Angel Sugar

「周囲の問題、僕の涙」 第8章

前頁タイトル次頁
 目が覚めると身体のあちこちが痛かった。頭もぼんやりとしている。
「あれぇ……ここ……って」
「リーチが起きたんですか?」
 名執はそう言った。
「俺じゃ……まずいわけ?今週は俺の番なんだけど……それより何で俺お前ん家にいるんだ?」
 そう言って起きあがろうとしたが、ふらふらと脚は心許なかった。
「リーチ……駄目ですよ。今日は警視庁に私の方からお休みを頂くように連絡を入れましたので、安静にして下さい」
「安静?」
 名執に抱きかかえられるように支えられて、リーチは顔を上げた。
「もう少しで肺炎をおこすところだったのですよ……身体は大切にして下さい」
 再度、ベットに寝かされながらリーチは名執の言っている事がまだよく分からなかった。
「熱はまだあるようですね……」
 リーチの額に名執は自分の額をつけて確認した。
「昨日、雨の中で捜査だったから……やばいな……って思ってたんだけど……。トシには薬飲んどけって言っといたのに……全く……」
 ぶすっとした顔でリーチは言った。
「そのトシさんから電話を頂いたんですよ。それからが大変でした。後で保険証を警察病院まで持ってきて下さいね。いくら私でも注射等を勝手に持ち出せませんでしたので、往診という形にしました」
「分かった。それで、トシ……なんかあった?起こした方がいいかな……」
「暫く……眠らせてあげて下さい……。色々あったようです」
 悲しげに名執が微笑むのを見て、リーチは察しが付いた。
「そうか……」
「昨日……と、言いましても……二時半頃ですが……電話を頂いて駆けつけたんですよ。その頃にはもう半分意識がありませんでした。熱も酷く高くて……。そんなトシさんが何度も言うんです。「恭眞が選べなかったから選ばせてあげたんだ」って……どう言うことか聞くと、「指輪を返した」とか「最初から僕が身を引いてれば……」とか……支離滅裂で……後はただ泣くばかりで…本当にこちらまで悲しくなりました」
「トシは自分から逃げることはしないって決心してたから……きっと幾浦の方の決心の方が揺らいだんだ……」
「多分……」
 二人はじっと見つめ合って互いに言葉を探したが、いい言葉は見つからなかった。
「今……何時?」
「そろそろお昼です。雑炊を作ってありますが……食べられますか?」
「食う……。食って元気になって、夕方には本庁に行かなきゃ……」
「無茶をいわないで下さい……」
 困ったように名執は言いながら台所に向かった。
 リーチはトシの様子を窺ったが、花畑で横向きに丸くなって眠っていた。その姿はとうてい起こせるものでは無かった。
 幾浦の決心が揺らぐとは計算外だった……そう心の中で呟く。揺らぐには理由があるはずであった。一体何があったのだろうか?リーチは色々考えてみたがこれといって思いつかなかった。しかし、幾浦を責める言葉も出なかった。
「リーチ、熱いですからゆっくり食べるようにして下さいね」
 お盆に雑炊をのせて名執が戻ってきた。リーチは枕を背中に当てて何とか起きあがり、そのお盆を膝にのせた。
「久しぶりに酷い頭痛だ……」
 身体を起こしただけで頭の芯がじくじくと痛む。
「私も途中で、救急車を呼ぼうかと思ったくらい昨晩は大変だったのですから、今の状態は驚くべき回復力ですよ」
 リーチの回復力を知っている名執でも感心してそう言った。
「そうか?怪我には強いけど、風邪とかはあんまりすぐ治らないんだけどな」
 名執は雑炊をすくったレンゲをリーチの口元に運んだ。
「熱そう……」
 と、言いながら口に入れたが、味覚があまりなかった。
「味付け……薄い?」
「熱で味覚が麻痺しているんですよ。熱が下がれば戻ります」
「これにケチャップ入れてよ」
 リーチは本気でそう言った。
「怖いことを言いますね……ですが刺激物は駄目です」
 名執にきっぱりと言われ、渋々運ばれるまま口に雑炊を入れた。しかし味覚が無いリーチは砂を咬んでいるような違和感しか無かった。
「不味い……」
「せっかく作ったのに……そんな風におっしゃるんですか?」
 怒っているわけではなく名執は笑いを堪えているようであった。
「ケチャップ……」
「駄目です。何処の人が雑炊にケチャップを入れて食べるのですか……」
「俺……」
「駄目です」
「砂かじってるみたいだ……」
 本当に不味そうにリーチは雑炊を食べた。
「とき卵は少し甘めにしてあるんですよ……」
 名執にそう言われても、ちっとも口の中は甘みを感じてくれなかった。
「ケチャップ入れたら美味いと思うんだけどな……」
「想像して、こちらが気持ち悪くなりました」
 本当に気持ち悪い顔を名執はした。
「そうか?」
「元気になればご自分でして下さい。試食はご遠慮しますが……」
 リーチは別に雑炊にケチャップを入れるのが趣味ではなかった。ただ、何か口に味を感じそうなものを言っただけで、本当にそんなものが食べられるとは思わなかった。
「も、いい……」
 三分の一食べたところでリーチは言った。
「もう少し食べた方がいいのですが……あ……」
 何か思いだしたのか名執はお盆を持って、また台所に行ってしまった。暫くするとデザートグラスに何か黄色いものを入れて帰ってきた。
「リンゴをすったものにレモン汁をかけて冷やして置いたんです。これなら甘いでしょう。蜂蜜も上にかけてありますので、リーチの口に合うんじゃないですか?」
 甘党のリーチは蜂蜜と聞いただけで嬉しくなった。尻尾が付いていたら振って喜んでいただろう。
「冷たくて……甘い……」
 一口食べてリーチは満面の笑みでそう言った。その顔が本当に嬉しそうであったのか、つられて名執も笑みを零した。
「良かった。やっと喜んで貰えましたね……」
「ホントに美味い……」
 熱のある身体に、その冷たさは優しかった。
「食べ終わりましたら薬を飲んで下さいね」
 そう言って、名執は薬を袋から取り出した。
「おかわり」
「駄目です。少し眠って、起きてからです」
「なんで……?」
「あまり冷たいものをたくさん食べるとお腹をこわしますからね。分かって下さい」
 むーっとしたリーチに薬とぬるま湯の入ったグラスを名執が渡すと、不機嫌ながらもそれに従ってクスリを飲んだ。それが済むと名執はリーチの背にある枕を元に戻して布団を整えた。
「風邪は身体を休めて体力を回復するしか治す方法は無いんです。ですのでゆっくり眠って下さい」
 首の上まで毛布を引き上げられたリーチは、仕方なく目を瞑った。そんなリーチの布団の端をポンポンと隙間をなくす為か名執は手で叩いた。すると首の周りが急に暖かくなり、睡魔が襲ってきた。
「そうだユキ……」
 ぼーっとしながらリーチは名執を呼んだ。
「どうしました?まだ寒いですか?」
「五時には一旦起こしてくれよ。様子見て登庁するから……」
「緊急の電話でも入れば起こします」
 そう言って名執は部屋の電気を消した。
「ユキ……真っ暗はいやだ……」
「小さな電気をつけましょうか?」
「頼むよ……」
 名執は壁に取り付けられている小さな白熱灯を点けた。
「ユキ……」
「何ですか?」
「どうしようか?」
「それはトシさんが起きてから様子を見て考えましょう」
「ああ……」
「私たちには親戚も両親もいませんので、本当の幾浦さんの気持ちは分かりませんし、理解はできません。ですから幾浦さんを責めることは出来ませんよ」
「分かってる……」
 睫を伏せながらリーチは言った。
「責めるつもりなんか全くないよ……。あいつが一番苦しい立場なのは分かっているからな……。ただ、本当に完全に別れたのか、もう修復出来ないのか、何がどうなったのかははっきりさせたいんだ。もし少しでも希望があるなら、トシのことは幾浦に任せたいと思っている」
「そうですね……」
「俺達はラッキーなんだ……お前にしろ幾浦にしろ俺達のことを理解してくれたから…でもそれは本当に幸運なことだと思っているんだ。誰でもかれでも好きだから俺達のことを許せる、理解できる事じゃないし、好きだからと言って話せることでもない……」
「貴方の言いたいことは、分かります。ですので少し眠って下さい……」
「ああ……」
 そう言ってリーチは目を閉じた。眠れそうにない神経を、薬が眠らせてくれた。



「隠岐は今日休みだよ」
 篠原がそう言った。
「え……休みですか?」
 恭夜は驚いてそう聞いた。
「悪性の風邪だって、隠岐の友人から連絡があったよ。その人の家で世話して貰ってるようだ。風邪で休むような奴じゃないから、よっぽどきついみたいだ。……で、隠岐に何か用です?」
「いや……ちょっと事件のことで……でも休みなら日を改めますよ」
「大抵、昼間これなくても夕方には来るタイプだから、夕方また覗いて貰えますか」
 そう言って篠原は自分の席に戻った。
 隠岐が休みか……そうかだろうな……
 恭夜は自分の詰め所に歩き出しながら思った。恭夜自身、トシにあって何を話して良いかは分からなかったが、とにかく心配だったのである。昨夜、「私が選ばせてあげます」と言ったトシのあの目が忘れられなかった。
 裏切られたのにも関わらず、トシはそう言って微笑んだのだ。どれほどの決心をしたのだろうと胸が痛んだ。あの雨の中どうやって帰ったのかも気になっていたが、やはりこじらせたのだろう。
 恭夜は傘を持ってすぐに追いかけたが、見つけられなかったのであった。そうであったので、風邪をこじらせた責任が自分にあるように思えて仕方なかった。
(何で追いかけないんだよ!)
(追いかけられるものなら追いかけている……)
(追いかけてやれよ!)
(それでどう言うのだ?何を言ってやれる?どちらも選べない私に……何を言えと言うんだ!)
(何ではっきり隠岐を選べないんだよ!あんた約束したんだろ!口だけだったのか!隠岐は兄貴を信じてたんだぞ!裏切るのか?そんな隠岐を裏切るのかよ!)
(黙れ!お前に何が分かるんだ!自由に……何のしがらみもなく生きてきたお前に……私の気持ちなど分かるものか)
(じゃ、今、自由に生きたら良いじゃないか!)
(頼む……一人にしてくれ……これ以上私を惨めにしないでくれ……)
(そうか、あんたそんな無責任なことをするんだ。分かった。じゃあ俺が隠岐のこともらっても良いんだな?)
(なんだって?)
(だって兄貴は隠岐を捨てたんだ。俺がもらっても良いって事だろ?)
(好きにしたらいい……)
 幾浦との話はそこで終わってしまった。何よりあれほど落ち込んだ幾浦を未だかつて見たことが無かったからである。最後の一言を聞いて、もう何も言えなくなったのだ。
 ホントに良いのか……兄貴……
 本気でトシを口説くつもりは無かった。ああいえば幾浦がトシを追いかけるのではないかと期待したのだ。だが期待した事は起こらなかった。
 しかしこの状況を打破する良い案が思い浮かばなかった。それは幾浦とて同じであろう。だからこそ悩んでいるのだ。
 トシを追えなかった訳も重々分かっている。それでも……何故追いかけてやらなかったのかと、責めても仕方がないのに責めてしまうのであった。
 友達の家にいるのなら……自宅にはいないのだ。
 帰りに様子を見に行こうと思ったが、友人の家に世話になっているのなら心配することも無いだろうと思うと、恭夜は仕事に戻った。



 目覚ましもないのに五時ピッタリに起きたリーチは、そーっとクローゼットに向かった。それでも脚はふらふらとし、頭もくらくらしていた。
「駄目ですよリーチ……」
 後ろから声をかけられてリーチは、見つかったと、ばつの悪い顔で振り向いた。
「もう大丈夫……」
「脚……ふらふらじゃないですか……」
 呆れたように名執は言った。
「お前……病院は?」
「貴方が眠ったのを確認してから病院に戻りまして、一仕事してから、様子を見に帰ってきたのですよ」
 名執はたった今帰ったのか、買い物袋を手に持っていた。
「大丈……」
 と、言ったところで頭がぐらつきよろめいた。それを名執が抱き留める。
「リーチ……身体が熱いですよ。きっとまた熱が上がってきたのです。大抵、夕方になれば熱がぶり返すのですよ。さ、早くベットに戻って下さい」
「何なんだよ……この身体……ただの風邪のくせに何で言うことを聞かないんだよ!」
 名執に支えられながらリーチは寝室に戻る途中、吐き捨てるように言った。
「きっと、トシさんが受けたダメージが大きかったのでしょう……」
 こういうところもしっかりリンクしているのが辛い。
「全く……トシのやつ……何かあったら起こせって言っておいたのに……」
 ベットに再度寝かされたリーチが言った。その口調には怒りは無かった。
 そこに携帯が鳴った。
「はい、隠岐ですが……」
 一瞬、名執がリーチの方に向いた。しかしリーチは手を振って違うと答えた。
「もう大丈夫だと言いたいのですが……熱が下がらないのです。済みませんご迷惑をおかけしまして……こんな身体で皆さんにご迷惑をかけてはいけませんので、今日は休みます。明日は大丈夫だと思いますので、係長にも宜しくお伝え下さい……えっ……幾浦?あ、恭夜さんの方ですか……はぁ……いえ……心当たりはありませんが……えっ、携帯を教えたんですか?……いえ……駄目なことは無いのですが……そうですか……私には何の事件か分かりませんが、かかってきたら思い出すでしょう。じゃ、篠原さん、明日」
 リーチが携帯を切るとウンザリした顔で言った。
「ユキ……参った……恭夜からかかってきそうだ……」
「困りましたね……多分幾浦さんと貴方の事……と言ってもトシさんとの事ですが……聞いてくると思いますよ」
「俺は何があったのか分からないって……悪いけどかかってきたら、お前出てくれる?幾浦からかかってきたら俺に変わってよ、でも恭夜とは悪いが話は出来ない」
「分かりました」
 と、話しているとまた携帯が鳴った。それを名執がとった。
「もしもし……」
 そう言っても相手は答えなかった。それでピンときた名執は携帯をリーチに渡した。
「え?」
「多分……」
「隠岐ですが……幾浦?」
「リーチか?」
「ああ……」
 それだけ言うと、暫くの間幾浦が沈黙をした。
「俺の力は必要か?」
 リーチは詳しいことを聞かずに、ただそう言った。
「トシを……頼む……」
 その声は絞り出すような声であった。
「それだけで良いのか?」
「ああ」
「じゃあ、これだけは約束してくれ……トシにメールも電話もするな。会うことも許さない。それを守って欲しい」
「リーチ……」
「守れるな。いや、守って貰う」
「分かった……済まなかった……」
 悲痛な声で幾浦は言った。
「今まで、世話になった。ありがとう幾浦……」
 リーチがそう言うと、幾浦は何も言わずに電話を切った。
「……」
「リーチ……」
 心配そうに名執がリーチに言った。
「どうにもならないところまで来たみたいだ……俺達には何もできそうもない。幾浦の方がもう決めてしまったようだ……」
「そうですか……」
 今度は悲しそうに名執は俯いた。
「大丈夫。トシだって何時までもうじうじしやしないから……きっとまた良い奴が現れるさ。トシはそんな弱虫じゃない。その証拠に自分でちゃんとけりをつけてきたみたいだから……大丈夫」
 リーチは自分に言い聞かせるようにそう言った。そんなリーチに名執は「そうですね」と、同意した。
 そこに向けてまた携帯が鳴った。
「絶対、恭夜だ……」
 うんざり顔でそう言って、携帯を名執に渡した。
「もしもし……はい、そうですが……今、休んでおられますので……日を改めて頂きたいのですが……」
 話を名執に任せてリーチは布団に潜り込んだ。
「ですので……起こせないのです……」
 なんだかしつこく言ってきてるな……と、思いながら眠ろうとしたが、いつまで経っても名執が携帯を切らないので、身体を起こした。
「休んでいると申し上げております。明日になさって下さい」
 その口調はいつもの名執であったが、リーチには分かった。
 ユキを怒らせるなよ……溜息を付きながら、リーチは名執に手招きをして代わるようにジェスチャーした。すると、名執はちょっと考えるような仕草をして、リーチに携帯を渡した。
「隠岐ですが……」
「何だ起きてんじゃねーか……さっきのお前の友達か知らないけどさ、こっちだって急いでるんだから、ごちゃごちゃ言わずにさっさと出せって言っとけよ!」
 その台詞にムッとしながらもリーチは
「私の身体を心配してくれているのです。そうおっしゃらないで下さい……」
 と言って恭夜を宥めた。
「で……大丈夫か……」
 急にやんわりした口調で恭夜は言った。
「はい……ご心配をかけて申し訳ありませんでした……」
 とりあえず当たり障りのない答え方をした。
「俺、兄貴が落ち着いたら話してみるから……あんまり落ち込むなよ。兄貴だって隠岐のこと嫌いであんな態度をとったんじゃないからさ……」
「それは……十分、分かっております。ですが、私たちのことはもう気になさらないで下さい。貴方のお兄さんとは話が付いております」
「隠岐……そんな悲しいこと言うなよ……方法はあるって」
「お願いします。本当に私の事を考えて下さるのなら、これ以後この話はなさらないで下さい。それが今の私に必要なことなのです……。恭夜さん、私の望みを聞いていただけますか?」
 リーチは必死の口調を作ってそう恭夜に言った。暫くは幾浦の話題からトシを避けてやりたいとリーチは考えていたからだ。その為には恭夜の口をとにかく塞ぐしかなかった。
「……分かったよ……」
「ありがとうございます……」
「隠岐って……意外にあっさりしてるんだ……」
 こんなはずでは無かったという風に恭夜はそう言って電話を切った。
「…………なんか……むかつく奴だな……!」
 携帯を床に置くとリーチは怒りだした。
「何であいつにごちゃごちゃ言われなきゃ……うーっ……」
 頭がぐるぐるとし出したリーチは布団にぐったりと倒れ込んだ。
「リーチ……大丈夫ですか?」
「頭……痛い……」
 熱が上がってきたのか、身体の間接が痛み出した。吐く息も熱かった。
「熱が本格的にぶり返してきたようですね……」
 名執が支えるように抱き止めるとそう言った。リーチは自分の身体が熱い所為か名執の身体が冷たくて気持ちよく感じ、思わず頬を擦り付けた。
「ユキ……熱が下がる薬くれ……何でもいいから治る薬をくれ……」
「疲れた身体をゆっくり休めることで治りますよ。横になって眠って下さい。電話の方は気にしないで……」
 そう言って名執はリーチの身体を布団に横にさせた。
「氷枕を作った方が良いようですね。暫く待っていて下さい」
「ユキ……あの甘いの欲しい……」
 リーチがそう言うと名執はにっこり笑って「お持ちしますよ」と、言った。
 そうしておろしたリンゴを食べ、薬を飲んだリーチは大人しく布団にくるまった。
「リーチ……私、七時からオペなんです。一人にさせてしまいますが、すぐ戻りますので大人しく眠っていて下さいね」
「ん……」
 眠そうな目でリーチは名執に答えると深い眠りについた。



 何杯目か分からないウィスキーを幾浦は飲んだ。既に飲みすぎで気分が悪かったが、それでも煽るように飲んだ。飲まずにはおれなかった。どうしようもない心の隙間から冷たい風が吹いてくるようであった。何か物足りなくて、その何かを分かっているにもかかわらず、埋めることが出来なかった。
 物足りないのは……心が冷え切っているのは他でもない、トシがいないからである。今ここにトシはいない。これからもトシは自分の側にいることは無い。永遠に自分の元から消えてしまったのである。永遠だった。気の遠くなる程の時間である。ついこの間までは触れることの出来る距離にいた。そのトシを傷つけ、言いたくないであろう言葉を言わせてしまったのである。何と言うことをしてしまったのかという後悔が、何トンもの重りのように自分にのしかかっていた。
 どんなことがあってもお前を守る……そう約束したにも関わらず、何からも守ってやれずに、結局自分を守ってくれたのがトシであった。動けない立場の幾浦を動けるようにしてくれたのはトシであった。
 私が選ばせてあげます……トシが微笑みながらそう言ったとき、一瞬何を言っているのか理解できなかった。だが手に握らされた指輪で全てを理解した。
 ペアのリング……いい加減ではなく、決意を持ってトシにプレゼントしたはずのリングであった。それを事もあろうかトシに返させるようにしたのは、他ならぬ自分であったのだ。何という情けない事だろうか?
 幾浦は何度も何度も拳を机に叩き付けた。このどうしようもない人間の自分が生きていること自体、馬鹿馬鹿しいお伽話のように思えて仕方なかった。
 もう一度グラスを傾ける。中身は既に空になっていたので、もう一度グラスにウィスキーを注いだ。既に視界がぼんやりとしていた。
 トシをこちらに向かせるためにいろんな事をした。トシの遠慮がちな性格を一生懸命変えようと努力を一つずつ積み上げてきた。やっと頂上にたどり着いたとき、その積み上げたものを一瞬のうちに自分で壊してしまったのだ。
 もう修復は出来なかった。今から行き、土下座して謝りたいという気持ちが心の中で葛藤している。謝ったとしても何も状況は変わらなかった。老いた父親の願いを無視することは出来ないのだ。恭夜が羨ましかった。いつも自由で何事にもとらわれない弟が羨ましかった。あんな風に生きることがどうして自分に出来なかったのかと、何度も考えては歯がみしていた。
 そこに電話が鳴った。誰からかは分かっていた。無視していたが自分を呼ぶベルは鳴り止みそうに無かった。仕方無しに電話の受話器を取った。
(恭眞……母さんよ。貴方お見合いするっていうけど、誰でも良いというのはどういうことなの?)
「言葉通りですよ。誰でもいいんです。父さんと母さんが良いと思う人と結婚しますよ……」
(ずっと暮らす人ですよ。そんないい加減ではいけないわ)
 いい加減にしか決められなかった。トシ以外の人間はどうでも良かったのである。
 誰と一緒になってもこれだけは決めていた。子供は作らない。そして両親が他界すればその女性には悪いが離婚する。それからは外国にでも住むのだ。そう決めていた。
 それがトシに対してのたった一つの償いであったのだ。
「いいんです。適当に決めて下さい」
 自分を呼ぶ母親の声を聞くのが耐えられなくて、幾浦は受話器を置いた。
 これは夢なのかもしれない。残酷な夢……。その夢から覚めることは無いことを幾浦は知っていた。死ぬまで続く悪夢の始まりだった。
 
 病院の電話ボックスに受話器を置いて幾浦の母、頼子は自分の息子の様子がおかしいことに気が付いていた。先週息子が、次第に無口になっていくのを気になりながらもその理由を聞けずにいた。
 何か……変だわ……
 元々幾浦はあまり自分を話すタイプではなかった。子供の頃は大人しい部類に入るほどであった。大人しいといっても苛められるような気の弱いタイプではなく、大人びていたのである。それは幾浦が物心付く頃、両親の家業が上手くいっていない時期で、子供もそれを見ていたからだろう。
 幾浦が我が儘をいうのを聞いたことが無かったことを頼子は思いだしていた。反対に弟の恭夜は、家が裕福な時期に出来た子供であったので、我が儘に育ってしまった。そして、幾浦は反抗期も反抗期らしい出来事はなく、こういうものかと思っていたが、恭夜の反抗期は普通ではなかったのを思い出した。
 その分、恭夜はある程度何を考え、何を怒っているのかが簡単に分かったが(恭夜は単純であった)幾浦の方は本音を聞いたことが無かった。ただじっと自分の胸の中に納めて、解決しているようであった。手がかからない分、安心もしていたが、それが心配の種でもあった。
 伏せる父親である恭三が幾浦に「嫁くらい見たい」と言ったとき、幾浦は驚いた顔をし、そして暫く考え込んでから頷いたことを頼子は思いだした。あの時、辛そうでは無かったのか?
 恭三が喜ぶ側で、幾浦がじっと何かに耐えていたのが気になっていた。何故、何に耐えていたのだろうか?
 頼子には一向に分からなかった。そして誰でも良いという幾浦の返事……
 他に誰が好きな人がいるのであろうか?
 いるなら何故、相談してくれないのだろう……頼子は不思議で仕方なかった。
 恭三の病室に戻ると頼子は言った。
「お父さん。私、恭眞の所へ行ってきます。あの子に見合いの写真を見せてきますね」
「ああ、行っておいで……」
「お父さんのことは看護婦さんによく頼んでおきますね」
「馬鹿、そんな子供ではない」
 そう言って恭三は怒鳴った。
「そうだ頼子……」
 病室を出ようとした頼子に恭三が声をかけた。
「何ですか?」
「恭夜はどうしているのか……聞いてみてくれないか?」
「分かってますよ……」
 恭夜は高校生のとき飛び出してから一切実家には連絡を入れていなかった。例え、こちらから追い出したといってもやはり我が子である。そして時間は充分たった。理解するまではいかなくとも、認めてやるくらいの度量は出来ていた。
 世の中にはいろんな人がいるんですものね……そうだわ、恭眞がお世話になった名執先生と、依然結局会えなかった隠岐さんにお会いしなければ……あの子を助けてくれたご友人ですものね……。
 頼子はそう思いながら病室の戸を閉め、幾浦の家に行く支度を整えに自宅へと向かった。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP