Angel Sugar

「周囲の問題、僕の涙」 第11章

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 寝室の鍵を閉めると幾浦はベットの倒れ込んだ。アルコールの所為ではない微熱がここのところずっと続いていた。身体も怠い。倦怠感が四六時中身体を支配していた。眠りたいのに神経だけが興奮して、眠れなかった。浴びるようにアルコールをとっても散々な二日酔いになるだけで、何も好転しなかった。
 心配そうにアルが幾浦の顔をぺろぺろとなめた。
「アル……済まないな……」
 そう言ってアルの額を撫でてやると、目を細めてこちらに寄り添うように丸くなった。
 疲れたな……シーツに顔を埋めて呟く。
 これから自分はどうなるのだろうか?先が見えない未来がこれほど恐いと思ったことは無かった。自分はこれから何をすればいいのだろうか?自分に何か生きる楽しみがあっただろうか?
 何も無かった。今はただ仕事をしているときだけが気が紛れた。だからしなくてもいい残業をしていた。部下は心配をしてくれているがそんなことは余計なお世話であった。
 トシが側にいてくれたときはこうではなかった。休みが楽しみであった。夜もそうであった。映画を見るのも食事をするのも、何処にも行かなくとも話をするだけで楽しかった。トシがいるだけでホッとした穏やかな時間が流れていた。そんな時間はもう戻ってこないのだ。その代わりになるものは何も無かった。
 会いたかった。会って母親が言ったことに対して謝りたかった。しかしそれは出来なかった。リーチとの約束があったからだ。
 いずれトシには新しい相手が出来るだろう。そして、トシの心から幾浦のことは苦い思い出としてやがて記憶の底に沈んでいく……残されるのは痛みの癒えない自分の心と、トシを求める強烈な想いだけである。
 惨めであった。自分だけが取り残されていくのだ…。その傍ら、トシは新しい相手のことで心を一杯にして、その腕に抱かれる。
 誰にも渡したくないと切実に願った恋人を、他人に引き渡してしまうのだ。
「トシ……」
 窓の外はいつの間にか降り始めた雨が外の景色を滲ませていた。
「お前が来てくれたのはこんな日だったな……熱のある身体で……私を心配して……来てくれたんだ……それなのに私は……」
 幾浦はその後で恭夜に聞かされた。そこで自分の嘘でもトシを傷つけてしまったことを知った。トシは幾浦の会社に確認していたのだ……出張ではないと。それなのに幾浦は実家に帰っていることを話せずに出張と言ってしまった。あの時の驚いた顔……信じていた人間に裏切られたショックが表情に一瞬現れたことを幾浦は思い出した。
 一番大切にしたい……守りたいと思っているトシを何度も何度も傷つけた自分は何と酷い人間なんだろうか……。
 ふと幾浦は窓ガラスに映った自分の顔が目に入った、ガラスを流れる露の所為で、その顔は泣いているように見えた。



 その日、トシ達は神奈川県警の入り口をくぐった。都内で捜査中の殺人犯が神奈川の方でも殺人を犯し逃亡していた。その為、警視庁捜査一課は神奈川県警と合同捜査に踏み切った。警視庁からは駿河警部と利一が向かうことになった。しかし、リーチは不機嫌であった。
『何でそんなに不機嫌なんだよ……』
『お前忘れたのかよ……神奈川県警って北村がいただろ……』
『あ、そう言えばそうだよね……』
 北村は神奈川県警刑事課の刑事で、二人の同期であったが、何処がいいのかやたら利一にモーションをかけてくる男であった。
『あー俺、何度か抱きつかれたんだよ……だから嫌なんだ……嫌いじゃないけどさ、良い奴なんだけど……それがちょっとなぁ』
『あの人の場合、周りが知ってるからね……僕たちのこと好きだって……』
 トシも嫌いでは無かった。北村は多少の事は許せる得な性格をしていたからである。
『それで、ちゃかされるのが嫌なんだな……』
 上司には嫌だと言っていたが、神奈川県警と合同になれば利一にお呼びがかかる。もしかして部長や課長の陰謀では無いだろうかとも考えることもあった。しかし本当の所は違った。警視庁と神奈川県警は仲が悪かったのだ。捜査上支障が無いような人選をすると結局、トシ達に廻ってくるのである。警部の駿河も元々神奈川県警の刑事であった為にいつもこのメンバーであった。それを知っているために文句も言えなかった。
「そう言えば……北村という刑事は隠岐のファンだったな……」
 駿河が今知ったようにそうトシに聞いた。
「え……ええ……」
 とりあえず笑みは忘れずにそう答えた。
「彼と二人きりにはなるんじゃないぞ……」
 駿河は真剣にそう言った。
「はぁ……気をつけます……」
 と、話し合っていると問題児が走ってきた。
「隠岐!久しぶりだなぁ」
 満面の笑みの出迎えであった。駿河がいなければ抱きつかんばかりの勢いであった。
「元気そうだな北村……」
「駿河警部もお元気そうで……噂はかねがね」
「何だその噂というのは……」
「え……いやー……若い刑事を苛め……いえいえ、厳しい指導をすると伺ってますので……」
「最近骨のあるのがいなくてな……すぐ泣きだすんだ。そうだ北村、うちに来る気は無いか?私が直接面倒を見てやるぞ。まずその性格を治してやる」
「それはご遠慮します。でも、私、何度も警視庁に移動願いをしているんですが受理して貰えなくて……」
 そう言って北村は笑った。背も高く、笑うとそろった白い歯が印象深い青年であった。目鼻立ちがはっきりしているので女性がほおっておくはずは無いのだが、ここ神奈川県警ではアタックする婦人警官はいなかった。それは北村の隠岐好きをみんな知っているからである。かといって毛嫌いされるわけでもなく、刑事課では可愛がられていた。意外に気を使う性格と、沖縄生まれの大らかさが好かれる要因であった。下手をすると殺人を扱っている課は時に暗く殺伐とすることがある。それを北村は天性の明るさで和ませる特技を持っていたからであった。
 それに利一にしか興味が無いというのもある意味で上司にすれば安心できる材料であった。もてる刑事は女性関係のもつれをおこす可能性もあったからだ。現に、被害者と関係を持ってしまった刑事がいたが、そんな問題を心配する必要が無いためであった。
「今回はお世話になります」
 トシは北村にそう言った。
「お手柔らかにな……。可愛い顔をしてるけど隠岐は、殺人犯とか容赦しない性格だからな~ちょっと俺、脅えてるんだぁ」
 脅えているといいながら北村は、全くそんな表情はしていなかった。
「でさ、隠岐、事件が終わったら二人で飲みに行かない?」
「北村刑事」
 駿河にじろりと睨まれて北村は「事件も解決していないのに不謹慎でした。済みません」と言って本当に済まなさそうに謝った。こういう部分があるので憎めないのだろう。
「部長がお待ちですので、案内しますね」
 北村は二人を会議室に案内した。
 なんだか先が思いやられるなぁ……トシはそう思いながら心の中で溜息を付いた。



 頼子は結局幾浦と折り合いがつかずに帰ってきた。「後は任せます……」それが幾浦から聞いた最後の言葉であった。どうしていいか決めかねていた。リンゴを剥く手も止まる。
「頼子……お前恭眞の所から戻ってきてから様子が変だぞ……」
 恭三は心配気にそう言った。
「何でもありませんわ……」
「ところで見合いはどうなったんだ?」
「ええ、それが恭眞が……あまり乗り気じゃないのよ……」
「そうか……無理強いは出来ないが……」
 恭三は残念そうにそう言った。
 そこに予期せぬ来訪者があった。
「恭夜……」
 頼子は驚いてリンゴを落とした。そのリンゴを恭夜は拾って机に置いた。
「親父……久しぶり……その……身体どう?」
「大したことないわ……どの面下げて今更戻ってきたんだ……」
 そうは言ったが、恭三が内心喜んでいるのが頼子には手に取るように分かった。
「まぁまぁお父さん、いいじゃないの……それより連絡位すれば駅まで迎えに行ったのに……」
「そんな子供じゃないよ……これ見舞い……」
 照れくさそうに恭夜は果物籠を頼子に渡した。
「貴方が気を使うなんて……大人になったのね……」
「もう子供じゃ無いよ……」
 すねたようなその顔が、家を飛び出していった時の面影を残していた。
「で、恭夜。お前の……その趣味はまだ健在なのか?」
 聞きにくそうに恭三は聞いた。
「悪かったな。健在で……」
「全くお前は……本当に……馬鹿か間抜けか阿呆か……」
 呆れたように恭三は言った。それは怒っているのではなく諦めた口調であった。
 暫く久しぶりに親子で話をし、恭夜は「じゃ、俺忙しいから……」と言って立った。
「恭夜……今から帰るの?」
「ああ、非番は今日だけだから……忙しくてさ……」
「お前……警察関係の仕事だそうだな……お前みたいな奴でも雇ってくれるとは……世間も変わったな」
「親父……俺これでも是非にっていわれてニューヨーク市警の研究所からこっちに移ったんだぜ。息子は優秀なんだからもっと誉めてくれよ」
「何が優秀だか……」
 言いながら恭三は、誇らしそうであった。 
「じゃ、お父さん。私恭夜を駅まで送ってきますね。あ、そのままうちに戻りますから又明日来ます」
「ああ、分かった。そうだ、恭夜……たまには顔を見せてくれよ」
「分かったよ……不肖の息子ですが、また顔を見せに来ますよ」
 そう言って病室を出た。
「あんな風に言ってるけれど、お父さん、内心嬉しいのよ」
「みたいだな……あーんなに怒ってたのに……歳取ったら丸くなるって本当だったんだ」
 うんうんと頷きながら恭夜は言った。
「ところでさ、兄貴のことどうなってんの?」
 恭夜に聞かれて頼子は、駅までの道のり、幾浦のことを相談した。
「母さん……知ってた?隠岐とつき合うようになって、兄貴笑うようになったって……」
「え……?」
「表情がさ……柔らかくなったよ。どっちかって言うと、沈思黙考タイプだろ。俺も小さい頃はホント恐かったな……。アメリカに兄貴が出張に来る時は、会ってたけど、やっぱ恐かったよ。外資系でもまれて生き残ってるんだから、かなり仕事人間だったから自然にそうなるんだろうね。母さんは知らないと思うけど、結構女の子を泣かしてたみたいだった。それでも表情変えないんだ……俺、兄貴って何考えてるのか分かんなかったよ。それがある時から笑顔を見るようになって、変だな……って思ってたら、丁度隠岐とつきあい始めた頃だったみたい。俺びっくりしたよ。隠岐のことは後で知ったけど、あの時初めて兄貴に親近感を持ったんだ。色々相談できるようになったし……」
「…………」
 幾浦が笑った顔を何時から見ていないのだろう。頼子は思い出せなかった。本当に小さい頃は見たような気がしたが、それが何時の頃かは思い出せなかった。
「俺……思うんだけど、俺のことは仕方無しに認めてくれるのはきっと俺はいつも反抗していて思い通りにならなかったからだよ。こいつには言っても仕方ないって諦めてるからだと思う。だけど兄貴は両親に逆らわず、いつも言うことを聞いてくれた。だから今回自分たちの思うとおりに事が運ばなくて母さんは腹が立ってるんだよ。だから余計に意地になる。だけどさ、俺も兄貴も母さんも親父もみんな一人の人間で、誰かの所有物にはならない。思い通りになるなんて思っちゃいけない。人生は自分のものなんだから、縛るのは間違ってるよ」
「偉そうに言うのね……」
「偉そうじゃなくて、ホントのことさ。だって人生は一回こっきり、今は今しかないんだから、その時後悔するようなことしたくないもんな。母さん、兄貴のこと分かってやれって、俺、兄貴の笑う顔見られなくなるの嫌だから……」
 頼子は恭夜の言葉に答えられなかった。
 そうしているうちに、駅に着いた。
「じゃ、母さん。親父のこと頼むね」
「ええ……」
 笑顔を残して恭夜は改札に消えた。その笑顔は人生を楽しんでいる顔であった。思い出せないもう一人の息子の笑顔もこんな晴れやかなものなのだろうか?
 頼子は去ってゆく電車を見送りながらずっとそのことを考えていた。
 そうして家に戻ると何故か幾浦が待っていた。
「お母さん……お話があります……」
 その目は真剣そのものだった。



 合同捜査も無事に終わり、トシはホッと胸を撫で下ろしていた。犯人を昨晩逮捕し、やっと警視庁に戻れることが嬉しかったのだ。そんなトシを北村は恨めしそうな顔をして見ていた。周りが気を使ってくれた所為か、北村と二人っきりになることは無かった。特に警部の駿河が目を光らせてくれていたのだ。
 帰り支度をしていると携帯がなった。
「やあ、今晩暇?」
 電話の相手は恭夜だった。
「何でしょう恭夜さん……」
『ねえ、リーチが携帯番号教えたの?』
 トシが呆れたように言う。
『馬鹿!俺が教えるわけ無いだろ。篠原だよ篠原』
「なんか口調がきつくない?そんなに俺って嫌われてる?」
「いえ、そんなわけでは……」
「ちょっと話しあってさ、今晩会わないか?」
 予定は無かったが、トシはどうしようか迷った。
『リーチどう思う?』
『お前の好きにしろよ。お前のプライベートだろ。俺はしんねぇ』
 気のなさそうな声でリーチは言った。
『しんねぇって……』
「んも~兄貴が会いたいって言うから俺間に入ってるのにさ……」
 と、恭夜が驚くようなことを言った。
「え……」
 幾浦が会いたいと言ってくれているのだろうか?
『リーチっ!』
『うるせえっ!てめえの事はてめえで決めろ!それで傷ついてもいいなら会いに行けよ。こればっかは俺が決める事じゃないだろ?』
 何故かうざったそうにリーチが言った。ちょっと怒ってるな……とトシは気が付いたがその事に触れなかった。
『でも……』
 もしかしてこの間の母親の事を謝りたいと思ってくれているのだろうが?だが謝られてもその先は無い。
 会って辛い思いをするだけだ。
 だが……。
『トシ……自分の思うとおりにしろ。俺は幾浦に以前お前にもう会うなと約束させた。電話もメールも駄目だと言った。それを了解したのは幾浦だ。その幾浦が会いたいって言うのならお前も覚悟しろ。これからどんな泥沼になっても、お前が耐えられるって言うのなら……仕方ないだろう……』
 だから怒っていたのだ。
 幾浦が約束を破ったからだ。
「なあ、事件が済んだのは聞いてるんだよ。会えないのか?」
 黙り込んだトシに恭夜がたまりかねてそう言った。
「何時に何処に行けば良いんですか?」
 覚悟など出来なかったが、トシはそれよりも先にそう言っていた。

 待ち合わせの新宿駅東口は週末もあって人が溢れていた。アルタの前は誰が誰だか分からない人達ばかりであふれている。その前の公園ではいつものごとく知らない団体が歌を歌っていた。
 リーチはやばくなったら起こせよと言ってスリープした。起きてていいよと、言ったが、犯人逮捕はリーチが担当したので疲れたのだろう。「や、寝たい」と言って断った。
 三十分待ったところでやっと恭夜がやって来た。
「ごめん隠岐、報告書に捕まってさ。待った?」
「いえ、私も今来たところです。あの……ところで幾浦さんは……」
 トシがそう言ってキョロキョロとすると恭夜は苦笑して言った。
「嘘なんだ」
「は?」
「いや、隠岐を引っ張り出すにはそれしかないと思ってさ……」
「……そうですか、じゃあここで……」
 トシがきびすを返して帰ろうとするのを恭夜が腕を掴んで引き留めた。
「んも~そんなに嫌うこと無いだろう。ちょっと話するだけなんだから、つき合ってくれよ。別に俺、隠岐をどうこうしようとか思ってないよ」
 ハハッと笑って恭夜は言った。
「……」
「ずっとさ、隠岐が落ち込んでるの知ってるから、ほら、飯でも食って元気になってもらいたいなあって思ったんだ。駄目か?」
 恭夜は本当に優しい気持ちでそう言ってくれているのがトシには分かった。その気持ちを無駄にするのも悪いとトシは思った。何より自分には何も予定は無いのだ。
 これからずっと予定は無い。
 誰かと食事に行くことくらい良いだろう。
 それが例え幾浦の弟であってもだ。
「……そうですね……おごりならつき合いますよ」
 トシはようやくそう言った。
「いいよ。俺のおごり!さあ、飯に行こう~!」
 トシが案内されたのは、イタリアン中心のメニューの居酒屋で観葉植物が店内に所狭しと置いてある。煉瓦作りの壁も人気の一つなのか、既に沢山お客が入っていた。その店の丁度窓際に案内され、二人は座った。
「隠岐はあんまり飲まないんだよな」
 ちょっと残念そうに恭夜は聞いた。
「ええ……一度酷い目に合いまして……ご存じでしょう?」
 利一が酷く酔って警察手帳を落としたのは警視庁で有名な話であった。
「聞いてるよ。隠岐がそんなことするなんてなあ。みんな隠岐とそのべろべろに酔うって言うのが、こう本人と繋がらなくて逆におかしいんだよな」
 いや、それ、リーチなんだ……
 と思いながらもトシは苦笑した顔を恭夜に向けた。
「兄貴のこと……ごめんな……何にもしてやれなくてさ……」
 それを聞いて暫くトシが沈黙をしていると、頼んだ料理とワインが運ばれてきた。そのワインを一口飲んで恭夜は言った。
「ほら、こうゆうのって事情知ってる奴が間に入って、味方になってやらなきゃ駄目なことだからさ……俺もってね。でも俺はなんにも出来なかったから……」
 言って恭夜はどこか遠くを見てる。
 何かそんな風な事が恭夜にもあったのだろうか?
 そんな事を思わせるような恭夜の表情だったのだ。
「恭夜さんも……そう言うことあったんですか?」
 聞いて教えてくれるかどうか分からなかったのだが、トシはそう聞いた。
「俺……日本に帰ってきたのは、あっちでつき合ってた奴を事故で亡くしたからなんだ。あんまり悲しくてさ。あいつがいた土地にいられなかった。一緒に住んでたとこなんか、あいつがいないのにいられなかった。だから帰ってきたんだ……」
「……え……」
「あいつ……ノンケでさ。あ、ノンケって隠岐みたいに、元々ノーマルの奴のこと言うんだけど、俺が押しまくってようやく俺のものになってくれたんだけど……最初は大変でさ。やっぱ家族の問題が出たんだけど、そこの兄さんがやっぱりそう言う人で、俺達の間に入って色々協力してくれて……だから俺も、そう言うことがあったら、絶対味方になってやるって思ってたわけ。まあ俺は上手く出来なかったけど……」
「そうなんですか……」
 普段ふざけている恭夜からは考えられないくらい真剣な顔をしている。
「あ、でも、私のことは大丈夫です。本当にその気持ちだけでありがたいですから、もう気になさらないでください」
 トシがそう言うと、恭夜がジロリと睨んできた。
「俺がね、分からないのは隠岐のそう言うとこ。あっちもこっちも遠慮ばっかりしてさ、本当の気持ちをどうしてそうやって押しつけるんだろうな。その性格悪いとは言わないけど、何でもかんでも損して馬鹿馬鹿しくならない?これだけは損しないぞって一つくらいあっても良いと思うんだけどな」
「今回のことをおっしゃっているのなら、恭夜さんも言えないと思うのですが……」
 トシは怒鳴りたくなるのを押さえてそう言った。
 この恭夜に何が分かるというのだ?
 言いたくても言えない、自分の気持ちを通したくても通せない事だってあるのだ。
 それは相手を想うから……大切にしたいから出来ない事だ。
「……あのさ、それ、それなんだよ。両親も関係ない!俺は俺の想いを貫くんだっていうのが、どうみてても二人に無いんだよな。それじゃあ、今回のことでなくても、遠からず駄目になってたと俺は思う」
 どうしてこの男にこんな風に言われなくてはいけないのだ?
「……恭夜さん……いい加減いしてくれませんか?貴方は関係ないでしょう?」
「関係あるよ。俺兄貴の弟だぞ。それに俺の方が経験は積んでる。俺はまだ諦めてないんだからな。隠岐と兄貴は絶対上手くいかせてやりたいんだ。いや、何とかなるっ」
 ときっぱり言うのにトシは呆れた。
「そんな風に言える貴方は幸せですよ……」
 溜息を付きつつそう言うと恭夜は先ほどより怖い顔でこちらを見て言った。
「好きな相手に死なれた俺の何処が幸せなんだ?散々あいつの両親や家族を引っかき回して、泥沼になって、それでも俺はあいつを離せなかった。ようやく認めてもらって、平穏に暮らしだした矢先にあいつは死んだ。そんな俺の何処が幸せだって言うんだよっ!言葉に気を付けろ!」
 ダンッと机を叩いて恭夜は言った。その瞳は怒りではなく悲しみに満ちていた。
「……済みません。そんなつもりじゃなかったんです」
 トシは本当に申し訳ないことを言ったと反省した。
「なんてね……びっくりした?」
 くすくす笑って恭夜は言った。
「……」
 トシはどういって良いのか分からない。
「なんて言うか……そりゃ性格的に出来ることと出来ないことってあると思うよ。でもさ、俺が言いたいのはそんなに好きなら、他にも方法があるだろってことだ。どうしてもっと二人で模索して、抜け道を探さないのかなって……二人でどっか逃げ出したって良かったんだぜ。南の島で二人っきりっていうのもいいじゃない。親父達をなだめるのは俺の仕事。隠岐はそう言うこと考えなくていいの。だろ?だって俺は親父の子供で、隠岐は関係ないんだからさ。後のこと色々考えて行動するのも大切かも知らないけど、時にはそういうの全部忘れて何かするってことも必要だろ?」
「……どっかに逃げ出すって……」
 恭夜の考えることはトシが思いもつかないことばかりだった。
「だってさ、男とつき合うって覚悟したんだろ?そしたらその時点で色々普通とは違う問題が出てくるのなんか分かってたはずだぜ。例え親父が元気だったとしてもさ、認めてくれる訳無いじゃないか。でも頑張ろうと思ったんだろ?それが病気だったら諦めるなんてさあ、そんなもん、年なんだからいつかぽっくりいくんだよ。年じゃなくても突然死ぬことだってあるんだから……」
 言って恭夜は料理をようやくつつきだした。
「そんな風に……思えたら……。そんな風に考えられたら……本当に……良かったと思うんです……思うんですけど……」
 きゅうっと胸が締め付けられてトシは涙が出そうだった。
「あのさ、隠岐は兄貴の幸せを思ってるのかしらないけど、この状態って残酷だぞ。兄貴の幸せじゃなくて親父の幸せになってるの分かってる?実際、隠岐がイヤだ、別れないぞってあの時言ってたら……俺、兄貴は悩みながらも隠岐を選んだと思う。だってさ、兄貴の幸せって隠岐といることだろ?隠岐があの時指輪を返してしまったから……兄貴どうしようもなくなってるんだぜ。隠岐が身を引いてくれたんだから、私はそれに応えて両親の思うように~なあんて考えてるって絶対。これってなんかおかしいと思わないか?」
「私のしたことが……間違ってたって言うのですか?私が幾浦さんを苦しめてると……そう言いたいのですか?」
 そんなはずはない。僕は最善の道を選んだはずなんだ。これで恭眞が楽になれると思ったから……僕は……
 僕は指輪を返したんだっ!
「そうだよ」
「……そ、そんな言い方って……無いんじゃ……」
「隠岐……いい子になるだけが恋愛じゃ無いぞ。時には自分の本当の気持ちを相手にぶつけることだって必要なんだ。それが出来もしないくせに、好きだ何だというなっ!兄貴の本当の気持ちが分かってやれるのは隠岐だけだろ!兄貴は何を望んでるのか、本当はどうしたいのか知ってるのは、理解してやれるのは隠岐だけじゃないかっ!その望んでることを優先してやるのが恋人なんじゃないのか?」
「……望んでる事……」
 私の望みは……
 お前と共に齢を重ねることなんだ……
 ずっと一緒にいような……
 愛しているよ……トシ……
「……っ……」
 ここが人前でなければトシは泣き出していただろう。だが必死にそんな自分を押さえつけて膝の上で拳を握りしめた。
「ほら、分かってるんじゃないか……。お互い本当の事言い合って、家族問題で泥沼になって……それが耐えられなくなってお互いの気持ちが離れてしまったときに、別れたらいい。そこまで二人で落ちも出来ないのに、何甘ったれた恋愛してるんだよ。相手の為って言いながら結局先に逃げたのは隠岐だ」
 そういう恭夜の口調は意外に優しかった。
 本当にそんな恋愛をした人間にしか言えない言葉なのだろう。
「……はい……」
 本当は優しい優しい弟なのだ。
 それを知っているから、例え家族と絶縁していたとしても、幾浦は出張先では必ず弟に会っていたのだ。兄だからそんな弟が心配だったのだろう。
 口では悪態をつき合う二人なのだろうが、やはり血が繋がった兄弟だ。
「じゃあさ、兄貴に会いに行ってやってくれる?もう、眉間に縦皺入ったまま死にそうになってるんだよな……こえーのなんのって……。ああいう顔に対抗できるの隠岐だけだと思うからさ」
 笑いながら恭夜は言った。
「……はい……」
「言いたいことちゃんと言える?」
 トシは何度も頷いた。
 僕だって……恭眞が好きだ。
 ずっと一緒にいたいんだ。
 これでもっとボロボロになるかもしれない。
 けど……
 ちゃんと好きだと言いたい……
 愛してると告げたい……
 別れたくない……
 側に……いたい……
 トシは我慢していた涙が、不意にぽろりと頬を伝った。
 恭夜は見ない振りをして料理を無言で食べていた。
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