束してくれないか?」
「僕……そんなつもりこれっぽっちもないです。絶対にしません。だって、僕、宇都木さんがあの、如月さんって人のこと本当に好きなの見ていて分かったし……。とっても素敵に見えたんです。最初は……その、ちょっとびっくりしたけど……」
セックスがとても素敵に見えたのだろうか?
一瞬、問いかけそうになって真下は言葉を呑み込んだ。あまり直接的に問いかけたりするのは不適当だろうと判断したからだった。まだ子供だとは言え、既に自慰行為くらい覚えている年齢だろう。言って良いことと悪いことくらい理解しているに違いない。
だが、真下は、少々不安に思うことがあった。
逸輝の存在だ。
逸輝の目つきや、言葉遣い。そして以前目撃してしまったことも含めて、彼が恵太郎に想いを寄せていることは明らかだ。そのことについて恵太郎が気付いているかは別として、宇都木たちに煽られることはないだろうか。
じっと恵太郎の様子を眺めてみるものの、そういった変化は見られない。
「……ごめんなさい……」
再度、恵太郎は呟くように言った。涙が止まらないのか、顔をくしゃくしゃにして目を擦っている。いつまで泣いているつもりなのだろうと、真下は心の中だけでため息をついて、ようやく口を開いた。
「君が反省しているのならいいんだよ。宇都木の方も反省していたしね」
にっこりとした表情で真下が言うと、恵太郎はびっくりした顔になり、いきなり立ち上がった。
「宇都木さんに怒ったんですかっ!ぼ、僕が悪いのにっ!僕……僕が……っ!」
興奮した様子で恵太郎が叫ぶのを、真下は宥めるように言った。
「いや。別に怒ってなどいないよ。怒る理由もないだろう?」
「あ……はい。済みません。突然立ち上がっちゃって……。でも……僕が悪いのに、宇都木さんが怒られたんだって思ったら……」
ゆるゆると腰を下ろして、恵太郎はまた涙を落とす。
「ただ、君がしたことについて、私は君に怒っているよ。分かっているね?宇都木は優しい男だから、腹を立てることなどないが、私は違う。鳩谷君の保護者の立場だから、君がしたことに反省を促すのは当然だね。だが、心から悪いことをしたと反省できたなら、もうこの話はこれで終わりだ。鳩谷君もいつまでも怒られたことを悩んで後悔する必要もない。私はきちんと君が反省してくれたのを見て、満足だよ」
真下の言葉に恵太郎は、チラリと視線を向けてきた。
「許してもらってもいいんですか?」
ひくっと喉を鳴らして恵太郎は言う。
「ああ。悪いことをしても、反省すれば許すのは人のごく普通の日常だよ。そうだろう?まあ、悪いことでも人を傷つけるようなことをしたなら、許されないだろうけどね。それは分かっているね?」
「はい……」
「じゃあ、お説教は終わりにしよう」
小さく笑って真下は、俯き加減にしている恵太郎の頭を撫でた。独特の柔らかさのある恵太郎の髪は、小さな子供の髪質に似ていて触れていると気持ちがいい。
「ありがとうございます……」
ようやく泣きやんだ恵太郎は、なんとか顔に笑みを浮かべようとしているのだが、どこか不自然で引きつったものだった。そんな恵太郎を見ていると、真下はほのぼのした気持ちになれる。あまりにも日々仕事に追われているため、こういう気持ちになることは滅多にないのだが、恵太郎が来てから少し変わったような気が真下にはした。
「くすぐったいです……」
首を竦めた恵太郎に気がついて、真下はようやく手を離した。
「はは。どうも鳩谷君を見ていると、小さな子供を相手にしているようで、よしよしと頭を撫でたくなるんだよ。気に障ったら許してくれ」
「……父さんと同じこと言ってました……」
「駿が?」
「父さん……たまにふらりと帰ってきて、真っ先にするのが僕の頭をゴシゴシ撫でることだったんです。元気にしてたか?父さんの顔忘れてないな?……って。なんだか、それ思いだしてしまいました。あ、でも……逸輝にされるのいやなんですけど、真下さんならいいです」
さきほどまで引きつっていた恵太郎の表情が心からの笑顔へと変わる。
「そうだな。鳩谷君が一ついいことをしたら、私が君の頭を撫でてあげるというのはどうかな?」
笑いを堪えるように真下が提案すると、恵太郎はこくこくと頭を上下させた。父親が早くに亡くなっているために、その父を思い出すような仕草に飢えているかも知れない。真下はそう思ったのだ。もし、このことで、もともとやる気のあまり感じられない恵太郎が、前向きに何かに取り組むきっかけに、少しでもなるなら安いものだろう。
「僕、とりあえず……その、宿題を頑張ってします。ちゃんとできたら撫でてもらえるんですか?」
期待に満ちた瞳に、真下は頷いた。
恵太郎はまだまだ子供なのだ。頭を撫でられるなど、普通なら子供扱いをされたと思って腹を立てるのだろうが、やはり、父親が恋しいのだろう。多分、駿と同年代の真下に父親の姿を重ねているのかも知れない。
それでいいと真下は思った。
本来、駿が亡くなったときに、真下は恵太郎を引き取るつもりだったのだ。だが、自分の仕事があまりにも忙しすぎたため、とても一般で言う家庭の温もりなど恵太郎に味あわせてやれないと判断したから、諦めた。
今更、駿の代役をこなす気はないが、それでも大人として恵太郎をすこしばかり導いてやれるかも知れない。
もっと男らしく、胸を張って生きていけるように。
「真下さん。あの……」
「ん?ああ。そうだったね。こんな時間だから、そろそろ失礼しないとね」
椅子から腰を上げた真下に恵太郎は言った。
「いえ、時間はいいんです……」
まだ、何か話したいことがあるのだろうかと、真下は立ったまま恵太郎の方へ視線を落とす。
「僕も、大きくなったら、あんな素敵な恋人ができると思いますか?」
恵太郎の発言の意味をどう取れば良いのだろうかと、真下は一瞬考えあぐねたものの、当たり障りのない答えを言った。
「そうだね。君がもっと男らしくなったら、可愛い彼女もできるだろう。その時は真っ先に私に知らせてくれると嬉しいね。じゃあ、私は失礼するよ」
なぜか恵太郎は首を傾げたまま真下の方を見つめていた。