Angel Sugar

「監禁愛2」 後日談 第1章

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 名執の件で、リーチが無断で捜査一課の仕事を二日休んだことで田原管理官と里中係長両名より、きついお叱りを受けた。(なにより携帯を切っていたのが、また更に処分を受けるはめになった)友人が事故に遭って病院に詰めていたと言い、リーチ達はやっと許してもらった。が、減棒と始末書の嵐からは逃れることは出来なかった。
 名執の方は、川崎が警察病院院長の巣鴨の教え子であったこともあって、上手く取り計らってもらい、事故で怪我をしたということに収まり、入院日を入れ一カ月の休暇を貰うことが出来た。
 名執は入院している間に今のマンションを売り払い、新しくセキュリティの万全のマンションを購入した。引っ越しなどは運送会社に全てまかせ、退院すると同時に新しいマンションへと移った。
 リーチ達はそれから馬車馬のごとく働かされ、休暇が取れたのは名執が退院して一週間後であった。



「こんな夜からどちらに行くのですか?」
 名執は車の助手席のシートにもたれながらリーチに聞いた。
「んーっ……世話になった人ん家……」
 なんとなく歯切れが悪いリーチが妙だった。
 明日は二人で合わせた休暇だったが、リーチが夜に行きたい所があると言い出して、名執の車を出したのであった。
 勿論、運転はリーチがしている。
「お前とやっと会えたのに、ゆっくり出来なくて悪いと思ってる。だけどうるせーんだよ、あいつら……。お前を連れて行かないと、ちゃらにしないぞとか言うし……」
 リーチは名執が退院してから仕事が忙しいのと、トシに借りを返す為にプライべートの権利を渡していたので、二人で夜を過ごしてはいなかった。だから名執の新しいマンションにもリーチはまだ来たことが無かった。
「どなたのお宅ですか?」
「あんまり……知らない方がいいんだけどな……」
 リーチは、言葉を濁して何故かはっきり言わない。
 そうして着いたのは、日本風の豪邸であった。
 高い塀と、立派な門が来る者を威圧する。
「すごいお屋敷ですね……」
「住んでる奴は極道だがな……」
 名執はリーチのその台詞が冗談だと思って笑っていると、黒い背広と黒いサングラスをかけた人々に囲まれてその台詞が嘘で無いことを知った。
「リーチ……」
 不安になった名執はそう言って、リーチの方を見ると、別段驚いた風もなく振り返って言った。
「トシは知らないからな……黙ってろよ」
「ええ、でも……」
 リーチがさっさと車を降りるので、名執も車から降りてリーチの後ろの付く。リーチは相変わらず普通に門をくぐろうとすると、黒い集団に一礼された。
「……あの……リーチ?」
「あんまあいつら気にすんなよ。別に襲ってこねえよ」
 リーチは言って笑うのだが、こちらは笑う余裕など無い。ちらりと表札を確認すると岩倉という名の家であった。
 岩倉……何処かで聞いたことが……あ!
 極道と聞いて、岩倉と言えば、関東で有名な暴力団の大元であることはたいていの人間は知っていた。
 どうしてリーチがこの人達と知り合いなのでしょう……
 名執は驚き、思わず歩が止まった。
「なんだよ、家がでっかいからびっくりしたのか?」
「そ、そうではなくて……」
 名執が続きを言おうとすると、誰かがリーチを呼ぶ声が聞こえた。
「隠岐さん!」
 嬉しそうに駆けてきた男性は名執の知らない顔だった。だがリーチの方は良く知った相手のようだった。
「済まなないな芳一……遅くなってしまって……」
「いえ、おじいさまも父も既に宴会を始めております。さ、入って下さい……」
 芳一がそう言いながら、名執の方に視線を向けてきた。だがこちらを見つめる芳一はじっと瞳の奥を覗き込むように見る。そんな視線から逃れるようにリーチの後ろに名執は移動した。
「ユキのことジロジロ見るな」
 そんな名執に気が付いたのか、リーチは芳一にそう言った。
「あ、済みません。どんな方かとても興味がありましたので……つい……」
 芳一はそう言って、照れた笑いを浮かべたが、その瞳は鋭かった。
 ほかの人間が黒い背広を着る中で一人地味な紺のスーツを着ていた芳一は、前髪をやや伸ばして前で分けており、すらっと高い身長と整った顔立ちが一見、モデルのように見える。それでも瞳の輝きは鋭いものをもっており、物腰は柔らかいが隙は無かった。
 屋敷の中に案内されると、奥から人のざわめきが聞こえてきた。
「おおお、利一来たか!」
 ベロベロに酔った組頭の元一が足取り危うく来ると、リーチの肩を掴み畳間の部屋へと引きずり込んだ。その部屋は十畳ほどであったが、人間は五人ほどしかいなかった。かなり身内だけの集まりなのだろう。
 部屋に置かれた机にはこれでもかというほどご馳走が並べられ、造りの伊勢エビや鯛はまが動いていた。
「おっさん!おっさん!離せって!」
 言いながらもリーチは嬉しそうだった。
「隠岐、待っとったぞ!」
 元造は上座に座り、リーチを認めると、そう言った。その場所へ元一はリーチを引っ張っていき、リーチは二人の間に座らされた。
「じいさん!あんた飲んじゃだめなんだろ!何考えてんだよ!」
「昔はよく三人で歌舞伎町や銀座をブイブイいわしただろう。今更何を言ってるんだ!こんなことでわしは死なん!」
「ブイブイはいいが、何年前の話をしてるんだっ!年を考えろ、年を!」
 名執は余りの驚きで廊下から中へ入るのも忘れ、そのリーチの行動に茫然と見入っていた。こんな風にリーチが誰かに自分自身を見せることは今まで無かったからだ。
「さ、貴方も中へどうぞ」
「は、はい……」
 だが、名執は芳一の声に気を取り直して、促されるまま、部屋の端に座った。
「芳一!じいさんの酒を取り上げろ!でないとぽっくり逝くぞ」
 リーチがそう叫ぶと、芳一はリーチのところへ走って行き小声で何かを耳打ちした。こちらからは何をリーチに芳一に言っているのかまるで聞こえない。
「何だ……しらふか……驚かせやがって……そうだ、ユキはお前に頼んどく。病み上がりだから飲ませるなよ。お前のじいさんとおっさんは俺が引き受けるからな……」
「はい。分かっております。心配しないで下さい」
 芳一はそう言って笑う。
 その二人を部屋の端から見た名執は、なんとなくチクリと胸が痛んだ。
 どうみても昨日今日の付き合いではない。何より、あのリーチが普段名執に見せるリーチ自身を彼らにも見せているのだ。一体どういう関係なのだろう?
 名執はリーチが暴力団の元締めと知り合いというより、リーチが自分自身を見せていることに驚いた。
「おい利一!あのべっぴんがお前のイロか!売ればいい値がつくぞ!」
 元一がそう言ってこちらを見ていた。名執は思わず顔を下に向けて視線を逸らせた。なにより名執は、こういう会が苦手なのだ。
「おっさん!殺されたいか?」
 ちょっと酒で酔ったような表情のリーチがそう言って元一の胸元を掴んだ。
「冗談の通じん奴だな……それにしても利一が刑事になって、昔やった美女十人切りが出来なくてわしは寂しい……」
 酒を吹き出したリーチおろおろと言った。
「だだだっ……誰がそんなことしたんだよ!」
「ん、何だ忘れたと言いうのか?」
 酔っ払った元一が睨みながらリーチにそう言った。
「ばっ、馬鹿野郎!俺はしてないぞ!」
 こちらをチラチラ見ながらリーチはそう言ったが、名執にはしっかり聞こえていた。
 美女……十人切り……
 多分昔のことであろうが、名執はそんなことをようやく会えた休みに聞きたくは無かった。それも本人からではなく他人からだ。
「名前は何とおっしゃのです?」
 いきなり声をかけられて名執は俯き加減の顔を上げると、リーチが爺さんと呼んでいた元造が目の前にいた。
「名執……雪久と申します」
「隠岐とは長いのですかな?」
「半年ほどになります……」
 出会ったのはもう少し前であったが、付き合い出してからはそのくらいであった。
「あれは養子にまで欲しいと思った男じゃ。いい男だろう?」
「ええ」
 名執はそう言って微笑んだ。
「あれが学生の時養子に来いと言ったんだが、蹴られて何故か刑事になりおった。だがまだわしはあきらめとらんのだよ。あの男はうちの組に本当に欲しい」
 元造はそう言って、何故か遠くの方を見るような目をした。
「あの……隠岐さんとはどのようなお付き合いで……」
「なに、昔、命を助けられてな……そのときのあれはもっと凶暴じゃったよ」
 そう言って元造は声を上げて笑った。
「凶暴……ですか……」
 確かに、リーチは荒っぽいところがあるが凶暴とまではいかないだろうと名執は思ったが、昔のリーチを知らないのだ。
「今は押さえとるようだが、この間の件で全くそれが変わっとらんことを知ってわしは嬉しかった」
「おじいさま……それ以上は……」
 暫く二人の会話を横で聞いていた芳一がそこで元造を止めた。
「すまん、すまん、ついな。ああ、名執さん。またあれを連れて遊びに来て下され……わしもいつ、ぽっくり逝くかわからんでな……」
 そう言って、名執の側を離れて元一とリーチの所へ戻って行った。
「済みません。隠岐さんが来られてよほど嬉しかったのでしょう……祖父がくだらないお話しをしまして申し訳ありません」
「いえ……」
 この人はリーチが好きなんですね……
 名執は芳一がリーチを見る目付きを見てそう思った。芳一の目はここに来てから、例え名執と会話をしていようが、視線の先は何時もリーチを捉えているからだ。
 なんだか酷く疎外感を感じた名執は、食欲も無いのに無言で造りをつついていた。
「名執さんが羨ましい……」
「は?」
 突然芳一にそう言われた名執は驚いた。
「隠岐さんを……あんな風にさせることが出来るから……」
 あんな風とはどんな風なのだろう?
「どんな風ですか……?」
「いえ、貴方は隠岐さんを独り占めしているんです。あのことくらい私と隠岐さんの秘密にしておいても罰は当たらないでしょう……」
 そう言って芳一はクスリと笑った。
 嫌な言い方……そう思いながらも名執は芳一に笑顔を向けた。
「うちの祖父と父は私が海外に留学しているときに隠岐さんと出会ったそうです。もし、私が留学していなかったら……」
「してなかったら……?」
 今ここに座っているのは自分だったとでもいいたいのだろうか?
 名執は芳一が何を言おうとしたのかが分かったが、そう問いかけてみた。
「いいえ、何でもありません……」
 言って芳一は視線を、酔って暴れているリーチの方に向ける。
 そしてまた少しすると、芳一が話し出した。
「この世で祖父をじいさん、父をおっさん呼ばわり出来るのは隠岐さんだけですよ……」
 そう言う芳一の視線はリーチに注がれたままであった。
 名執は何となく分かり始めた。
 宮原を始末する為、リーチはこの人達の手を借りたのだ。今、こうやって笑って酒を酌み交わしているが、彼らは社会の闇に住む住人であることを名執はようやく気が付いた。
「貴方は奇麗な瞳を持ってらっしゃる。多分隠岐さんはそれに魅かれたのでしょうね……くやしいが、そんな瞳を私は持ってはいない……」
 本当に残念そうに芳一は言った。
「彼も……そう言ってくれます」
 名執は必死にそう言った。
 例え芳一がどれほどリーチを想っていようと、今側にいるのは自分なのだ。
「そうでしょう……ね……」
 芳一はそう言って悲しげに笑った。だが、妙に自信が感じられるのは何故だろうか?名執にはその辺りが分からなかった。
「もし……貴方達が別れるようなことになれば知らせてくれますか?」
 その言葉に名執は驚いたが、すぐに返事をした。
「そんな事にはならないと思いますよ」
 出来るだけ笑みを見せて名執は言ったが、その顔が少し強張っていたのは隠せなかった。
「ふふっ、冗談ですよ……」
 そう言って芳一は笑ったが、名執にはその顔が不敵な笑いに見えた。
 なんだか……嫌なかんじ……
 それ以降、名執は口を閉じたまま、ただ料理をつついていた。問題のリーチは最後まで隣に座ってくれなかった。



 宴会がお開きになる頃、時間は二時を過ぎていた。
 リーチが辞退したのだが、強引に引き留められ結局泊まるはめになったのだ。名執自身は帰りたかったのだが、リーチの前でそれも、リーチが友人だと思っている人達の前で嫌な顔は出来なかった。
 そうして、二人が芳一に案内されたのは、月明かりに浮かぶ日本調の庭に囲まれた離れであった。
「いい人達だろ……」
 布団にゴロンと横になったリーチが言った。
「そうですね……」
 そうだとは言い切れなかったが、リーチにとってリーチだけの友人である人達を悪し様に言うことは出来なかった。
「でも、俺の仕事でバッティングするようなことがあったら容赦しない。それがお互いの決まりだからな……」
 言いながらリーチはゴロゴロと布団を転がっていた。
「そうですか……」
 もう、何と答えて良いか名執には分からずにただそう言った。
「なあ……」
 リーチがそんな名執に気が付いたように声をかけてきた。が、問われたところで今の気持ちをリーチに上手く説明できない。名執は誤魔化すように月明かりに浮かぶ庭を見ながら言った。
「庭が奇麗ですよ」
「そうだな……」
 その名執にリーチは後ろから腕を廻した。
「って、違うだろ。なんかさっきから、機嫌悪いぞお前……」
 やはり気が付かれていたのだ。
「別に……そんなことは……」
 確かに悪かった。悪いのだが、芳一さんが嫌なんです。だからここに泊まるのも嫌なんです。とは口が裂けても言えない。
「じゃ、傷が痛むの?」
「少し……だけ……」
 別に痛くは無かったが名執はそんな気持ちをごまかすためにそう返事をした。
「この辺?」
 そう言ってリーチは浴衣の間から手を滑り込ませると名執の肌を触り始めた。
「やっ……駄目!人の家に今、お邪魔しているんですよ。駄目です!」
 名執は手でリーチの腕を払おうとするが、後ろからしっかり抱きとめられており、無駄であった。 
 そうして逃げようとしている間にリーチの唇は名執の項に触れ、差し出された舌はゆっくりと肩を這う。
「あ……っ……!」
 思わず辺りに響く自分の声に名執は口を押さえ、漏れる声を押し殺した。
「誰にも聞こえないよ……ここは屋敷から離れてる……」
 名執の浴衣を肩まで下ろさせたリーチは背中を滑るように舌で愛撫を施す。
「駄目……駄目だったら駄目です!」
 身体がリーチを求めようとしだす前に止めさせようと名執は必死であった。人の家に来て何故こんな事ができるのか、その方が名執には信じられなかった。
「俺達がこういう関係だってあいつらだって分かってるよ……」
 リーチの手は名執の肌を執拗に、だが優しく撫で上げる。
「や……いやです……っ……」
「久しぶりなんだぞ……やらせろよ……」
「馬鹿!」
 名執はそう言って思いっきり後ろに張り付いてるリーチを肘で突いた。そんな反撃に出ると思わなかったリーチは後ろに転んで頭を打った。
「ご、ごめんなさい!」
 むーっと怒った顔で頭を撫でながらリーチは言った。
「いいよ、別に……やりたくないんだろ!いいよじゃあ」
 リーチはすっくと立ち上がると、自分の浴衣を整えて、離れを出ようとした。
「リーチ!」
「俺、身体暖ったまちゃったから外に出て冷やしてくる!」
「リーチ……」
 本気で怒ったリーチに名執はなんと言っていいのか分からなかった。
「眠れないから……冷やしてくる……ついでに頭もな……」
 そう言ってさっさと出ていった。
 名執はその場に座り込んでただリーチが出て行くのを見つめていた。
 自分だって抱き合いたいと思っていた癖に……フッとそう考えて名執は落ち込んだ。



「ちぇっ……何だよ……やっと取れた休みなのに……冷たいんだから……」
 リーチは石畳を歩きながらぶつぶつとそう言った。確かに人の家で世話になっているときは控えた方がいいのだろうが、リーチはもう我慢の限界だったのだ。
 一体何時から肌を合わせていないと思ってるんだよ……と、逆に腹も立つ。そう思った自分に溜息をついて夜空を仰いだ。
 星が今にも落ちて来そうなほど空に輝いていた。
「すげーなっ……」
 先ほどうじうじ考えていたことも忘れてリーチは思わず感嘆のため息をつく。
 そこに人の気配がした。
「何だ、お前も眠れないのか……」
 いきなり声をかけられた芳一は驚いた顔で振り返った。
「隠岐さん……びっくりさせないで下さいよ……人の気配はしなかった筈なのに……」
「俺が気配を消す天才だって忘れたな……お前……」
 そう言ってリーチは笑った。
「そうでした……」
 芳一はそう言って苦笑した。
「で、お前何やってんの?」
「私は眠れなくて、ちょっと散歩していたんですよ。隠岐さんこそ……こんな所でなにをしていらっしゃるんですか……」
 それは暗に、恋人を置いてと言っているのだろう。
「んーなんか今晩は嫌みたいでさ……」
 リーチがそう言うと、芳一は困ったような笑みをこちらに返した。
「そいや、じいさん大丈夫か?何かよろよろしてたぞ」
「ええ、やっと自分で歩けるようになったのですが、この間若い衆と踊りに行ったんですよ。それで無茶してギックリ腰になりまして……」
「馬鹿なじじいだな……年を考えろと言っておけ!」
 昔から馬鹿なじじいだと思っていたが、今も馬鹿だった。
「私からはとても……父ですらそんなこと言えませんよ。ですから隠岐さんから言ってやって下さい。隠岐さんの言うことでしたら祖父も聞くと思います」
「明日言ってやるよ。全くいつまでも若いと勘違いしてやがるからな……」
「勘違いではなくて、若いつもりなんですよ」
 だから困るんです……と言ったところでお互い笑い出した。

 そんな二人を遠くの方から見た名執は思わず引き返していた。
 リーチがあまりにも帰って来ないので心配になって捜しに来たのである。
 しかし名執が見つけたリーチは芳一と楽しそうに話していた。余り近寄るとリーチはこちらの事に気が付くため、かなり離れた位置から二人を確認した。
 そうであるから何を話してあれ程楽しそうにしているのか名執には分からなかった。
 別に逃げなくてもいいのに……
 そう思いながら複雑であった。
 リーチのことを何でも知っているつもりだった名執は、本当は何も知らなかった事が悔しかった。
 芳一があれほど敵意むき出しで無ければこんな気持ちにならなかったと名執は思った。
 リーチが自分を愛してくれているということは分かっている。  
 充分、分かってはいるのだが名執は不安なのだ。
 自分にどのくらいの価値がリーチにあるのか分からないのだ。
 ただでさえ、物事を悪い方に考えてしまう名執は、不安が一旦頭をもたげると、それは心の中で膨らみ、収拾がつかなくなって来るのだ。
 名執は老人が言った事も心に引っ掛かっていた。
 リーチを養子に欲しいと言っていた。
 一体、どういうつもりでそれを言ったのか図りかねていた。
 名執は離れに戻ってくると、広い布団に潜り込み、小さく丸まった。何故か涙が零れて来る。
 もし……リーチが帰って来なかったらどうしよう……
 芳一と何かあるとは思えなかったが名執は不安だった。
 たとえ帰って来なかったとしても、お酒を飲み交わして夜を過ごすだけに決まってるじゃ無いですか!
 名執はそう考えながらも時間が経つとそれに比例して涙が零れ出した。
 リーチ……
 早く帰って来てよ……
 しかし、その気配は一向に無かった。
 そのリーチは芳一と後からやって来た元一と三人で月見酒をしていたのだ。

「利一……養子になるつもりないのか……?」
 元一が言った。
「悪いな。俺はこれでもかたぎの人間だぜ。それに、何より一人でそんなこと決められないからな……」 
 リーチはトシのことを言っているのだがそんなこと知らない二人は名執のことを差していると思ったようだ。まあどっちでも良いだろう。
「あの人が……お前の大切な人か……」
 元一がリーチに聞いた。
「ああ、俺の命より大切な人だ……」
 夢見るような瞳でリーチはそう答えた。そう名執はリーチにとってまさに奇跡のような存在なのだ。
「本当の俺を知って……愛してくれる……」
 そう言った横で元一と芳一は目を合わせて驚いていた。
「あ、いや。俺そんなたいした人間じゃないけどな」
 慌ててリーチはそうフォローした。
「利一にこんな台詞を言わせるとは……な。余程良い具合なんだろう」
 元一はそう言ってニヤニヤ笑った。
「……たくなあ、あんたらすぐそれだからな」
 呆れた風にリーチは言ったが、本気で元一がそんな風に言った訳ではないことをリーチには分かっていた。
「いい方に出会ったのですね……」
 芳一はそう言って酒をついだ。
「ああ、人間、生てりゃ良いことがあるってことだ……」
 今まで何故こんな自分のような人間がこの世にいて、生きてるんだろうと思ったこともリーチにはあった。だがこの瞬間の為に生きて来たのだと最近はそう思う。そんな風に思えるような相手に出会えて本当にリーチは人生に感謝しているのだ。
 つがれた酒をクイッと飲み干してリーチは立ち上がった。
「今日は楽しかった。そうだ頼むからさ、俺の仕事に絡まないでくれよ……」
「わしも父親もそう思ってかかわりあいそうになると逃げるようにしていることをお前は知らんのか……全く……」
 確かに時折、ちらつくことは今までにもあった。だが逃げてるとは参った……。
「こっちも頼むからマル暴課には移動するなよ。いくら何でも商売をやめることはできん」
「それは人事に言ってくれ」
 リーチはそう言って名執の元に帰るためにきびすを返した。
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