Angel Sugar

「終夜だって愛のうち」 第2章

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 翌日、戸浪がアルファクレールの図面をパソコンに入力していると営業の川田がやってきた。
「よ~アルファ任されちゃったんだな……」
 コの字型になった机の端に腰をかける。
「意外に手こずってるよ……。これで取れないと水の泡だな……」
 戸浪はそう言って溜息をついた。
「三部の家木が担当なんだよな……」
「知ってるのか?」
「営業は十部署あるんだぞ。全員は知らないよ。だけど……アルファはやばいぞ」
 川田はそう言って意味ありげにこちらを見る。
「何がやばいんだ?」
 モニターを見ていた顔を上げて戸浪は聞いた。
「奇麗な男は関わらない方が良いって事だ」
「……お前なあ……何を言ってるんだ……」
 訳が分からないという風に戸浪は言った。
「え、お前噂知らないのか?三年もいて?」
 川田は驚いた顔で言った。
「何の話しだ……私は噂には興味ない。だからそんな話しも自ずと廻ってこないよ」
 クスッと笑って戸浪は言った。
「じゃ、ちょっと来いよ……話ししよう……」
 川田はそう言って、机にかけていた腰を上げた。
「そうだな……」
 戸浪はデーターの保存をかけ、立ち上がり、打合せ室で缶コーヒーを買うと二人で屋上に上がった。

 なんだか昨日の戸浪ちゃんすっげー素直だったなあ……
 面と向かって言いにくいタイプなのは分かってるけど……
 昨晩の電話でかわした内容を祐馬は朝から何度も思い出していたのだ。
 あの時の照れを隠すような戸浪の言い方は、何度思い出しても顔がにやけてしまうのが祐馬にも分かった。
「三崎……」 
 この出張が終わったら……
「三崎っ!」
 心も体も名実ともに俺達恋人同士になるんだよなあ~
「三崎って!」
「え?」
 頬杖ついていた顔を上げると、戸浪と同じ年の営業マンである河野がしかめっ面をしていた。
「あ、す、済みませんっ……あれ?」
 営業打合せをしていた筈だが、会議室にはもう誰もいなかった。
「お前なあ、幾ら寝てても良いって言ったからって、本気で寝るなよ……」
 河野はそう言って、祐馬の頭をこづいた。どうも、祐馬は社内の同僚や果ては上司にまで、からかわれる時など今のように頭をこづかれるのだ。
 俺の頭って殴りやすい??
 戸浪ちゃんだけかと思ったら、なんだか俺……会社でもこんな感じだよなあ……
 これって俺のキャラクターかもしれない。と最近は諦めていた。
「え、寝てはいませんって……起きてましたよ。ちょっと考え事してたら……ぼーっとしてしまって……はは。済みません」
 祐馬はそう言って、資料を小脇に抱えて立ち上がった。
「昨日遅かったのか?」
 河野はそう言って笑った。
「いえ……そうじゃないんですけど……」
 苦笑しながら祐馬は言った。
「まあ会議に参加している様に見せかけて、寝る技もこれから身に付くよ。どんな会議でも真剣になっていたら、死んじゃうよな」
「ところで……昼からは現地に行くんですか?」
 持っていた予定表を見ながら祐馬は言った。
「いや、昼からその予定だったんだが……ってお前、やっぱり会議寝てたんじゃないか……まあいいけど……。施主の都合が悪くなって、明日に変更だ。その代わり、施主の支店に行くことになった」
「そうですか……俺結構楽しみにしていたんですけど……現地見に行くの初めてなんです」
 わくわくとしながら祐馬は言った。
「はは、期待をくじくのは悪いけど、何にもないところだよ。これが竣工式ならいざ知らず、起工式なんかもう悲惨だぞ。埃舞う砂地獄だ。で、更に夏は悲惨だよ……熱いわ、何もないわでさ、特に広い敷地での起工式だと、トイレに行くにもバイクに乗って行かなきゃたどり着かない。そんな所の工事前の現場ってな、ただの空き地でもっと何もない。そんなもの見たいかな……」
 河野はそう言って又笑った。
「想像は付きますけどね」
 そんなことを話ながら祐馬と河野が廊下を歩いていると、大阪支店の営業マンが向こうから走ってきた。それは河野の同期の加賀田だった。
「河野っ!お昼行くぞ~おごりだ~。折角だから大阪の上手いもん食わせてやれって部長がお金出してくれたんだ。だからただ、ただ!」
「幾ら部長が出してくれたんだ?」
 河野は加賀田にそう言った。
「え、三千円」
「ははは、なんからしいな。それ松永さんだろ」   
「ケチで有名な松永さんが、三千円も出してくれた方が奇跡だって」
 と加賀田は苦笑して言った。
「じゃあ、三崎、何か食いに行こうか……時間もだいぶあるし……」
「俺も混ぜて貰っていいんですか?」
「だから俺が三千円奪ってきたんだよ。やるだろ?」
 胸を張って加賀田は祐馬にそう言った。
「三千円ぽっちで、偉そうにいうなよ……で、何食わしてくれるんだよ」
 三人で、自然にエレベータの方へ向かって歩きながら、会話は続いた。
「やっぱりうどんか、そば食って貰いたいな。俺、東京出張の時あっちで食ってえらいめにあったからさ。なんじゃこりゃ~食えるかってんだっ!机ひっくり返すぞーーってね。関東の人はこんなまずいの食って可哀相~って思った位だ。だから上手い麺類をご馳走するよ」
「お前それは偏見だぞ。美味いところだってあるってな、三崎」
 テンションの高い会話に付いていけず、祐馬は頷くだけに留まった。河野と加賀田は同期である気安さから、色々話も合うのだろう。だが、それならそれで、こっちが一緒なのは、なんだか悪いような気がした。
「あの~本当に俺、一緒でも良いですか?」
 そう言うと河野と加賀田は顔を見合わせて笑った。
「ああ、こいつのテンションに付いていけない?ほっときゃ良いんだよ。こいつ年中こうだからさあ」
 と河野は祐馬にそう言いながら背中を叩いた。
 うう~俺、会社でも同じ~っ!
 案内されたのは新地の中にあるそば屋であった。老舗なのか、表は昔の平屋づくりのように見せ、飾り物の窓が木で格子状に作られていた。
「ムードは良いなあ……」
 河野がそう言って、店の玄関にかかるのれんをかき分けてくぐった。
「でも、結構な値段しそうですよ……」
 と、祐馬が河野に言うと、それを聞いていた加賀田が言った。
「夜は高いんだけど、昼はランチメニューで食えるんだよ。三千円でお釣り来るから、食後の缶コーヒーもおごってやれるよ」
 加賀田は自分がおごるような口調でそう言った。
「へえ~」
 納得したように祐馬は言った。
 店内はレトロを基調とした色合いで、テーブル席と、座敷があった。三人は座敷に上がるとメニューをにらめっこし、結局三人とも盛りそばセットを頼んだ。それは直ぐに自分の前に用意され、三人は暫くズルズルと音を立てながら食べていたのだが、加賀田が口を開いた。
「そういや……南原がアルファクレール担当してたんだよな?どんなかんじ?」
「ありゃ駄目だ。っていうか最初から無理だって言うのは分かってたんだけどね。人身御供の真似は誰もやりたがらないって事だ。っていうより、そういうタイプの男って営業には居ないからなア……南原もそれっぽく全然ないだろ?それなのに、南原思い詰めちゃって、俺じゃ駄目かな……なんて言うんだからどうしようもないよ。アメフトやっていた男にそりゃあ無理だって。体つきから嫌がられるよな」  
 河野の話が祐馬には見えなかった。
 人身御供ってなんだろう?
「……う~ん。じゃやっぱり大興か笹賀だろうな。でもどっちかというと笹賀か?あそこは年代別に綺麗所がいるからな……。それを見越して毎年、見目の良い社員を一人とってるっていう噂もあるもんな……。会社も黙認してるんだぜ……絶対。なんてえ会社だよ」
「笹賀って……笹賀建設のことですよね」
 戸浪の会社名が出たことで、祐馬は思わずそう聞いていた。
「笹賀っていやあ、笹賀建設しかないだろう。おまえ大丈夫か?」
 河野はそう言って困ったような顔を向けた。
「え、はは、いえ、ここは大阪だし、他にも似たような社名の会社があるのかと思って……。で、申し訳ないんですけど、その話しなんですが、聞いていて話が見えないんですけど、どういう意味なんですか?」
「あれ、三崎は聞いたこと無いのか?笹賀の裏の有名な話……」
 河野が驚いた顔で言った。
「そりゃお前、先輩がこっそり教えてやることだろ……?」
 加賀田が河野にそう言って御茶を飲んだ。
「まあそうだけど……」
「何ですか?教えてくださいよ~俺、御茶のお代わり入れますから……」
 と言って祐馬は二人の湯飲みに御茶を注いだ。
「あのな、入札とかあるだろ、その入札金額が先に漏れる場合があるんだ。いや、談合で順番が決まってるときの事じゃなくて、各社正当に叩き合いする場合なんだけどさ……。特定の施主が噛んだ場合にたいていそれがあるんだよ……。それがアルファクレールの施主。あそこはアミューズメントとか、他にも娯楽施設とかを提案して企業を募るんだけど、そこの誰かは分からないんだが、偉いさんがことのほか男に目がないらしくてさ、その対策に大興と笹賀はそれ専用に接待する男がいるって話なんだよ」 
「ええーーっ!」
 祐馬はそれを聞いて驚いた。そんな話は戸浪から聞いたことが無かったからだ。
「それにしても、幾ら仕事とはいえ、ケツ差し出せるか?俺は勘弁だな……」
 加賀田が嫌そうに言った。
「でもな、百億の仕事を一晩寝ただけで取れるんだったら俺は我慢する」
 はっきりと河野は言った。
「そんなこと出来るんですか?」
 祐馬も嫌そうに言った。
「お前っ!会社の為にケツの一つや二つ差し出せないで、何が企業戦士だっ!心中する覚悟位しろっ!」
 何故か興奮しながら河野は言った。
「……男と寝るのがどうして企業戦士なんですか?それって、会社じゃなくて男と心中しろって言われてるみたいで俺嫌だ~」
 そう言うと、加賀田が爆笑した。
「誰もお前には頼まないよ。線が細くないからなあ……三崎は……」
 呆れたように河野が言った。
「……確かに……俺全然細くないですから……」
 と、自分の姿を見ながら祐馬は言った。
「というか、うちは健康的にがっしりしたのしか基本的に営業と技術はとらないからな。体力ないと困るからって言う理由でさ。だからこういう場合、絶対仕事が取れないんだよ。知らないのは役員連中だけじゃないのか?知ってたら、絶対誰か見繕いそうじゃないか……」
「それ、笹賀の営業マンでしょ?誰か大体分かるじゃなんですか?」
 祐馬がそう言うと、二人は顔を見合わせてうーんと唸った。
「俺は聞いたこと無いな……誰とは分からないみたいだ。年代別に綺麗所がいるらしいから、そのどれっていうのは社内なら分かるだろうけど、噂だけだと分からないな……お前知ってる?」
 と河野が言うと加賀田が手を左右に振った。
「ふうん……でもなんだか可哀相ですよね……そんな役目引き受けるのって……」
 俺、例え奇麗で線が細くても、絶対そんなの引き受けないぞっ!
 やれと言われたら会社辞めるっ!
「可哀相なんだろうけど……いやいやだったら頼めないんじゃないか?会社だって、無理矢理そんなこと頼まないだろうしさあ。本当に嫌だったら辞めてるだろ?」
 加賀谷がそう言って、温くなった御茶を飲んだ。
「まあな……ほら、上手くいけば、愛人になれるって美味しいところもあるんだろ?パパ~あれ買って~ついでに、あの物件の金額教えて~。あ、出来たらこの位の金額じゃだめかなあ~なあんてさあ。おい、なんだかいい目みれそうじゃないか……やっぱり奇麗に生まれた方が良かったのかな?」
 河野が真剣にそう言うので、祐馬は思いっきりうけた。
「も~止めてくださいよ。可笑しすぎる~」 
「まあ……という訳でアルファクレールをうちが取る可能性はゼロに等しい訳だ。それでも暫く南原がもがくだろうけどな。あれに当たったのが運のつきだ。可哀相に」
 うんうんと頷きながら河野が言うと、加賀田も何故か頷いた。
「あっ、そろそろ戻らないと……」
 祐馬が時間を確認してそう言った。
「わ、もうこんな時間か……」
 バタバタと三人は席を立ち、加賀田が精算しているのをほったらかしにして、河野と祐馬は会社まで走った。
 結局ソバが旨かったのか不味かったのか良く分からないまま昼からの仕事に向かった。

「何だその噂はっ!」
 戸浪は川田から一通り聞き、自分の耳を疑った。
「いやな、それが噂じゃないそうだ……」
 川田は困惑した顔で言った。
「会社ぐるみじゃないんだろうな……」
「さあな……俺はそういうの関わったことが無いから知らない。でも実際あるのはあるんだってさ」
「その……夜の接待を引き受けてる馬鹿は誰だっ!」
 戸浪は怒鳴るようにそう言った。
「俺に怒鳴るなよ……。確か……二部の宇佐見だ……俺もあんまり顔は覚えてないんだけど……可愛かったような気がする……」
 思い出すように川田は言った。戸浪の方は全くその宇佐見の顔が思い浮かばない。
「分からん……顔が出てこない。だが、そんなものは噂に過ぎないだろう?」
 戸浪がそう言うと、川田は「さあねえ」と言った。
「で、どうして私が危険なんだ?」
「っつーかな、アルファに関わる奴で奇麗なのはどいつも危険だと思ってね」
「宇佐見が引き受けるんじゃないのか?あ、いや……」
 酷いことを言ったのが分かった戸浪は言葉を濁した。
「その宇佐見、今週一杯病欠だよ。だから心配してるんだ。お前にそんな話廻ってきていないか?」
「そんな話、廻ってきたら殴り飛ばしてやるぞ。いや強制されたら逆に会社を辞めてやる」
 ジロリと川田を睨んでそう言った。
「はは、お前は空手が出来るから心配は無いな……」
 川田はそう言って笑った。
「それにだ、私のような可愛げの無いのはどうかとおもうがな……」
「可愛げ無いのは性格で、見た目は奇麗だろう?」
 なんだか嬉しくない川田の言葉であった。
「おい、なんだその言い方は……」
「ははは、いや~」
 乾いた笑いで川田は笑った。
「それにしても……その宇佐見……誰か止める気は無いのか?」
 何が楽しいのか分からない。それほどまでして仕事が欲しいのだろうか?
「さあ……結局は噂で本当なのかも分からないからさ。それに仕事で寝るなって誰が言えるよ。証拠もないのに……もちろんお前がそんな事したって言うのが分かったら、止めろと言えるけど……宇佐見って俺しらねえからさ」
「そうやって私を引き合いに出すのは止せ。一緒にされたようで腹がたつ」
 ムカムカとしながら戸浪は言った。
 何が悲しくて仕事上で好きでもない男と寝られるんだっ!
 こっちは好きな男とも寝られないって言うのにっ!
 と、全く違うことで戸浪は腹が立っていた。
「まあ……でもな、誰も何も言えないのは、多分誰かとつき合ってるからだと思うぞ。つき合っているんなら、それは噂に過ぎないだろうってみんな思ってるんだろう。ただ煙のないところに火は立たないからな……」
「営業部長は知っているのか?」
「例え知っていても何もいう気は無いんだろう。結局は仕事を取ってくれたらそれでいいんだからさあ……人に寄ったら、一晩つき合って何百億もの仕事がとれりゃあ、採算はあうんだろしな。仕事を取れたら査定も良くつくし……まあ……宇佐見が仕事が出来るっていうのは聞いたことは無いけど……。だからああいう、アルファみたいな仕事が廻ってきたら、接待にそれとなく連れて行くんだってさ……あとは勝手にやってくれるそうだ……」
 そう言って川田は小さく溜息をついた。
「お前はそういう取引の仕方をしたことがあるのか?」
 じいっと見ながらそう言うと川田は驚いた顔で言った。
「俺はっ!違うぞっ!そんなことしてまで仕事を取りたいなんて思わないからな!」
「……ふうん……そう言うことにしておくか……。そんなことをしたら私がここから突き落としてやる……」
 真面目な顔で戸浪が言うと、川田は肩を竦めた。
「でもな……こんな俺でも誘われたことあるぞ……」
「はあっ?お前が?」
「向こうは受け専だったんだけどなあ……取引先の担当者がね……」
 はあ~っと大きな溜息をついて川田は言った。
「で、お前……まさか……」
 戸浪は唖然としてそう聞いた。
「できるかっての。俺はノーマルだっ!幾ら入れるだけだっていわれても俺は出来ないものは出来ないんだ!」
 ムッとしたように川田は言った。
「そ、そうか……疑って悪かった……」
「だけどさあ、ちょっと気持ちがぐらついたっていうのもあったんだ……。十億の仕事だぞ……新人の時で、喉から手が出るほど欲しかった……」
「……」
「でも……断ったよ。出来ることと出来ないことがあるって言うんだ。あっちは逆に驚いてたけどな……普通の接待をクラブでするよりホテル代の方が安いだろうって……確かにそうなんだけど……はは、俺にはそんな根性は無いって。出来た奴が取ったみたいだな……」
「……」
「お前……設計で良かったんだぞ。お前みたいなのが営業なんかやったら、そう言う奴が後をたたないって」
 ハハッと笑って川田は言ったが、最初の元気はなかった。多分過去の苦渋を思い出したからだろう。
「そうか……」
「でも俺は良かったと思うよ。ああいうの一度噂になれば、こいつならやらせて貰えるとか、やってもらえるとかで担当者を指名してくることもあるからさ。あの時はすっげー勿体ないことしたって思ったけど、今はあれで良かったと本当に思う。堅物だって言われても別に嫌だとは思わないね」
 クスクスと笑って川田は立ち上がった。
「営業は色々苦労があるんだな……済まない……」
「お前が謝る事じゃないだろう。俺はお前が心配でこの話をしたんだからな……」
 確かにそうなのだが、川田にとっては余り話したくない事だったに違いないのだ。それが分かるだけに、戸浪はそれを話させてしまった申し訳なさがあった。
「助かるよ……何も無いだろうが、気をつけるにこしたことはない……」
「いや~お前の彼氏にばれたら大変だろうし~。まあ同じ業界だ。いずれ知るだろうしな。そんな話ふってこられて、本当に知らないのに、知らないなんて言ったら、誤解されるかもしれないぞってね」
「……そんなわけ無いだろう……私がそんな……」
 軽かったら、既に祐馬とは寝てる……と言いそうになって戸浪は言葉を切った。
「そんなってなんだよ?」
 ニヤニヤとした顔で川田は言った。もう何時も通りの川田に戻っている。こういう川田だからつき合いやすいのだ。
「いや……何でもない。そろそろ戻るか……随分おしゃべりをしてしまった……」
 ちらりと腕時計を見て、戸浪は言った。
「あ、本当だな……そろそろ降りるか……」
 戸浪達はそう言って屋上を降りると、仕事に戻った。
 
 席に戻り暫くすると、今問題にしていたアルファクレールの打合せの案内がメールで送られてきていた。それを開封すると、水曜の四時から、第三会議室で営業、購買、設計という結構大きな打合せのようであった。
 設計は部長と神谷さんと……私もか……
 夕方からの会議は長引くことが多いのだ。
 まあ良いか……
 どうせ祐馬は今週いないんだから……
 と思いながら、水曜の四時から打合せというのを戸浪は予定表に書き込んだ。
 あいつ……
 何やってるんだろうなあ……
 普段は考えないことを戸浪は考えていた。
 祐馬が一週間もいないという実感がまだないのだ。いつだっって自分より先に帰宅している祐馬は、戸浪が玄関を開けると同時に走ってくるのだ。
 犬みたいな奴……
 等と思ってみたりもするが、そんな祐馬が可愛いと思っているのは確かだ。何より昨日の晩、祐馬のお迎えが無くて結構寂しいと思ったのは本当の事だった。
 帰ると既に家に電気が付いている。
 そして、食事の用意も出来ている。
 日常のことであったから、それが心地よい事だというのが分からなかったが、昨晩うちに帰り、自分で電気を付け、祐馬の言うとおりに、とりあえず夕飯らしきものを一人で食べた。それが妙に味気なく感じたのだ。
 何より、たった一人で眠るベットはあまりにも大きすぎた。例え、抱き合うことが無くても、隣から聞こえる祐馬の寝息は意外に安心感をもたらしてくれる。
 なんだ……寂しがってるのは私だ……
 自分のそんな気持ちを素直に認めて戸浪は心の中で呟いた。
 まだ今週は始まったばかりだ。第一日目で何を寂しがっているんだろうと自分で自分が可笑しい。
 祐馬にそんなことを言えば気が狂ったとでも思われるだろうか……
 逆に喜んでくれるか?
 喜ぶだろうなあ……
 ちらりと言ってみても良いんじゃないか?
 等と普段なら絶対考えないような事を戸浪は考えていた。
 又、今晩電話がかかってくるんだろう……
 留守電が、何件も入っているんだろう……
 馬鹿だなあ……
 でも嬉しい……
 自分が素直になれない分、祐馬のあの素直さにどれだけ助けられているか分からない。素直に可愛くなりたいと何時も思っているのだが、なかなか上手い言葉も、態度もとれないのが実状だった。
 ……まあいいか……
 それで良いって言ってるんだから……
 そこで戸浪は考えることを止めて仕事に没頭しだした。今晩は早く帰りたかったのだ。

 祐馬は九時にホテルに戻り、早速自宅に電話をかけた。どうせまだ帰ってないだろうと思いながらも、それならそれで又一杯伝言を入れてやる~という気であったのだが、珍しいことに二コールで繋がった。
「あれ……早いじゃん」
 驚いた声で祐馬は言った。
「たまには早く帰るよ。私も昨日の疲れがまだ残ってるからな。その代わり水曜は又遅くなるだろうし……」
 電話向こうの戸浪は何故かとても嬉しそうな気配がする。
 俺の電話……
 待っててくれたのかな?
「ふうん。明日は遅いの?」
「夕方から昨日言ったアルファクレールの打合せがあってね。大人数での会議だから、色々問題も出て遅くなる筈だよ」
 昼間の事を祐馬は思いだした。
「んなあ、戸浪ちゃん。変なこと聞くけど……」
 そんなこと聞いたら殺されそうだけど……
 噂だし……
「なんだ?」
「なんかうちの営業はアルファ取れないって言うんだ。その理由が……さ」
 言いにくそうにいうと戸浪はすんなりとその後を引き継いで言った。
「ああ、うちの営業が接待するって話か?なんだ……東都でもそんな噂が廻っているのか……全く、企業のイメージが悪くなると思わないのか……」
 イライラと戸浪はそう言った。
「知ってるんだ?」
「まあね。営業の川田に聞いたんだよ、そんな話をね……」
「あの噂って……ほんと?」
 なんだか興味津々で祐馬は聞いた。
「さあ……こっちでも噂の域だよ。それに私は関係ないことは首を突っ込まない主義なんでね……お前は噂が好きそうだが……」
 戸浪は言ってクスクスと笑った。
「えー別に……そんなんじゃないけど……。その問題の人って戸浪ちゃん知ってるの?」
「知らん。そんなうわさ話をするためにお前は電話を掛けてきたのか?それなら川田に電話しろっ!色々教えてくれるぞ」
 思いっきり機嫌の傾いた声で戸浪が言ったことで祐馬は慌てて言った。
「違うよっ!戸浪ちゃんの声聞きたかっただけだよっ!」
「……ほんとうかな……」
 急に戸浪の機嫌が戻った。
 うわ~
 今日は何だか戸浪ちゃん変だぞ~
「ほんと、ほんとだよ。だから今日も電話したんじゃないか~俺、毎晩かけちゃうからね。だってちゃんと連絡しないと、どっかふらふらしそうじゃんか。俺が居ないからって、残業以外は遅くなったら嫌だぞ」
 祐馬がそう言うと、電話向こうの戸浪が身じろぎするのが分かった。
「ああ……うん……」
 照れてる~
 戸浪ちゃん照れてるぞ~
「……んでも明日は遅くなるんだ?」
「日が変わるようなことは無いだろう。あんまり遅くなるようだったらメールをお前の携帯に入れておくよ。会社にかけてこられると困るしな。携帯は会議中電源を切っているし……」
 珍しい……
 戸浪からメールなど一度も入ったことなど無いのだ。
「何だか……戸浪ちゃん変」
「何が?」
「すっげー寛容……」
「なんだそれは……」
「だって、ラブラブメール送っても返事くれないじゃんか……」
 暇があると祐馬は返事の来ないラブラブメールを戸浪に送っていたのだ。その感想は一度も貰って事はない。
「何がラブラブメールだっ!あれは嫌がらせメールと言うんだ」
 そう言いながらも戸浪が笑っているのは、嫌がっていない所為だと祐馬は思った。
「たまには返信してよ~結構色々考えて送ってるんだから……」
「お前な、奥さ~ん今なにしてるの?ってメールなどストーカーだぞ」
 やっぱり嬉しそうに戸浪が言った。
 なんだ~
 結構喜んでるんじゃないか~
「ええーっ!そのまんま適当に返事くれたらいいじゃんか……貴方~今ご飯食べてるの~とかさあ……大した事じゃないと思うけど……」
「あのなあ、返信するのに困るような内容など送られても困るんだ。もう送ってくるなよ」
 嫌じゃないくせに~
 戸浪が本当に怒ったらこんな風には言わないのだ。それは祐馬が一番良く知っていた。
「困るような内容あったかな……」
 全部覚えているわけではないのだ。電車で移動中や、タクシーの中でちょこちょこと送る位なのだから、内容も大層なものではない。
「ああ、一番びっくりしたのは、昨日干したパンツ今日はいてるの?だっ!そのまんまストーカーじゃないかっ!」
「あははははは、ただの疑問だったんだよ~真剣に取らなくていいじゃん。そうよ~って返してくれたらさあ」
 自分で書いたのだが、言われてみると可笑しくて仕方ない。
「笑い事か……」
「でさ、寂しい?」
「え?」
「俺居なくて寂しいだろ?」
「昨日もそんな事を言っていたな。お前が寂しいんじゃないのか?」
「俺は寂しいよ。だって戸浪ちゃんの顔、一日だって見られないの寂しいもんな」
「……そ、そうか?」
 あ~顔絶対赤らめてるぞ。
「そうだよ。あのさあ、俺ら熱々カップルだぞ。新婚さんなんだぞ。初夜まだだけどさあ……寂しいよ~」
「初夜は余計だっ!」
「あーだから……」
 どうしてこう、すんなり言ってくれないのだろうか?それが祐馬には歯がゆい。だが、こういうのを言い淀む戸浪も可愛いのだから仕方ない。
 惚れた弱みって奴だよな……
 そんな事を考えていると戸浪が小さな声で言った。
「私も寂しいよ……祐馬……」
 うわ~俺この台詞だけでも勃っちゃうよ……
 というのは言えなかった。
「早く帰りたいよ~戸浪ちゃんとやりたい~」
 子供がだだをこねるように祐馬は言った。
 本音だ。
「……帰ったらな……。じゃあまた明日な」
 ぶっきらぼうに戸浪は言った。
「明日……メール頂戴っ!絶対だからね。で、何時頃電話していいかちゃんと書いて送ってよ」
「分かってるよ。明日必ず送るから……」
「……あ、ラブラブメールの返事も俺待ってるから……」
 と、言うといきなり電話が切られた。
 あーあ~俺って……
 馬鹿かも~
 だが祐馬は何故かとっても気分が良かった。



 きつく駄目だと言えば良かったな……
 そう戸浪が思う位、本日は祐馬からのラブラブメールと称するHメールが朝から既にもう十件も入っていた。
 馬鹿者がっ!
 仕事しろっ!
 そう思いながらも何故か顔がにやける。
「澤村君、アルファクレールの会議が始まるよ」
 本日四時から一緒に会議に参加する神谷が気味悪げに言った。
 か、顔がにやけてたか?
 ハッと我に返った戸浪は、資料を持っていそいそと立ち上がり、会議室に向かった。他の部署の人間は既に席に座り雑談している。その中で営業の家木と目があった。
 ん?
 何だかこちらを見つめて視線を逸らしたのは良いが、戸浪はそれが気になって仕方がなかった。
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