「終夜だって愛のうち」 第1章
何故だろう……
肝心なところで祐馬は寝る。
その上、こっちは膝を壊す。
そんなところに如月に乱入され……
次は従姉妹が邪魔をしに来た。
気が付くと、妙な男にストーカーされて……
楽しいはずの初の旅行は動物に邪魔され……
(*ノベル1短編 「悪魔の住む家」参照)
二度目の旅行は妙なカップルに邪魔され……
(*ノベル1短編 「隣の事情2」及び「隣の事情3」参照)
それから現在まで、ただの同居人状態だ。
一体どうなってる?
私は何時祐馬と抱き合えるんだ?
次は何だ?
もうこれ以上は出てこないだろう?
それともまだ何かあるというのか?
いい加減、何とかならないのか?
何処まで……一体何処まで私達は清く交際を続けなければならないんだ?
こんな事でどうして私は毎度、悩まなければならないんだ?
これは私が悩まなければならないことか?
普通の恋人達も、こんなレベルの低いことで悩むのか?
それともみんな清いのか?
手を繋いでキスをするだけで、もう幸せ一杯、夢一杯で終わりか?
そんな訳無いだろうっ!
と、戸浪は一人でつっこみを入れながら、イライラと夕食の後かたづけをしていた。夕食を作るのは祐馬の担当でその後かたづけを戸浪がすることになっているからだ。
いつになく皿を洗う手が荒っぽいのは戸浪自身にも分かっていたが、このイライラをどこにも持っていきようがないのだ。
「これで終わりだっ」
そう言って全部洗い終わると、戸浪は手をタオルで拭き、はーーーっと深いため息を付いた。
もう、本当に何処でもいいっ!
キッチンでも、リビングでも、風呂場でも、廊下でも、人の目のないところなら、何処だって私はいいんだっ!
持っていたタオルをダンッと机に置くと、悩みの原因である問題児の居るリビングへと戸浪は向かった。祐馬は、食後リビングでテレビを見るのが習慣なのだ。
「あ、戸浪ちゃん終わったの?ね、これすっげー面白いよ。一緒に見よ」
ソファーにだらしなく座り、目の端には涙を浮かべて祐馬はそう言った。テレビの画面は漫才をやっている。それを見て祐馬は笑っているのだ。
楽しいか?
もっと二人で楽しめることがこの世にはあるんじゃないのか?
「……げえ~また男の生理?」
こちらがムッとしている顔を見て祐馬はデリカシーのかけらも無い口調でそう言った。そのぼんくら頭を戸浪は殴った。
「そう言う言い方はやめろっ!」
戸浪の機嫌が傾くと、祐馬はすぐそう言うのだ。それも戸浪にするとむかつく台詞であった。
「だってさあ……戸浪ちゃんが機嫌悪い時って、そゆのに似てるんだもんな……」
殴られた頭をさすりながら祐馬は言った。
「似てないっ!」
「あそ、そう思ってたらいいよ~俺はテレビ見るっ!」
くるんとテレビの方に身体を戻して祐馬は言った。戸浪はそんな祐馬の視線の先にあるテレビのスイッチを切った。
「なにすんだよっ」
「話がある」
戸浪はそう言って祐馬の座るソファーの前に立った。
「なに?長くなるの?」
こちらを見ずに祐馬はそう言って、プイと顔を横に向けた。
テレビを消したくらいでお前は腹が立つのか?
どれだけお前はガキなんだっ!
「ああ……」
もう頭に来ているのだ。一言いわないとこちらの気が済まない。
確かにこの間の二度目の旅行も散々だったのだが、あれからもう一週間も経っているのだ。その間も何も無しとはどう言うことなんだ?
お前はその間キスだってしてこなかったんだからなっ!
一体どういうつもりなんだっ!
だがストレートにこう言うことを言えないのが戸浪なのだ。
「……そんじゃあ来週にしてよ。俺さあ、明日から大阪出張なんだ。だから今日は早く寝たいんだけど……」
遠回しに、お前は私と話す気はないと言いたいんだな。
その上、やる気もないと言いたいんだな。
なんだ、こっちの言いたいことが分かっているんじゃないか……
「ほう……どの位行くんだ?」
「一週間かな……今持ってる物件の建設予定地廻ったりするから……大阪支店の営業と合同だよ。そんで明日から急に行くことになったんだ」
予定を思い出すように祐馬は視線を彷徨わせてそう言った。
「……そうか……じゃあ帰ってきてからで良い」
祐馬に話す気も、やる気も無いのが分かった戸浪は、そう言うしかなかったのだ。
「んなぁ~寂しい?」
祐馬はこちらを見上げ、ニヤニヤと笑いながら言った。それが何故か心の中を見透かされたような気がして、身体の体温が上がりそうになった。
「別に……悪かったな。楽しんでいるところを邪魔して……」
戸浪はそう言って先程消したテレビのスイッチを入れた。
「あ、そ。んじゃ邪魔しないでね」
と、祐馬が言ったものだから、カチンと来た。だが、戸浪はもう何も言わずにリビングを出ると、バスルームに向かった。
何だあの態度は……
あ、そ。って何だ?
むかつくっ!
ぐうううっと怒りを堪えながら戸浪は湯船に浸かり、いつの間にか握りしめていた拳を解いた。
「はあ……こういうのが駄目なんだな……」
気を静めるように戸浪はそう言って、バスタブの縁に頭をもたれさせ、目を閉じる。ぬるめの湯は戸浪のイライラした気分を落ち着かせた。
子供なのは私の方だ……
この間の旅行も、結局最後まで祐馬を拒否したのは私の方だったしな……
もしかしたら祐馬はその事で怒っているのかもしれない……
かもしれないのではなくて、怒っているのだ。
散々煽られて、我慢しろと触れあえる距離にいる恋人から、そんな酷い事を言われた祐馬にとっては確かに拷問だっただろう。怒る理由には充分だ。
あ、だから帰ってきてからの一週間、何も言わないし、触れても来なかったのか?
怒っているんだ……祐馬は……。
今頃、気が付いた……
もしかして気付くのが遅かったのか?
そう思うと戸浪は不思議と腹が立っていた気持ちが落ち着いた。
ああ……そうだな……
あれは完全に私が悪かったんだ……
自分の苛立ちを祐馬に当たるのも間違っていたのだ。
それにしても……
明日から、一週間も祐馬は出張に行くんだな……
暫く独りぼっちか……
こんなに長く祐馬が出張に出るのは初めてであった。だが営業は出張が多いのは同業であるため分かっていた。現に同期の川田は営業であるが、月に何度かは出張に出ている。日帰りも多いために、出張で席を外しているのか、外回りなのか分からないときはあるが、営業はそれが仕事なのだから仕方ない。
戸浪は設計所属の為、滅多に出張など無いのだ。あるとすれば、定期的にある研修くらいのものだ。それも一日、二日で帰ってこれるものが多い。
これから増えるのだろう……
祐馬は今年一年生の新人であるが、来年は二年生だ。仕事も増え、帰るのも遅くなるだろう。もちろん出張も増えてくるはずだ。先のことになるだろうが、転勤だってある。それは戸浪も条件は同じだ。
その時……
どうなるのだろうか?
祐馬がとんでもなく遠いところに転勤になったとしたら……
私はどうするのだろう……
逆に、私が転勤になって遠いところに行くことになれば……
祐馬は……?
そこまで考えて戸浪は顔をバシャバシャと洗った。まだ何の話も出ていない状態で、色々悩むのも馬鹿らしいと思ったのだ。どうせいつかは来るのだ。今は今の問題を解決しなければならない。
明日は気分良く祐馬を送り出してやろう……
一週間仕事に拘束されるのだから、気持ちよく仕事が出来るように、笑顔で送り出してやるのだ。
そう決めると戸浪は随分気分が良くなった。
寝室に入ると戸浪は既に眠っていた。狸寝入りでもない、完全に熟睡している顔で眠っている。先程見せていた、あのムッとした顔ではなく、どちらかと言えばあどけない部分が残る寝顔だ。
しんじらんねえ……
祐馬は心の中でそうごちた。
旅行で散々お預けされた祐馬は、今回は本気で怒っていたのだ。あれだけ煽られながらお預けを食らわされた祐馬は、帰ってきてからも珍しく怒りモード継続中であったのだ。
戸浪ちゃんから誘ってくるまで絶対許さないっ!
と、いつまで続くか分からない決心を祐馬はしていたのだった。
この一週間、確かに触れることも控え、キスもせず、か~な~り、辛かったのは確かなのだが、そろそろ見え始めた戸浪の苛立ちが、何を意味しているのかも祐馬には充分分かっていた。
もう少しで誘いが来るぞ~
向こうから誘ってきたら、途中からお預けなどすることもないだろう……
なんてほくほくしながら戸浪からの、言葉を待っていたのだが、間の悪いことに出張が入ってしまった。それも一週間、祐馬はここを留守にする。
その事を戸浪に話し、もうこれで誘いがなかったら嘘だよな~
と、内心ドキドキしながら、戸浪の今晩の出方を期待していたのだが、こちらの気持ちなど全く無視したように、悩みの無い顔で戸浪は今、ぐっすりと眠っているのだ。
はあ……もう……
ぐったりと身体をベットに沈ませ、祐馬は溜息をついた。
俺は今晩こそ出来るって思ってたんだよ~
なのになんだよこれ……
しんじらんねえ……
堪え忍んだこの一週間は一体何だったんだ~
これって水の泡とか言うんだよな……
いや何とかの皮算用っていうだっけ?
はあああっと今度は大きな溜息をついて隣りに眠る戸浪の方を祐馬は向いた。
男性らしからぬ、きめの細かい肌、その肌は自分より白く、触れると何時もしっとりと手の平にくっついてくる。何より祐馬が気に入っているのは、染めているのではないかと思うほど色素の薄い茶色の髪だった。指で梳かすと、まるで金糸のごとく指からこぼれ落ちる。その感触が本当に気持ちいいのだ。
聞くと、母親が秋田小町に選ばれた程、美しい人だと言うのだから、その血を引いているのだろう。
秋田美人っていうもんなあ……
「……うん……」
こちらがじっと見ているのも知らずに、戸浪は小さくそう言って、寝返りを打ち、横向きに眠っていた身体が、仰向けになる。
ほっそりとした首からのラインが、祐馬には堪らない。なにより全部パジャマのボタンを留めていないのか、一番上だけが外れ、横から戸浪の胸元がちらりと見えるのだ。
そこに目が釘付けになっていると、見えそうで見えない胸の突起が、思い切りこちらを焦らしているように感じた。
……あ……駄目だ……俺……
堪んねえよ~
下半身に、ズクンという鈍い重みを感じた祐馬は、視線をようやく外し、戸浪に背を向けると、丸くなった。
俺……
自分で墓穴掘ったって感じだよな……
くっそ~ねられねえ~
ぶつぶつと言いながら結局祐馬は、朝まで眠られなかった。
翌朝、戸浪が起きる頃、隣りに祐馬の姿はなかった。
「あいつ……早出だったか?」
言えばこちらも早起きし、朝食の用意をしてやったのに……と思いながら自分もベットから降り、顔を洗い、衣服を整えるとキッチンへ向かった。
すると何時も自分の担当になっている筈の朝食が作られテーブルにセットされていた。その隣には小さなメモがあった。
ごめん。実は朝一番の新幹線だったんだ。言うの忘れてた。
毎晩電話するからちゃんと取ってよ!
それと、浮気なんかしたら駄目だからね!
祐馬
そのメモを読んで思わず戸浪はクスリと笑った。走り書きのような字体であったので、多分慌てて書いたのだろう。それを想像し可笑しかったのだ。
「……全く……あいつは……」
だがそのメモを捨てることも出来ずに、戸浪は冷蔵庫に貼りつけ、それを眺めながら祐馬が用意してくれた朝食を食べた。
大阪か……
一週間も出張は大変だろうなあ……
と、人ごとのように思いながら腕時計の時間を確認すると、自分もゆっくりしていられないことに気が付いた。
きらりと光る腕時計は祐馬とお揃いだ。指輪の代わりにかわされた時計は何時も戸浪の左腕にはまっている。
それを見て思わず頬がにやけるのを振り払いながら、戸浪も会社へと向かった。
出社すると、また面倒な仕事が待っていた。
「アルファクレール?うちが取るんですか?」
今度湾岸線に出来る予定の、規模のでかいアウトレットの店ばかりを集めた一大施設の図面が廻ってきたのだ。千葉の方にある同じ施設が意外に人気があるために、もう一つ作ろうと言うことらしい。
二番煎じは無理だと思うんだが……
等とは口には出しては言えない。
「いや、営業が今鋭意努力中だそうだ」
部長の柿本はそう言って笑った。
「分かりました。営業は誰が担当されているんですか?」
「営業三部の家木君だ。図面自体の量が多いから設計も数人で流れ作業になるがね。だから君はこの図面で見ると、この北側のC~Fブロックを担当して貰うよ」
家木は二つ位上の営業マンだったはずだが、どういう顔をしていたか思い浮かばなかった。大阪支店から転勤してきたのは覚えていたが、それ以上を思い出せないのだ。
まあいい……
どうせ嫌でも絡むんだからな……
「分かりました」
そう言って戸浪は自分の分を両手で抱えると席に戻り、図面を机に下ろした。その図面の内容を見ようと思っていると、今言っていた営業の家木がやってきた。
「営業の家木だけど、今度のアルファクレール……、かなり叩き合いになると思うんだ。設計さんもがんばってくれよ」
と家木は親しげに言うのだが、こちらはまだ顔と名前が一致していない。数ヶ月前、営業部長が、大阪から来た家木君だと紹介して廻っていた記憶が少しだけ残っているくらいだ。
背はそれほど高くはないが、がっしりした体つきをし、こちらの肩幅より1.5倍ほどある。手足も筋肉質で、昔何か運動をやっていたのではないかと思える体型をしていた。
だが家木は意外に頭は小さく、目がつぶらな感じで愛嬌があった。
こんな顔だったかなあなんて思いながら「ええ……」とだけ戸浪は言った。
「……それにしても澤村って、奇麗な顔してるよな。羨ましいよ」
それは褒めているのか?
「はあ……そうですか?」
軽く相づちをし、戸浪は図面を眺めた。それはやんわりと拒否をしているつもりなのだが家木には分からないようであった。
「俺は大阪からこっちに三ヶ月前転勤してきたけど、大阪支店でも有名だぜ。本社の設計の澤村さんは、格好良くて奇麗だとね。それだけの容姿なら、女も選り取りみどりで羨ましいよ」
別に深い意味で言ったのでは無いのだろうが、どうも戸浪は小馬鹿にされているように聞こえた。
「済みません、仕事が詰まっていますので……」
そう戸浪が言うと、家木は寂しそうに言った。
「あ。邪魔するつもりは無かったんだよ。ほら、これから打合せとかで顔を合わせるだろうから、顔覚えて置いて貰おうと思ったんだ。じゃあ、これからも宜しく」
家木はそう言うと、くるりときびすを返して戻っていった。
なんだか軽い感じの男だな……と、去っていく姿を見ていると、購買の方の担当にも同じ事を言っていた。
なるほど……私にだけどうこうではなく、自分の担当している物件に絡む人間全員に挨拶をしに廻っているという訳か……
そのぺこぺこする家木の姿を見ながら、戸浪は思わず笑いそうになった口元を引き締めた。本人は大阪からの転勤だと言っていた。要するに栄転だ。ここで頑張らないと又地方に飛ばされるだろう。そうであるから、必死なのだ。
まあ……ああいう態度は嫌いではないな……
本社に栄転するために、多分大阪でも人一倍頑張り、点数を稼いだのだろう。それは並大抵の努力では無かったはずだ。そして東京に栄転になり今度はこちらで実績を上げなければならない。
営業は大変だ……
なんて人ごとのように思いながら戸浪は、当分残業が続くな……と小さく呟き、仕事をする事に専念した。
うちに帰ったのは十一時を過ぎていた。自宅の電話を確認すると留守番電話が五件も入っていた。それを再生して相手が祐馬だと分かると、何故か戸浪は嬉しくなった。
「えーーっまだ帰ってないの?なにやってんの?しんじらんね~」
から始まり、最後の分は、
「うそーー俺が居ないからって居留守使ってんじゃないのか?戸浪ちゃん~!居るんだろ~出てよ~お~い」
と、何処で叫んで居るんだというような内容だった。
馬鹿だ……
等と思いながらも着替えるのを後回しにし、留守電を二回聞き直したところで電話が鳴った。
「もしも……ああ、祐馬……」
「今帰ったの?」
ちょっと眠そうな声であった。
「そうだよ。何だかまたややこしい仕事が入ってね。当分残業だよ……。お前はホテルにでももう戻ってるのか?」
電話を持ったまま床に腰を下ろし、何故か左手にはまる腕時計を眺めながら戸浪はそう言った。
「俺今ホテル。ふーん。ややこしい仕事かぁ……あ、もしかしてアウトレット?」
祐馬の所にも入っていたのだろう。当然と言えば当然だ。
「そうだ。営業は鋭意努力中だ」
くすと笑いながら戸浪はそう言った。
「確かうちの先輩もそれに引っかかってたからさあ。でもあれ難しいらしいよ。色々と……」
「何が難しいんだ?」
「さあ、金額もそうだろうけど、それだけじゃないって先輩言ってたからさあ。俺には何のことか分からなかったけど……。どうでもいいけどね。俺の担当じゃないし~」
はははと笑って祐馬は言った。
その笑い声を聞くとこちらまでほんわりとした気分になる。
「あ、戸浪ちゃん。あんまり無理するなよ。どうせ残業続くんだろうから……ちゃんとご飯食べるんだよ。戸浪ちゃん遅く帰るとすぐ夕食、食べずに寝るからさ……それと……」
その祐馬の言葉がとても温かい。
「おいおい、普通は心配するのは私の方だろうが……不摂生するなとか、夜遊びするんじゃないぞとか……私は大丈夫だ。心配するな」
「うん。そだね。はは。なんか俺すっげー心配性だよな。変なの~」
と、自分で言ったことにそう言って笑っている。
「正確にはいつ帰ってくるんだ?」
「日曜晩おそくかな……そんかわり、月曜代休くれるそうだから……」
「そうか……」
「なあ、寂しい?俺居なかったらやっぱり寂しい?」
どっちかというと、祐馬の方が寂しがっているように戸浪には聞こえた。だが、やはり祐馬が期待している言葉をこちらが言ってやることも必要だろう。
「……ま、まあな……」
廊下に座りながら、誰も見てはいないのだが、戸浪はそう言って一人顔を赤らめた。
「あっ、やっぱり俺が居ないと寂しいんだよな」
嬉々とした声で祐馬が言った。
単純な奴……
まあそこが可愛いんだが……
「……ああ……」
「俺さあ……実は怒ってたんだ……気づいてた?」
昨日気が付いた。
「……気が付いていた……。私が悪かったんだな。済まない……」
不思議と電話では素直に戸浪は言えた。
変だな……
「んじゃ、昨日の話ってそれんこと?」
期待に満ちた声であった。
「……そうだ」
違うのだが、戸浪はそう言った。
「帰ったらさあ……俺、出張から帰ったら……」
言いにくそうに祐馬がそう言った。
「うん……」
戸浪は頷くようにそう言った。何故か目線が腕時計から離れない。
「そろそろ……いいかなあ……?駄目?」
小さな声で祐馬は言ったが、戸浪は聞き逃さなかった。
「ああ……うん……」
もう耳まで真っ赤にして戸浪はそう言った。
「えっとさあ……俺、何言いたいか分かってるよね?」
「ああ……分かってる……」
廊下の明かりが自分の影を床に映している。それと、腕時計を交互に見ながら戸浪は言った。
「俺……実は戸浪ちゃんから誘ってくれるの……その……待ってたんだけど……俺が、根を上げちゃったよ……」
苦笑しながら祐馬は言った。後数日で自分の方が根を上げただろうと戸浪はその告白を聞きながら思った。
「……うん……そうか……私も待ってた……」
するりと本音が出た所為で、戸浪はもう次の言葉が出なくなってしまった。相手の顔が見えないとどうしてこう、本音が出てしまうのだろうか?
「ほんとに?」
確かめるように祐馬が言う。それに頷くのだが、祐馬にはそんな戸浪はもちろん見えない。
「ほんと?ねえ、黙らないでよ……」
「……だから……もう切るぞっ」
どうしようか言い淀んだ結果、そんな可愛げのない台詞しか出なかった。
「帰ったら……絶対だぞ!」
「……分かってるっ!切るぞっ!私も今帰ってきた所なんだっ!」
照れ隠しにそう怒鳴ってしまう自分が何だか情けなかった。もっと可愛く言えないのかと自分で自分に舌打ちした。
「……んも~ちょっと素直になってくれたと思ったらすぐそれだもんなあ~でもさあ、俺分かってるよ~実は今すっげー戸浪ちゃん照れくさい顔してるだろ?」
くすくすと笑いながらズバリと本当のことに切り込まれ、戸浪は思わず誰もいない周囲を見渡した。何だかどこかで見られているような錯覚を起こしたのだ。
「う、五月蠅いっ!じゃあ、またな」
返事を待たずに戸浪は電話を切った。
その事で戸浪は又後悔してしまった。
「もう少し話をすれば良かった……」
受話器を持ったまま、戸浪は小さくそうごちた。