Angel Sugar

「終夜だって愛のうち」 第3章

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 会議はスチール製の机を並べ、各部かたまりながら向かい合わせに座り、各部が自分達の意見を交換しあうのだが、営業は丁度斜め前だった。その所為か、入ってきたときと同じように、始終家木からの視線を戸浪は感じていた。
 気のせいだと思うようにするのだが、どうもこうふとした拍子に顔を上げると、向こうは視線を逸らすのだ。
 なんだこいつ……気味が悪い……
 始終そういう視線を家木に浴びせられ、会議でなければ殴ってやろうかと言うほどだった。
「家木さん……」
 会議の途中、休憩に入ったため、戸浪はもう我慢出来ず、入り口近くに設置された給茶器の御茶を入れていた家木に声を掛けた。
「澤村。なんだ」
「先程から何か言いたげな顔を私に向けてこられるのは何故ですか?何か用事でもあるんですか?」
 冷気でも出ていそうな口調で戸浪は言った。
「え?あ、いやそうじゃないよ……」
 はははと乾いた笑いで家木は言った。
「だったら何です?」
「あんまり奇麗だからこう、直ぐに目がいっちゃうんだよ……失礼だとは思うんだけど、気が付けば目が行くんだからどうしようもなくてさあ……」
 何が奇麗だっ!
 お前になんぞ言われたくないっ!
「男に奇麗だと言われて誰が喜ぶんですか?いい加減にして下さらないと、私は気分が悪いと言って会議から出るつもりですので、二度とこちらを見ないでください」
 そう言うと、家木は肩を竦めた。
「悪かった……」
 戸浪は家木からその言葉を聞き、自分も給茶器から御茶を入れると会議室を出て廊下に出た。すると廊下には、休憩を利用して立ち話をしている人もおれば、端に設置されている長椅子に座って、紙コップから御茶を飲んで煙草を吸う人もいた。
 戸浪はそんな人達を避け、誰も座っていない長椅子に座ると、溜息をつき、携帯をポケットから出し電源を入れた。すると祐馬からのメールが入っていた。
 お前の名前を見るだけでもホッとするよ……
 
 んな~ちゃんとメールくれよ~何時にかけんの?

 まだ分からないって……
 と、思うのだがそれに対する返事は戸浪は送らない。なんだか気恥ずかしいのだ。
 普通に返せば良いのだろうが、それがどうも出来ない。
 たかがメール、構える必要など無いのだが……
 そう思いながら又携帯の電源を切ると、戸浪は会議室に戻った。
 
 会議が終わり、だらだらと残った人間で打合せを続け、結局話が終わったのは十時を過ぎていた。
 疲れた……さっさと帰るか……
 と、鞄を持って戸浪が帰ろうとすると、神谷がやってきた。
「澤村……悪いんだけど、明日の施主打合せお前が行ってくれないか?」
「は?どの物件のですか?」
「今の会議の件だよ。アルファのだ。明日、他の打合せが急に入って行く予定にしてたんだけど、行けなくなってしまったんだよ。悪いんだけど、明日、昼から営業の家木と一緒に行ってくれないか?あ、図面はそろえて明日渡すから……」
 ……
 断りたいが……
「そうですね。神谷さんが駄目なら私が行くしかないでしょう。でも、私で良いんですか?総括してこの物件を見てるのは神谷さんでしょう?私じゃ分からないことが出てくると思いますが……」
「それが問題なんだけど、なんかあったら向こうから電話くれたらいいよ。打合せ中でも出るようにするから。明日行くのもかなり重要物件で断れなくてさ。本当は部長と一緒に澤村を行かせたかったんだけど……。俺の次に部長が知ってる物件だし……。でも間の悪いことに部長は出張で……」
 困った困ったという表情で神谷は言った。
「良いですよ。私が行ってきますよ。その代わり何かあったら直ぐに電話入れますから……」
 戸浪はそう言って笑みを見せた。
「良かった……なんかほら、物件今色々重なってて動けないんだよね……これは喜んで良いいんだろうけど、もう、俺パニックだよ……。今から明日の準備もしないといけないしな……。あ、じゃあ明日頼むな」
 急いでそれだけ言うと神谷は自分の部署へと戻っていった。まだ仕事があるのだろう。
 はあ……
 なんだか嫌なことを引き受けてしまった……
 アルファクレールは危ないと川田に忠告されているのだ。噂も聞いた。だがまあ、打合せに行った先でどうこうなどと言うのはまず無いだろう。何よりこっちはそれを引き受けた訳ではないのだ。
 私は私の仕事をするだけだ……
 それにしても……
 男の接待を任されている宇佐見というのはどういう男なんだろうか?
 顔も思い出せない、二部の営業マンは戸浪の中でへのへのもへじであった。元々周囲の雑音などが気にならないタイプであったので、回りというのをよく見ていないのだ。だから戸浪は噂にも疎い。
 
 戸浪ちゃんって……
 実は何にも考えてないでしょ……
 
 と、祐馬に言われたことがあったが、その通りだ。
 毎日平穏無事で暮らせることで戸浪は充分幸せなのだ。何より興味のないものには目が行かないのだから仕方ない。だったら何に興味があるのだと言われると困る。
 趣味がないのだから何かに興味を持つことが無いと言うことなのだろう。考えると読書くらいしか趣味がない。それも暇つぶしに読んでいるだけで、趣味は?と改めて聞かれると、思わずなんだろうと考えてしまうのだから仕方ない。
 私は……
 退屈な男かもしれないなあ……
 祐馬はこんな私の何処を気に入ったのだ?
 一緒に居て楽しい相手にはとうてい思えないのだ。
 はあ……
 なんだか考えると落ち込んできたぞ……
 そんなことを考えながら電車に乗り、そこでようやく戸浪は祐馬にメールを送った。
 
 ホテルのベットで大の字になっていると、携帯がメールを届いたことを知らせた。祐馬は身体を起こして直ぐにそのメールを読んだ。
 
 今、帰りの電車

 なんだこれ……
 こんだけ?
 と思いながらも祐馬は戸浪らしいと何故か笑いが漏れた。
 自宅に電話をかけるのを今か今かと思いながら何とか三十分待ち、祐馬はもう待ちきれなくなって電話を掛けると、直ぐに戸浪は出た。
「お帰り~思ってたより早かったんだ」
 祐馬はうきうきとした声でそう言った。
「ああ、もう少し長引くと思っていたんだがね……」
 シュルッという音が聞こえるのは、戸浪がネクタイを外しているのだろう。
「……駄目だ~俺……」
「なんだ?何かあったのか?」
「今戸浪ちゃんネクタイ外したでしょ。その音だけで色々想像しちゃってさあ……」
 ううと唸りながら祐馬は言った。
「Hメールの次はH電話か?」
 クスクスと笑いながら戸浪は言う。
「……俺ってすっげー我慢強いと思わない?」
 シャツ一枚とか言わないよなあ~
 その下、下着だけとか?
 見えたらいいのに~
 なんて妄想に浸っていることなど戸浪には分からないだろう。
「馬鹿なだけだろう?」 
「あ、そんなこと言う?だいたいさあ、一緒に何ヶ月も暮らした恋人同士ってこんなんじゃないよな……」
 ムスッとした声で祐馬は言った。言った後で、あーまた怒られちゃうようなこと言ってしまったと思ったのだが、戸浪はこちらの想像した反応をしなかった。
「私もそう思う……」
「あれ、戸浪ちゃんも認めるんだ?」
「お前が不甲斐ないからだろう?」
 戸浪は溜息混じりに言った。
「何だよ~ここって言うときに何時だって戸浪ちゃんが駄目って言うんじゃないかー!」
「お前の押しが足らないんだろうがっ!」
 と言っていきなり電話を切られた。
「え?うそおん~怒った……」
 頭をガリガリと掻いて、祐馬は直ぐに電話を掛けたが、次は留守番電話になっていた。
 うわああ……
 マジ怒り……
 幾らかけても留守番電話になるので、祐馬は仕方無しに謝り倒した言葉を留守電に吹き込むと、布団に潜り込んだ。
 こういう場合、直ぐに戸浪の機嫌は治らないのだ。
 はあ……
 せっかっく数日はラブラブ電話出来たのに……
 でもまあ……
 なんだか、俺達らしい電話って感じだったよなあ……
 そんなこととを思いながら祐馬は目を閉じた。
 
 翌日祐馬が大阪支店に向かうと朝から大忙しだった。あちこちの業者と面会し、購買と振りまわされ、何を自分で言っているのか良く分からない位であった。
 だが昼過ぎにはそれも落ち着き、ようやくホッと出来た頃、一時を過ぎていた。その為、習慣になっていた戸浪へのメールが一通も出せなかった。
 はあと溜息を付いて、業者打合せ室に座っていると河野がやってきて目の前にコーヒーを置いた。
「おごり」
 河野は煙草をくわえながら祐馬の隣の席に座った。
「済みません」
 缶コーヒーを両手で掴んで祐馬は頭を下げた。
「なんか朝からばたついたよなあ……飯どうする?」
「そうですね。なんなら俺、弁当でも買ってきましょうか?また直ぐ業者さん来るでしょうし……」
「そうだなあ……」
 すると河野の携帯が鳴った。
「あ、悪いな……」
 祐馬はどうぞという風に、手でゼスチャーし、コーヒーを飲んだ。人の話を聞くのもためらいがあるので、入り口にある受付を眺めながら、ちびちびとコーヒーを飲んでいると、河野の声が飛び込んできた。
 俺……
 聞くつもりはないけど、聞こえたんだぞ……。
「なんだって?ひゃーそりゃお前駄目だって。駄目駄目。どうせ取れないんだからもう諦めろよ。無理する分、疲れるだけだぞ。……はあ?お前には無理だって。相手の話聞いたら太刀打ちなんかできるかっての。……ああ、仕方ないさ。それともお前が誰か用意できるのか?出来ないだろう……。それを商売にしているのは受け付けないって聞いたぞ。はは。運が悪かったと思って諦めろ」
 河野は笑いながら、手に持っていた煙草を灰皿に入れ、ようやく話を終えた。
「今のな、南原だよ」
 こちらが聞きもしないのに河野は祐馬にそう言った。
「あ、そうですか」
「ほら昨日言っていたアルファの施主に打合せに行ったらしいんだけど、東都の次がどうも笹賀だったらしい。で、担当の営業マンに付いてきた男って言うのが、もう、びっくりするくらい奇麗な男だったんだってさ。あれがそうなのか……って、口をあんぐり開けて見てたら睨まれたらしい」
 目に涙を溜めて河野はそう言った。可笑しくて仕方ないのだろう。
「……へえ……そんなに奇麗な男の人だったんですか……」
「もう、見た感じそれっぽい男には堪らない様なタイプだってさ。線が細くて、腰がこうしまっててな。また染めたような茶色の髪がすごい奇麗だったそうだ。なんだか南原もぼーっとなったらしい。その気が無くても、クラッと来たって言ってたな」
「……え?」
 俺……なんか……
 誰かさんを想像しちゃったんだけど……
「奇麗だけど、きつそうな感じだったってよ。まあ南原がジロジロ見てたんだろうから、向こうに睨まれたんだろうけど」 
「……そ、そんな……奇麗な人だったんですかね……」
 そう言った祐馬の声は掠れていた。
 なんだか心臓がバクバクしてきた……
 違うって……
 戸浪ちゃんはそんなこと出来るタイプじゃない……
「男にみえる奇麗さ?とか訳の分からないこと言ってたな……決して女っぽい奇麗さじゃないってさ。頬骨もスッキリして、肌も白いって南原は色々言ってたけど……馬鹿だろ~狼狽えてやがるんだよ。それでいて、ああいうのうちに居ないかって聞くんだから、いねえってそんなの……」
 相変わらず河野は笑っていたが、祐馬はそれどころではなかった。
 いや……違う……
 戸浪ちゃんじゃないっ!
 違うよな……
 別人だよな……
 それを問い聞ける相手は側にはいなかった。

 施主の打合せに来たはいいが、アルファの担当者は尾本といい、その男の目つきが戸浪は気に入らなかった。舐めるような目つきとでもいうのだろう。最初家木が挨拶をし、戸浪を紹介するまでの間、家木など見ずにずっとこちらばかり見ているのだ。
 それも身体の型でも取るつもりなのか、視線はあちこちとこちらの身体に飛ばされてきた。なにより、設計図面の説明しろと言うので、人が丁寧に説明しているにもかかわらず、図面など見てはいないのだ。
 見ているのはこちらの身体だ。
 何処を見てるんだ?
 図面はどうした?
「尾本さん……そちらの希望ですが……」
 急に声を掛けると、目が覚めたような顔でこちらを見る。するとその目が何故か嫌らしく歪むのだ。
 この男……
 殴ったら問題になるんだろうな……
 そう思うことで戸浪はようやく平静を保っているのだ。
 尾本は見た感じだけで言うと、年齢は四十代前半だろう。髪は禿げてはいないのだが、薄い。頬骨が張っていて、何処か神経質に見える。どちらかと言えば太っている部類に入る体型は、余り凝視したくないタイプだ。
 尾本を一言で言うと一回り痩せたセントバーナードのようだった。
 打合せが済むと、尾本はにこやかに言った。
「いやあ……笹賀さんは何処よりも丁寧で、好感が持てますなあ……」
 尾本はそう言ってやっぱりこちらを見る。
 見るなっ!
 お前が見た所が腐りそうだっ!
 なんて事は言えずに、戸浪はようやく作った笑いを口元に浮かべた。営業の家木は得意げに「そうでしょう」とご満悦だ。
 ああもう……
 こいつ……
 本気でぶち殺したい……
 机の下で握りしめている拳が音を立てそうな程だ。
「そう言えば……尾本さん。ご予定は何時なら宜しいでしょう?」
 と、家木が尾本に向かってそう言った。
「そうだねえ……私も色々忙しいんでね……」
 そうか、ならもうしゃべるな。
 さっさと私達を帰せっ!
 内心イライラとしながらも戸浪は平静を必死に保つ。何かきっかけがあったら本当に殴りかかりそうなのだ。
「明日の晩なら……時間がとれるな……」
 システム手帳を広げて尾本はそう言った。 
「では明日、接待させていただきます。車はこちらから廻しますので……」
 家木は嬉しそうにそう言った。
「楽しみにしているよ」
 言って尾本は、又視線の暴力をこちらに寄越してきた。
「じゃあ、又明日に……」
 家木はそう言うと立ち上がった。戸浪もそれに合わせて立ち上がる。もう戸浪はさっさとこの場から立ち去りたかったのだ。
 今日だけだ……
 神谷さんの代わりで来ただけなんだからな……
 そう言い聞かせて戸浪が出口の扉を開けようとすると、後ろから尾本が言った。
「澤村君も明日来てくれるんだろう?」
 それは営業の仕事で私の仕事じゃない……
「……いえ、私は設計の仕事が忙しいもので……」
 と、言ったところで家木に止められた。
「あ、はい。もちろん澤村も連れて参りますので……」
「おい……」
「頼むから……この場だけつくろってくれ……」
 小声で家木がそう言った。
「……」
「必ず連れて行きます」
「そうか……楽しみにしているよ……」
 尾本はにこやかにそう言った。
 
 ビルを出たところで戸浪は怒鳴った。
「どういうつもりだっ!私は接待など出来ないぞっ!」
「そう言わないでくれよ。俺の初めてのでかい物件なんだ……」
 家木は訴える様にそう言った。
「知るかっ!私は行く気は無いぞ……」
 戸浪がそう言うと、家木が怒ったような顔で言った。
「事務屋さんはそれでいいかもしれないけどな。俺達が仕事をとってくるから、あんたらの仕事が廻ってるんだ。そうだろ?何時だって俺達が苦労してるんだ。たまには協力してくれても良いんじゃないのか?」
 それを言われると辛いのだが、あの男の目は異常だ。またあの視線に晒されるなど考えたくもない。
「設計の担当は神谷さんだ。そっちに頼めば良い。私には相手を持ち上げることなど出来ないんでね。それで仕事自体が駄目になったら元も子もないだろう……」
 呆れた風に戸浪は言った。 
「尾本さんは澤村を気に入ったんだ」
 家木がそう言ってこちらを見る。
「だから?」
「俺が持ち上げている横で、澤村は座って酒を飲んでいてくれたら良いんだよ。それで仕事が取れたら儲けもんだ。そのくらいの協力もしてくれないのか?」
「……」
「俺はこっちに来てまだ大きな物件を一つも取れていない。だからこれは絶対取りたいんだ。たまには営業の気持ちもくんでくれよ」
 そこまで言われて戸浪も断れなかった。
「……はあ……座っているだけだぞ……」
「それは明日来てくれるって言うことだよな?」
 家木は嬉しそうにそう言った。逆にこっちは嬉しくなど無い。
「仕方ないだろう……」 
 溜息をつきながら戸浪は言った。
「接待費は使えるだけ使って良いと言われてるんだ。澤村は、高級なタダ酒を飲んでくれるだけで良いよ」
 ニコニコと家木は言った。
「……そうか……私はざるだから、接待費がどれくらいかかるか分からないぞ……」
 そう戸浪が言うと、何故か家木は驚いた顔をこちらに向けた。

 帰宅し、いつものように留守番電話を確認すると早い時間にも関わらず、メッセージでパンパンになっていた。
 おいおいおい
 と、思いながら確認すると祐馬からだった。呆れているとその場で電話が鳴った。
「もしも……ああ、祐馬。おまえなあ、幾らなんでもやりすぎだぞ……。なんだこのメッセージの数は……」
「携帯……繋がらなかった……」
「え?」
 驚いて戸浪は自分の携帯確認すると、昼間、施主の方へ行くというので電源を落としたままだったのだ。
「ああ、電源を入れるのを忘れていたんだ。昼間打合せに出たからな……」
 そう戸浪が言うと、祐馬が沈黙した。
「なんだ?嫌なことでもあったのか?」
 ガキだなあ……
 と思いながら戸浪が言うと、祐馬は小さな声で言った。
「何処に打合せ?」
「アルファクレールの物件だよ。施主が図面の説明をして欲しいって言うんでね。それがどうかしたのか?」
 どうしてそんなことを聞くのだろうと戸浪は思いながら祐馬の言葉を待った。
「……何でもない……」
 ようやく言った祐馬の言葉はそれだけだった。
「……いいのか?何かいいたそうだぞ……」
「……別に……」
「何をむくれているんだ?今日は早めに帰ってきただろう……。あ、お前、まさか携帯の留守電もメールも一杯か?」
 チラと手に持っている携帯を見ると、メモリー一杯一杯の留守電とメールが入っていた。
「おまえなあ……やりすぎだぞ……どうせくだらない事ばっかり入れてるんだろう……。全部読まずに消すからな」
 呆れた風にそう言うのだが、祐馬の言葉がない。
「本当に……何かあったのか?変だぞ……」
「……俺……さ……今日……」
「今日?」
「いいよ……」
 言い淀んだ末、止めたという風な口調であった。
「いいよって……途中で止めるな」
 戸浪はだんだん心配になってきたのだ。何か向こうで辛いことでもあったのだろうか?
「嫌なことがあったら聞いてやるぞ……どうした?」
 床に座って戸浪はそう言ったが、祐馬は何も言わなかった。
「そうか……言いたくないときもあるだろう……。分かった。聞いて欲しくなったらいつでも電話してるといいよ。営業は大変だからな……あ、でも、明日は無理だな……かなり遅くなる……」
 明日接待が入っているのを忘れていた。あの調子では何時に帰して貰えるかどうか分からないのだ。
 ああもう……
 こんな時に接待なんぞやってられんのだが……
 仕方ない……
「明日……夕方どっか行くの?」
「ああ、営業の接待に私も行くんだ。タダ酒を飲んでくるよ」
「……何で?戸浪ちゃん設計じゃないか……接待なんかどうして行くんだよっ!」
 いきなり怒鳴るように祐馬がそう言ったので、耳に響いた。
「急に大きな声で話すな。たまに設計も接待に参加するんだ。仕方ないよ」
 受話器を少し耳から離しながら戸浪は言った。
「仕方ないって……」
 何故か絶句している。
 そんな大層なものだろうか?
「営業は大変だろ?たまには協力しないとな……」
 戸浪自身は嫌なのだが仕方ないのだ。
「協力って……そんなん出来るわけ?」
「だから、何を怒っているんだ?明日電話が出来ないことを怒っているのか?」
 その言葉に祐馬からの返事は無い。
「いい加減にしろっ!お前はガキか?お前だって営業だろうっ!接待だってするんだろうがっ!一日くらい電話が出来ない事で拗ねるんじゃないっ!」
 戸浪は思わずそう怒鳴っていた。
「分かった……」
「それでいいんだ。言って置くが、明日はメールを送ってくるな。留守番電話もこんなに入れるんじゃない。お前ももう一人前だろう。少し離れただけで、こんな子供じみたことをするんじゃないぞ。分かったな?」
 言い聞かせるように戸浪が言うと、いきなり電話を切られた。
 全く……
 ガキなんだから……
 はあと溜息をついて戸浪は一人ごちた。
 戸浪は結局、自宅の電話の留守電も、携帯の方の留守電とメールを開かず、読まずに消した。



 翌日の夕方、家木に銀座の高級クラブに連れて行かれた。戸浪は、場違いでありながら仕方無しに尾本を接待する家木を眺めながら、一人でグラスを傾けていた。
 何かあったんだろうか……
 昨晩の様子があまりにもおかしいと感じていた戸浪は、何度か祐馬の携帯に電話を入れようかと思ったのだが、仕事中なのが気になり、結局出来なかったのだ。
 互いに余程のことが無い限り、仕事中である時間帯に、携帯に電話をするのは止めようという約束をしていたのもある。
 数杯グラスを傾け、どうしても祐馬のことが気になり、戸浪が時間を確認すると腕時計は十時を差していた。
 この時間なら携帯にかけても大丈夫だろう……
 戸浪は立ち上がって、ホステス達と盛り上がっている家木と尾本に「ちょっと席を外します」とだけいい、トイレに向かった。そこなら電話をかけても良いと思ったのだ。
 トイレまで来ると戸浪は携帯を取り出し祐馬へ電話を掛けた。
「祐馬……もうホテルに帰ってるのか?」
「……戸浪ちゃんうちにいるの?」
 驚きながらも何故か嬉しそうな声で祐馬は言った。
「いや……まだ接待の最中だよ……」
 そう言うと、祐馬は次に沈黙をする。
「なあ……昨日何が言いたかったんだ?一日気になって仕方がなかった……。お前も妙だったしな……。何かあったんだろ?」
「……うちから電話してよ……そしたら話す」
 祐馬は駄々をこねるようにそう言った。
「今も、接待の席を外してようやく電話をかけているんだ。いい加減にしろ」
 イライラと戸浪は言った。
「だって……戸浪ちゃん……俺……」
 何故か泣きそうな声に聞こえた。
「分かった。話したくないって事だな。分かった。もう帰ってきてからで良い。こっちも長くはここにおれないんだからな。ちょっと気になったからかけたんだ。もう席に戻らないと……」
 戸浪はちらりと店内を伺いそう言った。
「頼むから、今から直ぐに家に帰ってくれよ!帰れよっ!」
 今度は怒鳴るように叫んでいる。
「……いい加減にしろっ!」
 と言って戸浪は携帯を切った。
 全く……
 何を駄々こねているんだ……
 溜息を薄く吐いて戸浪は携帯をポケットに入れ、席に戻った。すると先程までいたホステス連中は席にはいなかった。その代わり、家木と尾本が仕事の話でもしているのか、身を寄せ合い、何か話をしていた。
 物件の金額でも聞いているんだろう……
 一件目で話してくれるとは思わないがな……
 戸浪は二人から少し離れた所に座り、自分のグラスを引き寄せた。
 頭が痛い……
 何を拗ねてるんだか……
 訳が分からないぞ祐馬……
 グイとグラスを飲み干して、自分でもう一度酒を作った。
 こんな接待に連れてこられた身にもなって見ろ……
 あと二件は引きずり回されるぞ……
 新しく入れたウイスキーを飲みながら戸浪はイライラと考えた。
 タダ酒は嫌いではないが、ばかばか飲んでいるだけでちっとも美味くない。
 ふと視線を感じて顔を上げると、何故か尾本がこちらを見ていた。
 お前のその視線の暴力は一体何だっ!
 気味が悪い……
 ……え?
 急に目眩がしたと思ったら、周囲の景色が歪んで見えだした。
 なんだ……?
 ゆらっと立ち上がったところを、家木に支えられた。
「おい、酔ったのか?」
「私は酔わない……っ……まさか……お前……っ」
 ぼやける視界にどうにか家木の表情を捉えると、小さな声で言った。
 すまん……と。
 戸浪の意識はそこまでしかもたなかった。
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