Angel Sugar

「周囲の問題、僕の涙」 第1章

前頁タイトル次頁
 その日トシは八時頃、幾浦のマンションに着いた。
 幾浦から、今日は遅くなると聞いていたので、トシはポケットから貰った合い鍵を取り出すと、鍵穴に差し込もうとした。しかし扉には鍵はかかっていなかった。
 あれ……恭眞、帰ってきてるのかな……
 トシはそう思いながら扉を開け、玄関に上がると、いつも飛び跳ねてくるアフガンハウンドのアルが迎えてくれない事に気が付いた。
「恭眞、帰ってるの?」
 返事が無いので今度はアルを呼んだ。
「アル!アールっ!」
 すると、アルが廊下奥の扉を開け、トシに向かって走ってきた。そしてすかさず後ろに回り込むと、脅えたようにクンクンと鼻を擦り付けてくる。
「アル……どうしたんだい?」
 トシは自分の後ろにへばりついているアルの額を優しく撫でた。よく見ると尻尾は後ろ足の間に挟み込むように内に入れていた。
 その行動は何かに怯えているからだ。
「何……恭眞に怒られたの?」
 と、聞いたが幾浦が愛犬をこんな風に脅えさせるほど叱ったことは、未だかつて無かった。
 不思議に思っていると、部屋の奥から見知らぬ男がやってきた。
「あんた……誰?」
 幾浦と同じ位の身長の男は、トシを見下ろしながらそう言った。
「貴方こそ……どなたですか?」
 初めて見る顔であった。
「俺?誰だと思う?」
 からかっているようなその口調はトシを不安にさせた。
 何故、幾浦の家にいるのかが、まず分からなかった。友達だろうか?友達が先に来ることになっていれば、そのことを幾浦が自分に知らせないはずは無い。
 トシがそんなことを考えていると男は口を開いた。
「君さ、あいつの友達?なんかすげえ、可愛い子じゃないか~」
 笑みを浮かべながらその男は言った。
 すらりとしてはいたが、決して痩せているわけではなく。服から覗く腕は、よく鍛えられたスポーツマンの腕であった。濃い茶色の髪は、後ろで束ねてていた。そこにあぶれた伸びきらぬ髪が額にかかっている。
「そうです。貴方もそうなんですか?」
 可愛いと言われて思わず引いてしまいそうになった。
「えっ、俺はそんなんじゃないさ。ところであいつは遅いみたいだから、日を改めた方がいいんじゃないかな」
「そんなんじゃないって……どう言うことなんですか?」
 そのトシの声は少しうわずっていた。
「深~い関係。って言えばいいのかな……。ま、俺ずっとアメリカの方に住んでたからね。あいつから俺のこと聞いてない?」
 男からそう言われてトシは機械的に首を横に振った。
「そっか……俺ね……」
 それを最後まで聞かず、トシはきびすを返した。
「君…ちょっと!」
 その呼びかけに振り返ることなく、トシは走り去った。



「どうしてお前が、私の家にいるんだ!どうやって入った?」
 幾浦は恭夜に叫ぶようにそう言った。トシが待っていてくれると期待していただけに、落胆と、腹立ちが一気に恭夜に向かった。
「うるせーな……。管理人に弟だって言って、開けて貰ったんだよ。それとも十二時まで外で待ってろって言うのかよ」
 幾浦が十二時に帰って来た為に恭夜はそう言った。
「電話くらいしろ!私が何処で働いているか知っているだろう?それより何しに戻ってきたんだ。もう日本に戻るつもりは無いと言って飛び出したんだろう?」
 苛々と幾浦は言った。
「飛び出したんじゃなくて、あんたらが追い出したんだろう。こっちに転勤することになったんで、住む所を見つけるまで、やっかいになろうって思ってさ。いいだろ、可愛い弟の頼み何だからさ」
「だめだ」
 幾浦は速攻そう言った。それには三つ理由がある。
 一番の理由は、恭夜がここに暫く住むことにでもなれば、当分トシを呼べなくなるからであった。二番目は恭夜にトシのことを知られたくなかった。三番目は恭夜がいつも好きになる相手に問題があるからだ。
「冷たいなぁ。でも俺、出ていかないよ。ここ気に入っちゃったから」
 恭夜はそう言って、ソファーにごろんと横になった。アルはそれを迷惑気に見つめている。
「駄目だと言っているだろう!」
 どうあっても恭夜はここに居座るつもりの様で、幾浦が何を言っても素知らぬ顔である。
「そうそう、八時頃かな……大きな瞳の可愛らしい子が来てたけど、帰っちゃったよ。あんた知ってる子?」
 恭夜が目を輝かせてそう言った。
「トシが……来たのか?」
 幾浦はそれを聞いて一瞬目を見開いた。今日約束していたが、まだ来ていないと思っていたのだ。
「お前は私の弟だと事は、きちんと、正確に言ったのだろうな」
 それは凄みを持った声色であった。
「いや~言おうとしたら帰っちゃったよ。今度説明しといて」
「お前っ!」
「なんか都合悪いことでもあるのかよ。そんなに怒る事じゃないだろ。あ、そうそう、あの子すごく可愛かった。なあ今度、紹介してくれよ~」
 そのおちゃらけた態度に一瞬、恭夜に殴りかかろうとした自分を幾浦は何とか平静に戻すと、一度脱いだ上着を幾浦は羽織った。
「女のとこに行くのか?」
 怪訝な顔をして恭夜は言った。
「黙れ!暫く出かけるが、男を連れ込んだりしてみろ!叩き出してやるからな。分かったな!」
「はいはい。あんたホントに全然変わってないなぁ。恋愛は個人の自由だろ。ただ俺は男しか愛せないだけで、あんたが女相手にしてることと俺が男に対してしてることと変わらんないのに……どうして分かんないかな……」
 恭夜は幾浦がトシとつき合っていることは知らなかった。
「……」
 幾浦は無言で自分の家を出てトシのコーポに向かった。



 恭眞は月の半分はアメリカに出張している……
 トシはベットに横になりながらそう考えていた。
 あっちでの恋人なのだろうか?
 もしかして幾浦を追いかけて来たのだろうか?
 幾浦のことを信じてはいる。いるのだが、一度不安に駆られると余計な事まで考えてしまうのである。
 確かにここずっと会えなかった。殺人事件が立て続けに起こり、リーチも名執には会っていない。そんな一ヶ月を過ごし、やっと時間が出来た。なにより、今週はトシの週ではなかったが、リーチが気をきかせて一日プライベートを譲ってくれたのだ。
 それが嬉しくて、本来は幾浦が遅くなる日、トシはマンションには行くことは無かったが、会えなかった日々が長すぎ、今回ばかりはそうもいかなかったのである。
 たとえ一時間でも話が出来ればいいと思ってトシは幾浦のマンションに行った。だが玄関で迎えてくれたのは見知らぬ男だった。
 あの人は一体誰なんだろう……
 トシがそんなことを鬱々考えていると来客を告げるベルが鳴った。
 こんな時間に誰だろうと考えながらトシは玄関を開けた。
「恭……」
 言い終わらぬ内に幾浦はトシを抱きしめていた。
「どうして帰ったんだ……」
「お客さんが……来てたみたいだから……悪いかなって思って」
「あいつはな……」
 何となくトシはその続きが聞きたくなかった。
「コーヒー……飲んでく?」
 そう言ってトシは自分を拘束している腕から離れようとしたが、幾浦が許さなかった。
「ちゃんと私の言う事を、お前が聞いてからだ」
「き……聞いてるよ」
「あいつは恭夜といって私の弟だ」
「えっ?弟さん?」
 驚いてトシがそう言った事で、幾浦はため息を付いた。
「じゃ、何だと思ったんだ……全く」
 呆れたような顔で幾浦はトシを見つめた。
「僕……もしかしたら……恭眞の…その…アメリカでの…恋人かな……って、ちょっぴり考えちゃった……」
 ちょっとなんてものではなかった。それほど恭夜の態度が馴れ馴れしかったからである。
「信用無いんだな……私は……」
 がっくりと肩を落として幾浦は言った。
「ホントにちょっぴり……」
 慌てて言い訳をしようとするトシを引き寄せ、幾浦は唇を奪った。その状態のまま玄関に入ると後ろ手で扉を閉めた。そうして完全に二人だけになると幾浦は激しくトシを求め始めた。
「駄目だよ恭眞……駄目……」
 パジャマを半分はだけながらトシはそう言って幾浦を止めようとした。明日はリーチにこの身体の主導権を渡さなければならないのだ。そうすると、リーチと約束した事を守らなければならない。
 交替する前の日は絶対やらない……ということだ。
「少しでも私を疑った事は許せない。だが言うこと聞いてくれたら許してあげるよ」
 ニヤと口元だけで幾浦は笑うとそう言った。
「そんなぁ……」
 困る~困るよ~と思いながらもトシは絶対的な拒否は出来なかった。いくら恥ずかしがり屋で、自分からどうこうというタイプではないトシであったが、一ヶ月も何も無いというのはやはり辛い。
 だがリーチとの約束も大切な決め事であった。その為にベットに降ろされたトシは、再度幾浦を止めようと試みた。
「恭眞……。ね、うちのベット狭いし、もう一時だよ。ね、お互い仕事だしその……」
 トシがいくらそう言っても、既に目が座ってしまっている幾浦はパジャマを脱がそうとする手を止めたりはしなかった。
「トシ……こんなに近くにお前を感じて……唇に触れて……もう止められない……」
 幾浦はそう言ってトシの項に唇を添わす。
「あ……やっ……」
 力の入らないトシの抵抗をやんわりかわすと、項から鎖骨に向かって愛撫を施し始めた。
「駄目だって……あっ…」
 心地よい刺激がトシを包むと、幾浦を止めようという気持ちも消えていく。
「駄目じゃ無いだろう?」
 胸の突起を優しく揉みながら幾浦は問いかけてくる。トシは自分の胸板に幾浦の大きな手を感じながら頷いた。
 いっか…もう……
 頭の隅で、まずいなあ……と思いながらトシは抵抗できない身体に自分を預けた。



 リーチが目を覚ましたのは昼近くであった。まだ目覚めきれない意識が遠くのシャワーの音を聞きつけた。
「ん……」
 ごしごしと目を擦って眠さの残る目を目覚めさせようとした。
「なんか…身体…だりー」
 ごろりと身体を回転させてうつむきになると、シーツが頬に気持ちよく当たった。
 トシは昨日幾浦の家に行くことを聞いていたので、やるなとは一応忠告したが、どうも無理だったのだろう。
 たまには仕方ないか…忙しくてお互いどちらも会えなかったしな…。
 ああ、でも何かお尻がもぞもぞする~嫌な予感がするぞ~
 と、思いながら手を自分のお尻に伸ばして真っ青になった。
「ぎぃやあああああっ!」
 お尻にっ!お尻にっ!なんか残ってるっ!!
 リーチは真っ白になりそうだった。
「トシ…起きたのか?」
 そんなところに素っ裸の幾浦が来たものだから、リーチは怒りが頂点に達していた。
「貴様ーっ!何でお前が俺ん家にいるんだっ!」
 嘘っ!ってことはここでか??
「なっ…リーチかっ!」
 素っ裸の幾浦は仰天した。それ以上にリーチの方が仰天しているのだ。
「きょ…今日は俺の番だ!いや今週は俺の番だ!俺じゃ悪いか!」
 やるなと言ったぞ!言った~俺は言った~!!
 リーチは半分パニックであった。自分が挿れられた訳では無いのだが、身体はまだその感触を残しているのだ。これはかなりきつい。何だが強姦されたような気がしたのだ。
「そんなこと知るか!」
 既にバスルームに逃げ込んだ幾浦の声が響く。
「てめぇ!早く帰れ!今日はユキが迎えに来てくれることになってるんだ!かち合ったらどうすんだよ!」
「お前!仕事はどうなってるんだ」
「休みだよ!」
「そんな話はトシから聞いていないぞ。そうだ私も休みだから譲れ!」
「馬鹿野郎!今週は俺の番なのを、可哀相だから気を使って昨日トシに譲ってやったんだぞ!それが、これか!!くっそーてんめー!これ以上聞けるか!」
 支離滅裂にリーチは言った。
 トシもずっと幾浦と会えなかったのを知っていたリーチは気を回して昨日は譲ってやったのだ。だからといってこんな目に合わされ、更に休みまで譲ってやる気は無かった。
「何でも良いから早く出てけよ!出ていきやがれ~!」
 きーーーーっとリーチは叫ぶように言った。
「先にトシを起こせ」
 幾浦に言われ、それもそうだとリーチが思った瞬間、名執がやってきた。
「リーチ今日は……」
 俺んちの鍵何で閉めてねえんだよこいつらわ~!!
 と心の中で叫びながら「うわっ!来るんじゃねーよ!」と、リーチは慌てて毛布を引っ張り身体を隠したが、遅かった。
 そこら中に脱ぎ散らかしているリーチのではない服や下着が床にあった。それを名執はじいっと見ていた。
「リーチ……仕事で忙しいと言ってましたが、何の仕事をしていたんです?」
 怪訝そうに名執にそう言われ、思わずどう弁解して良いか分からずリーチは「その…あの」とおろおろとするしかなかった。そんな様子を感じ取ったのか、バスローブを羽織った幾浦が二人の前に姿を見せた。
「幾浦さん……」
 名執はびっくりした顔で幾浦とリーチを交互に見た。
「名執済まない…実は」
「どういう…取り合わせなんですか……」
 呆気にとられている名執に気付いた二人は同時に叫んでいた。
 それもお互い指で相手を差して言った。
「誰がこいつと!」
「誰がこんな奴と!」
 名執はそんな二人をもう一度、見比べ、ようやくどういう訳かを理解したのか、小さなため息を漏らしていった。
「リーチ…ひとまずトシさんを起こして下さい」
「あっ…それを忘れてた…」
 リーチはトシを起こすと「ユキにちゃんと説明しろよ」といってスリープを決め込んだ。
「ごめんなさい。雪久さん……。昨日リーチに譲って貰って…本当は僕が先に起きるはずっだったんですけど……」
 恥ずかしくて穴があったら入りたいと思いながら名執に謝った。
「良いんですよ。後でリーチに埋め合わせして貰いますから…」
 そう言って名執は笑った。
「じゃ、私は角の喫茶店で時間をつぶしてきますね」
「本当にごめんなさい……」
 トシは下を向いてそう言った。その横から幾浦が言う。
「名執、今日の休みを譲る気はないか?」
「ありません」
 にこやかに、だがきっぱりとそう言うと名執は出ていった。
「お前もな、休みなら何とか言って譲って貰ったら良かったんだ」
 幾浦はそう言ってむっすりとしている。
「それは無理だよ……昨日譲って貰ったので精一杯だよ……。それにこの間の休みは僕が取ったし…」
「だがお前がそのことを私に言わなかったから、休みを一緒には取れなかったろう?」
「でも……恭眞…忙しいって言って言ってたからさ……」
 簡単にシャツを羽織ったトシが、散らかした服を片づけながら言った。
「それはそうだが……」
「はい、着替えて雪久さんのいる喫茶店に行って、三十分ほど話しててくれる?」
 といってトシは幾浦に服を手渡した。
「どうして私が名執と話さなければならないんだ……」
 今は気まずいだろうが行って貰わなければならない理由があったのだ。
「雪久さん、一人で喫茶店に座ってると、女性に間違われて色んな人から声かけられるんだよ。雪久さんの性別に気付いた人でも、分かってて誘うらしいんだ。リーチはそれが一番嫌らしいから、頼むね」
「そう言うことなら仕方ないか……」
 幾浦は着替えると渋々名執のいる喫茶店に向かった。

 喫茶店に着くと案の定、名執は男性に口説かれていた。
「何だ、知り合いか?」
 幾浦はその男に睨みをきかせながらそう言って名執の前の椅子に座った。
「いいえ違いますよ」
 名執はニコリと笑って幾浦に言った。男はあたふたと席を離れる。
「トシの言ったとおりだな…いつもこうなのか?」
「そうですね。いい加減うんざりしています」
 名執のその彫りの深い容貌では仕方ないだろうと思う。フランス人とのハーフだと言うことも幾浦はトシから聞いて知っていた。
 ほっそりした体躯で色が白く、瞳や髪が柔らかい茶色。そういう姿が何処か儚げに見える。しかし穏やかに話す中にも意志の強さを時折見せる。
 ただ、あまり感情の変化は見られず、無表情に近い。この顔で無表情の時はやけに冷たい雰囲気が漂う。それは整いすぎている容貌の所為だろう。
 だがこの顔が笑みを浮かべると本当に美しいと幾浦は思うのだ。女は嫉妬し、男は性別を忘れるだろう。患者に対する名執の表情は何時もそんな笑みを顔に浮かべているのだ。
 こんな奇麗な男が何を間違ってあのリーチとつき合っているのか分からない。
「さっきは……悪かった」
 幾浦はそう謝った。
「最初は驚きましたが……リーチのあの私を見たときの仰天した顔……思い出すと可笑しくて…」
 フフっと笑って名執は目を細める。
「今、私の家には弟が来ていてな…仕方なく……だ」
「幾浦さんには弟さんがいらっしゃったのですか?」
 名執は驚いた顔でそう言った。
「ああ、随分前に家を飛び出して今まで帰ってこなかったんだが…今度日本で働くと言ってな。住むところが見つかるまで置いてくれと、昨日突然やってきてそのまま居座っているんだ」
 トシと恭夜がかち合ったことはあえて言わなかった。
「そうだったのですか…。ではトシさんと会いづらくなりませんか?」
 心配そうに名執が言った。
「まあ…何とかなるだろうとは思っているんだが…」
 このまま勝手に居座らせるつもりは幾浦にも無いのだ。さっさと出ていって貰わなければ困る。
「そういえば、弟さんはトシさんとの事はご存じなのですか?あ、もちろん、つき合っているという事を御存知かどうかですが……」
「いや、知らんし、そんな事を話したことは無い」
 幾浦は本当に困っているのだ。
「まあ、普通は話せませんがね……」
 名執はそう言って笑った。だがこちらは笑い事ではない。
「あいつは昔から筋金入りのゲイだ。そういう意味の困っているではないんだ」
「え、それでは別に隠すことは無いのではありませんか?」
「いや…色々あってな……」
 と言って幾浦はため息を付いた。名執が又口を開こうとすると、そこへリーチがやってきた。
「ユキ!」
 リーチはこちらへパタパタと駆けてきた。その手には旅行用鞄を持っていた。
「遅くなって御免……」
 ラフなTシャツにジーパンという出で立ちだ。リーチがというより利一がそんな格好をしていると大学生に見える。
「何だ、休みは今日だけじゃないのか」
 リーチの格好を見て幾浦がムッとした顔で言った。
「そうだよ。悪いかよ。夏休みが無かったんだから二日位貰ってもいいだろ」
「そんなことを言ってるんじゃない。どうして二日ともお前がその権利を持ってるんだと言いたいんだ。」
 基本的に彼らは自分の主導権を持っている週に休みが入ると、その時主導権を持っている方に休みを使う権利があるらしい。但し、片方に偏った休暇が続くと、お互い交替して平等に自分のプライベートとするのだ。
「しょうがないだろ。休みは交替で取ってるんだから、たまたま俺の番の時に当たっただけだ。そりゃ四、五日あれば分けてやるけど、たった二日じゃどうしようもないだろ」
「では、今日譲れ」
 どうせトシがリーチに押されたに決まっているのだ。そう思うと益々腹が立つ。
「旅館取ってるからだーめ」
「お前って本当に憎たらしい奴だな」
「お前に好かれたかねーよ。行くよユキ」
 と言ってリーチは名執に声をかけた。
「済みません幾浦さん…」
 謝っているが名執の顔はリーチと旅行が出来る嬉しさを隠しきれない表情であった。
「済まないという顔をしてないぞ」
「あ……そうですか?」
 苦笑して名執は言った。
「いいから、ほっとけって」
 リーチはぐいぐいと名執を引っ張り二人は幾浦の視界から消えた。それを見ながら幾浦は深いため息を付いた。



 うちに帰ると恭夜は居間でテレビを見ながらごろごろしていた。その上冷蔵庫に入れておいたリンゴを勝手に食べている。
「まだいたのか」
「昼帰りとはおさかんなことで……」
 こちらを見ずに恭夜は久しぶりに見る日本のテレビに釘付けになっている。
「うるさい。お前が私の私生活に口を出す権利はない」
「早く落ち着けよ…長男だろ。田舎の両親がやきもきしてるぜ、きっと」
 この弟に言われたくないと幾浦は本気で思った。
「で、お前は何時出ていく気なんだ……」
「一週間もすれば決まるよ」
 どのみちトシの週は来週なので、今週一杯なら構わないか…幾浦はそう思ってやや表情を和らげた。
「ところで何処に勤めるんだ?」
 幾浦も恭夜の向かいに座ってそう聞いた。
「お堅いとこさ…」
「お堅いところ?公務員か?」
 嫌な予感がした。
「言えばそうなるかな…俺さ、警察の科学捜査研究所ってとこに勤めることになったんだよ」
「何だそれは!」
「やー…ずっと勧誘されてはいたんだけどね。日本に帰る気になってさ、条件も良かったし。これでも分析にかけてはエキスパートなんだぜ」
「お前、以前何処に勤めてたんだ……」
 毛嫌いしてるとはいえ、やはり実の弟のことは気になっていた幾浦は、アメリカに出張するとたいてい時間をとって会っていた。だが仕事のことは聞いた覚えは無かった。会えばいつもちゃらちゃらした格好をしていたので、どうせ気ままなフリーターでもしているものと頭から思っていたからである。
「言ってなかったっけ……市警の科学研究所だよ」
 幾浦は絶句して言葉がつげなかった。確かに恭夜は科学にめっぽう強かった。語学もそうだ。だからといって大学を中退して飛び出した弟がそんな職業に就いていたとは夢にも思わなかった。
「そんなこと……聞いたことはないぞ!」
「確かに研究や分析をしてるようには見えないことは認めるけどさ、人間見た目じゃないってことだよ。要は実力だよ」
 恭夜はフフンと鼻を鳴らしてそう言った。
「何が実力だ……全く…。それで、場所はどこだ」
 警察関係とはいえ、トシに全く会わないと言う保証は無い。
「あ、週の三日警視庁詰めで残りは科警研」
「なにーっ!」
 あまりの大声に恭夜の方が驚いたようであった。
「なっ……どうしたんだよ…」
「いや…なんでもない……」
 ハッと我に返ると、幾浦は冷静に考えることにした。警視庁だって広い。そんなに簡単に会うともないだろう。そう思うことで落ち着いた。
「何でもいいが、さっさと住む場所を見つけるんだな……」
 ため息と共に幾浦はそう言うと寝室に向かい倒れ込むように眠りについた。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP