Angel Sugar

「終夜だって愛のうち」 第6章

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「どうしてだ?」
 戸浪はようやくそれだけを言った。
「さあ……俺にも分からないな。なんか色々あったんじゃないのか?まあいいんじゃねえの。取れたんだから」
 それが困るんだ……
 その話を同じ同業である祐馬が聞いていない訳は無い。
「そうか……分かった」 
「ああ、そうだ、ほら、家木んところの営業部長な、あの柿本部長にどうも殴られたみたいだぞ。本人は何も言わないから分からないけどさあ、はは。そんなところで許してやれよ」
「……もう……いい」
 会社の話は今、何も聞きたくなかった。
「……まあ、お前も色々考えることはあると思うが……。あんまり考え込むなよ。じゃあ、また電話するよ」
「……ああ……ありがとう……川田」
 受話器を下ろし、戸浪はその場に座り込んだ。
 祐馬は、うちがアルファクレールを取ったことを知り、やっぱり……と思うのだろうか?
 あれから祐馬とはずっと会話がないのだ。何かを話そうとはするのだが、何を話して良いのか分からない。元々祐馬から話しかけてくれて会話が成り立っていたようなものだった。そうであるからこちらから何か……と言うのが口べたな戸浪には難しい。その上、祐馬は毎晩遅く帰ってくるのだ。その気持ちが理解できる為に戸浪は、仕事か?何処に行ってたんだ?等と聞ける筈など無かった。
 何も知らない顔をして、先にベットに入り、眠った振りをしてやる。それが良いと思ったからそうしていた。
「祐馬……」
 座ったまま視線を窓の外へと向けると、今朝から降り出した雨は、上がる気配もなく降り続けているのが見える。その頭上にあるたれ込めた雲は戸浪の気分そのものだった。
 嫌だな……
 雨の日は……
 昔から良いことがない……
 雨音だけが響く部屋で、戸浪はテレビも付けず膝を抱えて薄く溜息をもらした。
 祐馬が今晩帰ってきたら何と言えば良いのか戸浪には分からなかった。話さなければならないことは全部話した。隠さずに本当のことを話した。だからもう戸浪には何も話すことがないのだ。
 膝を抱いている左手首に祐馬から貰った時計が、はまっている。それを指で撫でながら戸浪は目を閉じた。
 ……大丈夫だ……
 分かってくれる……
 何より本当に何も無かったんだから……
 私は、自分を恥じることなど何もしていないんだ……
 祐馬……
 こんな風に私を一人にしないでくれ……
 一緒に暮らしているのに酷く寂しい……
 側にいるのに……お前が分からない……
 私は……お前に慰めて貰いたいんだ……
 お前と触れあいたいんだ……
 頼むから……もう……許してくれ……
 堪らないんだ……お前に誤解されている事が……
 
 だがその日、祐馬は帰ってこなかった。



 晩遅く帰ってきたのは良いが、うちに入られず、祐馬はマンションの扉の前に座り込んだままそこから動けなかった。
 会社でアルファクレールは笹賀が取ったと聞き、それからの記憶があまりない。仕事をしていたような気もするが、フラフラしていただけの様な気もする。河野が心配してくれたが、それすら耳に入らなかった。
 戸浪はやはり寝たのだ……
 だから仕事が取れたのだ。
 その事が酷く自分を苦しめていた。
 戸浪は何も話さないが、何か言いたそうなのは祐馬にも分かっていた。だが自分が口を開くと、どうせ酷いことしか言葉にならないのが分かっていたため、沈黙することを選んだのだ。
 戸浪と交わした誓いは、真剣なものだった。これからずっと二人で生きていくんだと本気で決心したのだ。だから指輪の代わりに時計を交換した。ただの時計ではない。指輪と同じ重みのものだと祐馬は思ってきた。
「……病めるときも……健やかなるときも……か……」
 雨の降る真っ暗な空を仰ぎ見て祐馬は呟くように言った。
「あの誓いすら、戸浪ちゃんを引き留めるものにならなかったんだ……」
 所詮、どんな言葉であろうが、約束であろうが永遠のものなど無いのだ。物事は何時だって誰かに破られる。そして新しい言葉と約束が出来るのだろう。
 たぶん、ここで限界なのだ。
 祐馬はここまでしか我慢できないのだ。
 どうにか戸浪を信じようとした。だが駄目だった。どうしても許せないのだ。
 何故、恋人がいるのに、他の……それも仕事上で知らない男と寝られるのだ?
 どう考えても、それが祐馬には理解が出来ない。確かにそう言うことが他でも実際にあるのは知っている。知らない等とうぶなことは言わない。アメリカの東都でアルバイトしていたときも頻繁にあった。実力も必要だが、そうやって仕事を取ることもあるのだ。
 ビジネスだと割りきっている人達だから、彼らのその考え方に異論を唱える気はない。自分には出来ない。それだけであり、納得している人の事を非難することはしない。
 ただ、戸浪がそんな考え方をもっていること自体が許せないのだ。割りきることなど出来ない。戸浪は他人じゃないからだ。
 戸浪は自分の愛する人であり、一緒に暮らしている恋人なのだ。それなのにどうして割り切れるというのだ?
 信じたい……
 信じるつもりだった……
 だが現実に答えを突きつけられて、どう目を閉じ、それを見ないようにしていいのか分からない。見えてしまったものを今更見なかったとは言えない。それが自分の性格だとしたら、多分曲げることは出来ないのだ。
 ふと、本当にクスリを盛られたのかとも思うが、自分と同じ会社に働く相手にそんな汚い手を使うだろうか?と疑問しか浮かばない。逆に本当にそんなことになったら、帰ってこられる訳など無いだろう。
 違う……
 戸浪ちゃんにそんなこと出来るわけなんかないっ!
 俺は知ってる。
 毎日一緒に暮らして分かってる。
 自分が知っている戸浪は、仕事上で誰かと簡単に寝たりなど出来ない人間だ。どうしてそれを信じられないのだろう。自分が見た、感じた事を何故信じられないのだろう。噂などどうでもいい。誰が何を言おうと、自分が見た、そして愛した戸浪を信じておればそれで良いのではないのか?
 両面に別れた二つの答えを、ずっと祐馬は選べずに今日まで来た。自分でも何が本当で嘘なのか分からない。だが会社でアルファクレールを笹賀が取ったと話が出たときに、周囲の分かっている営業マンは、口々に、「やっぱりうちも綺麗な男がいるよな」「俺で良かったら相手になったのになあ……」等と言ったのだ。その言葉だけでも何故か戸浪を酷く汚されたように思え、祐馬はその営業マン達を殴りそうになった。
 
「でもその笹賀の汚れ役の男って誰かとつき合ってるんだろ?」
「そいつ騙されてるって事だよな……」
「上手い嘘を付かれてるんじゃねえの?」
「よっぽど馬鹿か、お人好しなんだろう」
「それともアレがすごくて離れられないとか?」

 そんなこと誰が何処で知るのか分からないが、営業部は本日その話題でもちきりだったのだ。
 それは笹賀にいる、営業の男だろう?
 そんな奴がいるんだろう?
 戸浪ちゃんじゃないっ!
 戸浪ちゃんは設計だっ!
 一緒になんかするなっ!
 そう必死に自分に言い聞かせるのだが、信じようとする祐馬の心はもうボロボロだった。
 
 一晩結局眠ることが出来ず、戸浪は祐馬が帰ってくるのをリビングのソファーに座って待っていた。
 時計を見ると、七時過ぎだ。本当ならそろそろ起き出し、自分の担当になっている朝食を戸浪が作る。だがそれも最近は出来なかった。その前に祐馬がうちを出ていったからだ。
 昨晩は何処かに泊まったのだろうか?
 酷くショックを受けたのだろうか?
 そう思いながら戸浪が目を擦っていると、玄関の開閉する音が聞こえた。
 帰ってきた……
 どうする……迎えてやったほうがいいのか?
 そう思った戸浪が立ち上がろうとしたところで祐馬がリビングに入ってきた。
「あ、お帰り……」
 そんな言葉しか戸浪はかけられなかった。
「俺……俺にその気はなかったけどさ……女と寝てきた……」
 ぽつりとそう言って祐馬は戸浪の座るソファーの前に座った。
「え……」
「俺のこと戸浪ちゃん……責める?」
 何をどう責められる?
「……いや……」
 言って戸浪は目線を落とした。
「それは自分もそうだから人を責めることは出来ないって事?」
 祐馬の口調は急に強くなった。
「……」
「それとも、俺なんか誰と寝たって関心なんかない?」
 もちろん嫌だ……
 それでも……
 今この状態で何が言えるんだ?
「……祐馬……」
「俺は……ある。戸浪ちゃんが誰かと寝るのなんか……考えたくない。すげえむかつくし……辛い……。なのに同じ事した俺のことなんとも思わないの?」
「……私は……もう……何も言えない……」
 全ての事を祐馬に話した。これ以上何も話すことが無い。
「もう……関心ないんだ……俺の事なんかさ……だから自分は誰とだって……」
 溜息に似た吐息と共に祐馬はそう言った。
「いい加減にしてくれっ!私は全部話した。それ以上何も話せない。そんな風に私を責めないでくれっ!」
 戸浪は下を向いたままそう怒鳴った。
「責められて当然なのは戸浪ちゃんだろ?でも……俺も同じ立場になったから言えないか……。これでお互い様なんだよな……」
 お互い様って何だろう……
 お前はそうやって納得するのか?
 だが私は何も無かった。
 それを祐馬が信じてくれないだけだ。
「私は何も無かった……どうして信じてくれない?」
 震える声で戸浪は言った。
「じゃあ……さ、俺も女と朝まで一緒にベットにいたけど何もなかったって言ったら信じてくれる?」
「……ああ……」
「ほんとに?」
 くどく祐馬がそう言うので戸浪は頷いた。
「嘘ばっかり……。俺、ずっと戸浪ちゃんに焦らされた分、歯止めがきかなかったと思わない?別に好きでなくても誰だって抱けるよな……そんで、残り香付けて帰ってきても信じるんだ?それって分かってて知らない振りするだけだろ?そんな事戸浪ちゃんに出来るんだ」
「……祐馬……もう……止めてくれ……」
 下を向いた顔を手で覆って戸浪は言った。
 どうしようもない所まで来ているのだ。祐馬はもう何を言っても信じてくれないだろう。こうやって戸浪を責めるのも辛いのかもしれない。
 誰かを責めることなど祐馬は元々苦手なのだ。その祐馬がここまで言うのだから、どう取り繕っても無駄なのだ。
 分かっていても……
 それに気が付いていても……
 私は……
 僅かな希望があるなら……
 元通りに戻りたいんだ……
 お前と暮らす穏やかな日を……
 取り戻したいんだ……
 駄目なのか?
 もう……
 どうにもならないのか?
「どう……どう言えば……分かってくれる?どうしたら許してくれるんだ……。何だってする……だから……」
 顔を覆った手から、涙がこぼれ落ちてカーペットに吸い込まれていく。
「戸浪ちゃん……」
 近くで声が聞こえた事で戸浪は顔を思わず上げた。すると祐馬は目の前に膝をついてこちらを見ていた。
「祐馬……頼む……それ以上……言わないでくれ……もう……辛くて仕方ないんだ……」
 ポロポロと涙を落としながら戸浪は必死にそう言った。
「そうだよな……」
 言って祐馬はこちらの手を取った。
「え……」
 祐馬はこちらの左手首にはまる時計を外し始めた。
「まって……これはっ……!」
 自分の手首と祐馬を交互に見て戸浪は叫んだ。だが祐馬の表情は変わらなかった。
「祐馬ッ!頼むっ!これは私のものだっ!私のっ!」
 無理矢理外された時計は、今は祐馬の手の中にあった。
「返してくれ……頼む……それは……」
 お前とそろいの……
 指輪の代わりに交わした時計だ……
 私の宝物なんだ……
「……なんで?もう必要ないだろ……」 
 言って祐馬は自分の時計も外す。そうして手の中に二つの時計を持って、ベランダの方へ歩いて行った。
「祐馬……こんなの嘘だ……待ってくれっ!」
 ガラッとベランダを開け、祐馬はこちらを向いた。
「戸浪ちゃん……俺ね……思うんだ……」
 悲しげに笑みを浮かべて祐馬は言った。
「……何を……」
「誓いなんか所詮……絵空事だったんだ……ってさ」
 言いながら、外の方へ祐馬は向いた。そこへ戸浪もようやく近づき声を掛けようとすると、祐馬の手は外に向けて伸ばされていた。
「……待て……何を……」
 声が震えて……言葉にならない。
 何を言って良いのかも分からない。
「誰も下にいないみたい……」
 ふとそう言って、祐馬は握りしめていた手を広げた。すると先程まで祐馬の手の中にあった時計が下に落ちる。すると遠くから何かが壊れる音聞こえた。だがこちらから下を見ても雨で煙って見えない。
「あっ……あーーっ!」
 祐馬の腕にしがみついて、戸浪は叫んだ。
「……もう……いらないし……いいよな……」
 淡々と祐馬はそう言った。
「あれはっ……あれは私の時計だっ!どうしてっ……どうしてこんな事をするんだっ!」
 もう頭がパニックで、まともにものが考えられなかった。
「……あれは……俺の信じてた戸浪ちゃんにあげたんだ……」 
 それはもう私を信じられないということなのか?
 そうなのか?
 嘘だろう?祐馬……
「祐馬……」
「壊れたら……もう修理なんか出来ないだろ?あの時計って俺達みたいだよな……」
 言って祐馬が初めてそこで涙を見せた。
 祐馬も苦しんでいることが戸浪には分かった。それが余計に胸を痛ませた。
「そんなことなんかないっ!何だって壊れたりしないっ!壊れたら……直せば良いんだ……何度でも……何度でもだっ!」
 だが祐馬はその言葉に何も返してこなかった。
 戸浪はそんな祐馬を置いて、マンションを飛び出すと、エレベータに乗った。そして一階に下りると、先程時計が落とされた場所を探した。
 すると、丁度駐車場の端に光るものを見つけた。上を見上げると、確かにうちのベランダが見えた。
 戸浪はそこに近づき、文字盤の硝子が砕けた時計を見つけた。
 なおせるよ……
 壊れたら……直せば良いんだ……
 そうだろ……祐馬……
 雨が降りしきる中、戸浪は必死に硝子のかけらの一つ一つまで拾った。身体の熱が冷たい雨でどんどん奪われていく。涙が零れているのだが、雨の所為で誰にも気付かれないだろう。濡れた髪が顔に張り付くのを腕で払いながら、這いずるように欠片を探した。数人のマンションの住人が気付いてこちらを見ていたが、戸浪にはそんなものどうでも良かった。
「戸浪……?」
 自分の名前を呼ばれ、フッと顔を上げると、如月が傘をさして立っていた。何時日本に戻ってきたのだろうと思いながらも、また視線を落として、時計の残骸を拾う。
「何をしてるんだ?」
 雨が急に止んだのは、如月がこちらに傘をかけてくれたからだった。 
「え、ああ……時計を……」
「時計?お前……時計を握ってるのか?」
 そう言って如月がこちらの手首を掴もうとするので、その手を払った。
「これは……私のものだ……」
 誰にも渡さない……
 大切な私の宝物なんだ……
「分かった……取ったりしないよ。だが、お前……手から血が出ているの分かってるのか?」
「血……?」
 濡れたコンクリートに座り込み、視線を下に向けると手が血まみれになっていた。誰にも奪わせないと思った気持ちがそのまま手に力を込めていたのだ。
 だが痛みは感じなかった。 
「ああ……痛くないから大丈夫だ……」
「どうした?」
「それより……又日本に帰ってきたのか?」
 言いながらも戸浪の手は、砕けた時計の破片を探して、コンクリートの上を彷徨っていた。 
「……ああ、今度こっちで働くことになってね……ここは通勤路だ。だから私のことはいい、お前は靴も履かずに何をやってるんだ……」
「……大切なものを……拾ってる……」
 自分の手を休ませることなく、戸浪はそう言った。
「……祐馬と何かあったのか?」
 その言葉に身体が震えた。
「何も……何もないよ……心配してくれなくても良い」
「戸浪……手を治療しないと血が止まらないぞ……」
 宥めるように如月はそう言った。
 確かに自分の回りに、血の滲んだ水が雨によって流れているのが分かる。だがもう少し、破片を集めないと修理が出来ないはずだ。全部集めて直して貰わなければと戸浪は思った。何より手はちっとも痛くないのだ。
「大丈夫だ……大したことはないよ……」
「駄目だ……もう止せ……」
 ガッと手首を如月に掴まれ、身体を引き寄せられた。
「全部っ……集めないとっ!修理に出すんだっ!如月っ……離せっ!」
 掴まれた手首を振り払おうとしたのだが、如月の掴む手は緩まなかった。
「後はもう小さな硝子の破片だ……そんなものは持っていってもどうにもならない。今、お前が持っているもので充分だよ……」
 そうなのか?
 これでいいのか?
「……そうか?」
「ああ……充分だ……」
「良かった……そうか……もう充分か……。じゃあ……帰るよ」
 言って戸浪は如月から離れて、裸足で歩き出した。その後を如月がついて、傘を差してくれていた。
「何だ……?お前が付いてくると、又ややこしいから来るな……」
 戸浪は振り返って如月にそう言った。
「祐馬には顔を見せないよ。お前が心配だからな。玄関まで送ってやるよ……」
 如月はその口元に何とも言えない笑みを浮かべてそう言った。
「……そうか……なら……顔を見せるなよ……」
 もう一度言うと、如月は呆れたように頷いた。
 戸浪がエレベータに乗ると如月も傘を畳んで乗ってくる。そんな如月をジロリと戸浪は睨みながらも、追い返すことはしなかった。何となく誰かに側にいて欲しいと思っていたからだろう。
 そうして玄関までくると、もういちど振り返って如月に言った。
「ここでいい……」
「入るのを見届けてからな……」
 数メートル離れた所から如月は言った。あの位離れていたら分からないだろう。
「……近づくなよ……」
「はは……分かってる」
 如月を信用して戸浪は扉を開けようとしたが、自分が鍵を持って出なかったことにようやく気が付いた。
「祐馬……開けてくれ……鍵を……忘れたんだ……」
 インターフォンにそう話しかけるのだが、返答は無かった。もしかするともう会社に出かけてしまったのかもしれない。いや、まだいるはずだ……。
「祐馬……開けてくれ……」    
 項垂れた頭を扉に押しつけて下をじっと見ながら戸浪は言った。
 もう出ていったのかもしれない……
 折角時計を持って帰ってきたのに……
 昼から修理に持って行くにも車のキーがいる……
 それらは全てこのうちの中だ。
「……祐まあ……」
 ちゃんと修理して元通りになったら……
 お前は許してくれるか?
 壊れたものでも……直ると信じてくれるか? 
 私を……信じてくれるのか?
「済まない……私を……許してくれ……中に入れてくれ……」
 祐馬……
 こんな終わり方は嫌だ……
「私を……信じてくれ……」
 ちがう……終わりなんか……
 信じない……
「……ゆ……まあ……」
 お前と暮らした穏やかな日常を……
 もう一度私に与えてくれ……
 他には何も求めないから……
 何もしてくれなくて良いから……
 側にいるだけで良いから……
「戸浪……止してくれっ!」
 そう言ったのは如月だった。 
「如月……なんだ……まだいたのか?」
 数メートル離れていた筈の如月は、いつの間にか自分の目の前にいた。
「もう……止せ……あいつはいないんだろう……」
 如月に肩を掴まれ、扉から引き剥がされた。
「……ああ……そうかな……。会社に行く時間だから……行ったのかも……」
 何とか笑顔を作って戸浪は如月にそう言った。だが頬を伝う涙が止まらなかった。
「……戸浪っ……もう……いい」
 そう言った如月に戸浪は抱きしめられた。本当ならそこで拒否しなければならないのだが、もう戸浪にそんな力など残っていなかった。
「……じゃあ……ここで待ってる……。夜には帰ってくるし……最近は遅いんだけど……な……。帰ってきて家に明かりが灯っているのは……とても安心できるだろう?何時も私がして貰っていたから……今度は……私がしてやらないと……」
 ぼんやりと戸浪はそう言った。なんだかもうドンドン力が抜け、立っているのも辛いのだ。
「戸浪……何も言うな……。泣きたいだけ泣いたらいい。だからそんな辛い台詞は言うな……もう……言うなっ!」
 ギュッと抱きしめられて、戸浪は胸が詰まった。その上身体のあちこちが痛い。
「……私は……大丈夫だ……泣いてなんかない……」
 終わったなんて信じない……
 だから泣くこともない……
 辛くもない。
 祐馬が誤解しているだけだ。
 少しすれ違っただけだ……。
「……如月……お前も……会社に行かなきゃ……」
 戸浪はそう言って、如月の腕の中に崩れ落ちた。
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