Angel Sugar

「周囲の問題、僕の涙」 第9章

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 十一時頃目を覚ましたリーチは、汗でパジャマが濡れ、気持ち悪く感じて起きた。額に手をやると熱はどうも下がったようである。着替えようと立ち上がろうとするが頭痛は治ってはいなかった。しかしその痛みよりも気持ち悪さが先行したリーチは立ち上がって着替えを探しにクローゼットルームでごそごそした。そうしているとトシが起きたのかリーチを呼ぶ声がした。
『ごめん……リーチ……』
「なんか、風邪引いてしまったみたいでさ、今日は仕事休んだよ」
 乾いたパジャマと下着を持ってリーチは言った。
『交替……しようか?』
「お前に代わったらやっと治り始めてる風邪がぶり返しそうだからいいよ」
 リーチは笑いながら言った。
『リーチ……実は……僕……』
 涙声でトシは話し出した。リーチはそんなトシに何も言わずに耳を傾けた。何度もつっかえながら、時には泣きすぎて言葉がとぎれる。それでも辛抱強くリーチはトシの話を聞いた。
『って……言うわけで……僕……別れて来ちゃった……』
 最後の言葉は明るかった。精一杯無理しているのだろう。
「もう、済んだことだよトシ、仕方なかったんだ。あいつとの良い思いでは大切にして
嫌なことは抹殺だ!」
 けらけらとリーチは言った。それを聞いてトシはやっと笑った。
『抹殺か……いいね……それ……』
 泣き笑いに近かったが、その様子からトシは何とか立ち直るだろうとリーチは胸をなで下ろした。もっと落ち込んで自殺でもするんではないかと半分心配していたからだ。
「新しい恋をしよう!うん、それがいい。新鮮でいいぜきっと……」
 と、トシに言ったつもりが帰ってきた名執が聞いていた。
「何です……その新しい恋って……」
 じいーっと名執に見つめられてリーチは慌てて言った。
「違う!トシに言ったんだ。俺の事を言ってたんじゃないよ……!」
 リーチがあまりに慌てて言った事が可笑しかったのか、トシはバックで笑い転げていた。
「おい、トシ。お前の所為だぞ!何で俺がユキに弁解しなくちゃならないんだよ!」
『だって……可笑しいんだもん……』
「トシさん起きられたのですか?」
 その会話で名執もトシが目覚めた事を知った名執が言った。
「あ、そうそう。起きたよ。俺の事を笑ってやがる。信じられないよ……」
  呆れたようにそう言った。
「ところでリーチ、何をしているんですか?」
「汗かいちゃって気持ち悪いから着替えようと思ってさ、着替えを探していたらトシが目を覚ましたってわけ」
「そうだったのですか」
 ホッとした笑みを浮かべて名執は言った。
「熱はどうです?」
「下がったみたい……それよりお腹空いたよ……」
「じゃぁ、軽いものを作りますね。リーチは寝室に戻っていて下さい」
「ああ」
 台所に向かう名執を見送って、リーチは寝室へと戻った。起きた時より気分は良くなっていた。きっとトシの気分が少し良くなってきた所為だろう。
『リーチ……心配かけて……ごめんね……雪久さんにも伝えておいてね』
「分かってるよ」
 天井を見つめながらリーチは言った。
『ねぇリーチ……恭眞……結婚するんだね……』
 恐る恐るトシはリーチに言った。
「ああ……。気になるのか?」
『気にならないと言ったら嘘になるよ……どんな人かやっぱり気になる……』
「そうだな……ただ、俺は幾浦が本意でそれをするとは思わない。でも、それなりに愛情を持ってこれから過ごすんだろ。お前も負けずにいい人探さなきゃな」
 トシの性格上そんな事は出来ないだろうが、リーチにはそう言うしかなかった。
『そんな人……いるかな……』
「いるさ……人間だったら嫌と言うほどいるんだから、一人や二人お前にピッタリの人間がいるよ」
『そうかな……』
「大丈夫、心配するなって。俺だってユキと何時別れるかもしれないだろ?その時はまたいい人がきっと現れる。そう言うものだって思って……」
「リーチ……そんな風に考えてたのですか?」
「げぇッ……!」
 トシとの会話に集中していた為、名執が入り口にいることも気づかず、自分が聞かれたくないことを話していたリーチは思わず叫んでいた。
「た……例えだよ……何でお前は都合の悪いときばっかいるんだよ」
 先程より慌てふためいたリーチが可笑しいのか、トシはお腹を抱えて笑っていた。
「リーチ……」
 名執は冷たい瞳でこちらを見ている。
「トシ……お前……笑いすぎだっ……!」
『僕、寝るね。明日起こして』
 そう言ってトシは逃げた。
「に……逃げるな……トシ……」
 うう、何でこんな事になるんだ?
 そおっと名執の顔色を伺うと、視線が合った。
「トシさん……眠られました?」
「あ……ああ……おっ……お前もいちいち俺の言うこと気にすんなよ。トシを元気づけようとして言ってるだけなんだからな」
「分かっております」
 緩やかな笑みで名執はそう言った。先程の冷たい瞳同じ瞳に見えなかった。多分さっきのは名執流の演技だったのだろう。
「お前、役者だよ……」
 小さな溜息を付いてリーチは言った。
「リーチ、軽く摂って休んで下さい」
 そう言ってお粥と温泉卵を乗せたお盆を脇机に置いた。
「ユキ……」
 リーチは名執の身体を引き寄せて抱きしめた。トシが精一杯明るく振る舞っているその裏で、どんなに辛い思いをしているのかを知っていた。
 どれほど傷つき、深い悲しみに沈んでいるか……それを考えると本当に辛かった。自分にはあんな風に耐えられない。名執を失ったら……いや、自分の元を去られたらトシの様には振る舞えないだろう。
「リーチ?どうしたのです……」
 突然の事に驚いた声で名執が言う。
「俺は……お前がいなくては耐えられない……」
「リーチ……」
「他の奴となんかくっついたら……生きて行けない……」
 腕の中の名執を確認するようにリーチは抱きしめている手に力を込めた。
「私は貴方のもの……貴方は私のもの……そうでしょう?」
「ああ……」
 一度名執を失いかけたとき……血を吐くような思いで、一日一日じりじりと過ごしたことがあった。それはもう薄れてきた記憶であるが、痛みはいつでも思い出せた。リーチはあれだけは二度と経験したくなかった。刃物で切り刻まれる方がよっぽどましだからだ。 暫くそうして名執を離すと「ご飯食べるよ……」と、照れた顔を隠しながらリーチは言った。
 お粥を梅干しで軽く一杯と、温泉卵を食べるとリーチはクスリを飲んでベットに横になった。
「ゆっくり眠って下さいね。この調子で行くと明日は大丈夫ですよ」
 リーチはうつらうつらしながら枕に頭を沈め、名執がお盆を持って部屋を出ていくのを眺めていた。そうして気が付くとトシと幾浦のことを考えていた。
 本当にどうしようもないのか……そんな事ばかり考えてしまうのである。
 方法があれば何とかして二人を元通りにしてあげたかった。幾浦もトシも下手をするとこれから互いを想い合い、為す術もなく離れて暮らしていくのだ。トシにはああ言ったが、本当に幾浦が、結婚相手に愛情をもてるとは思えなかった。冷たい夫になるのは目に見えていた。
 例え幾浦の方が何とか割り切って妻となる人に愛情をもてたとしても、トシはどうだろう……幾浦のことを一生引きずって行くに違いなかった。一生、幾浦の影を追い求めるのでは無いかと考える。やけにそれが悲しかった。
 何故上手くいかないのだろう。互いに求め合って愛し合う。それが同性であれば異常なことなのだろうか?
 リーチはそうは思わなかった。愛した相手が……求めた相手が同性であっただけで、同性だから求めたわけではなかったからだ。どんなに美しい相手でもその中身が尊敬でき、愛すべきものを備えていなければ、欲したりはしない。名執が女性であってもリーチは愛したであろう。性ではなく、その本質を愛したからである。それこそが本当の愛情のもちかたではないのだろうか? 
 幾浦は両親にトシのことを話せなかった。話せるはずはない。元気であれば喧嘩も出来ただろうし、絶縁になっても幾浦はトシを選んだはずであった。しかし病気になり老いた父親を見て、何処の息子が真実を話せるだろうか?
 リーチは閉じた瞼の向こうに人の気配を感じ、目を開けた。視界には心配そうに自分を覗き込んでいる名執が立っていた。
「どうしました?酷く辛そうに見えましたが……」
「え……ああ、考え事してたらなんだか悲しくなってきてさ……もうどうしようもねーのに、何か方法は無いだろうかと模索してたんだ……」
 小さく溜息を付いてリーチは言った。
「大きな心配事を抱えていますが、今はゆっくり眠ることです。身体が弱っているときに考え事をしても、良い案はでませんから……」
 そう言って名執はいつの間にか着替えたパジャマ姿で、リーチの横に添うように横になり、布団を引き寄せた。
「窮屈ですが、我慢して下さいね。あ、ですが……考えてみると、お客用の敷物や布団一式はリーチが捨ててしまったのですから、文句は言えないはずですね」
 リーチの方を向いて名執はそう言ってクスリと笑った。
「ダブルなのに窮屈なわけ無いだろう……それより、な……ユキ……」
 そう言ってリーチは名執に手を伸ばした。その手を名執はパシッと叩いた。
「駄目です……今晩はゆっくり身体休めてあげなくては、明日大変ですよ」
「……」
 リーチは、ぶすっとしながら毛布を引き上げた。恨めしそうに名執を見ると、既に瞳を閉じて眠る体勢に入っていた。部屋に灯された小さな白熱灯が長いまつげを浮かび上がらせていた。暫くすると規則的な呼吸がリーチに聞こえてきた。
 眠ったのだろうか?
 そっと手を伸ばして名執の頬に触れようとしたところで瞳がぱっちり開いた。
「リーチ……」
 困ったような顔で名執が言った。
「だってな……仕方ないだろ……その……だから……お前がいると眠れないんだよ……」
「リーチが眠るまで私は居間の方で暫く時間をつぶしますよ」
 と言って身体を起こした名執の腕を掴み、自分の方に引き寄せた。
「リーチ!」
「同じだよ……眠れない……もう俺、元気なんだから……」
「医者の言うことは聞いた方が良いですよ」
「ベットの上では俺が医者だ……」
 そう言ってリーチは名執の唇を塞いだ。名執が抵抗するかと思ったが、意外に大人しくその口づけを受け入れていた。
 リーチは手荒に名執の上着を剥いだ。何故だか分からないが、無性に欲しかったのだ。
「リーチ?」
 そんなリーチの様子が気になったのか、名執はリーチを呼んが、聞こえない振りをした。
「ほんとにどうしたんですか?」
「早く……お前が欲しいんだ……少しの我慢ができない位……」
 名執の腰の辺りを愛撫しながらリーチは言った。そんなリーチの言葉に笑みを零しながら名執は次第に押し寄せてくる快感に身を委ねた。



 頼子は昼頃東京に着いた。何時来ても騒がしい人の波が、自分はここでは住めないと確認する一瞬であった。さて、どうしようかと思いながらこの時間では幾浦も会社に行っているだろう。仕方がないのでまず、警察病院に向かうことにした。
 警察病院に着くと受付で頼子は名執のことを聞いた。
「少々お待ち下さい……」
 待っている間、ぐるりと辺りを見回した。ついこの間、幾浦が撃たれて重傷だと聞き、慌ててこの病院までやって来た事を思い出した。その時、初めて名執に会った。一瞬、美しい女医さんだと思ったが、男性だと聞き恥ずかしい思いをした。
「名執の方はオペであと三十分ほどかかるようです。暫くお待ちいただけますか?」
「分かりました。お庭の方でお待ちしますとお伝え下さい」
「あの、名執の方は幾浦様を存じておりますか?」
「ええ、一度息子がお世話になりまして……」
「そうですか、名執の方はもしかしたらもう少し遅れるかと思いますが、そのようにお伝えします」
「宜しくお願いします」
 頼子は深々とお辞儀をして、庭へ向かった。
 庭では沢山の患者が、散歩を楽しんでいた。中には入院している身内と家族でお弁当を広げている者もいた。屋外に置かれた椅子に座って雑談をしている老夫婦もおり、いずれ自分もああなるのだろうと思いながら、誰も座っていない長椅子に座った。
 暫くすると名執がこちらに走ってきた。
「先生……いつぞやは私どもの息子がお世話になりまして……」
「いえ、そんなことは……あの……本日はどのようなご用件で……」
 そう言う姿も絵になるくらい美しかった。男性であるのがもったいないと頼子は思った。
「息子に見合い写真を持ってきたのです。ですがせっかく東京まで出てきましたので、先生にもご挨拶をと思いまして……」
「それはわざわざご丁寧に……ありがとうございます」
「あの、先生少しお時間いただけます?」
 そう頼子が言うと名執はチラリと腕時計を見て、「三十分位なら」と言った。やはり腕の良い医者は忙しいのであろう。
 幾浦の看病をしに何度かここに来て、周りから聞かされたのは、「名執先生が担当医で羨ましい」とか「あの先生、本当に信頼がおける方よ。その上、院長先生の次に腕が良いと聞いてますわ」と、皆一様にそう教えてくれたのだ。その名執と友人であると幾浦から聞いていた。立派な人が息子の友人であるのが自分の事のように誇らしかった。
「実は、息子に見合いを持ってきたのですが……どうも乗り気では無いようで……あの子、実は好きな方がいるのでは無いかと思いまして……名執先生ならご存じかと……」
「え……はぁ……最近、幾浦さんとは忙しいのもあって、話をしておりませんので、ちょっと分かりかねるのですが……」
 困惑したように名執は答えた。
「そうですが……父親がちょっと体調を崩しておりまして、あの子の嫁が見たいと言いましてね……息子も頷いてはくれたのですが、あまり嬉しそうでないのですよ。もしかしたら誰か好きな方でもいるのでは無いかと……ただあの子、昔からあまり自分のことを話しませんので、聞いても答えてくれないのですよ」
「そうですか……」
「いくら父親がああ言いましても、本人にその気が無いのならあまり無理強いはしたくないのです。何より一生……変な話ですが、私どもは息子達より先にこの世からいなくなります。だからこそ、後悔のない結婚をして欲しいのです」
 そう名執に言うと今度は困ったような表情が返ってきた。どうしてあんな顔をするのだろうと頼子は思ったが、それは何故なのか見当も付かなかった。
「そうですね。本人にその気が無いのを無理強いするのは、友人としてもあまりお勧め出来ません。そのことを息子さんに、お聞きになりました?」
「聞いても黙り込んでしまうだけで……相手の方に何か不都合があるのでしょうか?例えば身分違いとか……」
「さぁ……相手がいらっしゃるのかどうかも分かりませんので……何とお答えすれば良いのか……」
「…………」
 頼子は少しがっかりした。名執なら何か知っていると思ったからである。自分のことを話さない幾浦の友人関係は全く分からなかった。初めて友人だと紹介されたのが名執であったからだ。その名執が知らないとなると、誰もいないのかもしれない。それにしても息子の態度は妙であった。
「あの……全く関係の無い話なのですが……ご相談に乗っていただけます?」
「何でしょうか?」
「名執先生は精神科医の免許も持っていると聞いております。それで……恐縮ですが恭夜という恭眞の弟のことを聞いていただきたいのですが……」
「ええ、その弟さんが何か?」
「あの……本当に恥ずかしいお話ですが……弟の恭夜はあることで高校三年生の時家を飛び出しまして……その理由というのが……男性を好きになったのです」
「え……」
「申し訳ありません。変な話を……」
「それで弟さんは?」
「ずっとアメリカで住んでおりましたが、今、日本に帰ってきているようです。それで伺いたいのですが、男性が男性が好きになるというのは病気では無いのでしょうか?」
「難しい質問ですが、病気ではありません。確かに、幼い頃に女性に手ひどい目に合い、それがトラウマになって女性を愛せないという事もあります。今の社会で女性の地位が上がり、男性がそれに付いていけずに敬遠し、悩みなどを理解してくれる同性に愛情を抱く場合もあります。ですが全てを病気とは決められません。中には外見が男性で中身が女性という事もあります。これは医学的に証明されていますが、脳……ですね、難しい言葉を避けて説明させていただきますが、必ず脳は女性、男性と違います。普通は外見が女性であれば脳も女性、男性であれば脳も男性となっていますが、ごくまれにそれが逆転している場合があります。外見が男性なのに女性になりたがる人がいますが、検査をすればそういう方は女性の脳を持っています。ですのでいくら男らしくなれと言っても無理なのですよ。脳が女性ですからね。そんな場合は性転換を勧めすます。そのお子さんの場合はどうでしょうか?」
「女性になりたいとかでは無いようで……ただ……そうですね息子が言いますのは好きになったのが男性だっただけだと言っておりました」
 そう言うと名執は口元にふっと笑みを浮かべた。頼子は年甲斐もなくその笑みに釘付けになった。
「人を好きになる基準とは何でしょうか?」
 名執はそう頼子に聞いた。
「え……そうですわね……性格が好ましいというのでしょうか……」
 頼子は質問された意味がよく分からずそう言った。
「私のように毎日人の身体にメスを入れる仕事をしておりますと、外見的なものはあまり基準にならないのですよ。一皮剥けば人間の中身は皆同じであることを知っております。女性の胸……例に挙げるには失礼ですが、それすら医学的に見ればただの脂肪の塊です。その場合やはり人を好きになる基準は、相手が自分にとって尊敬できる人物であるか、性格が好ましいものであるかになってまいります。どれだけ美しくとも外見で相手を選ぶと一生後悔する結婚生活を送るでしょう。それにその基準は人それぞれです。例え他から見て性格が良い方であったも、選ぶ当人が好ましくないと判断すれば、それまでです。そう思いませんか?」
 ニコリと笑って名執がそう言うのを頼子は複雑な思いで聞いていた。この先生は何が言いたいのであろうか?
 確かに理解は出来るが、その好ましいという相手が何故男性なのか聞きたいのである。それについてはどう考えているのであろうか?
「同性を好きになる息子は、頭がおかしいわけでは無いと、先生はおっしゃりたいのでしょうか?」
「そうですね。頭がおかしいと言うのはちょっと言い過ぎでは無いかと思いますが……私はそちらの恭夜さん……ですか、お会いしたことはありませんので何とも申し上げないのですが、尊敬し、愛情を持ったのが男性であっただけで、その方が女性であっても恭夜さんは愛情を持たれたと思います」
「だから息子は好きになったのが男性だったと言ったのでしょうか?」
「そうだと思います」
「なんだか先生のお話を聞いておりますと、同性を好きになるのは別におかしくないことだとおっしゃっているように聞こえますが……」
「同性を好きになるのはおかしいことなのでしょうか?人間も動物の一種で、本能でつがい子供……要するに子孫ですね……を作ります。本能と言えば何かいやらしく聞こえますが、事実そうなのです。動物と違うところは、そこに理性が入ることでしょうか……それも選択する基準が広いだけなので、基本的な部分は同じだと思います。そんな本能を脇にどけて相手の性格で伴侶を選ぶというのは、ある意味で純粋であると私は思いますが……」
「先生のお話を聞くとなんだか同性を愛するという行為は変なことではないと聞こえるのですが……」
 頼子は困惑しながらそう言った。
「変と言うのは結局自分の中の規則から外れ、理解できない事をいうのです。確かに精神異常者はこの世の中にたくさんおりますが、それと同じではありません。もしかしたら、この世界の人口があまりにも増えすぎた為にそう言う傾向になってきたのかもしれません。ある動物で、増えすぎると同性同士でつがうのを確認されています。それと同じだという研究者もいますが、私にはその判断は出来ません。ただ言えますのは、お宅様の息子さんが同性を好きになったからと言って、世間で非難されるほどの悪いことだとは思いません。相手の方を……例えそれが男性であっても、尊敬し、お互いを思いやり、愛情を育むことが出来るのならば……私は良いと思います。結局は恭夜さんという方の人生であって貴方の……そして私の人生ではありません。本当に後悔の無い人生を息子さんに望むのであれば、理解してあげるのが一番だと思いますが……どうでしょうか?」
 名執のその口調の所為か、何となく納得させられた様な気が頼子にはした。はじめ抱いていた汚らわしさが和らいだ。そう私の人生では無いのだ。無理強いしても憎まれるだけで、何の解決にもならない。その上反対すれば、今までそうであったように恭夜が反発し溝は深まるだけなのだ。
 あの子がそれでいいというなら、良いのではないか。世間から妙な目で見られ苦労するのは息子であって自分ではない。それが分かっていて本人が男性と暮らすのであれば、覚悟は出来ているのだ。
「先生とお話しできて本当に良かったですわ……」
「そうおっしゃっていただければ幸いです。なんだか妙な話になりましたので…」
 そう言って名執はフッと優しい笑みを見せた。その笑みはまるで花が咲こうとしている瞬間のように思えた。これほど容姿端麗の人から言われると、何でも頷いてしまいそうになる。頼子はそう思った。
「失礼ですが、先生には決まった方がいらっしゃるのですか?」
 そう問うと、名執は一瞬驚いた顔をした。
「ええ……まぁ……そうですね。尊敬できる方です」
「きっとすてきな方なんでしょうね……」
「済みません。時間がもう……」
「あ、これは失礼しました。もうそんなお時間なんですね。では先生、これからも恭眞の良いお友達でいてやって下さい」
「もちろんです」
 そう言って名執はペコリとお辞儀をして、病棟へと戻っていった。頼子はその姿を見えなくなるまで追っていた。
 警察病院を後にして、頼子は警視庁に利一を訪ねた。受付で婦人警官に聞くと、何時戻るか分からないと聞かされた。
「隠岐の所属する三係が、現在捜査中で出ております。いつ戻るともはっきりしたことは分かりません。本当に申し訳ありませんが日を改めて頂けますか?」
「そうですか……自宅の電話番号を教えては頂けないのでしょうか?」
「それはご遠慮させていただいております」
「見知らぬ人間においそれとは教えられませんものね……」
 分かっていたが残念で仕方なかった。以前、お礼を言おうとここへ来たときも頼子は同じように受付で言われたことを思い出した。
「伝言は承りますが……」
 受付の婦人警官が気の毒だと思ったのかそう言った。
「宜しいですか?ありがとうございます。では、こうお伝え下さい。以前は息子を助けていただいて本当にありがとうございました。お礼のご挨拶が随分遅くなりましたが、今回はこちらに二、三日滞在いたしますのでお会いしてお礼を申し上げたいと思います。ご連絡頂ければありがたいのですが……」
 頼子はそう言って用紙に幾浦のマンションの電話番号を書き付けると、受付の婦人警官に渡した。
「承ります、あっ、幾浦さん……と言うのは……以前の事件で……」
 名前を見てその婦人警官は驚いた顔をした。あれから日数は経っても、事件のことが人々の心から忘れ去られるのには、まだ時間が必要なのであろう。
「ええ、こちらの隠岐さんのおかげで、息子は元気にしております。もっと早くにお礼をしたかったのですが、隠岐さんの方が御入院が長引いたようで……結局会えなかったのです。噂でしか存じませんが、本当に立派な方だそうですね……」
 そう言うと婦人警官はまるで自分を誉めて貰ったかのように嬉しそうに「ありがとうございます。それを聞けば隠岐も喜びます」と言った。
「それでは宜しくお願いします」
 頼子はそう言って深くお辞儀をすると警視庁を後にした。
 さ、恭眞の所に行こうかしら……
 頼子は快晴の空を眺めながら幾浦のマンションへと向かった。
  
 マンションに着くと、管理人に母親だと告げ(何度か会ったことがあったのですんなり開けてくれた)キーを開けて貰い部屋へと入った。するとまず、大きな犬が頼子を迎えてくれた。もっと以前にこのマンションに来たときは子犬だったが、今は頼子では散歩も連れていくことも無理だと思うくらい大きくなっていた。頼子を覚えているのか、歓迎の挨拶としてキスの攻撃を受けた。
 男の子の部屋だというのにやけに整頓されており、頼子はがっかりした。もっと雑然としているのだと思っていたからである。
 せっかく掃除でもして時間をつぶそうと思ったのに……
 本当にきれい好きなんだから……
 頼子は仕方なく自分でお茶を入れて飲んだ。時間は夕方五時、まだ幾浦は帰ってきそうになかった。頼子は広い部屋をうろうろしてみることにした。
 部屋数も多く、整頓されており、クローゼットには服やスーツがきちんと整理されてハンガーに掛かっている。会社でちょっと成績を上げた報酬としてマンションをプレゼントして貰ったと聞いていたが、ちょっとではなくかなりなのだろうと頼子は思った。
 会社ではきっとエリートコースを歩いているのだろう。頼子の頭ではコンピュータ自体恐ろしいものであったが、息子の年代の子は手足の様に使うと聞いていた。その中で幾浦はトップを走っているのかもしれない。
 部屋をぐるりと見回し、広い割には冷たい感じがしないのに気が付いた。それは壁に掛かっているタペストリーの所為だった。暖色系で統一された異国のタペストリーは不思議に白い壁にマッチしていた。
 一部屋丸ごとコンピューターの機器で埋まっているところもあったが、そんな場所にも小さな絵などかセンス良くかけられており、意外になじんで見えた。
 趣味が良いのね……
 カラフルな絵やタペストリーを見ながら、以前来たときはそんなものは無かったことに気が付いた。誰かが……もしかすると恋人が、コーディネートしたのかもしれない……そんなことを考えながら寝室に向かうと、ベットの脇机にワイングラスが置かれていた。頼子は片づけてあげようと、グラスを持つと中に指輪が入っているのを見つけた。それは結婚式に交わす指輪の様に頼子には見えた。
「これは……ペア……じゃないの……」
 やはり好きな人がいたのだ。持ち上がった見合い話で、渡せずにいるのだろうか?頼子は幾浦に後ろめたさを感じながら、そっとその指輪を手に取った。一つには日付とK・IKUURAと彫られていた。これが息子のだろうと、頼子はもう一つの方を手にとって裏を見た。今度はT・OKIと彫られていた。
「……?」
 頼子はそれが何を意味しているのか分からなかった。OKIで思い当たるのは、自分の息子を助けてくれた隠岐と言う刑事だけであったからだ。確か両親も親戚、兄弟もいないはずであった。そして名前は隠岐利一と言ったはずである。どう考えてもこの指輪の持ち主として浮かぶのは、隠岐という刑事だけであった。
 視線を感じて振り返ると扉の隙間からアルがじっとこちらを見ていた。何となく見てはいけないような気になり、そっとグラスにリングを戻すと、見なかったことにして寝室を出た。
 一体あれはどう言うことなの?
 リングに彫られた名前の意味するところが分からず頼子は混乱した。いや、ピンときたことを信じたくなくて、混乱している振りをしたのかもしれなかった。
 とにかく……息子を待とう。話はそれから……頼子はそう心に言い聞かせると気を紛らわせるために夕食の準備に取りかかった。
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