「終夜だって愛のうち」 第8章
「もう一度戸浪からそうやって呼んで貰えるとは思わなかったよ……」
如月はそう言って戸浪の頭に頬を寄せるような格好で自分の腕の中に更に抱き込んだ。
「頼む……」
抱き殺されたっていい……
酷い抱き方をされたとしても文句は言わない……
ただ……
この身体の痛みと……
心の痛みを忘れさせて欲しいんだ……
忘れたいんだ……
「……戸浪……本気か?」
「……本気だ……」
そう言うと、如月はこちらの身体をそっとベットに倒した。
「後悔するぞ……」
頭上から見下ろす如月は、そう言いながらも微笑んでいる。
「……しない……」
如月が身体を支える為にベットに延ばしている腕に戸浪は手を掛け、力を込めて掴んだ。
「馬鹿だな……戸浪……」
クスクスと急に笑いながら如月は枕に肘をかけて横向きになった。どうみても、こちらを抱こうとする体勢ではない。
「……お前まで……私を……」
拒否するのか?
お前は昔散々私を抱いた癖に……
今はもうどれだけ頼んだところで私の身体を抱く気にならないのか?
「添い寝くらいしてやるぞ……」
苦笑した顔で如月は言った。
「……お前も……酷い奴だっ!どうして……こんなに頼んでいるのに……抱いてくれないんだ……」
また滲んできた涙を如月は指で掬い取った。
「なあ……お前の心の中は祐馬のことで一杯だぞ……そんな戸浪を私が抱けると思うのか?だろ?私はお前を愛しているのに、お前は別な男のことで一杯一杯だ。それなのに私に抱けという方が酷いんじゃないのか?」
宥めるようにそう言って如月は、こちらの額にかかる髪を撫で上げた。
「……あ……」
そうだ……
私は……
祐馬の事で一杯なんだ……
どれだけ責められても……
どんな風に拒否されても……
それでも私は祐馬が好きなんだ……
それでも……
祐馬に抱かれたいんだ……
「……う……あ……」
そこまで戸浪は考え、嗚咽と共に涙が落ちた。そんな戸浪を如月は又抱きしめた。その温もりと、懐かしい匂いにこのままずっと溺れていたいと戸浪は本当に思った。
「戸浪が本当に……私の方を少しでも向いてくれていたら……抱けただろう。……でも今、お前は私のことなど見ていない……。だったら……戸浪が正気に戻ったときに後悔するのが分かっていて……抱いたりなんか出来ない……。今は感情だけでお前はそんな風に言っているが、必ず後でお前が後悔するのが目に見えている。怒鳴られるならまだしも……私はお前を好きで抱くのに……それに対してお前が後から落ち込んだり、後悔されたら、それこそこっちが立ち直れないぞ……だろ?どうなんだ?」
戸浪はその如月の言葉に頷きながらも声を押し殺し涙を落としていた。
「泣きたいときは……大声で泣くもんだ……我慢しなくていいんだよ……」
その声があまりにも優しく聞こえた戸浪は、押し殺していたものが堰を切って溢れた。
「あっ……あっ……うわああっ……」
後から後からこぼれ落ちる涙は、何処にそれだけ水分があるのだろうと言うほどであった。
「……お前はどうしようもないほど……祐馬を愛しているんだな……悔しいが……こればかりは仕方ない……」
呟くように如月はそう言った。
私は祐馬を愛してる……
祐馬が笑う顔が好きだ……
くだらないことばかりやってる祐馬が可愛い……
側にいてホッと落ち着くことが出来るのも祐馬だけだ……
自分を飾らずに一緒におれる相手も祐馬だけなのだ……
私を……
私自身をしっかり見てくれている祐馬が……
何時だって気遣ってくれる祐馬の優しさが……
私には必要なんだ……
例え……
もう駄目になったのだとしても……
その気持ちを忘れたら終わりだ……
それが一方通行でしか無くなったとしても……
自分の気持ちを裏切る事はしてはいけない……
大声で泣きながら戸浪は如月に一晩中抱きしめられ、朝を迎えた。
翌日、泣いた所為かどうか分からないが戸浪は随分気持ちに落ち着きが出た。如月の方はこちらが起きた段階で、何か食べる物を作りに行くといって部屋を先程出ていった。
「……ああ……」
なんだか……随分泣いた……
気持ちも楽になった……
もちろん祐馬のことを考えると、胸の奥が痛いのだが、誰でも良いから抱かれたいというとんでもない欲求は奇麗さっぱり無くなっていた。
昨日如月が言った、後で後悔すると言った言葉はまさにその通りだったのだ。もし昨晩、如月に抱かれていたら、今度はそれに対する後悔や罪悪感まで引きずることになっただろう。
もう少しで馬鹿なことをするところだったんだな……
小さく溜息をついて戸浪はベットから降りると、う~んと身体を伸ばした。そうして窓に近づきカーテンを少し開けると、眩しい太陽の日が目に飛び込んできた。
今日は……日曜日か……
日から目を守るように手で日光を遮り、戸浪は窓を開けた。すると朝の独特な青っぽい草木の匂いが鼻についた。
はあ……
気持ちがいい……
ベランダに置かれた小さな椅子に腰を掛けると、戸浪はもう一度身体を伸ばした。
昨日……
祐馬はあんな私を見て……
どう思ったのだろう……
そんなことを考えて戸浪は何故か可笑しくなった。
盛のついた猫みたいだったなあ……
ああもう……
思い出すと逆に恥ずかしいか……
そりゃ……
あんな風に迫られたら……
恐いな……
逃げ出したくもなるだろう……
昨晩の自分を思いだして更に可笑しくなった。暫く一人でクスクスと笑い、戸浪はふと手の包帯に目がいった。
一度は戻らないと……
荷物のこともある……
出て行くにしても……
後始末はきちんとしないと……
もしかするともう、祐馬は私の荷物をまとめてくれているかもしれない……
それでもいい……か……
包帯の巻かれた手をギュッと握りしめて戸浪はそう思った。ここにもずっといるわけにはいかないのだ。幾ら祐馬と別れたからといって、如月に……と言うことはこれっぽっちも考えられないのだ。
会社……
会社の事も考えないと……
辞表を出した筈だが、自分の上司は待っていてくれる。仕事も中途半端に放り出して出社拒否をし続けるのはあまりにも無責任なのかもしれない。確かに腹立たしいことがあった。とはいえ、それを何時までも根に持つのは子供のする事だ。自分が大人だとは思わないが、何も無かったのだから、堂々と会社に行けばいいのではないだろうか?逆にこれで本当に辞めてしまったら、やはり何かあったのだと勘ぐられても仕方ないだろう。
それもなんだか戸浪には非常に不快に思うことであった。
私は何も無かった……
胸を張って自信を持って言える。
だったら……
態度で示せば良いのだ。
そうしよう……
あのことで何もかも捨ててしまうのは、自分が一番損をすることになるのだ。ここで仕事を辞める必要は何処にもない。
そうと決まれば……
戸浪は腰を上げて、如月を探そうとベットのある部屋へ入ると同時に如月がやってきた。
「何だ……随分元気になったんだな……」
如月は驚いた表情でそう言った。
「……世話になって悪い……感謝してる……」
昨日のこともあり、やや顔を赤らめて戸浪は言った。思い出すと恥ずかしくて仕方ないのだ。
「いいよ。幾らでも頼ってくれて……ただし、その気もないのに迫って欲しくはないな……。今度はその気になってから迫ってくれ。それなら何時だって良いぞ」
如月はそう言って笑った。
「……あれは……確かに……思い出すと私も恥ずかしい……」
こほんと咳払いをして戸浪は言った。
「ああ、朝食の用意が出来ているが……先に着替えるか?適当に衣服を買っておいたんだが……」
言いながら部屋にある腰くらいまでのタンスを指さした。その上には紙袋が幾つか置いてあった。
「後で請求してくれ……助かるよ……」
「ゼロを一つ多めに書いて請求してやる。じゃあ、着替えたら部屋を出てキッチンに来ると良い。そっちに今日は朝食の用意をしてあるから……」
如月はそう言うと部屋から出ていった。
戸浪は紙袋の中身を開けて、シャツとズボンを適当に選んで着替えた。
……おい……
どうしてサイズを知ってるんだ……
戸浪は普通の男性より細く、腕や脚が長い。その分、既製品ではあわない場合が多い。だから服を選んだりする場合苦労するのだ。
なのに……ピッタリ……
「ふ、深くは考えないで置こう……」
戸浪はそう考えて、服を用意してくれたことだけを感謝することにした。
「買った方が早いですよ……安上がりですし……」
十時開店に合わせて祐馬は以前時計を買った店に向かったのだ。だが、壊れた時計を見て定員は溜息をついてそう言った。
「一つでもこれの部品が使えたら……使って直して欲しいんです。お金はちゃんと支払いますから……」
祐馬はどうしてもこの時計を直して欲しいのだ。もちろん、中の基盤は駄目だろう。それは分かっている。だが一つでも多く、この時計の部品を使って直して欲しかったのだ。直った時計は以前のものと違い、ほとんど新品に近くなるだろうが、全く新品じゃないのだ。それが一番大事なことだった。
「お客様がそうおっしゃるのでしたら……そうさせていただきますけど……。フレームとベルトくらいですね……使えるのは……」
壊れた時計を丁寧に見ながら定員は言った。
「それで充分です……」
フレームの裏には二人の名前が刻まれているのだ。それが残れば言うことはない。
「……ですが、手間賃入れたら新品と同じ値段になりますよ……」
それでも良いのかと店員は言ってきた。
「それでもいいです……直るんだったら……。良かった……どの位で直りますか?」
「そうですね……一週間ほど見て貰えると……。フランス製ですので取り寄せの部分が多いんですよ……。出来が上がり次第、ご連絡させていただきます」
「ありがとうございます……」
ホッと祐馬は胸を撫で下ろした。
お金は問題じゃないのだ。
これが直るか直らないかが祐馬にとって問題だったのだ。
戸浪が如月に連れて行かれた日、祐馬は時計を落とした所に出向き、そこで大泣きしたのだ。
そこには硝子の破片と一緒に、点々と戸浪の血が雨に流されず所々に落ちていた。戸浪にとって本当にこの時計は大切なものだったのだ。それを祐馬は一時の感情だけで、戸浪から取り上げ、しかも壊してしまった。
あの時壊れたものでも直ると必死に言っていた戸浪は、一体どんな気持ちでそう言ったのだろう……どんな気持ちであの時計を拾い集めていたのだろう……それを考えると今でも涙が出る。
だから新しいものでは意味が無いのだ。
自分がした行いを反省していると分かって貰うためにも、時計は自分が直さなければならないと祐馬は思っていた。
昨晩、戸浪に抱いてくれと言われたが、祐馬にはそれは出来なかった。気持ちが揺れなかったとは言わない。だが、戸浪の最後という言葉に身が退けたのだ。
俺は……
自分が悪いのに……
一番責任があるのに……
あんなに戸浪ちゃんを責めたのに……
終わりにしたくないって思ってる。
だから……
あそこでは戸浪ちゃんを抱けなかった。
あれで終わりなんて絶対嫌だったんだ。
だから……時計を直して持っていこうと思った。
少しは反省している気持ちを分かって貰えるかもしれない……。
それはとても自分勝手な事なのだが、戸浪に関してはここで諦めることは出来ないのだ。例え、お前は自分勝手で酷い男だと罵られても、許して貰えるなら何だってするつもりで祐馬はいる。
だから一番最初に時計を直そうと決めた。
ただ、戸浪が如月と抱き合ったとしても、仕方ないと祐馬は思っていた。もしかするとあのまま、元の鞘に収まってしまうかもしれないと言う不安もある。そうなったとしても戸浪を責めるつもりもない。
自分が一番悪いからだ。
その時は……俺……
また最初からやり直す……。
戸浪ちゃんを好きで追いかけ回していた頃から始めたら良いんだ……。
なんか俺……馬鹿みたいだけど……
俺が諦めきれないんだから……いいよな……
そんなことを考えながら祐馬が自宅のマンションに戻ると、戸浪宛に手紙が届いていた。だが戸浪はここの住所を会社には知らせていないはずだった。だから戸浪宛のものは、以前住んでいた住所から転送されてきたようであった。
だが、封筒の裏を返しても差出人の名前が無かった。
どうしようかな……
人の手紙は見たら駄目だと思うけど……
祐馬が気になっているのは、その封筒が例のアルファクレールの封筒だったからだ。だから余計に気になっていた。
見たら駄目だけど……
差出人が無いし……
もしかしたら戸浪ちゃんへの嫌がらせかもしれない……
祐馬はそう思い、手紙の中身を確認することにした。
あの晩、何も無かったにも関わらず、君は私に全治二週間の怪我を負わせた。それはいいとしよう。だが仕事はやる。その代わりと言ってはなんだが、君が脅してきた事に関しては忘れてくれ。お互いこれがビジネスだと割りきって水に流そうじゃないか。
宜しく頼むよ。
なんだこれ……
誰なんだよ?
これって……もしかして戸浪ちゃんが接待させられた相手から?
確か……アルファクレールの施主の担当は尾本って言ったよな……
じゃあ……そいつ?
戸浪ちゃんが何を脅したんだ?
それ恐くて仕事やるとかふざけたこと言ってるんだ……
「何が、何も無かったにも関わらずだよっ!その所為でっ!」
思いっきり手紙を破ってやろうとしたのだが、それは止めた。
全治二週間……そんなん軽すぎやしないか?
薬使って強姦しようとしたんだぞ……
それなのに、仕事をやるから水に流せって、あんたのわびは何処にあるんだ?
仕事は会社の話だろうっ!
お前自身は一体戸浪ちゃんにどう謝ってくれるんだよっ!
俺……すんげー腹立ってきた……
考えてみると一番怒りをぶつけなければいけない相手は、この尾本と笹賀の営業マンだったのだ。
ぜってーこいつら許せねえ……
結局祐馬は手紙を破り捨てた。
又来る……
そう言った祐馬からは何の連絡も無しに、拒否されたあの日から四日経った。両手の包帯も取れ、まだ治りきらない傷が手のひらにある。それを見つめながら戸浪は手を握りしめた。
心のどこかで、その祐馬の言葉を信じていた戸浪にとって、連絡もない現実が日を重ねる度に憂鬱な気分にさせた。
期待していたんだろうか……
あんな風に拒否されても……
はあと溜息を付き、そろそろ何もしない毎日が退屈になっている自分を自覚しながら、祐馬のうちに帰ることも出来ずに戸浪は如月のうちに世話になっていた。
如月の方はもちろん会社があったので、毎朝早く出ていき、そして遅く帰ってくる。昔から仕事好きなのは知っていたが、毎晩持ち帰る書類の山を目ざとく見つけては、変わっていないんだなあ……と戸浪は呆れるやら、可笑しいやらであった。信じられないくらい如月は優しく、戸浪の面倒を見てくれる。こちらが欲しいなと思っているものをいつの間にか買ってきてくれることもしばしばあった。
その細やかな気遣いをありがたく思いながらも、昔のような感情はこれっぽっちも沸かない自分に少しだけ罪悪感があった。
それにしても、私もそろそろ会社に行かないと……
戸浪はそんな事を考えながら、ぶらぶらと公園を歩き、ベンチに腰をかけた。そして最近いつもしているように、何もせずにぼんやりと雲が流れていく様子を何時間でも眺める。
趣味が無いとこんなに無気力になるのか……
雲は上空の風に乗り、その形をどんどん変えていく。その一瞬たりとも同じ形をとらない雲を見る度に、自分だけが止まった時間の中で、膝を抱えて小さくなっているのが分かる。
祐馬のうちへ帰ることも怖くて出来ない。会社に行くのも何だか億劫なのだ。
それでも、もう限界かもしれないな……
今日か明日かと祐馬からの連絡を待っていた。あれ程拒否されたにも関わらず、戸浪は待っていたのだ。だから会社にも行かず、又来ると言った言葉を祐馬の社交辞令と取れずに待っていた。
連絡は無い……
祐馬は来ない……
この辺りで本当に自分も切り替えなければならないのだろう。
そうして伸ばし伸ばししていた事に、戸浪はようやく決心をつけ、七時過ぎ頃祐馬のマンションへ向かった。その途中にある、通い慣れた道を歩きながら戸浪は酷く懐かしく思えた。
この道を通り通勤電車に乗るのだ。それは毎日の事で、祐馬と一緒に歩くことも多々あった。
手を繋いで駅まで行きたいと、だだをこねたこともあったが、それすら懐かしく思い出す。人間、こんな風に回顧するようになると終わりだなあ……等とちくりとした痛みと共に考えながら、ようやくマンションの駐車場に入った。するとはやり気になるのが、この間時計を拾った場所であった。そうであるから自然と視線がそちらに向かうことは避けられなかった。
その場所から少し離れたところに祐馬の車が止めてあるのだが、何故かそこに祐馬が立っているのが見えた。正確には車から降りてきたところを戸浪は見つけたのだ。
祐馬……
駆け寄りたい気持ちを抑えて、そっと近づこうとすると助手席から見たことのない男性が降りた。
戸浪よりもどちらかというと細身の男性は、きっちりとした紺のスーツを着ていた。だが顔かたちは周囲が暗い所為かよく分からない。その男性の声がとぎれとぎれ聞こえてきた。
「……た方がいいですよ……」
すると祐馬が車のフロント部分を拳で叩く。
「俺は許せないものは、許せないんだっ!」
酷く興奮したその祐馬の声は、その相手の男性の声とは違い、はっきりと聞こえた。
許せない……?
それは私のことか?
……
……そうか……
近寄ろうとしたのを止め、戸浪はこちらが見つかる前に先に上に上がろうかと思ったが、もし、その男も一緒に上に上がって来たとしたら鉢合わせになる。
それは避けた方が良いのではないかと戸浪は本気で思った。
仕方無しに、戸浪は駐車場の影に隠れようときびすを返そうとすると、祐馬と一緒に居る男と目があった。その瞳は何故かこちらを睨んだように見えた。
もしかして……
あの男は……
新しい恋人か?
「戸浪ちゃんっ!」
男に教えられたのか、祐馬はそう言ってこっちに走ってきた。男の方は近くに止めてあった車に乗り、さっさと去っていった。
誰かは知らないが……
向こうは私が誰だか分かっているようだな……
その去っていく車を眺めながら戸浪は複雑な気持ちに駆られた。
「戸浪ちゃんっ!どうしたの?」
祐馬がようやく戸浪の側まで来て、嬉しそうにそう言った。その台詞と表情が何だか間が抜けているような気がして仕方ない。
「あ……いや……荷物を……な。明日からでも会社に出ようと思って、当面の荷物と自分の車を取りに来たんだ。他の荷物は週末にでも……」
視線を避けるように、ややうつむき加減にそういうと先程嬉しそうな声をしていた祐馬が急にトーンを落として言った。
「そ、そうなんだ……」
「……色々済まなかったな……」
他に言いようが無く、戸浪はそう言ったが、祐馬の返事はなかった。
「……うちに入れて貰えるかな?」
一緒に住んでいたうちだ……
こんな風に言う日が来るとは戸浪にも思いも寄らなかった。
「あ、……うん」
小さな声で祐馬はそう言い、くるりと向こうを向いて歩き出した。その後を戸浪は追った。エレベーターに二人で乗ったのだが、同乗者が居ずに何故かとてもお互い居心地が悪かった。
何か言い足そうな祐馬なのだが、結局何も言わずに玄関まで無言であった。
祐馬が扉を開け、中に入ると戸浪もそれについて中に入った。すると懐かしい匂いが戸浪の鼻を掠めた。
……ああ……
ここにいるとホッとする……
だがもう……戻ってはこれないんだな……
そんな事を考えて、涙が出そうになるのを戸浪は必死に堪えた。
「上がって……」
「あ、ああ……。勝手に荷物を詰めるから、放って置いてくれて良い」
戸浪はそう言って玄関を上がった。
「……うん……」
祐馬はそれだけ言うとさっさとキッチンへ行ってしまった。
……やはり……
先程の言葉は……
私に向けられた言葉なのだ……
許せない……
許せないんだな……
だから連絡もくれなかった。
又来ると言った言葉も叶えて貰えなかったのだ。
戸浪は、やはりどこかで期待していた自分を叱咤しながら仕方無しにクローゼットに向かった。
寝室に入り、何とも言えない感情が沸き上がってきた。胸にせり上がってくるものが、悲しいからなのか、それとも懐かしいからなのかそれすらもう判断が付かない。
戸浪は寝室から繋がるウオークインクロゼットに入ると、初めてここに来たときに持ってきたスポーツバックを取り、とりあえずの衣服を詰めだした。
最初ここに来たときは随分と困ったんだがな……
祐馬を痴漢と間違えて手首を骨折させ、一人では生活が出来なくなった祐馬の面倒を見るためにここに来たのだ。
結局痴漢は祐馬だったのだが、下手をすると犯罪になっていた事をした時は、きっととても愛されていたのだと思うと、又涙が出そうになった。
許せない……か……
スーツをいくつかハンガーから下ろし、手が止まる。
許せないのだ……
先程聞いた言葉のあの怒りに満ちた祐馬の声が、胸に突き刺さって戸浪を苛む。
祐馬……
悪かった……
本当に済まなかった……
お前にそこまで思わせてしまったんだな……
キスマークを見つけた時の祐馬の顔が今でも戸浪には忘れられなかった。呆然としながら、言葉無く涙を落としていた祐馬の顔が、心に焼き付いているのだ。
怒るのも仕方ないだろう……
許せないのも分かる。
どうしてあの時接待などつき合ったのだ……
行かなければ良かったんだ……
そうしたら……
堂々巡りにそこに戻ってくる自分の後悔が、いつになったら心から去ってくれるのか戸浪には分からなかった。多分一生引きずって生きていきそうな気がするのだ。
そうして、とりあえずの荷物を作り、もう一つ大事なものを忘れていたことに戸浪は気が付いた。また寒くなったら出そうと思い、冬物の中になおしておいたウサギのサポートだ。
それは祐馬が戸浪の膝のことを思い、初めてプレゼントとして買ってくれたものであった。
これは……壊れたりしない……
手に持ってフワフワとした感触を味わいながら戸浪はそう思った。
結局いつもこれだけが私の元に残るんだろうな……
ずぶ濡れになりながら、迎えに来てくれた祐馬を今も戸浪は良く覚えている。あの時戸浪はこのサポートを奪われると勘違いして、必死に両手で守ったのだ。
これからも大事にしよう……
何度かそのサポートを撫で、それもバックになおした。
「戸浪ちゃん……」
「えっ……」
急に呼ばれて顔を上げると、扉の所に祐馬が立っていた。
「あのさ……夕飯作ったんだけど……食べる?」
言いにくそうに祐馬はそう言った。何故か戸浪は最後の晩餐……という言葉を思い出した。
「……お前が良いって言ってくれるなら……」
「折角作ったし……一緒に食べようよ……。あ、如月さんと予定あるなら……無理に言えないけど……」
困惑したような顔で今度は言った。
「いや……御馳走になるよ……」
そう言って戸浪はバックをもって立ち上がった。すると祐馬はキッチンへ歩き出した。それを追いかけるように戸浪もキッチンへ入った。
キッチンテーブルにはホットプレートが置かれ、焼きそばがこんもりと出来上がっていた。
「大したもの……無いんだけど……。来てくれるの分かってたらもちょっとましなもの用意できたんだけどさ……」
ははと笑って祐馬は言って冷蔵庫からビールの缶を取り出した。その戸には以前、戸浪が貼った祐馬の伝言がまだそこにあった。
それが酷く戸浪には嬉しかった。
「いや……突然来た私が悪いんだから……気にしないでいい……」
言って戸浪は椅子に腰を下ろした。久しぶりに祐馬と二人で食べる夕食だ。これが最後なのだからゆっくりしたっていいと、戸浪は割り切ることにした。
祐馬からビールを手渡され、それを空けて久しぶりに戸浪はアルコールを口にした。あの接待以来、アルコールを一滴も飲まなかったのだ。
その久しぶりに飲むビールはとても美味しく感じた。
暫く二人で焼きそばをつつき、会話もなくちびちびとお互い飲むビールがだんだん戸浪には息苦しくなってきた。
何か話してくれ……
何でも良いから……
そう思うのだが、祐馬は視線を避けたまま、こちらより早いペースでビールを煽っていた。
飲まなきゃやってられない……と言う感じだな……
断った方が良かったのかもしれない……
こちらはもう飲む気が冷め、両手で缶を持ったまま視線だけが彷徨ってしまう。祐馬の方を見たいのだが、その勇気が出ないのだ。祐馬の方は相変わらずハイペースで飲んでいるようであった。そんな姿を確認するのも辛い。
「……祐馬……そろそろ……」
と言って戸浪が顔を上げると、先程まで自分の前に座っていた祐馬が居なかった。驚いて、立ち上がるといきなり後ろから抱きしめられた。
「祐馬……?」
「戸浪ちゃん……俺……」
そう言って祐馬はこちらに回す手に力を込めた。その息苦しいほどの締め付けに戸浪は安堵感を感じた。もちろん振り払う気など起こらなかった。
「……うん……」
「今晩……帰らないでよ……」
それは……誘ってくれているのか?
お前……
一度私を拒絶したんだぞ……
でも……
今日はいいのか?
「ねえ……いい?」
ここで嫌だと言えば祐馬とは二度と抱き合うチャンスなど無い。戸浪は本当にそう思った。祐馬は酔っているのだ。酔って自分の言っていることが分からないのだろう。
それでも良い……
例え酔った勢いでも……
お前と一緒に抱き合えるのなら……
それでも良い……
最初で最後……
それで……十分だ……
戸浪はただ頷いた。