Angel Sugar

「終夜だって愛のうち」 最終章

前頁タイトル次頁
 何とか一人で祐馬のマンションに来たのは良いが、中に入ることが躊躇われた戸浪は、玄関の所で先程からうろうろとしていた。ほんのついこの間まではそんなこと考えもしなかったのだが、今はインターフォンを鳴らすことすら躊躇われたのだ。
 どうする?
 はあ……と先程から何度もついた溜息を戸浪はついた。
 何となく勢いで一人で来た。如月の方は分かったような顔で「行ってこい」とだけ言った。ユウマは一人にされるのが恐いのか、毎朝するように玄関で足下に絡みつきすぐに離れなかった。
 連れてきたら良かった……
 猫など連れてきても邪魔になるだけなのだろうが、やはり一人で入る事に躊躇いがあったのだ。
 ……駄目だ……
 こんな事をしていたらいつまで経ってもケリがつかない……
 戸浪は散々うろうろし、ようやくインターフォンを鳴らした。だが返事はなく、いないのかと思ったら、返事をするより先に祐馬は玄関を開けた。その事に驚いていると、祐馬が苦笑して言った。
「ごめん……先に返事したら良かったよな……あれ、如月さんは?」
 何時も通りのその祐馬の態度が逆に戸浪の気持ちを落胆させた。
「ああ、急に仕事が入ったみたいでね……それで仕方無しに一人で来たんだ」
「そか……それじゃあ仕方ないよな……俺も手伝うし……」
 何か違う……
 だが……
 だからといってどうして欲しかったのだろうか?
 冷たい態度を取られたかったのか?
 それとも、もっと馴れ馴れしくして欲しかったのか?
 戸浪は自分の気持ちも分からない状態で、祐馬に促されるまま部屋へと入った。
「……あのさあ……荷物なんだけど……」
 もしかしてもうまとめて置いてくれていたのだろうか?
 それとも……
「何だ……捨てたのか?」
「あっ、そんな事しないよ……じゃなくて……俺……本当は戸浪ちゃんの荷物まとめてやらないといけなかったんだろうけど……そういうのしてないんだ……」
 申し訳なさそうに祐馬は言った。
「私の荷物なんだから……私が自分でする」
 そう言って戸浪はさっさとクローゼットに向かった。それを祐馬は追いかけてくることもせずに、見送っているだけなのが、背中から感じた。
 ……お前が……
 話があると言うから来たんだ……
 それで……
 何の話しなんだ?
 話はいいのか?
 荷物を詰めるなんていうのは直ぐに終わるぞ!
 話って何なんだっ!
 振り返って叫んでやりたくなったのだが、結局そんなことなど自分から言い出せ無かった。そうして寝室に入ると、次にウオークインクロゼットに入る。
 話って言うから……
 お前が、何か話したいって言うから……
 私、一人で来て欲しいって言うから……
 だから……
 だから来たんだっ!
 荷物なんて言うのはどうでもいいんだっ!
 心の中で散々怒りながら、戸浪はクロゼットの端になおしてある潰した箱を組み立て、自分の服をゆるゆるとハンガーから下ろした。
 私は何をイラついているんだ……
 膝に乗せた洋服の襟を戸浪は指で撫でた。
 本当は……
 ここにいたいくせに……
 本当は……祐馬と……
 馬鹿だな……
 もうどうにもならないのに……
 如月はああ言ったが……
 祐馬が私を今も好きだとは思えない……
 あんな風に怒っていた祐馬が……
 私を好きだなんて……
 私は……
「……なあって……」
「うわああっ!」 
 いきなり後ろから祐馬に声をかけられた戸浪は本当に驚いた。
「ご、ごめん……びっくりさせるつもりは無かったんだけど……」
「突然声を掛けるなっ!驚くだろうが……」
 あまりにも驚いた所為で、尻餅をついた格好になってしまった自分があまりにも恥ずかしく、それを隠すように戸浪は怒鳴った。
「俺、戸浪ちゃんのことさっきから呼んでたって……」
 ははと笑って祐馬は言った。
 もうこの顔も何時も通りの祐馬だった。今この瞬間だけをみたら、何も変わっていない様に見える。
 何時も通りにここで暮らし、祐馬とくだらないことで言い合いをする……
 そんな日常を思い浮かべて戸浪は心の中で否定した。
「祐馬……話があると言ってたな……」
「戸浪ちゃん話がさ……」
 二人同時にそう言った気まずさから思わずお互いが沈黙した。
「……何だ?」
 ドキドキしている顔を気取られたくなかった戸浪は視線をやや祐馬から避けてそう言った。
「紅茶入れたから飲むかなあ……って……飲みながらでいいけど……」 
「……ありがとう……頂くよ……」
 戸浪はそこでホッとした。
 二人でリビングに入ると、既にティーカップに紅茶が入れられテーブルの上にのっていた。
「あ、なんか茶菓子でも用意したら良かったよな……ごめん……気が回らなくて……」
「いや……充分だよ……」
 この会話……
 気味が悪いほど他人行儀だ……
 もう既に戸浪はここから帰りたい気持ちで一杯になってきた。この違和感の漂う会話がだんだん辛くなってきているのだ。
 ソファーに座ると、その前に祐馬が腰を掛けた。そしてこっちを見ずに紅茶にミルクだけを入れてかき混ぜた。
 また……
 沈黙する気か?
 ちらりと祐馬の姿を見て戸浪は心の中で溜息をつくと、自分は紅茶に何も入れずに一口飲んだ。すると、乾いていた喉がようやく水分で潤った。 
「そいや……如月さん所にずっといるんだ?」
 祐馬が紅茶を未だにかき混ぜてそう言った。
「まあな……まだ住むところが決まっていないし……」
「ふうん……」
「……そんな話をしたかったのか?」
 戸浪がそう言うと祐馬は俯いたまま言った。
「違う……」
「じゃあ……」
「……こないだ……何で帰ったの?」
 祐馬はそう言って紅茶をかき混ぜていたスプーンを止めて顔をこちらに向けた。
 それは……
 一晩一緒にいたときの話だろう……
 それしかない……
 分かって思わず戸浪ははぐらかした。
「この間?」
「……戸浪ちゃんにとってはそんだけのことか?」
 祐馬は真剣な顔でそう言った。
「……お前だって……酔ってたからだろう……」
 責められているような気がして戸浪はそう言った。
「……酔わなきゃ……俺……逆に出来なかったよ。あそこで拒否されたら……俺だって当分立ち直れなかったからさ……。駄目だったとき……酔って馬鹿なことしたって……いえるじゃんか……」
「……馬鹿なことだと思っているのか?」
「何聞いてんだ?俺……そんなことこれっぽっちも思ってない……。だって……俺はずっと戸浪ちゃんとああしたかったんだ……。あのままいてくれると思った。でも戸浪ちゃんは帰った。なんで?俺……酔って馬鹿な事をしたんだって思った?だから帰ったのか?」
「……それもある……」
 そう言うと祐馬は、下を向いた。
「付き合いだけは長かったから……一回くらいやらせてやろうって思ったんだ?戸浪ちゃんにとってそんだけのこと?戸浪ちゃんにとって……セックスって……そいうものなのか?好きだからするもんじゃないのか?」
 やりきれないと言う声で祐馬はそう言った。だが戸浪にどう答えて良いのか分からない。いや……答えは分かっていて言うのが恐かった。
 お前が好きだ……
 愛しているから出来たんだ……
 その言葉が喉元まで出て止まった。
 だが、今更言ってどうなる?
「……お互い……あの晩は……流されたんだ……」
 ようやく戸浪がそう言うと、祐馬が小さく「そう……」と言い立ち上がった。そうして後ろにある棚の引き出しから小さな箱を取り出した。
「これ……記念にあげる……」
 見たことのある包装の箱を手渡され戸浪は鼓動が早まるのが分かった。
「祐馬……これは……」
「開けて良いよ」
 ニコリと笑って祐馬はそう言った。
 恐る恐る開けてみると、あの雨の日、砕けてしまった時計が、そんな事などあったとは思わせない姿でそこにあった。 
「……あ……」
 裏を見ると、日付と二人のネームが掘ってある。それは確かに以前祐馬から貰った時計であることを指していた。
「直ったんだ……って言ってもほとんど部品はかわってて……新品って言ってもおかしくない様な感じなんだけどさ……フレームとベルトだけは大丈夫だったんだ……」
「……でも如月は……」
 直らないと言われて捨てたと言っていた……
 あれは嘘だったのか?
「如月さんが何言ったのか知らないけど……。直ったよ……」
「祐馬……」
「……俺……これであの時のこと……許して貰えるとは思えないけど……酷い事した……言った……ごめんな……」
 祐馬はそういって又ソファーに腰を掛けた。
「……まあ……戸浪ちゃんがもう見たくないって思ってたら……捨ててくれて良いから……ほら、俺の名前とか日付入ってるし……。も、見たくないと思ったらそれまでだから……。それ、戸浪ちゃんの好きにしてくれて良いよ」
 そう祐馬が言った言葉など戸浪は聞こえていなかった。今は手の平にある、時計のことしか頭に無いのだ。
 時計が……
 直ったんだ……
 壊れたものでも……
 直るんだ……
 そんな事ばかりが頭の中を駆けめぐって祐馬の言っている言葉が聞こえなかったのだ。
 嘘みたいだ……
 戸浪は胸が熱くなった。
 祐馬が直してくれたのだ。
 それは……
 祐馬も自分と同じ気持ちでいるということなのだろうか?
 ほんとに……?
「……ゆ……」
 名前を呼ぼうと戸浪がすると、いきなり祐馬に抱きしめられた。
「……も……帰さない……」
「……祐馬……」
「帰るなんて言うな……お願いだから……出ていくなんて……言わないでくれよ……俺……戸浪ちゃんが許してくれるまで謝るから……」
「祐馬……」
 祐馬によって廻された腕はとても温かい。 
「私をまだ好きでいてくれるのか……?」
 顔を上げてそう戸浪は言った。
「まだじゃなくて……俺ずっとだ……。ごめん……あんな風に疑った俺にそんなん言える資格無いんだろうけど……。それに、こんな風に俺の気持ちを押しつけるのは間違ってるけど……俺……戸浪ちゃんとここで一緒に暮らしたいんだ……。俺……戸浪ちゃんが本当に好きなんだ……」
 じっとこちらの目を見つめて祐馬はそう言った。その目にこれっぽっちも嘘は見られない。真剣で……そして懇願するような目だった。
 戸浪はそんな祐馬の胸に頬を寄せて目を閉じた。
「あのことは……もういいんだ……」
 お前が信じてくれたら……
 それでいいんだ……
 それだけで良かったんだ……
「ごめん……ほんと……ごめん……」
 戸浪を抱きしめたまま、その頭に何度も頬を擦りつけて祐馬はそう言った。そんな仕草もとても戸浪には心地よかった。
「いいんだ……祐馬……」
 駄目だと思いながら……
 何度も諦める言葉で自分を納得させて……
 でも……
 いつだってこの場所を思っていた……
 ここに帰りたい……
 祐馬の側にいたいと……
 ただそれだけを思ってた……
 お前に愛されたい……
 嫌われたくない……
 そう思っていた……
「俺……もし戸浪ちゃんが今日……如月さんを連れてきてもこう言うつもりだったんだ……言わなきゃ……言わなきゃ戸浪ちゃんを失ってしまうって……そう思ったから……如月さんに殴られても……俺……良いって……思った」
「ああ……祐馬……」
 祐馬のように素直になろう……
 こんな風に素直になりたい……
 自分の気持ちをはっきりと伝えたい……
 祐馬が好きだから……
 ここにいたいから……
 この腕の中でいつだってくつろいでいたいから……
 お前と一緒に……
 ここで……
 愛し合いたいから……
「私も……祐馬のことを愛してる……。ずっと……ここに帰ってきたかった……。お前の腕の中に……帰りたかったんだ……」
 ずっと言いたかった言葉をようやく告げることが出来た安堵感で戸浪は涙が滲んだ。
「お前にあんな風に……誤解されたことが……一番辛かったんだ……。誰に何を言われても……辛くも痛くもない。……だけど……お前に……」
 そこまで言って涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「ごめん……戸浪ちゃん……ごめん……」
 祐馬は戸浪の頬を両手で掴み、こぼれ落ちる涙を唇で掬い取りながらそう言った。
「……祐馬……」 
 伏せ気味の目を開けて戸浪はしっかりと祐馬の顔を見る。すると、自然に祐馬の口元がこちらに重なった。
「……ん……」
 頬を伝った涙が口元に入りいつもとは違う味覚を伝えてくる。だが祐馬の舌はそれらも舐め上げながらこちらの舌を絡め取った。
 暫くキスを繰り返し、ようやく気持ちが落ち着いたところで、今度は違う落ち着きのなさを感じ始めた。
「……祐馬……」
 頬をうっすらと染めて戸浪は祐馬のシャツをギュッと握った。
「……うん……ベットいこ……」
 戸浪のその一言で分かったのか、祐馬は腕の中の恋人を抱き上げて寝室に向かった。
「……昼間から……?」
 ベットに下ろされた戸浪は自分を止められそうにないのに、そう祐馬に言うと、ニッコリ笑って遮光性のカーテンを閉めた。すると周囲は薄暗くなる。
「ねえ……戸浪ちゃん……」
 祐馬は囁くようにそう言って、ベットに乗りあがってきた。ギシッというスプリングの音すら、こちらの体温を上げる。
「……なんだ……」
 恥ずかしいのを隠すように戸浪はそっけなく言った。
「恋人同士の……セックスって……初めてだよな……」
 言って祐馬はこちらを下にして四つん這いになった。その祐馬の首に戸浪はするりと両手を絡ませた。
「……ああ……そうだな……」
 嬉しいと言えばいいのに、そんな台詞はまだなかなか言えないのだ。
「でも……ずっと好きでいたんだから……この間の一晩だって……恋人同士のセックスだったんだよな……」
 くすくす笑いながら祐馬はこちらのシャツのボタンをはじくように外していく。
「……ま……まあ……そうなるかな……」
 かあっと顔を赤らめて戸浪は言った。
「俺の付けた痕まだ残ってる……」
 そう言って祐馬は戸浪の胸元にまだ残る印を、はだけた胸元に見つけて嬉しそうに笑った。
「……ああ……お前の印だ……」
 そう戸浪が言うと、祐馬は指で痕をなぞった。その刺激だけでも戸浪には堪らなく感じる。
「……全部……俺の印で埋めて良い?」
 この間付けたキスマークの部分にきつく祐馬は吸い付いた。
「あっ……あ、埋めて良い……」
 このまま滅茶苦茶にされたい……
 と、思って抱き合った瞬間に、玄関のインターフォンが鳴らされた。
「ほっといていいよ……どうせ集金かなんかだろ……」
 言って祐馬はこちらの首筋に舌を這わせた。戸浪の方も最初、放っておけば良いんだ……と思っていたのだが、インターフォンのベルはやむどころか益々激しく押されている。
「見てこい!!五月蠅くてかなわないっ!」
 ガッと祐馬の顔を押しのけて戸浪は言った。このままインターフォンが鳴る中抱き合うなど考えるだけでゾッとするのだ。
「……ああああもうう!誰だよ!」
 と言って祐馬は腹立たしげに上着をととのえると玄関に走っていった。
「全く……」
 戸浪が独り言のようにそう言って、ごろりとベットに横になっていると、祐馬がバタバタと足音を立てて帰ってきた。 
「と、と、戸浪ちゃんっ!」
「……なんだ……新聞の集金か?」
 そう言ってやっぱり身体を起こさないで居ると、祐馬がベットに上がり、こちらの身体をいきなり起こした。
「祐馬……?」
「き、如月さんが……来た。だからちょっと顔出してよ……」
「はあ?」
 何しに来たんだ……
 こうなることを予想して、からかいに来たのか?
 ムッとしながらも戸浪は、はだけたシャツを戻すと、玄関に向かった。
「おい、上手くいったんならちゃんと報告しろ」
 如月は苦笑したような顔でそう言った。その言葉に顔が赤くなる。
「……帰ってから……と思ったんだ……」
「帰ってこなくていいぞ。お前の荷物は持ってきてやった。どうせこうなるだろうと思っていたからな……」
 言って戸浪がここから持ち出したスポーツバックを玄関に置いた。その上に、猫をいれたかごを置く。
「私とは馬が合わないもんでね。お前が拾ったんだからお前が面倒見ろ」
「戸浪ちゃん猫拾ったの?」
 横で様子を見ていた祐馬が驚いた顔でそう言った。
「まあな……飼って……いいか?」
「それは構わないけど……ここ、ペットオッケーの買い取りマンションだし……。でも戸浪ちゃんが動物飼うなんて……意外だ……」
 かごに入った猫を見ながら祐馬は不思議そうにそう言った。
「後の荷物は段ボールに一つくらいだ。祐馬……お前が取ってこい。私の車は分かるな」
 言って祐馬に車のキーを投げた。祐馬はそれを受け取ると、戸浪と如月を交互に見て「取ってくる……」と言い、靴を履いて玄関から出ていった。
「あいつ……あれで気を使ってるつもりなんだろう……はは。私とお前に何かあったと思ってるに違いない……。それも仕方ないって顔で出ていったからな……ははは」
 玄関に座って如月は笑いながら言った。
「何を言ってるんだ……お前とは何も無いのに、ようやく落ち着いた関係を、またぶち壊すような事は言ってくれるなよ……」
「よく言うよ……こんなに力を貸してやったのに……一晩くらいご褒美貰っても良いはずだろ……」
 ニヤと口元で笑い如月はそう言った。
「馬鹿言うな……だが……お前には本当に感謝してる……」
 戸浪は心の底からそう言った。如月が居たから、今、又こうやって祐馬と暮らせると言っても過言ではないだろう。
「いや……良いんだ……」
 そう言って、如月がこちらに近づこうとした瞬間に祐馬が走り込んできた。
「はあはあ……取ってきた……も、もういいよ。ありがとう如月さんっ!」
 ぜえぜえ言いながら祐馬はそう言って、段ボールを置くと、ぐいぐいと如月を玄関から追い出した。
「おい、祐馬……お茶くらい出してくれないのか?」
「また今度ね……あ、こっちの家には来なくて良いから……」
 そういう祐馬に如月が爆笑して去っていった。その後祐馬は玄関に鍵をかけた。
「……なんでこんなタイミング良く来るんだよ……」
 ムッとして祐馬が言う。
「あいつには世話になったんだ……そういうな……」
 言いながらかごからユウマを出した。黒い子猫は又捨てられると思ったのか小さく震えていた。だが戸浪に抱かれて急に元気になり、にゃあにゃあと鳴き、戸浪に顔をすり寄せた。
「ねえ……名前付けたの?」
「ああ……あっ……」
 ユウマと付けたことをすっかり忘れた戸浪は、もう少しでユウマと言いそうになったのを止めた。
 まずい……
「いや……まだだ……」
「ふうん。ゆっくり考えたらいいよな……。でもこいつちっこくて可愛いな……」
 祐馬が言って戸浪の腕に抱かれている子猫の頭を撫でようとすると、いきなり爪を立てられた。
「わあっ!なにこいつ……」
「捨てられた所為もあって人見知りが激しいんだ……追々慣れるだろ……」
 そんな保証はないのだが、戸浪はそう言ってユウマを床に下ろした。ユウマの方は戸浪の足元に絡みついて動こうとはしない。
 放っておけば慣れるだろうと戸浪は思いながら祐馬の方を見た。
「それより……他にすることがあっただろ……」
 照れくさいのを必死に隠して戸浪が言うと、祐馬は思いだしたようにパッと笑顔になった。
「あっ……そうそう……うん」
 戸浪をもう一度抱き上げて、祐馬は寝室に走り込むと二人でベットに倒れ込んだ。
「続き……」
 ちゅっと軽く額にキスを落とされて、戸浪はホッとしたように祐馬に抱きついた。
 これからは……
 焦らされないで済むだろうな……
 そんな事を考えている間にもう、祐馬の唇はこちらの耳朶に噛みついていた。そのくすぐったい仕草に戸浪は小さく声を上げた。
「あっ……」
 胸元を手荒に揉まれて戸浪は又声を上げる。体温がどんどん上がってくるのが戸浪にも分かった。
 ああ……
 祐馬……
「好きだよ……」
「ああ……祐馬……私も……」
 これから夢心地に浸れると思ったとたん、祐馬が叫び声を上げた。
「ぎゃああああっ!」
「なっ……なんだ?」
「ねっ……猫がッ!俺の腕に噛みついたっ!」
 祐馬が腕を上げると、小さな黒い身体がぶら下がっていた。
「ユウマっ!お前!なんてことするんだっ!駄目じゃないか……」
 そういって慌てて戸浪はユウマを祐馬から引き剥がすと、軽く頭を叩いた。ユウマはシュンとなっている。だが条件反射なのか、もう一人の祐馬も頭を押さえていた。
「何だ……お前まで……」
「あっ……お、俺じゃないの?でも俺に怒ってたじゃないか……あっ……」
 そこで祐馬はようやく猫の名前が自分と同じ名前であることに気がついたようであった。
「……いや……その……」
「まさか……そいつ……祐馬っていうの?」
 そういうと子猫はにゃああんと鳴いた。
「……漢字じゃなくて……カタカナなんだが……」
「……そんなん、呼んだらわかんないだろ……どうして同じ名前……あ、もしかして戸浪ちゃん……寂しかったんだ……俺、居なくて寂しかったから猫に同じ名前付けたんだな……えへへへ」
 祐馬は嬉しそうにそう言って戸浪を自分に引き寄せようとすると、今度はユウマに鼻をかじられた。
「うぎゃああああっ!」
「ゆ、ユウマっ!お前っ!」
「フーーーーッ!!」
 毛を逆立てた子猫は戸浪の腕の中で戦闘態勢満々だった。
「いでええっ……何この凶暴な猫……」
 鼻を押さえながら祐馬はそう言った。
「……如月にも……こんな感じだったな……でもお前が一番酷そうだ。もしかして猫に嫌われるタイプか?」
 戸浪が呆れたようにそう言うと、祐馬が怒り出した。
「こんなのうちにおけないよっ!俺、これ以上傷だらけにされんだぞ!そんなん堪らないって!」
 それに戸浪はカチンときた。
「それは……私も含めてそう言っているのか?」
 ムッとして戸浪はそう言った。
「……だって戸浪ちゃんも俺のことぼこぼこ殴るんだぞ。でもってこいつに引っかかれたり、かじられたりしたら俺ぼろぼろじゃんか……あっ!」
「そうか、お前は私のことも凶暴だと思っているんだな……」
 すうっと熱が引いた戸浪はそう言って、祐馬を睨み付けた。
「違うっ!違います!俺の失言ですっ!」
 そう言って近づく祐馬にユウマがまた爪を立てた。
「があああっ!いてええっ!」
「いいぞ、ユウマ。こんな奴は放って、お前の餌でも買いに行くか……」
 そう言って戸浪は立ち上がった。
「……と、戸浪ちゃん?あのさ……これから……ここで……その……」
 情けなくそう言って祐馬がベットを指さすのを、戸浪は冷たい目で睨み付け、ユウマと共に寝室をでた。
 取り残された祐馬はこれからの事を考え、一気に身体の力が抜けたようにベットに一人沈んだ。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP