Angel Sugar

「終夜だって愛のうち」 第5章

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 マンションに戻り、する事もなかった戸浪はあちこち掃除をして一息を付いていた。すると自宅のベルが鳴らされ、誰かが訪れたことを知らせた。
「川田……なんだこんな早く……お前仕事は?」
 ある意味、変な問いかけなのだが、戸浪は尋ねてきた川田にそう言った。
「上がらせて貰うぞ……いいな」
 しかめた顔で川田はそう言った。
「それは構わないが……」
 言いながら戸浪はスリッパを薦め、川田をリビングへ案内した。
「そうだ……何か飲むか?」
「いらん、それより話しだ」
 相変わらず苦虫をかみ潰したような顔で川田は言った。
「……ああ……いいが……どうした?」
「お前……何があったんだ?お前が家木を殴り飛ばした後、今度は柿本部長がやってきて、うちの部長と大喧嘩したみたいだぞ。まあ会議室に入っての話だから内容はしらんがな。お前の行動も妙だが、部長も変だとあの後大騒ぎだったんだ。それでお前を捜したら帰ったと言うじゃないか……一体何だって言うんだ?」
「帰ったんじゃない……辞めたんだ。会社をな……」
 目線を落として戸浪はそう言った。
「何だって?」
「辞めたんだ。まあ柿本さんが受け取ってくれなかったから、私は無断欠勤で十日後めでたく首になるだろうが……」
「どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもない……やられたよ……家木にな……」
 もうここまで来たら隠すのも馬鹿らしいほどだ。そう思った戸浪は事の次第を川田に話して聞かせた。
「……あの男……俺も殴ってやったらよかった」
 拳を握りしめて川田は言った。
「はは……もういい。私は自分のやりたいことは全部やった。後は次の職でも探すよ。暫く休んでから……な。今はもう働く気がこれっぽっちも無い」
 ソファーに深く座り込んで戸浪は言った。
「辞めることなんか無いぞ」
「あんな会社にそんな価値があるのか?」
「一部の人間だけだ……そうだろう?」
「……もういい」
「まあ……柿本さんが暫く休みをくれたと思ってだらだらしてるといいさ。ギリギリに会社に出てきたら首にもならずに、休みも取れて儲けもんだぞ」
 川田はそう言って笑った。そんな風に考えられるなら本当に良いだろうと戸浪は思ったが、自分には出来そうに無かった。
「だがね、あの施主、思いっきりボコボコにしてきたから、何か会社に言ってくると思うぞ。そうなると、色々難しいことになるんじゃないのか?」
 尾本を脅してもやったが、それが上手くいったかどうかは分からないのだ。
「……俺はアルファには全く絡んでないから、どうなってるのか全然分からないが……まあ、その程度でうちの会社が潰れるわけでもない。ほっときゃ家木でも飛ばして適当に処分するんだろ。そんなこと気にするな。それよりお前……彼氏は知ってるのか?」
「……今、出張中でね……」
 そう言えば今日は一件もメールが送られてきていなかった筈だ。
 あ、留守電を確認するのも忘れている……。
 色々ありすぎて戸浪はそこまで気が回らなかったのだ。
「何時帰ってくるんだ?」
「日曜に帰ると言っていたが……遅くなるそうだ」
 ばれずに済む方法を考えているのだが、上手い言い訳が考えられない。
「会社を辞めようと思ってる位なんだから、彼氏にちゃんと話すんだな」
 川田はそう言って笑った。
「……誤解されそうで……ちょっと……な」 
 ギュッと拳を握りしめて戸浪はそう言った。
「頼んだって寝てくれやしない、逆に殴られてボコボコにされるっていうのは、お前の性格を知っている奴なら誰だって分かるだろう。何を誤解するんだ……」
 こちらの身体に残る痕を知らない川田はそう言って更に笑った。
「……そうだな……」
「本当はやられたのか?」
 ぼそっと川田がそう言ったことで戸浪はかあっと顔が赤くなった。
「違うっ!ただ、キスマークを付けられたものだから……見られると……あっ!」
 結局白状してしまったことで、戸浪は肩を落とした。
 ああもう~
 自分で言うな~
「なんだ……ははっ!そのくらいなら許して貰えるだろ。逆に逃げられたんだから良かったんだ。そうだなあ……帰ってきたら彼氏に慰めて貰えよ。それで一件落着だ」
「……そんな簡単に言うな……」
 溜息をついて戸浪はそう言った。
「大丈夫さ。あんま考え込むなよ。仕方ないだろ……もう付けられちゃったんだからさあ。はははっ!そのくらいで済んでよかったんだって……ふふふっ」
 喜んでる……
「可笑しいか?」
 ムッとしながら戸浪が言うと、川田は「うん」と言って頷いた。
「そのくらいの問題だからだよ。笑って終わり。悩むこと無いってよ。暫くゆっくりして、ギリギリに会社出て来いよ。俺も聞かれたら病欠って言って置くし」
「……ああ……」
 とりあえず戸浪はそう言った。そうでも言わなければ川田は何度もその言葉を繰り返しそうな気がしたのだ。
「じゃあ俺帰るわ。実は打合せに行ってきます~なんて言ってこっちにきたもんだからさ」
「済まなかった……」
「いや……何かあったら電話するよ」
 立ち上がって川田はそう言った。
「いい男なのに、どうして彼女が出来ないんだろうなあ……お前」
「おい、そう言うことは言うなっ!」
 そう言って川田は帰っていった。
 あんな風に祐馬も笑って済ませてくれるのだろうか?
 そうであって欲しいと思いながら戸浪は玄関の扉を閉め、先程気が付いた留守電を聞くことにした。
 留守電はメッセージあることを示すように赤いランプが灯っている。それを押して再生し、全部が無言電話であることを戸浪は知った。
 ……
 なんだこれは?
 祐馬なら色々吹き込んでいるはずなのだ。それが全部が全部何も入っていないのはどう言うことなのだろう。履歴をみると、間違いなく祐馬からの電話であった。
 誰も取らなかったから、何も入れなかったのか?
 留守電の入っている時間は一時間毎に入ってた。それは祐馬が一晩眠らずに夜を明かしたことを示しているのだろう。
 朝の六時を最後に無言の留守電は一件も入っていなかった。慌てて携帯を確認したが、何もメッセージは入っておらず、メールも同じく何も無かった。
 ちらりと時間を確認すると今四時を差していた。祐馬に電話をかけるには早すぎる時間だった。戸浪は仕方無しに、メールを祐馬に送った。
    
 虚ろな目で書類を書いているとき、メールが届く携帯の音が聞こえた。祐馬は書類を書く手を止めてポケットに手を突っ込み携帯を取り出した。すると戸浪からメールが入っていた。
 戸浪ちゃんからだ……

 今日は会社を休んだよ。体調悪くてね。だからいつでも電話してくれて良い。

 休んだ?
 体調悪かったんだ……
 それで電話も取れなかったんだ……
 それを知り、ホッとした祐馬は、キョロキョロと回りを見回し、立ち上がると携帯をかけられそうな所を探した。丁度打合せ室には誰もいなかったため、そこから自宅へと電話を掛けた。
 ワンコールで戸浪が出た。
「あ、俺……何?身体調子悪いの?」
「昨日の晩から調子崩しているんだ。電話が鳴っているのは分かっていたんだが……取る元気も無かった」
 戸浪はそう言って小さく溜息をつく。その声の調子は確かに具合が悪そうだ。
「んなあ、ちゃんと御飯食ってる?食べてないから体調悪いんじゃないの?戸浪ちゃん放って置いたらほんと、人間の生活忘れるんだからさあ……」
 戸浪は本当にそう言うところが無頓着なのだ。
「ああ……そうだな。今晩はちゃんと食べるよ……」
 そう言って戸浪が電話向こうで小さく笑ったのが聞こえた。
「え?朝も昼もまさか食べてないの?」
 驚きながら祐馬はそう言った。
「食欲が無いんだ……食べようとは思ったんだが……」
「駄目だって、無くても食べなきゃ体力出ないだろっ!」
 本当にどうして戸浪はこうなのだろう。だから一人にするのが心配なのだ。もしかすると食べ物の味覚が分からない戸浪であるので食に対し、あれが食べたいこれが食べたいという欲求が起こらないのかもしれない。
「分かった……。うん、そうするよ……」
「……ほんと分かってるのかなあ……俺心配だよ……」
 ほっそりした戸浪の身体を思い出しながら、祐馬はそう言った。
「そうだ……祐馬。日曜何時頃帰ってくるんだ?」
「明日に終われそうだったら、最終の新幹線で帰ろうかなあなんて思ってるんだけど。そしたら俺、日、月とで二日休めるし。ゆっくりできるしさあ……。やっぱり一週間ずっと仕事するって結構きついよ」
 明日の予定を思い出しながら祐馬は言った。
「そうか……明日の晩遅くか……」
 その戸浪の声は何故か沈んでいるように祐馬には聞こえた。もしかしてこうやって電話をしているのも辛いのかもしれない。
「なあ、ほんと、体調そんな悪かったら、戸浪ちゃんもう横になってたほうが良いよ。明日もし帰られても、俺かなり遅いと思うから、先に寝ててくれて良いからね。あ、あんまり具合悪かったら病院に行くんだよっ!」
 もちろんもう暫く戸浪の声を聞いていたかったが、体調が悪いときに話をさせるのはとても気が引けるのだ。
「大丈夫だよ……ただ、土曜は迎えてやれないかもしれないが……」
「いいって。日、月はゆっくり出来るし……じゃあ俺、電話切るね」
「あ、祐馬……」
 電話を切ろうとすると、戸浪はそう言って引き留めた。
「何?」
「電話……ありがとうな……」
 そんな風に素直に言われるこは滅多に無いため、祐馬は驚いた。
「どしたの?」
「いや……その……」
「あ~実はすげえ、俺の声聞きたかった?」
 嬉しくなった祐馬は電話を切るのを忘れてそう言った。
「……ま、まあな……じゃあ……」
「ちゃんとご飯食べて、身体休めろよ」
 そう言って祐馬はようやく電話を終えた。
 何か俺……無茶苦茶元気になってきた……
 戸浪と話したことで、朝からのどよどよとした気分がすっかり晴れてしまっていたのだ。
 明日には絶対帰るぞ~
 遅くなっても帰るぞ~
 と、心に誓った祐馬は、与えられた席に戻ると、又書類を片づけだした。

 祐馬と電話を終えたのだが、受話器をもったまま戸浪はその手を離せなかった。ようやく聞けた祐馬の声は、こちらの気持ちをホッとさせ、落ち込んでいた戸浪の気持ちが少しだけ浮上した。
 その上、食欲は無いのだが、とにかく夕食は何か食べようという気持ちになった。
 だが、明日の晩帰ってくるのだ。会いたい気持ちは本当にあるのだが、自分の身体に付いているものが気になって、素直には喜べない。色々考えた言い訳も、これという上手いものはない。
 はっきり言うしかない……
 川田が言ったように、きちんと話せば笑い話で終わるのかもしれない。何より戸浪自身はその事を了解して接待に出たわけではないのだ。最初にそんな話が持ち出されていたのなら、どんなに頼まれようが首を縦になど振らなかった。
 そうだな……
 嘘を付いたところで、身体についている痕の説明になどならないのだ。虫に刺された等という、どう聞いたところで嘘としか思えないような言い訳を誰が信じるだろう。
 話すんだ……
 そうしよう……
 そこまで決めてしまうと戸浪は気持ちが楽になった。



 何とか最終の、のぞみに乗ることが出来た祐馬は、東京駅を十二時近くにでると、タクシーを使ってマンションに帰った。
 一週間留守にした我が家は何となく懐かしく感じる。そっと音を立てずにうちに入ると、玄関とキッチンだけ、明かりが灯っているのが分かった。では戸浪はもう眠っているのだろう。
 ボストンバックをそこに置いたまま、祐馬は速攻に寝室へ向かい、そっと扉を開けて戸浪の様子を伺った。小さな白熱灯だけが一つぽつんと灯された寝室は、薄暗い中で戸浪が既に眠っているのが見えた。
 やっぱ体調が悪いんだな……
 そう思いながら祐馬は、開けたときと同じように寝室の扉を閉めると、キッチンへ向かった。次に冷蔵庫から御茶を取り出そうとして、自分が出ていくときに書いたメモが扉に貼りつけられているのに気が付いた。
 戸浪ちゃんが貼りつけたのかな……
 それを眺めながら祐馬は御茶を取り出して、一口飲み、キッチンテーブルにペットボトルを置いた。
 なんか、可愛いことしてるよなあ……
 メモを捨てるに捨てられず、ここに貼りつけている戸浪の行動が、可愛くて仕方ないのだ。明日この事を戸浪に聞けば何と答えるだろうか?そんなことを考えて祐馬は誰もいないキッチンで一人クスと笑いが漏れた。
 それにしても疲れた……
 昨日の夕方、戸浪との電話を終えてからの祐馬は馬車馬の如く働いたのだ。久しぶりに仕事した……と自分でも驚くほどであった。
 戸浪ちゃんに対する愛の大きさがものをいったんだよなあ……
 なんて思いながら、祐馬は服を脱ぐとシャワーを浴びてパジャマに着替えた。明日、明後日は休みである。戸浪も明日は休みであるだろうから二人でゆっくり出来るだろう。
 二人で……
 もしかして期待して良いのかな……
 だって約束したし……
 でも体調悪いのにそれは無理に言えないよな……
 そんなん言ってたら俺マジでいつまで経っても出来ないって事だよな?
 そ、それは嫌かもしれない……
 色々考えながら祐馬も寝室に入り、ベットに上がると、戸浪を起こさないようにそっと布団に潜り込み、手を伸ばして付いていた小さな明かりを消した。
 帰ってきたら、ぎゅ~って抱きしめたかったんだけど……
 そんな事を考えながら、もそもそと布団の中で動き、戸浪の方へと身体を近づけた。
「祐馬?」
 いきなり戸浪がそう言ったので、祐馬は驚いた。
「お、起きてるの?それとも起こした?」
「何を慌てているんだ……。フッと目が覚めたら、お前がいるのが分かったんだ……。だから帰ってきたんだなあと思ってな……」
 小さく笑いながら戸浪はそう言った。こっちは身を寄せようとしていたのが、ばれたのだと思って驚いたのだ。
「あ、うん。帰って来られたんだ。ただいま……」
「お帰り……」
 そう言って珍しく戸浪の方から身体を寄せてきた。その戸浪の背中に自然と祐馬は腕を廻して自分の胸の中に抱き込んむ。
「俺、戸浪ちゃんの匂い好きだな……ホッとする……」
 戸浪の髪に頬を擦りつけて祐馬はそう言った。
「お前は今、風呂上がりか?」
「うん。ほかほかしてるでしょ~」
「ああ……うん……」
 それだけ言って戸浪は言葉が無くなった。
 あれ?と思っていると、祐馬の耳に戸浪の寝息が聞こえてきた。
 寝ちゃった……
 ま、いっか……
 この分だと明日期待してもいいのだろうと思いながら祐馬も夢の中に落ちた。
 
 遮光性のカーテンの隙間から漏れる光を目に感じて、戸浪は目を覚ました。祐馬によって抱き込まれた身体は、自分より広い胸にすっぽりと納まっていた。暖かい胸元からは規則的な鼓動がこちらにも伝わり、程良い温もりと、安堵感が自分の身体を包むのが分かった。
 ああ……
 ここはとても安心できる……
 トクトクという祐馬の鼓動を聞きながら、戸浪は一度開けた目を閉じた。
 不思議な気分だ……
 こんな風に保護されるように抱きしめられると、本当に安心するのだ。いい年した大人が……と思うのだが、正直に言うと、抱きしめられるのは嫌いではない。
「あれ……俺の方が先か……えへへへ」
 こちらがまだ眠っていると思ったのか、祐馬はそう言って額にキスを落としてきた。その行動に思わず戸浪が顔を赤らめると、祐馬がいきなり身体を離した。
「うわっ!もしかして起きてる?」
「何を怖がってるんだ……」
 目を開けて戸浪がそう言うと、祐馬は「え、いやあ……はは」といって手を振った。もしかして殴られるとでも思っていたのだろうか?
「……んで、身体そんな悪かったの?」
 まだ身体を起こさずに、横になったまま祐馬の方を見ている戸浪に、祐馬は言った。
「……ああ……」
「そか。あ、もう昼前じゃんか……。じゃあ戸浪ちゃんはも少し寝ててよ。俺、何か作ってくる。栄養のあるもの食べたら直ぐに元気になるよ。どうせ俺があんだけ食えって言っても、そんな食べてないだろうしさ……」  
 ニコニコと満面の笑みでそう言う祐馬を直視できずに、戸浪はやや視線を外して言った。
「……悪いな」
「俺さあ、今日は戸浪ちゃんに元気になって貰いたいんだよね……」
 独り言のようにそう言って祐馬は寝室を出ていった。  
 確か……
 祐馬が帰ったら……
 そう言う約束をしていた。
 ……どうしようか……
 だがそれより先に何処かできっかけを作り話さねばならないことがあるのだ。
 深く溜息をついて戸浪は自分もベットから降り、そろそろと服を着替えると洗面所へ向かった。
 冷たい水を出し顔を何度か洗うと、ぼーっとしていた頭もはっきりしてくる。顔を上げ、鏡に映る自分の姿は、酷く疲れた感じがする。
 会社……
 辞めた事も言わないと……
 これからどうするなどと言うことはまだ考えていない。働く気が起こらないのだ。あんな事があったのも原因だろう。
「あ、もう着替えたんだ……簡単に朝食兼昼食を作ったけどもう食べられる?」
 洗面室に走り込んできた祐馬に戸浪は黙って頷いた。
「じゃあ直ぐキッチンに来てよ。俺火にかけてる鍋心配だから直ぐ戻るっ!」
 入ってきたと同じ素早さで祐馬は又キッチンへ走っていった。
 戸浪はそうすれば引き延ばせるような気がして、ゆるゆるとした歩調でキッチンへと向かった。
 キッチンでは既に祐馬は椅子に座って、戸浪を待っていた。
「遅い~早くしないと麺が伸びるっ」
 テーブルに置かれた昼食は、普通の丼の半分くらいの椀に、キツネうどんが入り、もう一つ同じ椀に卵丼が作られていた。
「祐馬……こんなに食べられないよ……」
 うどんだけで充分だと思った戸浪はそう言ったが「全部食べるのっ!」といって祐馬は譲らなかった。
 仕方無しに戸浪も祐馬に習って食べ始めたが、箸が進まない。そうしていつの間にか祐馬の方が先に食べ終わってしまった。
「……悪いんだが……お腹がもう一杯だ」
 うどんと卵丼を半分食べたところで戸浪はギブアップした。
「そんくらい食わなきゃ駄目だって。ほんと、こうやってちゃんと見ると、戸浪ちゃんは確かに痩せたと思う。あ、でも、どっちかというとやつれたように見えるけど……」
 最初は強い口調で駄目と言い、その後の言葉は心配しているような口調になった。
「……急にそんなに沢山は食べられないんだ」
 御茶を一口飲んで戸浪はそう言ってごちそうさまをし、端を置いた。もう本当にこれ以上胃には入れられないのだ。
「俺がいないとほんと、食生活無茶苦茶になるよなあ……戸浪ちゃんって……」
 呆れたようななかに、少し嬉しそうな部分を残した笑みを祐馬はこちらに向けた。
「……はは、そうか?」
 湯飲みに入る御茶の表面を眺めながら戸浪は言った。
「うん。やっぱ、俺がいないと駄目なんだよね」
 祐馬がクスッと笑う声が聞こえた。
 ここで話すか?
 戸浪はそう思いながら、言えそうな雰囲気になるのをもう暫く待つことにした。
「……そうかもな。ああ、祐馬はテレビでも見てきたらどうだ?一週間仕事で疲れただろうから、今日はゆっくりするといいんだ。片づけは私が……」
 そう言って立ち上がると、祐馬はこちらの手首を掴んだ。
「なあ……なんかあった?変だよ……戸浪ちゃん……」
「え……」
「俺の目……避けてばっかり……」
 祐馬はこちらを見上げてそう言った。その瞳は困惑している。
「……それは……」
「もしかして……さ、なんか恥ずかしい?ほら、今日は……って約束してたし……」
 照れ照れとした顔で祐馬は言った。そんな嬉しそうな顔をする祐馬に、戸浪は言い出すきっかけを見つけられない。
「……え、あ……まあ……」
「でもさあ、約束だよな……?」
 祐馬の方を見ずに戸浪はただ頷いた。
「先に……片づけをするよ……」
 そう言うと祐馬はこちらを掴む手を離した。
「うん。じゃ、俺リビングでテレビ見てるね」
 祐馬はそう言って、キッチンを出ていった。
 ああ……
 どう切り出せば良いんだ……
 きっかけが掴めない……
 丼を洗いながら戸浪は、決心の付けられない自分が情けなくて涙が出そうであった。
 さっさと洗えば五分で済む洗い物を、戸浪はだらだらと洗い続け、祐馬が出て行ってから三十分も経っていた。
 ……ああもう……
 時間が引き延ばせない……
 乾燥機に洗ったものを入れ、戸浪は溜息をついた。チラとガスコンロを見ると汚れていたので、思わず戸浪は今度、それを洗い始めた。
 ……駄目だ……
 言えない……
 どうしたら良いんだ……
「んなあ、そんなもん洗うの何時だっていいじゃんか……」
 祐馬が呆れたような顔で、キッチンの入り口に立ってそう言った。
「そうなんだが……気になって……」
 手を泡だらけにしながら戸浪はそう言い、何とか笑みを作った。そんな戸浪の側に祐馬が近寄ってきた。
「なあって……」
 伸ばされた祐馬の腕は後ろから回り、こちらの腰の辺りで両手を組んだ。
「……祐馬……あのな……」
「昼間から……嫌かな?」
 祐馬は耳元でそう囁くように言った。
 嫌じゃない……
 ただ……
「話が……ある」
 絞り出すように戸浪はそう言った。
「ああもう、そんなの後っ!」 
 がばっと抱き上げられ、戸浪は喉が詰まった。
「祐っ……」
 こちらの言葉を失わせるように祐馬の口元は戸浪の口元に重なった。そのまま祐馬の足は寝室に向かう。
「……っ」
 祐馬っ……!
 頼むっ!
 先に話を聞いてくれっ!
 戸浪はそう心の中で叫ぶのだが、もちろん祐馬には聞こえない。
 寝室にあるベットに倒されても尚、祐馬の口元はこちらを離さなかった。組み伏せられた身体は、祐馬の片足がこちらの両足の間に差し入れられているために動けなかった。
「祐馬っ……話がっ……」
 祐馬の手はこちらのシャツのボタンに既にかかっていた。その手を両手で掴んで戸浪は必死に祐馬の手を押しとどめていた。
「……ここまで来て……拒否しないでくれよ……」
 訴えるような瞳をこちらに向けた祐馬の表情は酷く切ない。
「話……っ……うっ……」
 喉の奥にまで差し入れられた舌が戸浪の声を奪った。普段からは考えられないくらいの祐馬の手は力が入っており、こちらの押しとどめる手もむなしく、シャツのボタンが外された。
 そして離される口元。
 祐馬っ……
 頼むからっ……頼む……
 戸浪がギュッと目を閉じていると、祐馬の顔が上がるのが気配で分かった。戸浪はその祐馬の顔を見ることが出来ずに顔を横に向けたまま、ただ待った。
 暫く沈黙が続き、言葉のない祐馬にやはり戸浪は目を開けることが出来ない。
 すると、はだけた胸元になま暖かいものが落ちるのが分かり、戸浪はそこでようやく目を開けた。
「……っ」
 まるで信じられないものを見ているかのような表情は、声もなく、ただその見開かれた目からポロポロと涙を落としていた。それは本人も泣いていることに気が付いていない表情だ。
 あまりの祐馬の顔に戸浪が声を失っていると、胸元を見ていた祐馬の瞳がこちらを見た。
 嘘だろ……
 声もなく動いた唇はそう言っていた。
「……話を……聞いてくれ……」
 こちらまで泣きたくなったが、戸浪は必死に堪えた。今は事情をきちんと話さなければならないのだ。
「……何を……聞くんだ?……戸浪ちゃんが……どう接待したかを……俺に話すのか?」
 震えるような声で祐馬はそう言った。
「違うんだ……私は……騙されたんだっ……」
 そう言って戸浪が祐馬の腕に手をかけようとしたのを、祐馬は振り払い、四つん這いでベットを移動し、こちらに背を向けるようにベットに腰をかけた。
「戸浪ちゃんがそんな事をするなんて…俺……信じたくなかったのに…」
 肩を落とし、祐馬はそう言った。
「祐馬……頼むからちゃんと聞いてくれ。私はそんなつもりで接待に行ったんじゃない。本当だ。誓っても良い」
 小刻みに震えている背に向かって戸浪はそう言った。
「……」
 聞いてくれるかどうかは分からなかったが、戸浪は思い出せる限り祐馬に話して聞かせた。だが話し終えても祐馬はこちらを向くことはしなかった。
「祐馬……頼む……本当のことなんだ……お前が信じてくれなかったら私はどうしたら良いんだっ!」
 叫ぶように戸浪がいうと祐馬はぽつりと言った。
「俺……言ったよな……あの時……帰ってくれって……うちに……でも戸浪ちゃんは帰ってくれなかった……」
 それに対して反論できる言葉など戸浪には無かった。結局は自分を過信していた為にこんな事になったからだ。
 あの時、帰っておけば……
 そもそもああいう相手の接待などにつき合わなければ良かったのだ。こちらにはそんな義務などないからだ。
 なのに、家木に同情してしまったからこんな事になった。
「済まない……」
 暫くまた沈黙が降りた。その沈黙が怖くて戸浪は言った。
「信じてくれ……何も無かったんだ……。それに、ぼこぼこに殴ってやったから、仕事も取れないだろう。家木もそうだ。あいつも飛ばされる筈だ……笑い話になるような話だろ?」
 言いようが無く、戸浪はそんな風にしか言えなかった。
「何が笑い話だよっ!そう言うことどうして言えるんだっ!」
 身体を半分こちらに向けた祐馬は、怒りながらも泣いていた。
「……済まない……ただ……私は……」
「なあ……そんだけ身体にベタベタ人の印を付けて帰ってきた恋人から、私は騙されました、クスリを盛られたけれど、何とか帰ってきましたって聞かされて……どう信じろって言うんだよっ!そうだろ?それで何も無かったってどうやって知ればいいんだ?」
「じゃあ……私はどう言えば良かったんだ?」
 そこで初めて戸浪は涙が零れた。
「……」
「教えてくれ……どう説明すれば、お前に分かって貰えるんだ?信じて貰える?なあ……祐馬……教えてくれっ!」
 戸浪がそう言うと、祐馬は又こちらに背を向けた。
「それって……自分の恋人が……浮気してさ……その証拠押さえられて……私はそんな気が無かったのっていってんのと大差ないんじゃないの?結局は……」
「違うっ!何も……本当に何も無かったっ!」
「……じゃあさ……こうしようよ……もし、戸浪ちゃんの会社が……その物件、取れなかったら……俺……戸浪ちゃんの言うこと……信じられる……」
 それを聞いて戸浪はホッとした。あれだけのことをしてアルファクレールを取れるとは思わなかったからだ。
「……ああ……それでいい……お前がそれで納得できるなら……そうしよう……」
 戸浪がそう言うと、祐馬はこちらを振り向かずに寝室から出ていった。
 大丈夫だ……
 取れないんだから……
 戸浪がそんな風に思った日から五日後の木曜日、川田から連絡が入った。



「川田……どうした?」
「そっちはどうだ?だらだらしてるか?どうせ恋人といちゃついてるのは想像できるけどな」
「まあ……な」
 日曜から祐馬とお互い一言も口をきくこともなく過ごしていたことを川田には言えなかった。    
「……それでな、何故かしらんが……」
「なんだ?」
 今日は朝から雨が降っており、それだけでも充分戸浪には嫌な予感がした。
「アルファクレールうちが入札で落としたぞ」
 戸浪は目の前が真っ暗になるかと思った。
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