Angel Sugar

「監禁愛2」 第2章

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 名執は何とか気力で病院に行った。
 時間だけが空しく過ぎて行く。
 もう一度電話をしようと決心した自分の心がぐらつき、今までになく仕事に没頭した。
 仕事に没頭していると、何もかもを一瞬だけ忘れられるからだ。
 だが電話はしなくてはならない。どうあっても今日中にリーチに説明しなければ時間が経てばもっと言えなくなる。
 そう思いながらも名執は、自室で電話を前に何度も何度も受話器を上げては下ろしを繰り返していた。
 ようやく電話をかけることに成功したのは昼の休憩が終わる十分前であった。
「隠岐です」
 その声を聞いた名執の受話器を持つ手は震え出した。
「ゆ……雪久です。あの……」
「何の用だ?」
 電話向こうのリーチの声は冷たく響いた。それでも名執は、震えながらも電話を切ることが出来なかった。
「お願い……話を聞いて下さい……。リーチ…お願いです。こんなこともうお願いする資格もありませんが……。それでも聞いて欲しいことがあるんです……」
 名執は必死にリーチに訴えた。
 失いたくないのだリーチを……。
 どんなことがあっても名執はリーチだけは失いたくなかったのだ。
 しかしリーチは沈黙したままであった。
「リーチ……何か言って下さい…私……私……」
 涙声の名執はそれ以上言葉を続けられなかった。
「俺は……怒ってなんか無い。お前は俺しか知らなかっただけで、他にもお前に合った奴がいる可能性だって今まであったんだ。お前がそれを見つけて選んだんだろう?俺はお前が自分にとって幸せになれる方を選択をしたんだと思ってる。だからいい。俺のことを振り返らなくてもいい…お前は自分の気持ちに正直に生きればいいんだから……俺もまた自分に合った人を見つけ……」
「やめて下さい!」
 そこまで聞いて名執は叫んだ。
「そんな……悲しい事は言わないで下さい。わ……私にはリーチだけなんです。本当なんです。お願いですから信じて下さい。こんなこと言って、信じて貰えないかもしれないけれど……。それでも私にはそう言うしか出来ない。一度でいいです……会って話を聞いて下さい……お願いです……」
 暫く続く沈黙が、電話向こうでリーチがしきりに考え込んでいるように名執には思えた。
 リーチ……お願い……うんと言って……!
「ユキ…じゃ、今晩行くから…。ただし、またあんなお前を見るのだけは勘弁してくれ……いくら俺でも二度は耐えられない……」
「もう二度と貴方以外の人は入れません。ありがとう……ありがとうリーチ……」
「俺、仕事有るから切るよ」
「はい……」
 名執は切れた電話の受話器をじっと耳に当てながら、神に感謝した。



 何がどうなっているんだろう……
 リーチは携帯を切った後、考え込んでしまった。
『ちょっとリーチ……また今夜交替?』
『済まない……埋め合わせはするから』
 リーチは弱々しくそうトシに言った。
『リーチ……何かあった?』
 心配そうにトシはリーチに聞いたが、話せないことだった。
『トシ会議が始まるぞ早く行かないと』
 リーチはそう言ってトシとの話を終わらせた。
『う……うん』
 トシはそれ以上何も聞かずに会議室に向かった。
 会議室には既に人が集まっており、プリントが配られていた。
「今回、ICPO及び麻薬捜査局からの依頼により、アメリカで現在問題になっているドラッグが日本に上陸したとの報告を受けた。通り名は“ファンタジー”と呼ばれ、セックスドラッグとして広まっているが、習慣性が強く、長期に服用すると麻薬と同じ回復プログラムを組まなければならなくなる。現在のところ半年服用した人間が十何人か餓死しているだけだが、その理由はそのドラッグが大量に脳からモルヒネを放出する機能を刺激し、それ自体は体に何ら損害を与えはしないが、極度の食欲不振に陥ることで死に至らしめるということだ。麻薬のように体の中で分解出来ないのもでは無いが、習慣になると薬の効果が切れ始めると苦しみを伴い、手を切れなくなるのが現状である。しかし、すぐに習慣性を帯びることは確かだが、十数回程度の服用ならば、一日から二日苦しめば簡単に習慣を切ることが出来る。そうであるから余計に服用する人間が後を立たないということだ。特筆するべきことは、確かにそのドラッグを使用すれば、かなりの刺激を感じることが出来るのではあるが、服用した本人はたいてい記憶の欠落に陥ることが確認されており、アメリカでは少女を誘拐してそれを使用する犯罪も多発し、社会的にも問題になっている。そして今回国際手配になっている日本人、顔は確認されてはいないが、日本に市場を開拓しようと密かに入国していると情報が入っている。今後、その動向に特にマル暴課、刑事一課には注意して貰いたい。詳しい事はプリントを配布してあるのでそれに沿って科警研の第二化学課にも協力してもらい、全力で蔓延を阻止してもらいたい」
「妙な薬が出来たんですねー……」
 トシがそう呟くのを横で同僚の篠原が聞いていた。
「でもな、隠岐。ほらこれ見てみろよ、初期は大量の水分摂取と発汗でその習慣性を断ち切ることが出来るって書いてあるじゃないか……一回くらい使ってセックスやってみたいと思わないか?」
「嫌です。だって最中の記憶が抜け落ちて、習慣性を切るのに苦しむなんて割に合わないですよ」
「たまには彼女と獣みたいに乱れるのも良さそうじゃないか」
 冗談と取れないような笑いを篠原は浮かべた。
「愛のないセックスはごめんですよ」
「結構言うなーっ隠岐って」
「そうですか?」
「そうだよ」
 二人はそう言い合いながら和やかに話を続けていた。しかし、リーチは名執のことで頭が一杯で妙な薬の事は聞き流していた。
 ユキ……
 名執がその薬に蝕まれていることなどリーチは考えも及ばなかった。

 その夜の十一時、やっと仕事が終わり名執は病院の地下駐車場へと急いだ。
 帰ったら鍵を閉めて、訪問者があっても不用意に開けなければ大丈夫……。名執はそう思いながら、愛車のキーを取り出した。
 すると突然後ろから口を押さえられ、身体を拘束された。
「ん……んんっ!」
 名執は引きずられながら、駐車場の端にある物置に連れ込まれた。
「俺だよ」
「あっ……」
 物置の戸を閉め、つっかえ棒をすると宮原はニヤリと笑った。
「いやっ!寄らないで下さい!」
 名執は出口のない壁に身を寄せて叫んだ。
「もう家には入れて貰えないと思ってさ、わざわざ足を運んでやったんだ。感謝しろよ」
 そう言って宮原は名執ににじり寄った。
「こ……来ないで……」
 名執は恐怖におののいた。
「昨日は最高だった。お前の身体は麻薬みたいなもんだ。何度だって犯して、滅茶苦茶にしてやりたくなるぜ」
 舐めるような視線でこちらを見ながら宮原は言った。
 歯が恐怖のためにカチカチと鳴り、全身が震え出す。
「一回くらいじゃ薬の常習者にはならないからな。せいぜいお前の身体に使わせてもらうよ」
 名執は宮原から逃れようと必死に抵抗するのだが、何度も殴られ、とうとう泣き出してしまった。
「う……ああっ……いやぁ……やめて……」
 名執は部屋の隅に蹲って身を庇った。そんな名執の側に寄った宮原が言った。
「俺だってこんなことしたくないけどお前が素直にならないから殴るんだ。分かるか?」
 涙で潤んだ名執の瞳すら、宮原の欲望に火を付ける役目にしかならない。
「いい顔してるじゃないか……雪久……」
 宮原は名執の顎を掴むと自分の方に向けてそう言った。
「言うことをちゃんと聞けば殴ったりしない。言葉を理解出来るな?」
 名執は宮原の言葉に震えながら頷いた。
 物置に重ねて置いてある防火用のマットの上に名執を倒すと宮原は服を脱ぐように命じた。だが名執は命令に従うように見せかけて、近くにあったを箒を掴み、宮原に殴り掛かった。しかし簡単に取り押さえられてしまった。
「この!いいかげんに人の言う事を素直に聞けって言うんだよっ!」
 宮原は名執の掴んでいた箒を自分が奪うと、名執の身体に思いっきり打ち付けた。
「ひっ!」
 箒を床に投げ、次に名執の胸倉を掴み、その頬に平手を飛ばした。すると名執の口の中が切れ、その端から血が流れた。
「あああっ……いや……」
 ポロポロと零れる涙と血がシャツに落ち、染みを作る。
「逆らうな……」
 宮原はそう言うと手荒に名執のシャツを剥ぎ取り、ズボンを脱がした。
 名執はそんな宮原の思うがままになっていた。
 衣服を奇麗に脱がされ、俯けに身体をマットに押し付けられると、昨日の夜身体の奥から感じた痛みが下半身を走り、名執は薬を使われたことに気が付いた。それでも、名執にはもう逃げる術は見つけられなかった。
 背を這う宮原の唇が音を立てながら吸い付き、名執のモノを宮原の手が掴むと、身体に電流が走ったような感覚が脳に伝えられた。
 じわりと身体が熱を帯び、血流の流れる音が耳の奥を走る。
「ああっ……こんな……いや……」
 嫌と言いながら名執は自分の腰を振り、宮原の侵入を心待ちにしていることが分かった。
「もっと振って俺に懇願しろ!入れてくれと頼め!」
 宮原の手は名執の滴に濡らされ、淫猥な音をそこから発していた。
「二度目は……許して……貰えない……ああ…そん…な」
 僅かに残った理性が、リーチを求めて泣いていた。
「俺が一生可愛がってやる。安心しろ」
 くくく、と低い笑いを漏らした宮原は名執の内股に舌を這わした。
「いや……いやぁ……」
 快楽に酔って泣いているのか、絶望して泣いているのか名執にはもう分からなかった。ただ麻痺した頭の中で、早く疼いている自分の小さな穴を熱い鉄で押し広げて欲しいと願っていた。
 執拗に内股を責められ、蕾を貪られた名執は甘い喘ぎを吐き出し、マットにポトポトと自分の蜜を滴り落としていた。
「ああ………ああ……」
「雪久……欲しいんだろ……俺のでかいモノが……」
「……う……ああ……」
「入れてやるよ、御希望どおりに……」
 薬でめちゃめちゃにされた身体はもう名執のものではなかった。



 その頃リーチは名執のいないマンションの部屋に一人電気も付けずに待っていた。
 病院の方には二時間ばかり前十一時には名執は出たと確認は取った。それなのにもう三時になるというのに、ここの主が帰ってくる気配はなかった。
 シンと静まり返った部屋は、据え付けの時計が時を刻む音だけが木霊していた。
「どうして帰って来ないんだ!」
 リーチは机を拳で叩くと、自分が益々惨めになってくるのが分かった。
「女々しい……な…。どうせ、新しい恋人の所にでも行ってるんだ……。俺との約束なんかどうでもいいと思える…新しい恋人の所へ……」 
 リーチは昼間名執から貰った電話が本当に嬉しかった。リーチだけ…と、言ってくれた名執の言葉を信じたいと思った。
「あいつは俺に情が移って完全に切りたく無いんだ……新しい恋人を愛して、俺の事は情が邪魔をして手放したくないと思ってる」
 真実はそこにあるのにそれでもリーチは名執をひたすら待ち続けた。
「ユキ……俺のユキ……」
 そして、うっすらと空が白み始めてリーチは悟った。
 名執にとってリーチはもう必要でない事を……
 不思議と涙は出なかった。
 いつかこんな事になるのでは無いかと、心の底で恐れていたからかも知れなかった。
 自信がなかった。
 雪久という恋人を繋ぎ止めるだけのものが自分には無かったからである。
 恐れは残酷にも現実になってしまっただけである。何も不思議な事では無かった。本当ならばもっと早くにこの関係は霧散していた筈であったからだ。
 何より自分がどうやって名執を手に入れたかを考えると妥当な答えであろう。
 帰ろう……修羅場にはしたくない。最後は物分かりのいい男でありたい。
 リーチは小さくそう呟くと自分がこの家に置いていたものを片付け出した。
 他の男の匂いを置いてたら名執が困るだろうから全部持って帰ろうと思ったのだ。それが最後に残ったリーチの名執への想いの証明であった。
 思い出の数々を片付け、下にタクシーを呼ぶとそれらを運び出した。
 ユキ……お前は俺の最高の夢だったんだ……
 本来ならば望むことも叶わない最高の恋人。
 何とかなるさ……
 俺には仕事がまだ残ってる……
 全てをタクシーに積み込んだリーチはゆっくりシートにもたれた。タクシーの運転手がリーチに夜逃げでもするんですかと笑いながら聞いて来たが、何も言わずに警察手帳を見せて黙らせた。
 明るい朝の中を、どんより曇った雲を心に住まわせたリーチは家路についた。



 名執の意識が戻ったのは既に夜が明け、まぶしい光が差し込む時間であった。
 帰らなければ……!リーチが待っている筈!
 衣服を急いで整えると、人気が無いのを確認して車に飛び乗り自宅へと戻った。
 リーチお願い!待っていて……もう少しだけ…… 名執はそう祈るように車を走らせマンションにつくと既にリーチは帰った後であった。
「当たり前ですよね……自分から呼び出しておいて、私が帰って来ないなんて怒るのも仕方ない事……」
 ヨロヨロの身体を何とか動かして、乾いた喉を潤おそうとキッチンに向かった。そしてコップを取りだそうと食器棚に手をかけ、ふと名執は妙だと感じた。
 コップの配置がいつもと違う……
 よくよく見るとリーチのカップが消えていた。
 名執はあわててリーチが自分の服など置いてあるクローゼットルームに走って行った。するとリーチのスーツや私服がきれいさっぱり無くなっていた。ハンガーのない、そのむき出しのポールだけが白々と名執を見つめている。
「う……そ……」
 名執は狂った様に部屋中駆けずり回ってリーチの置いていたものを見つけようとしたが、その痕跡すら一切消えていた。 
 名執は信じられ無かった。
 昨夜のうちに持ち出したのだろう。
「そんな……」
 写真の一枚も残されていない部屋に名執は膝を付き呆然としていた。
 リーチ……どういうこと……
 もうここには来られないと言うことなのだろうか?
 私の事をそんなに嫌いになったの?
 でもあれは違うのに……リーチ違うの……
 名執は自失茫然と床に座り込んでしまった。
「こんなの嫌……。リーチ……違うんです……」
 名執は誰もいない部屋でそう言った。
「私を捨てないで……一人に……一人にしないで……お願い……お願いですから……」
 その日名執はそこから一歩も動けずに、聞こえない相手に向かってむせび泣いた。 
 まるでそうすることでリーチに聞こえるのでは無いかと無駄な希望を抱いて……。



「変なんだリーチと雪久さん」
 自分の番になってやっと幾浦の腕枕に身を任せたトシが言った。
「何が?」
 不安気なトシに幾浦は聞いた。
「なんだか……ひどい状況になってるみたい。リーチは何も言わないけど別れたかも知れない……」
「あいつらに限ってそれは無いだろう」
 まさかという顔で幾浦が言った。
「本当に変なんだ。一々雪久さんとの電話に出るにも僕をスリープさせて会話を聞かせないし……。雪久さんの家で昨日、何があったのか知らないけど自分の服とか全部持って帰って来ちゃうし……お陰で今僕らの部屋は人が住めないほど荷物で一杯なんだ……」
「それで今週お前の番だというのに何度も私が振られたのか……」
 不機嫌そうに幾浦は言った。
「ごめんね恭眞……」
 トシは幾浦に擦り寄りながらそう言った。
「いや……お前が謝ることじゃ無いだろう……。しかしだ、簡単に別れるような柔な付き合いはしていなかったろ」
 信じられないという風に幾浦は言った。
「うん。僕らみたいに揉めたこと無いし、信頼しあってるし、羨ましいほど仲がいいんだもん。だから気になるんだ……」
「なんだか、その言い方は気にいらんな」
 幾浦はトシを引き寄せると唇を重ねた。
 互いの想いを暫く確認しあい、幾浦は唇を離した。
「私が一度名執に会って話をしてみようか?」
「えっ。お願いしていいの?」
「そのつもりで私に相談したのだろう?」
 クスッと笑って幾浦は言った。確かにトシはそのつもりでリーチのことを話したのだ。
「ばれた?」
「お前の考えていることは大抵のことは分かる。単純だからな」
「それって嬉しくないなぁ。でも僕に聞かれるより雪久さん恭眞の方が言い易いかも知れないと思ってさ……やっぱりリーチが後ろに控えてるし……聞いてるかもしれないと思われると嫌だし……。幾浦さんお願いします」
「その代わり、旅行の計画はこちらが優先だぞ」
 有無を言わせないような言い方を幾浦がしたので、トシは苦笑した。
「分かった……。丸く収まったらリーチを説得するね」
「約束だ……トシ……」 
 幾浦はそう言って優しくトシの身体に触れ始めた。
「うん……恭眞……約束する」
 トシはそう言って幾浦の首に腕を回し、優しい恋人の抱擁に包まれた。
 リーチ……僕達が力になるから早く元気になってね。
 そう思いながら、トシは幾浦からもたらされる快楽に身を委ねた。



 翌日、幾浦は午前中に病院の方に確認を取った。そこで名執が休みなのを聞くと自分も午後から半休を取り、彼のマンションへと向かった。
 ピンポーン
 幾浦が名執の家のベルを鳴らしたが人の気配は感じられなかった。
「なんだ、留守か?」
 何度かベルを鳴らしたが一向に扉の開く様子が無かったので幾浦は帰ろうとした。そのとき扉の錠の外される音が聞こえた。
 振り返ると、僅かに開けられた扉から名執が覗いていた。
「おい、居るのならさっさと開けろ」
 幾浦は扉を持って開けようとしたが、中でチェーンもかけられていたのか途中までしか開かなかった。
「済みません……今、外します」
 随分用心して居るんだな……
 幾浦はそう思ったが、開け放たれた扉の向こうに立つ名執を認めると驚きで言葉がすぐに出なかった。
 名執は休んでいたのか服装はパジャマ姿であった。いやそれで驚いたのではない。
「名執……その顔はどうした?まさか、奴が殴ったのか?」
「まさか……違います。リーチは今まで私を殴ったことはありませんよ。昨日暴れる患者に不覚にも殴られてしまって……」
 名執はそう言ったが、幾浦には信じられなかった。
 かなりひどく殴られたらしく両頬が青く痣になっており、口の端がその所為で切れたのか赤く滲んだように腫れていた。その上、目の下は隈が出来て、ひどく憔悴しているように幾浦に思えた。
「何か……御用ですか?」
 精気のない声で名執は幾浦に言った。
「上がらせてもらう。いいか?」
「ええ、構いませんが……」
 そう言って名執は幾浦を部屋に案内しようとしたが、足元がふらつき前に倒れそうになった。それを幾浦が抱きとめた。
「う……」
 しかし名執は幾浦に掴まれた脇腹を押さえ膝を付いた。
「なんだ、どうした……名執、おまえ腹も殴られてるのか?」
「な、何でもありません……」
 そんな名執の青ざめた表情が痛ましかった。
「名執、お前は休んでいた方がいい」
 そう言って幾浦は名執を抱え上げると、寝室の場所を聞き、ベットに横たえさせた。そして毛布を名執に掛けると幾浦は言った。
「名執、食事はちゃんと摂っているのか?随分軽かったぞ」
「余り食欲が無くて……」
 幾浦は妙に痩せた名執を見て不審の目を向けた。
「何があった?」
 幾浦は名執に聞いた。
「…………」
「トシがお前達の様子が変だとひどく心配している。昨日もリーチに会ったのだろう?あいつはこんなお前をどう思っているんだ?」
「リーチには……会ってないのです」
 そう言った名執の表情は泣きそうであった。
「ここ二日ばかりトシはリーチに譲ったようだが、それなのに会っていないのか?」
「済みません……ご迷惑をかけて」
 そう言って名執はこちらの視線を避けた。一体何があったのだろう?幾浦には想像も付かなかった。
「そんなことはいい。私達に何か出来ることはあるか?大抵のことは聞いてやれるぞ」
 幾浦は優しい口調でそう名執に言った。
「幾浦さん……」
「あいつの根性を叩き直して欲しいというならいつでも私がシメてやるぞ」
 そう幾浦が言うと、初めて名執が微笑んだ。
「……で、本当のところ何がどうなっているんだ?話せない事か?」
 名執は小さく頷いた。
「では、何かして欲しい事はないのか?」
 名執はじっと考え込むように目を瞑り、暫くすると幾浦に言った。
「リーチに……会いたい……」
 そう言った名執の閉じた瞳から涙が零れた。
「分かった。引きずっても連れて来てやろう。それだけで良いのか?」
 名執はもう一度頷いた。
 その後、幾浦は簡単な食事を名執に作り、時間をかけて食べさせるとマンションを後にした。だが、マンションを出るとすぐに名執が扉に鍵とチェーンを掛ける音が後ろからしたのだ。それは何かに酷く脅えているからだろう。
 その上、あの名執の打ち身の痕は誰かに暴力を奮われたように見える……それは分かるが何がどうなっているのか幾浦には全く想像も出来なかった。
 幾浦は車のハンドルに手をかけ考え込んでいたが、暫くするとトシの携帯に電話をかけた。
「隠岐です」
「ああ、私だ。トシ、少しで良いから何処かで会えないか?」
「分かりました。情報が頂けるのですね。すぐにお会いしましょう」
 誰か他の刑事が側にいるのか、トシはそう言って幾浦に場所の指定を求めた。
「じゃ、いつもの公園に車を止めておく」
「すぐに参ります」
 そう言ってトシは携帯を切った。
 二人が利一という人格を普段演じているのは知っているが、幾浦はその口調がいつも他人行儀に思えて好きでは無かった。
 それに、名執は瞳の色でどちらが今、主導権を握っているのか分かるらしいのだが、幾浦には利一であるときの二人は区別が付かない。それが悔しいと常々幾浦は思っていた。
 何よりリーチとは色々あって、お互い毛嫌いしていた。そんな二人であったので話をしたことがあまり無く、どちらがどうなのか判断のつけようがなかった。
 それでも幾浦はいつか自分も彼らを見分けられるようになろうと決心していた。
 そうして車に乗り、約束した公園に着くと幾浦は一服しながらトシを待った。
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