Angel Sugar

「周囲の問題、僕の涙」 第3章

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『どうなってるんだよ』
 利一の身体の主導権をトシに返し、リーチは聞いた。
『分かんないよ……』
 困惑した表情でトシは言った。
『けど、俺が殴ったこと責めるなよ』
『僕だって頭に来てたから……責めたりはしないけど……』
 殴るのはまずいだろうとトシは思った。
『けど…ってなんだよ』
 不機嫌なままリーチはそう言った。
『利一のイメージ変わっちゃうよ。今度からもう少し自分を押さえてよね』
『よく言うよ。お前が主導権を持ってるんだぜ。嫌なら俺と交替するのを抵抗できたろ』
『それは……そうだけど…』
 確かにトシはリーチに渡すのを拒むことが出来たが、結果が分かっていてすんなりリーチに主導権を渡したことは事実であった。
『どうでもいいけど、幾浦に会ってあいつを何とかして貰ってくれ』
 イライラとリーチが言った。
『うん……事件さえ早く終われば……』
『待ってられないな。今晩でも時間作れよ』
『捜査中に抜けだせって言うの?』
 呆れたようにそう言った。
『たりまえだよ。あいつに早く釘をさしとかないと、とんでもないことになるぜ』
 職場が職場だけにばれるとまずいのだ。
『確かにそうだけど…』
 小さなため息を付いてトシが言った。しかしやはりこのままにしてはおけないと思ったトシは三係に戻ると、卓上のパソコンを開き幾浦にメールを送ることにした。
 そうしてトシは次のように書いて送信した。

 突然だけど、恭夜さんに僕たちの事話した?恭眞がそんなこと言うとは思わないけど、さっき仄めかすような事言われたから、気になって……。ちょっとそのことで捜査会議後、もめたし……。会って話がしたいのは山々なんだけど、こっちも手が放せなくて…良かったら携帯に電話をいれて…余程のことが無い限り、出るようにするから。

  トシ

 メールが幾浦に送られたのを確認すると、トシはパソコンを閉じた。
『飯、食いにいこうぜ』
 リーチが急にはしゃいでそう言うのと反対にトシは気が重く、食欲等無かった。何故この男はさっきはあれ程心配していた癖に、急にこんな風にはしゃげるのだ?
『いいよ…今日はやめとく』
『また、気にしてるな。何とかなるって』
 楽天的に考えられるリーチの事が、トシは羨ましかった。
『お前がいらないのなら主導権渡せよ。俺、食いに行く』
 それでもいいか…そう思ったトシはリーチに主導権を渡した。
『今日のAランチさ、八宝菜の変わりケチャップ煮なんだ』
 リーチは甘党であった。
『なんかそれ気持ち悪いなぁ…』
 ちなみにトシは辛党である。
 食堂に向かう途中、突然携帯が鳴った。
『きっと恭眞だよ』
『多分な……』
 リーチはせっかくのAランチが、結局食べられそうに無いことに気付き、機嫌悪そうにトシに交替した。
 トシが携帯を取ると、やはり幾浦であった。
「すみません。少し場所を変えますのでそのままお待ちいただけますか?」
 そう言うとトシは足早に、誰もいない打ち合わせ室に入ると鍵をかけ、保留ボタンを再度押した。
「御免恭眞…忙しいとこ電話頼んで……」
「恭夜が何をやらかしたんだ」
 その声は酷く怒っていた。
「う、ううん。大したことじゃなくて、僕たちの事知ってるって感じに言われたから…恭眞が話したのかなって…」
「私は何も話してはいない」
「そう…ならいいんだけど…でも、分かってるみたい。だから困ってるんだ。恭夜さんは自分のこと…その、男の人が好きってはっきり言う人みたいだけど…。僕は……その……少し困る…。恭眞のこと好きなことを恥じたこと無いけど、職場が職場だから、ちょっとばれると困った立場になってしまうから…。何とか恭夜さんを口止めして欲しいんだ…駄目かな?」
「ああ、分かった話してみる」
 電話向こうの幾浦の声は酷く不機嫌そうであった。
「あの…僕、気に障ること言ってるのは分かってるんだ……その……ごめん…」
「いや、お前が謝ることは無い。あいつが問題を起こすのは昔からだ。それより迷惑をかけて悪かった」
 今度は幾浦が優しい声でそう言った。トシは自分に対して幾浦が不機嫌になっているのでは無いことを知ってホッとした。
「じゃ…」
「トシ、ところで、恭夜は私の何を言ったんだ?」
「えっ?」
「この間、一緒にお昼を摂ったんだろう?私の事を恭夜が話したらしいな」
 幾浦は又、不機嫌な声に代わっていた。それにしても恭夜は幾浦にトシに何を言ったのか話したのだろうか?
「た、大したことじゃないよ。又連絡するね」
 そう言ってトシは幾浦の返事を待たずに携帯を切った。
『言ってやれば良かったのに』
 リーチの言い方は半分からかっているようであった。
『何を言えっていうんだよ』
 ムッとしてトシが言う。
『恭眞はつき合っているときはまめだけど、冷めると早いってほんと?ってさ』
 トシの言い方をまねしながらリーチが言った。
『それ以上言ったら怒るよリーチ!』
 トシが真剣に怒っているのが分かったリーチはそれ以上何も言わなかった。
 これで本当に安心できるのかな……
 トシは会議室の外を眺めながら小さなため息を付いた。その気持ちとは裏腹に、外は快晴であった。



 恭夜は科警に戻り、鑑識から上がってきた砂の粒や花粉等をシャーレに入れそれが済むと横で他の分析結果をコンピューターに入力している成宮に話しかけた。
「この間、聞いた隠岐さんの話だけどさ、怒らせると怖いって事知ってた?」
「え、主任もしかして隠岐さんに怒られたんですか?嘘でしょう?」
 キーを叩く手を止め、成宮は驚いたように言った。
「いや、怒らせたわけじゃないけど、気分を害するようなことを言ったようなんだよな…」
 怒らせたのは確かのようだった。が、そんなこと口が裂けても言えない。ここに来て分かったのは警視庁、警察庁果ては小さな交番にまで利一の信望者がいるからだ。
「怒ったらですか……。うーん確かにそうですが……普段はそんなことありませんよ。まず、隠岐さんが怒るのは凶悪な犯人に対してだけで、本当に穏和な方ですよ。上司にくだらないことを言われても、普通の人なら怒ってもおかしくないような事でも笑ってらっしゃるし……それ、主任の思い過ごしじゃないですか?」
 そう言われると恭夜は頷くしかなかった。成宮も利一を知る人間にたいてい見られるように彼を尊敬していたからだ。それを知って逆なでするほど、恭夜は馬鹿では無いつもりであった。
「たぶん。そうなんだろうな…。いい子なんだろう…」
 いい子…と聞いた成宮が笑いながら恭夜に言った。
「嫌だな…隠岐さんと主任は同い年ですよ」
「ええっ!あれで、二十六か?」
「今年二十六だったかな?でも変わらなかったと思いますけど。隠岐さん、幼顔ですからね。若く見られがちなんです。でもあの顔に騙されて、犯人なんかは舐めてかかるみたいですけど、犯罪者にとっては、強行班で一番怖い存在なんじゃないかな……」
「ふ~んそうなんだ……。俺も怒らせないようにしようっと」
 そうは言ったが、恭夜は実際本気でそう考えた。なにより拳を当てられた下腹部がまだじんと痛みを訴えていたからである。
 しかし、普段そんな穏和な人間が怒ると言うことは自分の言ったことが的を射ていたと言うことだ。と、言うことは間違ったことを言ったわけではないと言う結論が導き出される。恭夜はそう考えると思わず吹き出しそうになった。いつもクールな幾浦が妙に自分が居座るのを嫌がったのも納得がいく。
 だからといって別にそれをネタにからかうつもりも、脅すつもりも恭夜にはなかった。真剣な恋なら認める度量の広さを持ち合わせているつもりだからだ。しかし、幾浦の性癖、要するに冷めるのが早い事を知っている恭夜にとって、利一が可哀想だと思う気持ちの方が強かった。もし、昔のままの幾浦なら、散々まめにしておいて、興味が無くなればさっさと関係を切るのが目に見えていたからである。
 確かに、利一がどんな性格なのかは、まだはっきりとは分からなかったが、何度か会話して感じた一つに真面目であること、仕事を全力でするという、どちらかというと結構好きなタイプに入るからである。
 幾浦が例え本気だったとしても、恋する相手が男では許されない事情がある。そのことを彼は知っているのだろうか?
 そして、ふと成宮の方を振り向いて恭夜は言った。
「なぁ、ここにも宿直室みたいな泊まるとこあるよな……」
「え、ありますよ。たいしたとこじゃないですけど。どうしたんですか?」
「いや、まだ住むところが決まって無くてさ……今まで兄貴のところに世話になってたんだけど……それもちょっとまずい事になってて……後で場所、教えてくれよな」
 幾浦とトシが電子メールでやり取りすることが分かったので、本日の出来事も即行に知られているのはずであった。恭夜は怒り狂っているであろう幾浦の家に帰る気は起こらなかった。
「いいですよ」
 成宮の返事を聞いて恭夜は少しだけホッとすると自分の仕事に戻った。



 その週はトシの番であったが、とにかく事件で手が一杯で幾浦に合う時間は取れなかった。メールを交換してはいたが、幾浦から安心する返事は貰えずトシは心配で仕方がなかった。
 しかし、例の一件から恭夜から自分たちの事を再度仄めかすような事は無かったので、とりあえずホッと胸を撫で下ろしていた。それでも幾浦のメールからも読みとれる苛立ちが気になっていた。
 結局、抱えていた事件が解決したのは翌週であった。



「打ち上げですか?」
「そう、久しぶりに今回関わった人間でしようって事になってさ、今晩いいだろ?」
 篠原にそう言われリーチは心の中でため息をつきながら「いいですよ」と、答えた。リーチにしてみれば自分の番の週は、名執のマンションに出来るだけ早く行きたいのである。しかし二人とも余程のことが無い限り、こういう誘いは断らないように決めていた。付き合いが悪いと余計なことを詮索するやからが出てくるからだ。
『ねぇ、リーチ……今週……今晩飲み会が終わってからとは言わないから、一日譲ってくれない?』
 トシが言った。
『いいよ、先週幾浦に、お前会えなかったからな……』
 事件が解決して気を良くしているリーチは言った。
『飲み会の最中は、トシはスリープしとけよ』
『分かってるよ』
 トシは酒類を受け付けなかった。それは例えリーチが主導権を持っていても、トシの意識が目覚めているだけで急性アルコール中毒になるからであった。
『そんなに心配するなって、なっ?』
 リーチは、ここずっと気を沈めているトシに言った。リーチも気にはなっているがこればっかりは自分が間に入ることでは無いと考えていたからである。確かにばれると大変な事になる、だからといってリーチが恭夜に説明するわけにもいかないからである。
 何より恭夜はトシを知ってはいてもリーチの存在は知らない。
 こればかりは、どんなことがあってもばらす訳にはいかないからだ。
『うん……』
 リーチにそう言うトシの返事はどことなくやはり元気が無いものであった。

 飲み会は近くの居酒屋で行われた。事後処理に追われ、庁内に残る人間も多かった所為か、参加者は意外に少なかった。しかしその中にいて欲しくない人間が混じっていた。
「隠岐、もっと呑めよ」
 恭夜はそう言ってリーチにビールを勧めた。しかし、その度に「まだ、残ってますから…」といって断っていた。それでもしつこく勧めるので、やや閉口していた。あまり勧められると、何か下心でもあるのだろうかと勘ぐってしまう。
 ただ、幾浦とつき合っているのを知っているようであるので、そんなことは無いだろうとリーチは思いながら、笑顔を絶やさなかった。
「ちょっと手洗いに…」
 そう言ってリーチは席を立った。
 たいてい付き合いの酒は気分良く飲めるのであったが、今日のリーチは違った。恭夜がいる事でそんな気持ちになれなかったのであった。幾浦から安心するような返事が未だに貰えないという事も原因だ。
「くそ……」
 洗面所で顔を洗いながらリーチは小さくそう言うと、ハンカチを取り出し顔を拭いた。苛立ちの原因である恭夜のいる席に戻りたくはなかったのである。しかし、向こうから積極的に横に来られ、あからさまに嫌な顔は出来なかった。
「隠岐…気分でも悪いのか?」
 そこに恭夜が心配そうな顔をしてやって来た。
「え…。いえ…大丈夫です」
 お前がいることが最たる原因だとも言えず、リーチはそう言った。
「ところで…ずっと話したかった事があってさ、二人きりになれるチャンスを窺っていたんだ……」
「は?」
 思わず身を引いたリーチに恭夜は言葉を続けた。
「知ってるのかな…っと思って…」
「何を……です?」
「兄貴とはさ、真剣なわけ?」
「は…はぁ……」
 リーチは既にアルコールを口にしていた為、トシを起こすことは出来なかった。
「御免な…突然妙なこと聞いてさ……。俺、兄貴の家にいるだろ。で、二人がそういう関係だって分かるものを偶然見ちゃったんだ。でも、俺、別に兄貴とつき合ってることを悪いとかからかうとか…そんなつもりはないんだ…。確かに最初、からかったことは謝るよ。ただ、俺が隠岐を見ていて、隠岐が真面目で良い奴だと分かったから言ってるんだ。どんなに真剣になっても絶対いつか隠岐は兄貴に裏切られる……。それが分かっていて隠岐がこれからもそんな兄貴のこと知らずにつき合っていくのを見ていくのは俺も辛いから…」
 それは冗談を言っている顔ではなかった。
 全く、幾浦の間抜けが、トシとのことがばれる証拠を何処に置きっぱなしにしてやがったんだと腹立ちながらも、リーチはもう誤魔化せないということも分かった。
「いつか裏切られるのが分かっているとはどういう意味なんですか?」
 リーチは腹を決めてそう言った。
 こういう手合いは下手にごまかすと、今度は何を言い出すか分からない。それも自分たちにではなく、他の人にである。味方に付けて、同情を引く方をリーチは選んだ。トシには明日にでも話せば良いだろう。
「やっぱ…何にも聞かされてないんだ……」
 思った通りだ…という顔で恭夜は言った。
「兄貴がその事を、どう思ってるか分からない。だけど、どうしても相手は女性でないと駄目なんだ。俺ン家旧家で、兄貴が跡を継がなきゃならない。旧家って言っても金持ちとかそんなんじゃなくて、田舎で結構厳しくてね。跡継ぎは長男でないと駄目なんだ。それに、俺にお鉢が廻ってくることはまず無いし…。知ってるからね、俺の性癖は……」
「跡継ぎだから、いずれ私とは…そう言いたいんですか?」
「そうだよ…。聞いたけど、隠岐って両親とか親戚…居ないんだろ。だから現実にそのことは良く分からないと思うけど、結構きつい束縛だぜ。それに俺のことが問題になったときに、兄貴は両親に豪語したからな……」
「何を……ですか?」
 問題の二人がこの場に居ないため、聞いて良いかどうか分からなかったがリーチはそう恭夜に聞いた。
「家は俺にまかせろってさ、自分がきちんと跡を継ぐから心配するなって……。そう言う約束を簡単に撤回できないだろ……。その上、実の兄弟である俺になんにも相談が無かったんだぜ。変だと思わないか?俺は自分が男とつき合ってたんだから、そう言う面じゃ俺の方が先輩じゃん。だからはっきり言ってくれれば良かったんだ。だのに、なんか妙に隠そう隠そうとしていて、まるでいつでも切って良いように、誰にもいわないんだと思っちゃうだろ……。隠岐はどう思う?」
 じりっと歩を詰められてリーチは再度後ろに下がった。
「私は…どう答えて良いか分かりません。まだ幾浦さんからは何も聞いていませんし……」
「相手が言うまで黙って居るつもりか?」
 お前が怒ってどうすんだよ。とリーチは思うのだがそんなことは言えない。
「そうするしか無いでしょう…」
 トシならそう言うだろう。
「自分だけが損くじ引いてんの分かってる?」
「私は…幾浦さんにご迷惑をかけています…損くじ引いているのは幾浦さんの方だと思いますが……」
「隠岐が刑事だから?」
「それも……あるでしょう……」
「それも?他に何があるんだよ」
「私が男であること……」
 恭夜の視線を逸らさずにリーチは言った。
「隠岐……」
 絶句したような恭夜が立ちつくしていた。
 少し自虐的かとリーチは思ったが、トシはどちらかといえば何でも自分の責任にしてしまうところがあるので、リーチが言った言葉があながち外れているとは思わなかった。
「お前……いい奴だな……。兄貴にはもったいないよ…ほんと…」
 恭夜はそう言って笑みを浮かべた。
 お前に同情されてたかねーよ……と、内心リーチは思ったが、よくよく考えてみるとかなり重大な話であることに気が付いた。
 まずいな……。
 トシの耳には入れたくは無い話であった。しかし、何処でトシが主導権を持っている時に、何時、恭夜が今の話をむしかえさないとも限らない。かといって、今聞いたままをトシに話せば、必ず幾浦に連絡を取ることも、会うこともしなくなるだろう。それも幾浦に何故かという説明を一切せずにだ。それはあまりにも幾浦が可哀想であった。
 幾浦がどれほどトシを愛しているか、リーチは知っていた。例え恭夜の言うように昔は、つき合う相手に冷めると早かったのかもしれない。だからといって今そうだとは思わない。
 自分も昔トシに隠れて無茶苦茶なことばかりしていた時期があった。だが今は違う。名執一筋だ。だから過去幾浦がどうだったろうと、今トシを本気で大事にしていることを知っている為に心配はしていない。
 しかし…両親のこととなると話は別であった。
 幾浦はいずれ来る問題をどう考えているのだろうか?
 リーチのじっと考え込む姿に恭夜は言った。
「隠岐……俺が兄貴にそれとなく聞いてやろうか?」
 何てお節介なんだよ、てめーわ……
「いいえ。それはやめて下さい。これは私自身の問題ですから……」
 利一でも俺の問題でもねえんだよ、ばーか……
「じゃぁ、ちゃんと自分で聞けるんだな」
 トシに聞いてくれ~
「何度も言うように、聞くか聞かないかも私の問題です。お話頂いてありがたいと思いますが、この話はもう終わりにしてください……」
 リーチは心の中で悪態を付きながら、恭夜にそう言った。
「隠岐!」
 意外に大声で恭夜は言った。リーチにはそれは駄目だというように聞こえた。
「今は混乱してるんです。お願いしますから考える時間が欲しいんです」
 そう言うと恭夜はハッとした顔をして「そうだよな…」とつぶやくと洗面所から出ていった。それを見届け、リーチは腕時計で時間を確認すると溜息をついた。
「幾浦んとこに行くか…」
 誰に話すわけでもなくそう言うとリーチは席に戻り幹事に先に帰ることを告げるとさっさと店を後にした。それを心配するかのような恭夜の視線が店を出るまでリーチは自分の背中に感じていた。
 
「トシ?」
 いきなりマンションの扉が叩かれ、誰だと思って開けるとトシが立っていた。リーチの週にトシが連絡も無しにやってくることは今まで無かった為に、幾浦は驚いたように言った。
「ばーか…トシな訳ねーだろ……」
 ケッと口を鳴らしてリーチが言った。
「何だ…リーチか。何の用だ……」
 リーチだと分かると幾浦の口調が急にトゲトゲしくなった。
 幾浦はリーチと話すときは何時もこうなのだ。
 とにかくリーチは気に入らないのだ。
 リーチは強引でわがままだ。自分がこうだと思うと突っ走るタイプだ。それにトシがつき合わされているというのが気に入らない理由だろう。
「ん…なんて言うか…ちょっと上がらせてもらっていいか?」
 いつもなら反撃の言葉をリーチは吐き出すのだが、今日のリーチは妙に大人しい。
「……なんだ、妙に素直じゃないか……」
 怪訝な顔で幾浦はそう言って「まあいい、上がれ」と言った。
 そうして互いにソファーに座るとリーチの方からいきなり切り出した。
「実は……お前の弟のことなんだよ……」
 言いにくそうにリーチは言った。
「何とかあいつと話をしようと思っているんだが、どうもどこか別の所にいるようで、ここには戻ってこないのだ……」
「科警の宿直室で寝泊まりしてるみたいだぜ……それはいいんだけどさ……」
 リーチはそう言って、ここに来た理由を幾浦に話出した。
「まさか…トシに今の事を話すつもりじゃないだろうな……」
 幾浦は思わず身を乗り出してリーチに言った。
「悪いが口止めはされてやれない……。昨日は、たまたまあいつがスリープしていたから耳に入る事が無かっただけで、いつお前の弟が、その話を何処で蒸し返すとも限らない。そこでトシの耳に入れることは出来無いんだよ」
 困ったような顔でリーチは言った。
「もし……だ、トシにお前が話すと、その先どうなるか分かるか?」
「うーん……たぶん連絡もしなくなるだろうな。会うことも避けるようになる。そんなこと、お前が一番分かってるはずじゃねーか」
 リーチは腕組みしてそう言った。その態度も気にくわない。
「分かっている。だから耳に入れたくない。では聞くが、お前はそこまで分かっていて、どうして言いに来たんだ」
「いや……なにも知らずに連絡を絶たれるのもおまえが可哀想だと思ってさ……」
 ニヤニヤと笑いながらリーチは言った。その表情は、どこから見ても楽しんでいるようにしか見えない。
「同情してくれるのなら、トシには言うな」
 はあと溜息をついて幾浦は言った。
「言ってるだろ。それは出来ないってよ。話、ちゃんと聞けよ。それにお前がばれるようなもんをそのへんに置いて置くから恭夜に見られたんだろ。責任はお前にあるはずだぜ」
 ムッとしてリーチが言う。
「そのセリフ……ありがたくて涙が出るぞ。言って置くが、私はトシとの事がばれるようなものをそのへんには置いて等いない」
「じゃ、家捜しされたんだな……きっと……。やな弟だな……ったく……」
 リーチはぶつぶつとそう言った。だがこっちは本当に涙が出そうだ。
「俺だってな、言わずに済むことなら言うつもりはないけど、こればっかりはどうにもならないんだよ……」
 リーチなりに気を利かせてくれたのには感謝をするが、素直に喜べる内容ではなかった。もし、トシが恭夜からの話を聞けば、リーチの言うとおりにトシから連絡は無くなるだろう。かといって、幾浦が話を付けると言ってもトシのあの性格なら、恭眞の為だ……、なんて勝手に考えて勝手に行動に出るに決まっているからだ。
 要するにトシの耳に入れる前に全て片を付け、そのこと自体を封印してしまうしか方法はなかった。
「リーチ……今週一杯とは言わない。せめて二、三日黙っていてくれないか?どうせ今週はお前の番だろうし、その位の気を利かせてくれないか?」
 この男に頼むのは本意では無いが、仕方のないこともあるのだ。
「そうだな……二、三日くらいは何とかなると思う。ただ、恭夜を口止めするのを忘れるなよ。あいつ、結構トシのこと気に入っているみたいでー……と、言っても気に入ってるのは利一みたいだけど、そんなことはどうでもいいか……。とにかく、いろいろ世話焼きたがるから鬱陶しいんだよ。心配してくれるのはありがたいんだけどな……。ああいった詮索好きなタイプには、あんまり深く関わって欲しくない」
 顔をしかめながらリーチが言った。
「ところで、お前が私の立場ならどうする?」
「俺か……?そうだなぁ。両親が反対しようと親戚がなにを言おうと、関係ないね。俺の人生なんだから好きにさせてもらうさ。どうせ俺より先に奴らは死ぬんだからな」
 聞く相手を間違えたなー……と幾浦は思った。
「では、名執に両親がいて私の立場ならお前はどうするんだ?」
「ユキは俺なしじゃ生きてけないらしいから」
 リーチはそう言ってニヤッと笑った。
「帰れ」
 あきれ顔で幾浦はそう言うとリーチを玄関へと引っ張っていった。
「水曜にトシにプライベートを譲ってやるから、それまでに片をつけとけよ」
「すまんな」
 そこに携帯がなった。
「はい。隠岐ですが……あ、ユキか……うん。今からいくから……え?ああいいよ」
 リーチが嬉しそうに話をしているのをみて、トシも自分と話しているときはこんな風に嬉しそうに話しているのだろうかと幾浦はふと考えた。
「じゃ、帰るわ。がんばれよ」
「ああ。知らせてくれてありがとう」
「お前に、ありがとうなんて言われると気持ち悪いな」
 リーチはそう言って靴を履くと扉に手をかけた。
「リーチ……トシはどうしてあんなに気を使うんだ?」
 幾浦はトシには聞けない、だが一度リーチに聞いてみたかったことを、尋ねた。するとリーチは考え込むような表情を見せ、「それはトシに直接聞いてくれよ」と言うと帰って行った。
 リーチが去った後、幾浦は思案気に再度ソファーに座った。
 昔トシに何かあったのだろうか……
 気を使うこと自体おかしいことではなかったが、トシはどうでもいいことでも気を使う。それが幾浦の最大の不満であった。トシを愛しいと思えば思うほど、その気の使いが気になっていた。
 確かに、崎戸の事件以来、身近に感じるようにはなったが、見えない一線がトシとの間にあり、それが何か幾浦には想像が付かなかった。それは自分だけの考えすぎであると思っていたが、リーチのそぶりから、昔に何かあり、それが今のトシの性格を形成したのだろう。リーチに聞いても答えてくれなかったのは、トシ自身の事件か何かであったからに違いない。
 会いたい……
 幾浦は無性にトシに会いたかった。先週は結局トシの方が事件に追われ、その間を繋いでいたのはメールのみであったからだ。一日も会えないというのはとても幾浦にとって辛いことだ。ただでさえ、事情のある二人だ。順調に会えても一週間ごとなのだ。しかしそれすらなかなか会えないことも多い。
 幾浦にしてみれば例え事件で忙しくとも、全く家に帰らないわけでも無いだろう。ならば遅くなっても……、せめて二時間でも自分の家に来てはくれないものかと不満に思うのだ。こちらに寄って、顔を見たいと思わないのだろうか?
 リーチはその点、名執の予定を考えずに自分の予定を優先させている。それは刑事の不確定な予定より、名執の予定を自分に合わせる方がたやすいからだろう。それが出来ない場合はリーチは勝手に名執の家に行き、そこで寝泊まりし、そこから仕事に戻ったりするそうだ。名執に会えなくてもリーチはそうやって、入り浸っている。
 何故リーチに出来てトシにはそれが出来ないのだろうか?
 僅かな時間でも名執に会おうとするリーチを見て、トシはどう思っているのだろうか?
 自分には出来ないとそれで片づけているのだろうか……。
 そんなことを幾浦が鬱々と考えていると電話が鳴った。
「はい、幾浦ですが……」
「兄貴、俺ぇ。そっちに置いてある荷物の事なんだけど~あれ、明日業者が取りに来るから用意しといて……」
「きょ……恭夜!お前今どこにいる」
「う~ん。どこだろう」
 酔っぱらっているのか、その声は聞き取りにくかった。
「何でもいいから、こっちへ来い!今すぐだ!」
 幾浦は怒鳴りながらそう言った。だが酔っている恭夜にはこちらの怒りは届かない。
「な~んでぇ~だよ。俺まだ次ぎ、あるんだよ」
「殺されたくなかったら来るんだ。カギは開けてあるからな」
「ん~分かったよ」
 それだけ言うと電話は切れた。時間はすでに十二時を回っていたがそんなことはどうでもよかった。
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