Angel Sugar

「周囲の問題、僕の涙」 第5章

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「トシ……」
 潤んだ瞳が幾浦を捉えて放さない。その瞳は欲しいと訴えていた。それでも幾浦は辛抱強くトシからの自分を求める言葉を待った。
 焦らすことは本意ではなかったが、そうでもしなければトシは本当の自分を見せなかった。だから幾浦はトシを焦らす。焦らして、焦らしてやっと心と体が開く。
 トシにしてみれば恥ずかしいのだ。アルコールを飲めない生真面目な性格は本音を言う機会がない。その上、人に言えない秘密を持っているトシは、周りに対し利一という嘘の人格を演じて今まで生きてきた。だからリーチにしか自分見せたことがないのだ。
 リーチもトシと立場は同様であるが、彼らは性格が正反対であった。リーチは本当の自分を出せる相手を見つけたとき、やっと自分を知って貰った嬉しさと、この世で彼しかいないという安心感が名執に自分をさらけ出す要因となった。
 しかしトシは違った。本当の自分を知っているはずの幾浦という大切な人を失いたくない。その気持ちの方が強かったのである。
 だから、知らずと気を使い、自分を出せない。それが分かる幾浦には、いつもどうやってその垣根を取り払うかを考えていた。そして最近になって分かったのだ。
 焦らせて酔わせること……
 アルコールに酔わなければ、快感に酔わせればいい。そうしてようやく理性という城壁の扉を開けることに成功した。それはそれで嬉しいことではあったが、素面の時でも甘えてくれないかと幾浦は欲が出てきた。
 だが急ぐのは厳禁だ。無理強いは絶対したくは無かった。いつか自然に訪れるだろう。
一度で良いのだ。人間は頼ることを一度覚えると、その心地よさが無くてはならないものとなる。厳しく自分を律し、地上に一人で立つよりも、誰かに身体を傾ける方が楽なのである。その事をいずれトシに分かる時が来るだろう。
 それも、それ程遠くは無いはずだ。崎戸の事件以来、急激にトシは変わってきた。幾浦はじっとその変化を楽しんでいる。しかし、トシはそんな自分の変化に気が付いてはいなかった。だがそんなトシの事を本人に言うつもりは無かった。
 言えば又トシは最初に逆戻りしそうな気が幾浦にはしたからだ。
「恭眞……お願い……来て…早く……欲しいんだ……恭眞が……」
 焦らされ既に幾浦に降参したトシはそう懇願した。
「トシ……」
 幾浦はトシの膝を抱えると、ゆっくりと奥へと熱い楔を沈めた。するとトシの身体は一瞬ビクリとしなった。
「あっ……!恭……眞っ……」
 幾浦に巻き付けている腕が落ちないように、トシは必死にこちらの背を掴んでいる。何か必死な表情になっているのが可愛くて堪らない。
 徐々に腰の動を早めると、トシは橋声を上げた。幾浦自身もトシの内部で擦り上げる度に自分の敏感な部分に触れ、その刺激が堪らなかった。
「トシ……愛している……」
 耳に囁くように幾浦はトシに言った。
「恭……眞……僕も……」
 愛しているとは言えない代わりにいつもトシはそう言った。まだ、愛している二度しか聞いたことが無かった。トシが言うには好きと愛しているでは照れくささが違うらしい。本人は同じ意味だというのだが、愛しているとはなかなか口に出そうとしないのだ。
 だから、最近幾浦は何度もトシに「愛している」と囁く。その時トシは「僕も……」と答えていた。
 だが、いつまでもそれで満足する幾浦ではなかった。
「愛している……は?」
 挿入したまま動きを止めて幾浦は問いかけた。
「恭眞……あっ」
 トシの瞳はやめないでと語っている。しかし幾浦は気付かない振りをした。言葉で言うまで望みのものは与えない。そうやって慣らすしか強情なトシを素直にさせる有効な手だてはなかったからだ。
「なんだ?」
 何か言いたげに口をぱくぱく動かすトシが本当に愛しいと幾浦は思う。誰かをこれほど愛することが自分にも出来るという事実を再確認するたび、そんな自分に驚く。
「やだ……」
 幾浦の背に廻ったトシの手に力がこもる。必死に訴えているのが分かっているが、レッスンはまだ途中であった。
「何が嫌なんだ?」
 小さな汗の玉を額に浮かべたトシは今にも泣きそうな表情であった。
「どうして欲しいんだ?」
 あくまで優しく問いかける。
「動いて……」
 聞き取りにくいほどの小さな声であったが、トシはそう言って顔を横に向けた。
「その前に、愛している……は?」
 横向きに視線だけをこちらに向けたトシは、躊躇しているようであった。
「ここでやめるか?」
 するとトシは即行に首を横に振った。
「では、聞かせてくれ……私はその言葉が欲しいんだよ。欲しいんだ……とても……トシ聞かせてくれないか……ほら……」
 こちらを向いていた瞳が閉じると、トシは小さな声で「僕も……愛してる……」と言った。
「いい子だ……」
 そう言って幾浦は動きを止めていた腰をグッと前に押した。その瞬間トシは突然身体を走った快感に声を上げ、悦びの表情を幾浦に向けた。
「トシ……いいか?」
「うん……」
 トシの返事が合図になり、幾浦の動きは突然再開した。トシの両足は胸元まで曲げさせ、前と後ろを交互に攻めたてると、我を忘れたトシが頭をがくがくと上下に振っては幾浦の名を呼び続けた。
「ああああッ……!」
 トシの絶叫で二人は同時に達した。幾浦は最後の収縮を味わってようやく息を付いた。そして身体をやや起こし、満足な顔をしているトシを胸に引き寄せた。するとうっすらとトシの瞳が開いた。
「いじ……めっこ……」
 むくれたようにトシは言った。まだ整わない息が言葉をとぎれさせる。
「そうか?」
 額にキスをしながら幾浦はクスリと笑った。
「今日は……しないって……言ったのに……」
 顔をシーツに埋めながらトシは言った。恥ずかしくて堪らないようだ。
「その割にはすっきりした顔をしてるぞ。欲求はため込まない方がいい。ストレスになるからな」
「…………」
 耳まで赤くしたトシは返す言葉を失っている。そんなトシが可愛くて仕方ない。
「欲しいと言われたからな、それには応えなければ男がすたるだろう?」
「無理矢理……言わせたく……あっ……」
 トシが言い終わらないうちに幾浦はトシのまだ熱を持っている部分に指を入れた。
「や……!やめてよ……」
 慌ててトシはそう言って、こちらの手を払おうとするが、そんな事を幾浦が許すわけなど無い。
「心にもないことを言うのなら、もう一度身体に聞いても良いんだが……」
 真剣な顔で幾浦が言うとトシは「無理矢理じゃありませんでした」とかしこまったように言った。
「よろしい」
 まあ、この辺りでゆるしてやるかと幾浦は思い、指を引き抜いた。しかしその指先に名残惜しげに内側の粘膜がまとわりついてきた。
「まだ、欲しそうだな……」
「じょ……冗談言わないでよ……。これ以上その……したら……リーチに殴り殺されちゃうよ」
 ホントに困るよという様にトシは言った。
 一様二人の決まりの中に、交替する前の日はしないという決まりがあるらしい。キスマークも駄目だと聞かされたことがあり、憤慨したこともあった。だが、無理矢理痕を付けた後、トシに暫く口も聞いてもらえない状態が続いたために、それ以後はいたずらのつもりであってもキスマークを残すことは止めた。
 一つの身体を二人で共有し、更に攻め受けどちらもこの身体が引き受けている事には幾浦にも同情心があり、出来るだけ二人が決めた約束事は守ってやるようにはしてきた。だが、今回のように会えない期間が長すぎると、キスマークは諦めても、二人で繋がることを諦めるのは我慢できないのだ。
 そういう場合は例え次の日がリーチの番であっても、リーチの方も黙認はしているようだ。だが本人はかなり嫌らしい。
「それは冗談だ」
 更にトシを引き寄せて自分の胸にぴったりと添わせた。
「恭眞……」
 トシは上目遣いにこちらをじっと見ている。何か聞きたそうな雰囲気だった。
「何だ?」
「恭眞は僕の何処がいいの?どうして好きになったの?」
「突然だな」
「だって……別に僕は特別な何かを持ってるわけでもないし、確かにリーチがいたりして他の人と違うのは分かってるけど……。そうじゃなくて、僕に何か魅力があるとも思えないし……不思議なんだ……今こうしてるのが本当に信じられなくて……」
 すっぽり腕に収まったトシが幾浦に言った。
「何処が好きだとかではなくて、気が付いたら何もかもひっくるめて好きになっていた。そう言うものじゃないのか?」
「…………」
 納得がいかないのか、じっと幾浦を見ながらトシは思案気な面もちであった。
「恭眞は……その……もてるみたいだし……魅力的な女の人だって周りにいるそうだし……別に男じゃなくてもさ……」
 そう言えば恭夜がトシと食事をしたときに何を吹き込んだのかを聞いたが、はぐらかされたのを思い出した。こんな風にトシが言い出したのも、恭夜がよからぬ事を言ったからだろう。
 そう結論に至った幾浦は又恭夜に対して腹が立ってきた。これ以上、落ち着いている関係に波風を立てて欲しくなかった。
「恭夜に何か言われたんだろう?そう言えば以前、一緒にお昼を摂ったことがあったな」
「えっ……別に……」
 少し慌てた口調でトシが言った。その様子でやはり原因はそのときの会話にあると幾浦は確信した。
「何を言われた?」
「大したことじゃないよ」
 トシは笑みを見せながら言ったが、顔はやや強ばっている。幾浦はそんなトシの表情を見逃すことは無かった。
「多分、私がどんなに頼んでもお前が話してはくれないのは分かっている。だから強くは聞かない。ただ、何を恭夜が言ったのかは分からないが、人の言葉に振り回されないで欲しい。お前が見た私を信じてくれたらそれでいい。聞きたいことがあれば言ってくれ、トシには隠し事はしない。だから悩むくらいなら、言って欲しい。言えないのなら、悩まないでくれ……」
 幾浦はそう言ってトシの額に唇を寄せた。本当は知りたくて仕方がなかったが、トシは言わないと決めると、絶対口を開こうとはしなかった。それを痛いほど知っていた。
「ホントに大したことじゃないんだ……ただの世間話だからさ……」
 慌てたようにトシは言った。そして幾浦の腕に頬を寄せる。その様子はまるで怒られた子犬のように様だった。
 暫くトシの頭を撫でていると、トシがまた言いたげにこちらを見た。
「あのね……」
 小さな声でトシは幾浦に言った。トシが自分から言おうとしているのが分かった幾浦は、じっと次の言葉を待った。
「恭眞って……沢山、つき合ったことあるの?」
「えっ?」
 驚いた幾浦であったが、恭夜が何を吹き込んだのかが、その台詞でだいたい想像がついた。恭夜には何度か結婚すると言ったことがあった。確かにその相手は毎回違った。それには理由があったが、それをトシに言うわけにはいかなかった。
「その……恋愛は自由だし……つき合っててうまくいかなくなることや、えっと……他の人を好きになることもあるし、それは仕方のないことだから……。僕だっていつ恭眞に……あの……僕はずっと好きだって言えるけど、恭眞にそれを強制することは出来ないから……ごめん……僕何言ってるんだろ……」
 だんだんしどろもどろになるトシの口調が、かなり混乱していることを物語っていた。「トシは私と別れたいのか?」
 必死にトシは首を横に振った。
「私を信じられないか?」
 また同じように首を振る。今度は目が潤んでいた。その不安を取り除いてやるようにぎゅっとトシを抱きしめた。
「恭眞……ごめん」
「私は先程の言葉でお前を煙に巻いたりはしない。確かにお前に出会う前は何人かとつき合っては別れた。振ったこともあった。振られたこともあった。その時の私は誰かを愛するという感情が無かった。つき合った相手には悪いと思うが、誰一人愛する事が出来なかった。私の中にあったのは適当な時期に結婚しないと……という義務感だけだった。それだけの感情でしかつき合わなかったから、長続きもしなかった。そうだろうな……私にとって伴侶とは愛する人ではなく、食事や風呂の用意をしてくれるだけのものだったから……」
 性欲も満たしてくれる存在だったが、それは口が滑っても言えなかった。
「それってなんだか寂しい……」
 トシらしい言葉だった。
「そうか?別にそのこと自体、自分では何も感じていなかったから良かったんだ。だがお前に会ってしまった」
 幾浦はそう言ってトシの瞳をじっと見つめた。トシの黒目がちの瞳は自分をしっかりと見つめ返してくれていた。
「全てが変わったんだ。トシ……お前にあって人を愛することを知った。誰かに嫉妬することも……少しの時間でも会いたいと思うようになった。最初、自分でもそんな感情に驚いた。とまどった。相手は可愛い顔をしているといっても男性で、しかも敏腕の刑事だったからな」
 最後の言葉は笑いがこもってしまった。初めて自分のものにしたいと、心底欲したのは、同性だったからだ。
「僕だって……リーチと雪久さんのことを知らなかったら……絶対今つき合ってないと思う……」
「そんなことはない」
 そう言って幾浦はトシの唇に軽くキスをした。酔ったように細めたトシの瞳が愛らしい。
「そう思うだろう?」
「うん……」
「まだ不安か?」
「ううん……リーチがね、言ってたんだ。昔のことだって……今は違うだろうって。そう考えようって思ってたんだけど、やっぱり気になって……でも、恭眞からちゃんと話して貰って、安心した……」
 頬をすり寄せトシが言った。そんな仕草も最近よくトシはする。少しずつトシが自分の腕の中でくつろぐ機会が増えてきた。これからどんな自分を見せてくれるのかと、会う度期待が高まる。
「さ、もう眠ろうか……」
「うん」
 もう暫く話していたかったが、睡眠はお互いに必要であった。
 うつらとしながら幾浦はトシが「大好きだよ……」と小さな声で言ったのを遠くに聞きながら眠りについた。



 朝早く、幾浦を起こさないようにベットを出ると、シャワーを浴び、トシは朝食の準備を整えた。台所をせわしなく行ったり来たりするトシを後ろからアルがついてくる。
「ちょっと待ってね。すぐアルの分も作るから……」
 トシはそう言ってみそ汁の味見をする。それを見るアルは舌で自分の鼻をなめた。
「何だ……もう起きてるのか……」
 あくびをしながら幾浦が椅子に座った。
 幾浦がいつも起床する時間より一時間早いことを知っていたトシは思わず言った。
「ごめん。うるさくして起こしちゃったみたい……。恭眞、もう少し寝てくれて良いよ」
 眠そうな幾浦はもう一度あくびをした。
「期待していたのにな」
 ぽつりとそう呟くが、トシには何が言いたいのか分からなかった。
「?」
「おはようのキス……」
 突然言われて、どう返事して良いか分からないトシは、思わず顔が熱くなるのが分かった。
「な……何言ってるんだよ……そんなこと出来るわけ無いよ……」
 手に持つおたまに力が入る。幾浦は知らなかったが、実は既に眠っているのを良いことに、トシはおはようのキスは済ませていた。それは幾浦の額であったが……。
「ふーん……」
 じーっと見つめる幾浦が急にクスリと笑った。
「な……なに……?」
「なんだかおでこの辺りがくすぐったいのだが……」
 幾浦に気付かれていないと思っていたが、実は起きていたことを知るとトシは一気に耳まで赤くなった。気恥ずかしさが体温を上昇させる。
「し……知ってたんなら……そう言えば良いじゃないか!」
 まともに幾浦の顔を見ることが出来ずに、みそ汁をかき混ぜる。その勢いに豆腐がぐるぐると回りながら浮き沈みした。
「トシ……」
 幾浦がトシの背後から腕を回してきた。それでもトシは無言で鍋をかき混ぜる。
「バラバラになった豆腐が、いま新しい食べ方なのか?」
 そんなことがあるわけないのに、幾浦はそう言ってトシをからかった。この鈍感男はトシが今どんなに恥ずかしい思いをしているのか分からないようであった。
「そうだよ……」
「そうか」
 トシの頭に鼻先を擦り付けながら、幾浦は言った。
「くすぐったいよ……」
「おなかが空いたんだ。早く食べさせてくれ」
「うん。じゃぁ、離してくれる?」
「ああ……」
 やっと幾浦はトシを解放して、もう一度椅子に座った。その姿はやはりまだ眠そうであった。
「ホントに寝てくれて良いよ……」と、言いながらトシは幾浦の後ろに廻った。そうしなければ笑っている自分に気付かれてしまうからである。
「いや……本当におなかが空いて……ひゃっっ!」
 突然、背中に冷たいものを感じて幾浦は立ち上がった。その姿にトシは思わず笑いが漏れた。
「お前!なっ……こ……氷か!」
 背中に手を回して、小さな氷を探すがなかなか見つからないのか、幾浦は必死に手を背中に入れる。眠気は吹っ飛んだようであった。
「恭眞、意地悪だから……」
 そう言ってお椀にみそ汁をついだ。
「お前にも入れてやろうか?」
 結局見つからないうちに溶けてしまったのか、溶けるがままに任せているのか分からないが、幾浦は憮然としながら冷蔵庫の前に立っていた。
「みそ汁……あげないよ」
 既に登庁できる状態の服を濡らされては困るトシはそう言った。
「人質を取るなんてな……お前、刑事のくせに犯罪者まがいのことするな」
 手に氷を持ちながら幾浦は言った。その氷をアルに投げると、アルはおいしそうにガリガリとかじって一瞬のうちに食べてしまった。
「めざしと卵焼きも人質だよ」
 笑いながらトシはそう言って机の上にそれらと炊き立てのご飯を並べた。幾浦は箸を持って待っている。
「それにしても、男のくせにお前は料理が上手いな……」
 みそ汁を一口飲んだ幾浦は感心しながら言った。
「孤児院じゃ当番制で食事の用意をしてたし、一人で暮らするようになってからもリーチと交替で食事を作ってたから、自然に出来るようになったんだよ。でも、リーチは僕の料理はまずいって言うよ」
「あいつは味覚音痴か」
「味覚音痴じゃないんだけど……どうも、僕より少し甘党みたい……。砂糖入りの卵焼きとか、ケチャップで炒めたご飯とか好きだから……カレーも甘口しか駄目だし……」
「そう言えば、入院中もあいつ、やたら甘いものばっかり食べていたな。自分の身体を糖尿にする気か……全く……」
「リーチは味覚が子供なんだ」
 その言葉が可笑しいのか、幾浦は箸を止めて笑った。それを見てトシの手も止まる。
「何か可笑しいこと言った?」
「いや、子供が子供と言うのが可笑しくてな……」
「僕は子供じゃないよ」
「リーチと比べてと言ったんだ。そうだろう?」
「うーん……反論できないなぁ……」
 そこに携帯が鳴った。
「隠岐です」
 話しながらチラリと幾浦を見ると黙々と食事を続けていた。トシが携帯で利一として話をしているとき、幾浦は横から茶々を入れない。それは当たり前のように守られていた。
「はい。すぐに向かいます」
 そう言って電話を終えた。
「仕事か?」
「うん。食事の途中抜けるのは悪いんだけど、急ぐね」
 立ち上がるトシに幾浦は言った。
「みそ汁くらいお腹に入れて行くんだ。分かっているな」
 幾浦は朝食抜きで仕事に出るのを許さなかった。気は焦っていたが、トシは椅子に座り直して熱いみそ汁を我慢して、一気に飲んだ。豆腐はかまなくても大丈夫だろうと思いながら、熱さでひりひりする口に卵焼きを一切れ入れる。そうして自分の分を素早く片づけると、トシは上着を羽織った。
「きょーま、らいひゅうね」
 まだ口の中に卵焼きが残っていおり、きちんと発音できなかったが、幾浦は分かっているだろう。
「気をつけるんだぞ」
 笑顔でそう言う幾浦に、自分も笑顔で「大丈夫」と言ってマンションを後にした。



『お前、昨日やったろ……』
『え……やっぱり分かる?ごめんね……』
 申し訳なさそうにトシは言った。気付かないわけ無いだろう……と言いたかったが、多分そうなるだろうと分かっていただけにリーチは責められなかった。別にどうこう言うつもりは無かったが、やはりお尻がもぞもぞして気持ち悪いのだった。
『今日、リーチがプライベートの時間まで交替しようか?』
『いいよ……』
 リーチがそうトシに言ったと同時に、恭夜に声をかけられた。
「隠岐!聞いてくれたか?」
 何のことか分からずにリーチは利一モードで?の表情を作った。
「まだ聞いてなかった?そうだろうな、さっき報告したからな」
「何のことですか?」
「ほら、先週の事件、指紋が採れたんだよ。ま、俺にかかればちょろいもんさ。それで過去の指紋と併せて容疑者が浮かんだんだ」
「ですが、指紋が採れるものは何もなかったのでは……」
「採れた先は……何だと思う?」
「さぁ……鑑識さんがあれから見つけたとか……」
 恭夜は、ちっちと言いながら指を振る。
「ティッシュだよティッシュ」
 恭夜は得意げにそう言った。
「へー意外にやるんですね……」
「あんまり驚かないんだな……」
 もう少しリーチが驚くだろうと思っていたのか、拍子抜けの表情を浮かべた。
「ところでさ、隠岐……」
 急にトーンを落として恭夜が言った途中でリーチはやばいと思った。幾浦からは大丈夫と聞かされていたが、当てにはしていなかった。
「私はこれから打ち合わせがありますので……」
 と、言ってリーチは恭夜の元を走り去った。
『どうしたんだよリーチ……』
 何も知らないトシが不思議そうに聞いた。
『別に……あいつとしゃべってるとなんだか腹が立ってくるからさ……』
『もう……リーチって本当に好き嫌いが激しいんだから……』
 呆れたようにトシは言った。
『俺の性格だ、ほっといてくれよ……お前だって好きなタイプじゃないだろう』
 説明のしようがなくてリーチはそう言った。
『好きって訳じゃないけど……さ。……嫌いじゃないよ』
『よし、利一にとって気に入らないやつにしよう』
『訳の分からないこと言わないでよ……利一は好き嫌いがない性格だって決めたじゃない』
『そりゃま、そうだけどな……ま、いいじゃないか。さ、仕事仕事!』
 リーチはそう言って逃げた。
 しかしこのまま爆弾を抱えたままでは気が持たない。かといってトシに話すわけにもいかなかった。そう言うジレンマが頭を悩ませる。
 リーチは元々長く悩みを抱え込まないタイプであったので、けりを付けるならさっさとつけたいと考えていた。しかしそれはトシを傷つけることになる。
 全く堂々巡りであった。
 はーぁ……心の中で溜息をつくとリーチは捜査課に戻った。
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