Angel Sugar

「終夜だって愛のうち」 第4章

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 戸浪ちゃん……
 戸浪ちゃんは納得してるんだ……
 そうなんだろ……
 信じられない……
 切れた携帯を握りしめて祐馬はその手が震えているのに気が付いた。
 この間聞かされた噂と、そして昨日、河野に聞かされた南原の話、何より本日、戸浪は接待に出ているのだ。それらどうつなぎ合わせても最悪の結果しか祐馬には想像できないのだ。
 笹賀建設の人身御供は戸浪なのだろうか?
 何時もそんなことをしてきたのだろうか?
 仕事を取るために誰とでも寝られるのか?
 違うっ!
 戸浪ちゃんはそんなこと絶対しないっ!
 いや、出来ないっ!
 出来ないはずだっ!
 誰とでも寝られるのなら、自分との事がこんなに先延ばしになるはずないとも思う。
 なにより噂では営業にその汚れ役をする男がいると聞いていた。だから設計に所属する戸浪がそんなことをするわけなど無いのだ。
 信じなきゃ……
 今晩はただの接待なんだ……
 別に心配することもない……
 遅くに電話かけるといい……
 きっと眠そうに電話に出てくれるはずだ……
 先輩が接待に出たとき、帰る時間を聞いたことがあるが、その頃くらいに電話をしようと祐馬は思った。
 俺……
 心配しすぎなんだよな……
 心配しすぎなんだ……
 だがその晩、いつまで経っても自宅の電話を取るものはいなかった。

 意識が少し戻ると、戸浪には何かが身体を這っているような感触が、皮膚から感じられた。だが身体が痺れて動かなかった。
 っ……くそ……
 手の先と足先に必死に意識を集中し、どうにか動かそうと戸浪はするのだが、上に乗った何かが重く動かない。その間も胸元や腰の辺りに粘着質なものが這う。
 気持ち悪い……
 ようやく開いた戸浪の目が捉えたのは、素っ裸の尾本が自分の上にのしかかっている姿であった。
「っ……この……っ!」
 ギリッと歯を食いしばり戸浪は絞り出すように声を発した。
「君の肌は奇麗だ……今までこんな肌を触ったことなど無いよ……」
 太い指が胸元を何度も行き来する。
「大丈夫だよ。仕事はちゃんとあげるから。大人しくしているんだ……」
 首筋を舌で撫でながら尾本はそう言ってニヤリと笑った。その顔はぞっとするほど気持ち悪い。
「誰がっ……あ……」
 私はこんな事をして仕事を取りたいと思ったことはないっ!
 どけっ!
 私の身体から離れろっ!
「うーーーっ……」
 痺れた身体を必死に動かしていると、ようやく少し身体が動いた。その動きに任せて戸浪は思いっきり膝を蹴り上げた。すると鈍い音が膝から伝わり、尾本はベットから転げ落ちた。醜い小太りの男は痛みで床に這いつくばる。
 今の膝からの感触から戸浪は、尾本のあばらが何本か折れたのが分かった。
 いい気味だ……
 本当は殺してやりたいくらいだっ!
 汚い手を使いやがって……
「がはっ!あっ……ぐあああっ……」
 痛みで床を転がる中年の男は、醜すぎる。
「はあっ……はあっ……お前になど……触られたくないっ!」
 身体を痺れで小刻みに震わせながら、戸浪はようやく身体を起こした。その上半身は裸であった。が、ベルトは外されているものの、ズボンはまだはいていた。
 その事にホッとしながら、戸浪はゆるゆると立ち上がり、床に投げ出されている自分のシャツを掴むと、なんとかそれを着た。
「仕事は……やらん……いや、お前の会社を告訴してやる……」
 尾本はだらしなくこちらに這いずりながらそう言った。
「勝手にしろ……私は……そんなことなど……どうでもいい。だが、貴様が告訴するなら受けて立ってやるぞ。そうなるとどうなる?お前の地位も名誉も地に落ちるぞ。汚い手で男を手込めにしようなんて……笑いものだ……いいのか?私は良いぞ。どうせ、未遂に終わって居るんだからな……恥ずかしくともなんともない。恥ずかしいのはお前だろうが……」 
 戸浪が冷たい目でそう言うと、尾本は「ううっ」と唸っただけで言葉を発することはなかった。多分折れたあばらが相当痛むのだろう。
「半殺しにされなかっただけでも……得したと思うんだな……。こっちは空手の有段者だ……。ここで殺すことだって出来るんだ」 
 息を吐き出すたびにそう言って戸浪は上着を羽織ると、テーブルに置かれた自分の鞄をもって、よろよろと部屋から出た。
 辺りを見回し、どこかのホテルなのは分かるのだが、場所までは分からない。
 何時だ……
 時計を見るのだが、戸浪の目は時計の針をぼんやりと霞ませる。
 ああ……もう……
 歩くのがやっとだ……
 とにかくフロントまで降りよう……
 痺れはまだ身体に残っており、真っ直ぐ歩けずに、戸浪は酔っぱらった様にフラフラと歩き、エレベーターに乗った。
 帰らないと……
 うちに……
 祐馬に電話を……
 声が聞きたい……
 一階に着き、やはりよろよろと歩きながらホテルのフロントを通り過ぎたところで戸浪は、ばったりと倒れた。それを見ていた、ボーイが駆け寄ってきた。
「お客様……大丈夫ですか?」
 そう言ってこちらの身体を起こそうと延ばしてきた手を、戸浪は払いのけた。
「触るなっ……私に……っ……!」
 無意識にそう言って戸浪はハッと我に返った。
「す、すまない……タクシーを呼んで欲しいんだが……酷く酔ってね……」
 身体を何とか起こし、床に座りこんだ戸浪はそう言って、息を吐いた。
「分かりました……」
 ボーイは驚きながらもそう言って、タクシーを呼びにフロントの内側に走っていった。
 怠い……
 その上、眠い……
 くそ……家木の奴……
 あいつもタダじゃ済まさないからな……
 だが今は無理だ……
 身体が言うことをきかない……
 まだ薬の効果が残っているのだろう。ただ、量が少なかったのか、自分の身体が、そういう物に効きにくい体質をしているのかは分からなかったが、とりあえず、意識ははっきりしていた。
 はっきりしないのは身体だけであった。
「お客様……表にタクシーをお呼びしましたが……」
 先程のボーイが駆け寄ってきたが、今度は手を出そうとはしなかった。
「そうか……ありがとう。悪いんだが……そこまで手を貸してくれないか?酔いが脚にきていて歩けない」
 戸浪がそう言って手を出すと、ボーイは恐る恐るその手を取って、身体を引き上げた。そうしてボーイに肩をかり、ようやく戸浪はタクシーに乗ることが出来た。
 タクシーのソファーに身体をもたれさせ戸浪は自宅の住所を、運転手に言うとそのまま目を閉じた。
 
 運転手に揺り起こされ、戸浪は目を開けた。
「お客さん着きましたよ」
「ああ、ありがとう……眠っていたみたいだな……」
 そう言って戸浪は精算を済ませると、やはりフラフラとマンションに入り、エレベータに乗った。
 ここまで帰ってきたらホッとした……
 フッと力が抜けそうな自分を、あと少しだと叱咤しながら、痺れた身体をようやく動かして、自宅の玄関を開け、中に入った。
 そこで一気に力が抜けた戸浪は、靴も脱げずにそのままそこへ倒れた。すると床のフローリングが頬にあたり、冷たい感触を伝えてきた。
 ああ……ホッとした……
 慣れた部屋の匂いは、戸浪の気分をドンドン良くしてくれたのだ。
 帰って来れた……
 無事に……
 戸浪は自分を過信しすぎたのだ。
 接待の相手が誰かを分かっていながら、自分は行った。だがこっちは酒に酔うことはまず無い。その上いきなり襲いかかられても、腕には自信がある。だから大丈夫だと思った。
 それなのに、家木がそういしたのか、向こうがそれを望んだのかは分からないのだが、薬を使って戸浪の身体を自由にしようとした。そこまでされるとは、これっぽっちも考えなかったのだ。
 だが普通、幾ら仕事が欲しいからと言って、相手の了解も取らずに犯罪まがいのことをするのだろうか?
 それで良いのか?
 もちろんあそこにいた家木は納得したのだろう。だが、設計の神谷も知っていて戸浪に押しつけたのだろうか?出張に行っていた設計部長の柿本も知っていて了解したのか?
 会社ぐるみで私を餌にしたのか?
 そうなのか?
 戸浪の身体一つで、百億からの仕事が取れるのなら、強姦されようが、いたぶられようがどうでもいいのだろうか?
 良いんだろう……
 良いのだ……
 関わる人間はみんな知っているのだ。
 情けない……
 なんて汚いんだ……
 そんな会社で私は働いているのだ。男を欲しがる施主には男を差し出す事もいとわない、それを納得してこなしている営業マンもいる会社で働いているのだ。
 怒りがこみ上げながら、戸浪は床に転がったまま、足先を振って靴を脱いだ。もう立ち上がるのも怠いのだ。
 祐馬……
 お前が電話であんな風に言っていたのは……
 こう言うことが分かっていたのか?
 知っていたのか?
 でも……
 大丈夫だ……
 私はちゃんと帰ってきたんだ……
 多少はベタベタ触られたが、その分、あばらを数本折ってやったぞ……
 はは……
 顎も砕いてやっても良かったな……
 床に身体を伸ばしたまま戸浪はクスクスと笑った。だが笑いながら涙がポロポロとこぼれ落ちた。
 祐馬……
 お前がここにいないのがこんなに寂しい……
 こういう時、抱きしめてくれる相手がいないのが本当に辛い……
 遠くで電話のベルが鳴っているのが戸浪には聞こえたのだが、もうそこから動けなかった。
 ああ……
 あれは祐馬からの電話だ……
 きっとそうだ……
 でも動けない……
 明日……
 明日電話するよ……
 声が聞きたいんだ……
 本当は……
 今、抱きしめて貰いたいんだけどな……
 戸浪はそこで意識を失った。

 目が覚めると、戸浪は自分が床で眠っていたことに気が付いた。
「……ああ……頭がガンガンする……」
 身体を起こし、壁にもたれながらぼーっと暫く座っていた。よく見ると、ちゃんと着たと思っていたシャツはボタンを掛け違え、尚かつくしゃくしゃだ。スーツの上着も似たようなものだった。ズボンははいているが、ベルトはゆるゆるで、良くこれで途中、脱げなかったのものだと言うほどだった。
 それは本当に情けない格好だった。
 全く……
 頭の芯がズキズキと疼く。飲み過ぎたのか、それとも薬の所為かは戸浪にも分からない。左手にはまる時計を見ると出社時間は過ぎていた。
 まあいい……
 シャワーでも浴びて頭をはっきりとさせるか……
 よっこらしょと立ち上がり、戸浪はバスルームに向かった。昨日よりましな足取りではあったが、余りしっかりしたものではなかった。
 そうしてバスルームに入ると服を投げ捨てるように脱ぎ、シャワーのコックを捻ろうとしてぞっとするようなものを見つけた。
 なんだこれは……
 上半身に付けられたキスマークは首下と胸元、それに腹にベタベタと鬱血した痕を浮き上がらせていた。それを見た瞬間戸浪は吐きそうになった。
 こんなものを祐馬に見られたら……
 幾ら何も無かったと弁解したとしても通じない……。
 いや……話せば分かってくれる筈だ……
 分かるか?
 理解できるか?
 誤解されるに決まっているぞ!
 自分の手で、赤く浮いた後をなぞりながら、戸浪はどうして良いか分からなかった。
 消えるまで黙っているしかない……
 その方がいい……
 何も無かったんだから……
 戸浪はようやくそう思うと、シャワーを浴び、何度も身体を洗う事で気持ちを落ち着かせた。そうして、温まった体をタオルで拭き、バスローブを羽織ると、キッチンへ向かった。
「……喉が乾いたな……」
 誰もいないキッチンで小さく戸浪はそう言うと、冷蔵庫を開け冷えたオレンジジュースを取り出しコップに注ぐと一気に飲んだ。
 はあ……
 今日はだらだらしていたい……
 そんなことを思いながら冷蔵庫を閉じ、祐馬が出ていくときに書いていったメモが目に入った。それは戸浪が貼りつけたものだった。
 祐馬……
 まだ帰られないんだな……
 手を伸ばして、メモを撫で戸浪は胸が痛んだ。
 出張は伸びないのだろうか?
 あと二週間ほど帰ってこない方がいい……
 あいたいのは山々だが、この身体に付けられたキスマークをいつまで隠し通せるか分からないのだ。
 だが隠さないと……
 自分が悪い訳じゃない。
 望んで付けられたものではない。
 それでも説明して分かって貰えるなら良い。
 だが分かって貰えるかどうか分からない事を自分から話すことが出来ないのだ。
 そんなことを戸浪が考えていると、携帯が鳴った。振り返ってキッチンから出ると、床に置きっぱなしの鞄から携帯を取り出した。見ると会社からであった。
「はい……澤村です……ええ、体調が悪くて……昼から会社に向かいますから……」
 それだけ言い、直ぐに通話を終えた。
 昼から会社に出てからすることは一つだった。仕事などする気など無い。家木を捕まえて何発か殴ってやらなければ気が済まないのだ。
 辞表の話はその後からで良い。
 こんな会社……
 辞めてやる……
 戸浪はそう心に決めたのだった。
 
 祐馬の仕事は最悪だった。朝から何をしてもミスばかりで、河野に怒られるより逆に心配された。
 朝方まで何度もかけた電話は最後まで繋がらなかったのだ。それが何を差しているかを認めたくなくて、結局徹夜明けで会社に出かけた。
 まだ混乱していて事態を把握できない。電話を取る人間が自宅にはいなかった。それだけははっきりとしていた。ただその理由を考えるのが祐馬には出来ないでいた。
 戸浪ちゃん……
 帰らなかったんだな……
 帰らなかったんだ……
 信じたくなかったが、それが現実なのだ。恐ろしくて戸浪の携帯には電話をすることは出来なかった。それは朝からも続いている。
 何時も出していたメールすら出せないのだ。
 祐馬はぼんやり椅子に座りながら、窓から眼下に広がる景色を眺めていた。
 俺は……どんな顔をして会えばいいのだろうか?
 何も知らない顔が出来るわけなど無いのだ。
 だが戸浪は仕事を取るために、誰かと寝た。
 会社から命令されたのかそれは分からないが、命令されたからと言って、身体を差し出す等考えたくはなかった。
 そんなことはないと信じていた。
 それでも電話は繋がらなかった。
 結果、最悪な事があったと認めるしかない。それに戸浪は相手がどういう施主か分かっていながら接待に出たのは祐馬も知っていた。
 全ては最初から決まっていたことなのだろう。
 戸浪ちゃん……
 俺……
 幾らなんでも……
 それを知らない振りをして一緒にこれからも暮らすなんて俺には出来ない……
 現実にそれが本当のことだと分かったら……
 俺は戸浪ちゃんに酷いことをしてしまいそうなんだ……
 だって……
 俺……
 戸浪ちゃんが好きなんだぞ……
 そんなことにまで幾ら仕事だから仕方ないと言うのなら、俺は許せない。
 絶対許せない。
「おい、三崎……どうしたんだ。朝から酷い顔して……仕事はミスばっかり連発するし……お前らしくないぞ……。何かあったか?」
 河野がそう言って、窓の外を眺めている祐馬の側に立った。
「……済みません……」
 その言葉しか祐馬には出せなかった。
「……ほんと……大丈夫か?」
「……はい……」
 言って祐馬の目線が下がる。
 ちゃんと確かめるまでは、戸浪を信じようと祐馬は思った。戸浪がそんなことをするとはどうしても考えられないのだ。
 接待に疲れてそのまま寝てしまったかもしれない。だから電話のコールする音も聞こえなかったのだ。
 そうだ……
 そう言うことなのだ。
 戸浪とかわした誓いは、そんな簡単に壊れるものでは無いはずだ。
 信じなくてはいけない。
 信じるに値する恋人であることは祐馬も良く分かってるからだ。
 俺……
 信じてる……
 絶対違う……
 帰ったら……
 俺達今度こそ抱き合うんだもんな……
 約束したんだ。
 ようやく俺達本当の恋人同士になるんだもんな……
 戸浪ちゃん……俺……信じてるよ……
 祐馬は必死に自分にそう言い聞かせた。

 昼から出社し、戸浪は設計にある自分の席には行かずに、そのまま営業部に向かった。その戸浪の目線はずっと家木の姿を探している。
 あの男は何処にいる……
 キョロキョロと探して見つけた家木は、同僚と話しながら笑っていた。
 そうか、楽しいか……
 そんなに欲しかったのならお前が相手をすれば良かったんだ。
 人を馬鹿にするのもいい加減にしろ。
 足早に歩き、家木の座る椅子の後ろに立つと、戸浪に気が付いた同僚が家木に言った。
「お前に客みたいだぞ……」
「え?」
 その振り返った家木の頬に、思いっきり戸浪は拳を飛ばした。その勢いで、家木は椅子から転げ落ちて床に倒れた。家木の同僚が驚いた声で「あんたっ何するんだっ!」と言うのだがそれを無視し、倒れた家木の胸ぐらと掴み、今度は鳩尾に拳を飛ばす。すると家木は「ぐはっ」と言って、顔色を真っ青に変えた。そんな様子を見ていた回りが突然の出来事で、凍り付き、事務の女性が悲鳴を上げたが、戸浪にはそんな声など聞こえなかった。
「おい、ふざけた真似をしやがって。お前には悪いが、昨日の晩、お前と同じように尾本にも拳を突きつけてやった。お陰で私は無事だったが、後でその責任を負うのはお前だ。いい気味だ」
 クッと笑い、立ち上がると、営業部長がこちらに意味ありげな目を向けてきた。だが何も言わないところを見ると、家木が何をしたのかを何となく理解したのだろう。
 ぐるか……
 はっ……馬鹿にされたものだ……
 もうその場にいるのも馬鹿らしくなった戸浪はそのまま営業部を出ようとすると、騒ぎを聞きつけた川田が走ってきた。
「澤村っ!お前一体何をやってるんだっ!」
 こちらを掴もうとする川田の手を払いのけ戸浪は言った。
「誰も……私に触るなっ!」
 川田はその言葉に凍り付いたようにその場から動かなくなった。戸浪はそんな川田を置いて、営業を後にした。
 設計部のフロアに入ると、直ぐに部長席に向かった。
「澤村君、大丈夫か?なんなら本日一日休んでも良かったんだぞ」
 どういうつもりで柿本が言ったのか分からないが、戸浪には含みがあるように聞こえた。
「部長……お話があります……」
 もういい……
 辞めるんだ……
 どうとでも思え……
 戸浪はもう投げやりな気分になっていた。
「そうか……じゃあちょっと打合せ室にいくか……」
 そう言って今見ていた書類を、机に置くと柿本は立ち上がった。
「済みません……」
 社交辞令的に戸浪はそう言い、柿本が先導するのに付いて、打合せ室へ二人で入った。
「で、どういう話なんだね?」
 柿本は人の良さそうな目をこちらに向け、微笑みながらそう言った。身体は大きく、やや中年太りの体型であったが、それに伴う威圧感より、ふくよかな顔に丸い小さな瞳が柿本の全体の雰囲気を和らげ、可愛らしく見せている。性格も温厚で設計部の人間に慕われていた。
「昨晩……私は営業の家木に頼まれて接待につき合わされました」
「君が?設計なのにかね?」
 驚いたような顔で柿本は言った。
「ええ……ところで笹賀の営業が他の同業にどう言われているか知っていますか?」
「何のことだ?」
「仕事を取るためには男とでも求められれば平気で寝る営業マンがいると噂で聞いております。それが本当かどうか私は知りませんが……」
「君はそう言うことを本気で言っているのか?そんなもの噂にすぎん」
 腹立たしげに柿本はそう言った。
「……私も信じてはいなかったのですが……。私に頼んだところでそんなこと、了解しないと分かっていたのでしょうね。施主にせがまれたのか知りませんが、接待と称してつき合わされ、挙げ句の果てに営業の家木に薬を盛られて私は餌にされかけたんです。何とか逃げ出しはしましたが……。こう言うことを会社は黙認しているんですか?」
 戸浪が冷たく言うと柿本は驚いたまま声を出さなかった。
「信じたくは無かったのですが……。先程営業に苦情を言いに行ってきました。ですが、あちらの部長は了解済みだったようです……。もしかして柿本部長も了解されていたのですか?私のことを…」
「澤村君っ!」
 戸浪が言い終わらないうちに柿本はそう言って怒鳴った。その顔は今まで見たこともない程怒りに満ちていた。
「私はそんなこと聞いておらん!営業がどんな方法で仕事を取ってくるのかなどどうでもいいが、うちの部下に一体どういうつもりなんだっ!」
 なんだ……
 知らなかったんだ……
 戸浪はその怒鳴る柿本を見て、そう思った。同時にホッとする。
「……私は会社を辞めるつもりです。受け取ってください……」
 言って戸浪は辞表を出した。
「……受け取れないな……」
 浮かせた腰を落とし、ソファーに座ると柿本はようやくそう言った。
「私は……どんな所であっても自分に誇りを持ち続けていたい……。それを踏みにじられるような所で働く気はありません。確かに営業が仕事を取らなければうちの部署の仕事も廻らない。だからといって、自分の誇りを捨ててまで、営業に協力などできやしません。それが通らないのなら……辞めるしかないでしょう」
 戸浪はそう言って立ち上がった。
「診断書のいらない病欠は十日が限度だ。もしそれを超えても君が会社に来なかったら、自動的に退職になる。それまでには来て欲しいと思うが……」
 柿本の言葉を聞きながら戸浪は後ろを振り向かずに顔を左右に振った。
 もうここに来る気は無いのだ。
 帰ろう……家に……
 すべての用事は済んだのだ。
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