Angel Sugar

「周囲の問題、僕の涙」 第10章

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「えっ……幾浦さんのお母さんが見えたのですか?」
 聞き込みから戻ったリーチは受付でメモを渡されると思わず叫ぶように言った。篠原がそれを横から見て何を驚いているのだろうと興味津々で横に立っていた。
「ええ、直接お会いしてお礼が言いたいとの事でした。そのメモの所にご連絡して下さいね。遠い所から来られたようですので、隠岐さんもお忙しいと思いますが、電話くらいはしてあげて下さい」
 頬を赤らめてこちらを見る受付の婦人警官に、笑みを向けながら、余計なお世話だよ……と、リーチは舌打ちしたがそんなそぶりはつゆほど見せなかった。
『これ……恭眞のマンションの電話番号だよ……』
 トシが重苦しくそう言った。
「へー。幾浦さんのお母さんか、電話してやらないとな」
 何も知らない篠原はそう言ってリーチの背を叩いた。
「そ……そうですね……」
 笑いを作ってリーチは言った。
『電話しなきゃ駄目だよね……きっと……』
 トシが溜息を付きながら言った。
『そうだな……向こうは何も知らないんだから……会っても支障は無いだろ。俺が会うよ。電話も俺がする』
『リーチ……いいよ……僕がするから……』
『今週は俺の番だから、俺がする』
 リーチはどうしても幾浦と関わることから避けさせてやりたかったのだ。電話をして幾浦がまず出るだろう。その時トシが動揺するのは目に見えていた。
『俺がする。分かった?幾浦のお母さんに会ってお前達二人しか知らないことが話題に出たら交替するよ。そんなこと無いと思うけど……』
『うん……分かった……』
 渋々という感じでトシが言った。
「隠岐って……」
 急に黙りこくってしまったリーチに篠原が声をかけていた。
「あ……済みません……ぼーっとしてしまって……なんですか?」
「幾浦さんの所に電話は今日はやめとけよ。もう遅いし……俺達って時間の感覚が仕事上麻痺してるだろ……だから時間なんか気にしないで電話とかかけてしまうけど、あっちにしてみれば礼儀知らずになってしまうからさ」
 時間は十一時過ぎであった。確かにこの時間に電話をすると失礼になるだろう。
「そうですね。明日、昼間にでも電話してみます」
 そう言って捜査課に戻った。
 


 頼子は夕食の支度を既に終え、息子が帰ってくるのを待っていた。
 随分遅いのね……そう呟いて溜息を付いた。指輪のことがずっと気になっていたのだ。しかし考えてみると、隠岐という名前は沖かもしれない。Tも、知美や朋子とも考えられる。そう思うと少し気が落ち着いた。幾浦が恭夜と同じであるわけが無いのだ。
 すると玄関が開く音がして、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「お母さん……来てるんですか?」
「お帰りなさい。母さんだってよく分かったわね」
「玄関の靴に見覚えがありましたから……」
 幾浦は言いながらネクタイを緩めていた。
「毎日こんなに遅いの?」
「仕事が最近詰まっていまして……」
「そう、お腹空いていない?夕飯作ってあるんだけど……」
「済みません……食欲が無くて……何か食べるより睡眠がとりたいんですよ」
「身体に悪いわ……どうせお昼もインスタントでしょう?軽く摂りなさい」
 頼子が強く言った所為か、渋々という感じで幾浦は食卓についた。その顔はついこの間会ったときよりも痩せたように見えた。いや、憔悴という方がピッタリであった。
「何か悩み事でもあるの?随分疲れているみたいに見えるけど……」
 肉じゃがを温め治しながら頼子は聞いた。
「いえ……お母さんの気のせいですよ……」
「そう……なら良いんだけど……」
 何となく気になったが、頼子は幾浦の前に暖めた肉じゃがとおみそ汁、ご飯を置いた。幾浦は箸を取ると静かに食事をし始めた。その姿も、あまりおいしくはなさそうであった。
「不味い?」
「え……いえ……おいしいですよ。どうしてそんなことを聞くんですか?」
「貴方があんまり不味そうに食べるから……口に合わないんじゃないかと思ってね」
 お茶を湯飲みに注ぎながら頼子は言った。それに対する幾浦の返事は「そんなわけありませんよ」と言うものであったが、目は笑っていなかった。
「お母さん、急にまたどうして家にやって来たのです?」
「貴方に見合い写真を持ってきたのよ……貴方は勝手に決めろと言ってたけど、そんな訳にもいきませんからね。どう?見てみる?」
「いえ……本当に誰でも構わないんです……」
 そう言って幾浦は視線を逸らした。
「恭眞……貴方本当は好きな人がいるんじゃないの?別に見合いをしなくても、好きな人と一緒になればいいのよ。それとも何かその人とは結婚できない理由があるの?相手の両親が貴方とは不釣り合いとか……そう言う理由で……」
 頼子がそう言うと幾浦はただ首を横に振った。その表情は苦しそうであった。何を苦しんでいるのだろうか?
「言ったはずです……誰もいないと……」
「誰もいない?本当かしら……。貴方には悪いと思ったけれど、偶然見つけてしまったのよ……貴方の大切なもの……」
 言うつもりは無かったはずであったが、余りにも幾浦の態度がよそよそしく、その上、投げやりであったので頼子は頭に来たのだ。
「え……な……何のことを言ってるんですか……」
「ペアの指輪よ、名前も見てしまったわ……。こそこそ見たのは謝りますけど、貴方もはっきり言ってくれないからこっちもヤキモキしているのよ……」
 そう頼子が言うと、幾浦はまた黙り込んでしまった。
「Tだから、朋子さんかしら?知美さんかしら……ってずっと考えてたのよ……どうなの?」
「終わったことです……だから気にしないで下さい……」
「終わったって振られたの?」
「そうですね……愛想をつかれたようなものですよ……」
 そう言って幾浦は笑った顔を見せたが、頼子には泣いているように見えた。
「本当なら恋愛がいいのにねぇ……」
「そうですね……」
 その声は機械的であった。
「振られたのはどうしてなの?」
「お母さんには関係ないでしょう?もう何も聞かないで下さい。見合いはしますし、結婚も望むようにします。それで良いでしょう?」
 また投げやりに幾浦が言うので頼子は腹が立った。自分の人生なのに既に終わってしまったような言い方が気に入らなかったのだ。
「何を言っているの。貴方の一生の問題でしょう?その言い方はなんだか私達が結婚を押しつけているようじゃないの!嫌なら嫌とはっきりお言いなさい。その理由も……」
 頼子がそう言うと、幾浦は貝のように口を閉ざした。
「どうして言えないの?」
 そう問う頼子に幾浦はただ沈黙を守っていた。
「恭眞!」
 思わず頼子は叫んでしまった。自分の息子であるのに、何を考えているのか全く分からない歯がゆさからであった。
「恭眞……」
 もう一度名前を呼ぶとゆっくり顔を上げた。
「選べなかったのですよ……」
 そう言って幾浦は席を立った。
「済みませんが、先に休ませて貰います……」
 頼子に背を向けたまま小さく言うと幾浦はキッチンを出ていった。頼子はその姿がとても自分の息子には思えなかった。
 選べなかった……何のことか頼子には全く分からなかった。



 夜遅く名執のマンションに帰ると、驚くことを名執は言った。
「お前の所にも……会いに来たのか?」
「ええ……驚きました……」
 名執は困惑した顔を見せた。
「で、何しに来たって言ってた?」
「こちらに来る用事があって、ご挨拶に寄ったとおっしゃっていました……ですが……なんだか妙な話もいたしまして……」
 今度は苦笑した。
「妙な話?」
 リーチがそう言うと名執は昼間、頼子とどんな話をしたのかを事細かく話した。
「本当に変な話をしたんだな……」
「そうなんですよ……まさか恭夜さんの事も相談を受けるとは思いませんでしたので……」
「で、同性を好きになるって事についてどんな様子だった?」
「そうですね……話の初めくらいはかなり嫌悪をお持ちの様子でしたが、話していくうちに、そうでもなくなったようです。これは私の印象ですので、本当の所は分かりませんが……」
「いや……結構上手く丸め込んだんじゃない。こんな風に幾浦のことも思ってくれれば良いんだけどな……」
 リーチはまだ諦めてはいなかった。
「ただ恭夜さんだから納得したようですので、幾浦さんの事が分かったら、同じ様に理解を示すとは思えないのですよ……」
「長男ってそんなもんかな……」
 リーチには家族つきあいも親戚つきあいも無かったためにそう言うのがよく分からない。
「それだけではないと思いますが……わかりませんね……」
「そうだ、俺ん所にも来たぜ。俺は聞き込みで出てたからメモで知ったんだけど、連絡くれってさ。それも幾浦のマンションにだぜ……参ったよ」
 はあとリーチは溜息を付く。
「それで……どうするんですか?」
「多分お礼が言いたいだけみだいだから、幾浦のいない昼間に電話して会うつもりだよ」
「大丈夫なんですか?」
 心配そうに名執が言った。
「とりあえず俺が会うことになった。問題があればトシに代わることにしてるんだ」
「そうですか……」
「大丈夫。相手は礼を言いたいだけなんだし、トシと幾浦のこと知らないから問題は無いよ」
 大丈夫……リーチはそう思うことにした。何より頼子は何も知らないのだ。
「幾浦どうしてるんだろう……」
 リーチは窓の外の闇を見つめていった。その空に星は出てはいなかった。

 翌日、リーチは幾浦の家に電話をして、警視庁近くにある公園で頼子と会うことにした。大きな事件は特に無かったが会議が入っており、時間はあまり無かった。だが、礼だけならそれ程かからないだろうということで、三時半と約束をした。
 こっちは幾浦の母親の顔は知らなかったが、向こうは知っているとの事であったので(崎戸の事件で自分の顔写真がかなりニュースや雑誌に出た為であろう)心配は無かった。 公園に着き、暫く椅子に座っていると品のいい着物を着た中年女性が声をかけてきた。
「隠岐さん……ですわね」
「はい。幾浦さんのお母様でしょうか?」
 リーチがそう言うと頼子は頷いた。
「いつぞやは息子の命を助けていただいて……本当になんとお礼を申し上げて良いのやら……ご挨拶も大変遅くなりまして本当に申し訳ありませんでした……」
「いえ……そんな……刑事として当然のことをしたまでですので……それより民間人の幾浦さんを巻き込んでしまったことの方が、御両親に対して申し訳ないと思っております。大切な息子さんを巻き込んでしまって本当に申し訳ございませんでした」
 リーチはそう言って深々とお辞儀をした。
「お顔をあげて下さい……命の恩人に謝って頂くなんて……」
 リーチは頼子がそう言うと顔を上げた。
「あの、隠岐さんつかぬ事をお伺いしますが、お姉さんか妹さんはいらっしゃるのでしょうか?」
「いえ……兄弟はもとより、両親も親戚もおりません。私孤児なんです」
 何故そんな質問をするのかリーチには分からなかったが、とりあえずそう言って笑みを見せた。
「あ、そうでしたわね……済みません。お気を悪くしないで下さいね。ちょっと気になることがありまして……」
「気になること……ですか?」
 なんだかイヤな予感だリーチにはした。
「ええ、聞いて下さいます?」
「私で良ければ……」
 何となく頼子の曰くありげな表情に、リーチは一瞬不安を感じたが、気のせいだろうと話を聞くことにした。
「実は息子には好きな方がいるようなのです。隠岐さんはうちの息子とご友人だと伺っていますがご存じですか?」
 うーわっ……来た!リーチは名執に聞いたことを自分にも聞くのではないかと思ったがやはり聞いてきたので、心の中では動揺したが、表情には一切出さずに「いいえ……私も忙しくて、最近幾浦さんとはお会いしておりませんので……」と言って誤魔化した。そんな様子をトシはハラハラしながら見守っている。
「そうですか……先日も名執先生とお会いしましてお伺いしたのですが、隠岐さんと同じ答えでした。ですが……息子の様子があまりにもおかしいので、誰か好きな方がいるのは分かっているのです。父親が伏せておりまして、嫁が見たいと我が儘を言いましてね。恭眞は見合いを承諾してくれたのですが、何とも投げやりで……誰でも良いとか……まるで人生を捨ててしまったように見えるのです。それが心配で……」
 ちらりとこちらを伺うように頼子は言った。
 まて……こいつはなんか知ってる……と、リーチは思ったが、それを気づかない振りをした。
「そうですか……お力になれずに申し訳ありません」
「いえ、仕方ありませんわ……ただ、出来れば息子に幸せな家庭を作って欲しいと願っておりますので、嫌なら嫌とはっきり言って欲しいのですよ……私どもも嫌だというのを無理強いしたくありませんものね……ですが何度聞いても答えてくれませんのよ……ただ、指輪を見つけたのです。ペアのリングで……そう……丁度結婚式に交わすようなプラチナのリングを……変なのはその彫られているネームが……隠岐さん貴方の名前でしたのよ。隠岐さんは利一さんとおっしゃいましたよね。なんだか妙だと思われませんか?」
 じっと頼子に見つめられてリーチには分かった。
 ばれている……
 だが認めるわけにはそれを認めるわけにはいかない。
「変ですね……それは……。ですが頭文字のTだけでは誰か分からないでしょう?朋子かもしれませんし……」
「私、一文字とは申し上げましたが、Tと彫られているとは申しておりませんが……」
 やられた……!と、リーチが思ったときには遅かった。
『リーチ……僕に代わって……僕が話をするよ……』
 トシはリーチにそう言った。
『でもトシ……』
『もうお母さんの方は分かってるよ……これ以上嘘をつけないよ……』
 リーチはその一言でトシに交替した。
「名執先生がやたらに同性同士に寛容な話をされたのか……あの先生は恭眞と貴方のことを知っていらっしゃったからですのね。息子も選べなかったと、訳の分からない事を言ったのも隠岐さんとおつきあいしていたと考えると何となく分かるのです。父親の望みと……隠岐さん……二つのどちらかを選べなかったと本当は言いたかったと……今ではそう考えています……違いますか?」
 暫く頼子の話を聞いていたトシであったが、視線を噴水に向けて言った。
「もう……隠しても仕方ないようですのでお話しします……。確かに幾浦さんとおつきあいさせていただいていました。申し訳ございません……」
「男同士ですよ……息子も貴方も何処かおかしいんじゃありませんか?」
 頼子が急にムキになってそう言ったのは、疑っていたことであったが、それが事実だと知らされてショックを隠せないからであろう。
「もう……終わったのです…そのことについては、若気の至りとお許し下さい……」
「若気の至りと言っても……げ……限度がありますわ……隠岐さんは法律を守る側の人間でしょう?どうしてそんなことに……それともうちの息子から……なんですか?」
 その目は息子からではないと言って欲しいと語っていた。
「私から……です」
『馬鹿!お前何言ってるんだよ!』
 リーチの言葉を無視してトシはじっと頼子の言葉を待った。
「貴方は……世間で思われているような立派な方では無いのですね……よくもそんな事……」
「貴方の息子さんを……尊敬しておりました……」
 尊敬じゃない……好きだったんだ……
 いや、今も好きだ……
「尊敬がどうして……」
 愛情に変わるのかと頼子は聞きたいのだろうが、言えないようであった。
「申し訳ありません……私には謝るしか出来ませんが……もう終わりました。御両親の心配することは何もありません。私をののしって貰っても構いません……ですが……幾浦さんには何の落ち度も無いのです。責められるのは私だけです……」
 僕に出来ることはこんな事だけしか……
 ごめん……恭眞……
 トシは心の中でそう思いながら必死に利一であろうと努力した。
「どんな手を使ったのか私には想像できませんが……私の息子は普通の人間です。貴方の様な変な趣味は無かったと信じております。今後、息子には一切会わずにいて下さい。命を救っていただいた方ですので……これ以上非難は出来ません」
 そう言って頼子は去っていった。
『何、一人で悪者になってるんだよ……』
 リーチはそう言った。
「もう……会わないから……僕が悪者になっても構わないよ……これで本当に終わったんだから……」
 トシはそう呟くように言った。その目に涙は無かった。



 頼子は腹が立つと同時に、何となく言い過ぎたような気もしていた。だがこれは怒って当然だとも思った。自分の息子を事もあろうか誘惑したのだ。男同士であるにも関わらずだ。その上、自分の息子はそのことを母親にうち明けられずに悩んでいる。
 それなのに隠岐という刑事はあっさりしていた。淡々と終わったと言っただけであった。その言い方にも腹が立っていたのだ。男同士は確かに自分からすれば理解も出来ない。やはり気持ち悪いものであった。だが名執から話を聞いて少しはそんな考えが和らいだと思ったが、現実に息子の相手を見て、理解できないことを再確認してしまった。
 あれが優秀な刑事だなんて……信じられない……
 そんなことを考えながら科警研についた。恭夜に会うためであった。受付で母親だと告げると、暫く待たされ恭夜が走ってきた。何年ぶりかに会うもう一人の息子は、随分たくましくなっていた。久しぶりに会う事が照れくさいのか、恭夜はなかなか視線を合わそうとはしなかった。
「お前……何時帰ってくる気だい?」
「親父のこと兄貴から聞いたよ。でも帰れないよ……」
「もう、気にすること無いわよ。父さんも母さんも昔のことだと思っているから……。でも良かったわ」
「何が?」
「兄弟は連絡を取り合っていたみたいだから安心したのよ……昔の事でいがみ合っていたらお母さん悲しかったわ……」
「分かってたからさ……兄貴が悪者になって俺を追い出していなかったら、マジで親父に首を絞められてた。それに田舎でそんなうわさが立つと家族が肩身の狭い思いをしたと思うし……あの時はあれで良かったんだ……俺もそれが分かっていたから……別に兄貴を恨んじゃいなかったよ」
 そう言って笑う恭夜は、恭眞とは違う魅力があった。例えて言えば恭眞は大人の笑いであるが恭夜は子供っぽい部分を持った笑いである。
「ところで……恭夜……貴方まだ男の人とつき合っているの?」
「え……あ……今はいないよ……日本に帰ってきたのもさ、実は好きだった相手を事故で亡くして……思い出がありすぎて辛くて帰ってきたんだ」
 寂しそうに恭夜はそう言った。
「やっぱり男の人?」
「そうだよ……別に何言われてもいいさ……今もそいつのこと好きだよ。どうせ分かって貰えないの分かってるしさ」
 恭夜はにっこり笑ってそう言った。全く呑気なものねと頼子は思った。
「ところでちょっと込み入った話をしたいんだけど」
「え……じゃ、会議室空いてると思うから……」
 そう言って恭夜は頼子を小さな会議室に連れていった。そこで頼子は幾浦と利一の話をした。
「母さん……そんな酷いことを隠岐に言ったのかよ!」
 呆れた顔で恭夜は言った。
「何か私が悪いことを言ったのかしら?こっちの方が腹が立っているのに……」
「俺は二人のことを知ってたけど、どう考えても隠岐が誘惑できる訳ないだろ!普通に考えても兄貴からに決まってるじゃないか」
「恭眞が男性を好きになる訳ないでしょう!」
 頼子の口調も大きくなった。
「母さん……母さんがそう思いたいのは分かるけど……兄貴の気持ちも考えてやれよ……俺から見ても兄貴の方が惚れてたよ。だけど俺と違って、両親思いだから悩んだんだ。すげー悩んでた。どっちも大切だからって……隠岐がそれを見越して自分から別れたんだ。俺、見てて……辛かったよ……。本当に辛かった……。隠岐が母さんに言ったのだって兄貴のことを思って悪者になってるんじゃないか……。何で分かってやれないんだよ……仕方ないじゃないか……好きなんだから……」
「恭眞は何も言わなかったわよ」
「そりゃそうだろう……俺を追い出したとき約束したからな……」
「何を?」
「忘れたのかよ……兄貴が自分が後を継ぐって言って親父を宥めたのをさ、だから今更言えなかったんだよ。兄貴約束を守るタイプだから……言えなかったんだよ」
「そう言えば……そんなこと言ってたわ……」
 頼子はその言葉を思い出した。恭夜のことで怒り狂う父親を宥めたのは恭眞であったのだ。
「俺さ、兄貴が可哀想だよ……俺は自由気ままに生きてるけど……兄貴っていっつも親父や母さんに縛られてるみたいでさ……反抗だってしたことないし、時々イライラするけど……性格だから仕方ないし……よくまあ、あんないい子でいられると思うよ」
「それは……」
 頼子にはその理由が分かっていた。
「母さん何とかしてやれよ……一度くらい兄貴の思うようにさせてやれって……」
「だからといって男同士を認められるものですか!」
「堅いんだから……」
「普通の両親ならそう言います」
「でもさ、俺思うんだけど……兄貴……もし見合いして結婚しても親父や母さんが死んだら、離婚するぜ……賭けても良いよ」
「そんな馬鹿な話はありませんよ」
「いや、それだけ兄貴が隠岐に惚れてるって事だよ」
「それまで隠岐さんが待つというの?」
「それは無いだろうな……兄貴が待ってくれって言う訳ないし……そんな都合のいいこと言えないって言うのがホントのとこだとおもうけど……。ただ隠岐は兄貴が離婚するまでに相手が見つかると思うし……。それだけ良い奴なんだ……隠岐って。男からも女からも好かれるタイプだから、相手に不自由しないだろ。ただ、兄貴は隠岐に対する負い目みたいなのがあるから、離婚して一人でどっかにいくんじゃないかな……」
「そんな……」
「だいたいの所俺の予想通りだと思うよ。ま、両親が死んだ後のことだから母さんがそれを確かめることは出来ないけど……」
 そう言う恭夜に頼子は「親が死ぬ話しはよしなさい!」と言った。
「無理に結婚させた方が良いように思えてきたわ……」
「何で?」
 びっくりしたような顔で恭夜が言った。
「赤の他人でも、暫く一緒に暮らせば愛情だって生まれるわ……」
「分かってないな……母さん。兄貴は俺よか頑固だぜ。絶対冷たい旦那になると思うよ。で、毎日のように母さんに電話がかかるんだ。「恭眞さんが帰ってこないんです。夜もそうなんです」とか言ってさ」
「そんなはずは……」
「その時兄貴にあれこれ言っても聞かないぜ、とりあえず約束は守ったんだからそれ以上のことは出来ないって……口に出して言わないと思うけど心の中では思っちゃうんじゃないかな……」
 恭夜は言葉とは裏腹に、真剣な顔でそう言った。頼子は不安になった。自分より弟の方が恭眞のことをよく分かっているからだ。だからといってどうして良いか分からなかった。
「どうして……男の人が良いのか、母さんには分からないわ……」
 項垂れて頼子は言った。途方に暮れてしまったと言っても過言ではなかった。
「何度も言ってるけど、男が好きなんじゃなくて、好きになった相手が男だっただけさ。この違い分かって欲しいよ……」
「分かりません」
 頼子はそう言って科警研を後にした。出入り口で恭夜が言った。
「兄貴の幸せを考えてやってよ……俺……こんな辛い恋を見ていたくない」
「知りません」
 振り向かずに頼子は歩いた。外は既に暗く、ビルのネオンがやたらにまぶしかった。



 まだ……お母さんはいるのだろうか……幾浦は足取り重く自宅へと戻った。扉があいており、案の定母親がまだいることが分かった。靴を脱ぎつつ溜息を付くと母親が自分に気付いて玄関にやって来た。
「まだ起きてたのですか?」
「残業も良いですけど、身体こわしますよ……」
 深々と溜息を付いて幾浦は言った。
「大丈夫ですよ……」
 そう言って幾浦は台所に向かった。
 冷蔵庫からビールの缶を取り出しふたを開けると一気に飲んだ。
「夕食は?」
「食べてきました」
 実は夕食は摂っていなかったが、食欲が無かった。昨夜は無理矢理胃に押し込んだ所為か、朝起きると酷く胃が重かった。その為、今日は勘弁して欲しかったのだ。
「そう……」
 頼子も椅子に座ると何か言いたげな表情でこちらを見ている。
「早く寝た方が良いですよ。つき合って下さるのは嬉しいことですが、お母さんに具合を悪くされても誰も面倒を見られませんから……」
「恭眞……実はね……」
「何ですか?」
「今日隠岐さんにお会いしてきたわ……」
「そうですか……」
 どんな話をしたのか聞きたかったが、そんなそぶりは見せなかった。
「もう母さん知っているのよ……」
「何を……です?」
 幾浦は、一瞬ドキリとしたが平静を保った。
「貴方達がつき合っていたこと……」
「な……何を言ってるんですか……」
「誤魔化さないで頂戴。リングのネームのことで問いつめたら隠岐さんが白状したの。だから貴方……見合いに乗り気じゃ無かったのね……」
 何を言って良いのか分からずに、幾浦は無言で頼子の言葉を聞いた。
「でもね、貴方は騙されたようなものですよ。誘惑したのはあちらなんですから……もう、忘れなさい」
「あっちが誘惑したって……何のことです……」
 その言葉に引っかかった幾浦は思わず顔を上げた。
「隠岐さんが貴方を誘惑したと……誘惑とは言いませんでしたけどね。そんなことを言ったのよ。だから自分が悪いと…。当然です。普通の貴方を変な道に誘ったのですからね。でももう終わったのでしょう?気に病むことはないのよ。隠岐さんが一番悪いんだから……」
 自分の母親は何を言っているのだろうか……幾浦は唖然としてしまった。話が見えなかった。誘ったのは他ならぬ幾浦であるのだ。先に惚れて、トシをある意味で騙して、自分のものにしたのは自分なのだ。それなのにトシは自分が悪いと言ったのだ。全部自分の所為にして、幾浦の立場を守ってくれたのであった。そのことが分かると幾浦は思わず涙が出そうになった。
 どれほどトシは辛かったのだろうか……それを考えると身が裂かれる思いであった。
「貴方は悪くないのよ……」
「やめて下さい!誘ったのはトシじゃない……この私です。男を好きになったことは自分でも信じられなかった。それでもトシを自分のものにしたかったんです。だから私がトシを誘ったんだ!貴方の息子の方が最低なんです。決してトシじゃない。私から誘ったくせに自分の都合で苦しめたのは私です。私の方に責任があるのです。何も知らないお母さんに何が分かると言うのですか!」
 幾浦の握りしめた拳が震えていた。何処にぶつけていいか分からない怒りが体中を駆けめぐる。誰の責任でも無かった。トシでも母親でもない。自分が一番悪いのだ。その自分に対しての怒りがそうさせていた。
「恭眞……」
 初めて見る息子の怒りにとまどった頼子がそこにいた。
「私を異常だと思っていただいて構いません。ですが……トシは……いえ、隠岐さんはそんな人ではありません……それだけは分かって下さい」
「恭眞……」
「怒鳴って済みません……ですが……もう……終わったんです。トシとの事は全部……。ですので……この話はもうやめましょう……お母さんも、二度と隠岐さんに会わないで下さい。これ以上、傷つけるわけにはいけませんから……」
 そう言って幾浦は部屋を出た。頼子は呆然と椅子に座ったままであった。
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