Angel Sugar

「ユーストレス 第2部」 第6章

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「恵太郎さん」
 宇都木は衣服こそ乱れずきっちりとしていたが、慌てて髪をととのえたような様子で、うっすらと顔を赤らめていた。なんとなく気になるものの、理由を知っているだけに、聞くわけにもいかず、恵太郎は気付かない振りをした。
「なんですか?」
「ここにずっといらしたのですか?」
 平静を装いつつ、宇都木は恵太郎の隣に座り、クッキーの入っていた籠にチラリと視線を一つ向けた。
「ずっと、問題を解いてました。でも分からなくなったから、クッキー食べて一息つこうとしたら……全部食べちゃってました。済みません……」
 鼻の頭を掻いて恵太郎は照れを隠すように言った。だが実際は、覗いていたことがばれたのだろうかと、心臓だけが鼓動を早めて、胸が苦しかったのだ。とはいえ、覗いていましたとも白状できず、こういう場合はこのまま嘘を突き通して逃げ切るしかないのだと恵太郎は悟っていた。
 誰だってああいう場面を見られたくない。いくら奥手の恵太郎でもそのくらいは理解していた。
「いえ……いいんですよ。それほどクッキーが好きだとは知りませんでした。まだたくさんありますので取ってきますね。紅茶のお代わりも持ってきます」
 今、座ったばかりの宇都木なのだが、早々に立ち上がってキッチンに早足で歩いていった。宇都木がキッチンの方へ姿を消したのを目で追い、恵太郎はようやく息を吐き出すことができた。
 やっぱり覗かなかったらよかった……。
 知ってしまった事実は、確かに強烈だった。こうやって問題集を眺めていても、先程の光景が鮮やかに蘇り、目の前をちらつくのだ。宇都木の表情など事細かに思い出せるほど、脳裏に焼き付いていた。暫くはこの記憶に悩まされるのかも知れない。
 知らない振りしなきゃ……
 僕は見なかったんだから……
 何度も心に言い聞かせて、恵太郎が深呼吸していると宇都木が盆にまた紅茶を入れたカップとクッキーの詰まった袋を乗せて戻ってきた。
「沢山食べてくださっていいですからね」
 にっこりとした笑顔で宇都木が言って、恵太郎の前にカップとクッキーの袋を置く。なんとなく最初より愛想がよくなったような気がしたが、それこそ思い過ごしだろう。どう考えてもばれたとは恵太郎に思えなかったのだ。
 足音を消して近づいて、そっと覗いただけだ。それも長い間覗いていたわけではなく、ほんの少しだけ見ていただけだった。リビングに戻るときも、足音には気をつけて扉から離れたはずだ。ばれるとか見つかるとか、考えるから宇都木の一つ一つの行動が挙動不審に見えるだけなのだろう。
「はい。僕、クッキー大好きなんです」
 ノートの脇に置かれたクッキーの詰まった袋に手を突っ込んで、数枚掴むと口に放り込む。モグモグと口を動かしてから呑み込む。味覚が麻痺しているように甘さを感じないクッキーだったが、恵太郎は笑顔を絶やさなかった。
「じゃあ、そろそろお勉強の続きをしましょうね」
 宇都木は、本来の笑顔を取り戻した表情で言った。
「はい」
 元気よく答えたものの、恵太郎には自信がなかった。頭の中でグルグルしている宇都木と如月の姿が一瞬たりとも離れてくれない。このままうちに帰ってベッドの中に潜り込みたいほどだ。寝てしまえば忘れられるだろう。だが、本来の目的はここで勉強をすることであって、のぞき見ではなかった。
「ちっとも進んでなかったみたいですね……」
 困ったような宇都木の声に、恵太郎は肩を竦めた。いきな先生モードに切り替われる宇都木が羨ましい。見かけは平静を装いつつも恵太郎の頭はグルグル裸の宇都木が回っているのだ。目を合わせてしまったら顔が真っ赤に染まってしまうかも知れない。
「……ごめんなさい。僕、やっぱり苦手で……」
 ボソボソと俯き加減に言うと、宇都木が手を伸ばして参考書の方を開いた。真横にいる宇都木からいつもと違う香りが漂い、それがあの如月のものだと気付くのに時間はかからなかった。
 あ……
 宇都木さんのいつもの香りじゃない……   
 こ……これって、移り香とか言うんだよね……
 あわわ……どうしよう。
 別に恵太郎が慌てることなどないのだろうが、こういう経験がないだけに、一つ知るたびに衝撃が身体を走る。考えないでおこうと必死になっていながら、余計に考えてしまうのは恵太郎の悪い癖かも知れない。いや、誰でもああいう光景を目の当たりにしたらこんなふうになってしまうだろう。
「恵太郎さん。聞いてますか?」
 怪訝な表情を向けられ、恵太郎は冷や汗が出そうになった。
「え。はい……聞いてませんでした」
「はっきりおっしゃられると、怒っていいのか、呆れていいのか分からなくなるのですが……」
 くすくすと笑って宇都木は言う。
「す……済みません……」
 額を拭って恵太郎はテーブルに乗っている参考書を眺めた。
「問題を解くには国語の理解力が必要です。いいですか。ほとんどが公式を当てはめるだけで簡単に解けるのですが、どの公式を使うかを判断するのに、国語力がいるんです。意地悪に捻っているだけですが、それを理解していたら、あとは公式を暗記しておけば簡単に解けるんですよ。ただ、恵太郎さんの場合は、先に公式を暗記してからの方がいいのかもしれません。英語と同じで、単語を覚えないと先に進めませんからね。ですので、まずは公式を暗記することに専念しましょう」
 真剣な宇都木の姿に、恵太郎も徐々に例の光景が頭から離れていき、一応、勉強に専念することができ、珍しくも公式のいくつかを覚えることに成功した。すると不思議なことに今まで謎めいていた問題が少しずつ理解できるようになり、恵太郎は驚きと共に、宇都木の教え方のうまさに感謝した。
「やればできますね。恵太郎さんは、ほんの少し集中力が足りないだけで、実はできるんですよ。自分でできないと思いこむと余計にできなくなります。この程度で自信を持たれると私も困りますが、少しくらい自分を褒めてあげてもいいですよ」
 釘を刺しつつ、宇都木は恵太郎を持ち上げてくれているのが分かる。手放しには喜ばさない宇都木の厳しさがそこに見えた。だが、それは決して恵太郎を馬鹿にしているわけではなく、本気で恵太郎を心配してのことなのだ。宇都木の優しさを感じ取って恵太郎は嬉しくなった。
「僕、ちょっぴり数学好きになれそうかも……」
「国語は出題者が何を答えとして求めているかを考えなければなりませんが、数学は答えが一つしかありません。公式の多さを克服さえすれば平均くらいはなんとかなります。もっともそれ以上を望むのであれば、読解力が要求されますね。とりあえず、恵太郎さんは平均を目指しましょう」
 宇都木も嬉しそうだが、決して褒めていない言葉に、恵太郎は思わず首を竦めた。平均すら取れないのは分かっているが、はっきり言われると恥ずかしい。
「あ……いえ。別に恵太郎さんを馬鹿にしているわけではないんですよ……」
 自分の言ったことがどうも不味いと気がついたのか、宇都木は慌ててそう言った。
「ううん。本当のことですから僕、全然平気です。だっていつも数学は補習組だし。毎年追試を受けてやっと学年を上がってきたんです。だから余計に嫌いになったのかなあ……」
 恵太郎の通う学校は、成績の平均で学年を上がれる仕組みになっていて、例え数学が1ついたとしても、他が5を取っていたら、追試を受けることで上がれるのだ。とはいえ、これからもそうやって上がれるとは限らないだろう。もしかすると留年することもあるかも知れない。
 恵太郎はもちろん勉強は嫌いだが、留年して義務教育を伸ばされたくなかった。決められた年数は嫌でも学校に通うつもりだが、人より多く学校には行きたくない。学校は好きだが勉強が嫌いなのだ。
「……毎年追試って……」
 宇都木は真下から聞いていなかったのか、驚いた声で言った。きっと宇都木からすると考えられないようなことなのだろう。
「……ごめんなさい」
「いえ……あ、その……謝ることではありませんので。失礼なことを伺いますが、恵太郎さんはテストでどのくらいの順位にいらっしゃるのでしょう。真ん中くらいですか?」
 そんなに成績がよければ、真下が家庭教師をつける筈などないと口から出そうになった恵太郎だったが、それは言わなかった。
「え~と……。半分より下ですけど、下から数えるよりは半分のところから数える方が早いくらいです」
 宇都木は暫く絶句していたが、突然強い口調で話し始めた。
「恵太郎さん。そんな成績では、駄目です。亡くなったご両親にも顔向けできませんよ。分かりました。私のやり方が甘かったのですね。明日からはもっとビシビシといたしますので、覚悟してください。上位を狙えと私も無茶なことは申しませんし、学力主義でもありませんが、今のままでは立派な社会人にはなれません。いいですね。今日やったところは必ず寝る前にもう一度目を通すこと。そうすることで頭に刷り込まれて、忘れにくくなります。宿題は春休みが終わるまでに全て解いて、更に参考書を解きましょう。これは私が用意させていただきます」
「え……え~!」
 抗議の声を上げた恵太郎に、宇都木は厳しい眼差しを向けた。
「社会はとても厳しいのですよ。恵太郎さん。貴方はまだ学生ですからその厳しさを体験できないだけですが、このままでは必ず後悔することになるでしょう。今から死にものぐるいで頑張れば、いずれ実を結びます」
「僕……僕は……手芸教室……」
「手に職を持つのはいいことですよ。ですが、何がきっかけで成績が引き合いに出されるかも知れないこの世の中です。将来、恵太郎さんが手芸教室を開くことには大賛成ですが、今は学業に専念しましょう。いいですね」
 いいですね。と言う言葉に力が込められていて、恵太郎は遠い目で笑うしかなかった。



 真下が雑務を終え、ようやく一息つく頃、宇都木がやってきた。時間を確認すると十時を回っていて、真下自身も驚いた。
「もしかすると、先程まで勉強を教えてくれていたのかい?」
「え……まあ。なんだか、私も熱くなってしまって……」
 苦笑しながら、どこか申し訳なさそうな宇都木に真下はねぎらいの声をかけた。
「いや。いいんだ。鳩谷君の勉強嫌いは私も聞かされているからね。宇都木が思うように厳しく教えてやってくれたらいい。それより、これほど長い間、鳩谷君が耐えられたと言うことの方が私には驚きだよ。ああ、座ってくれ」
 小さく笑って真下がソファーに腰をかけると、それに倣うように宇都木は前のソファーに腰をかけた。
「それで……あの……もしかすると……なんですが……」
 言いにくそうに宇都木は言葉を濁らせた。
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