「周囲の問題、僕の涙」 第6章
「そんなことになっていたのですか……」
名執は箸を思わず下ろしてそう言った。
「ああ、まいったよ。トシに言うわけにもいかないからな」
そう言って出来立てのエビのトマトケチャップ煮を、リーチは一片口に入れた。
「聞きたかったのですが……トシさんは人の顔色をとても気にするような気がするのですが……確かにあなた方が特殊であるので、そうなるのも頷けるところもあるのですが、気を休めてもいい幾浦さんにまで……顔色を窺うようなところがありませんか?いえ、幾浦さんに対しての方がその傾向が強い様に思えるのですが……。私の勘違いなら良いのですが……。トシさんがそうなった理由が何かあるのではありませんか?」
こういうところが名執は鋭い。精神科医の免許を持っている為に敏感に感じるのかもしれない。
「ユキからみてもそう思う?」
「ええ、トシさんを知っている私が感じるのですから、幾浦さんはもっと感じておられるのではありませんか?」
「幾浦の方は歯がゆい思いをしているときがあるみたいだ」
リーチは幾浦から「どうしてトシはあんなに気をつかうのだ?」と、問われたことがあった。その言葉から考えても、トシのあの態度の差に気が付いていないとは思えなかった。
「つきあい初めは多少あるでしょうが、トシさん達はつき合って半年程になりますよね、それなのにトシさんが幾浦さんに、より気を使うのは不自然ですよ。やはり何かあったとしか考えられません」
「あいつさ……」
ちょっと言いにくかったが、名執なら良い知恵を授けてくれそうだと思ったリーチは相談してみることにした。
「中学の時、トシと仲の良かった先輩がいてさ、確か……緒方とかいったっけ……。俺達その頃は既に利一を演じてたんだけど、その人だけは校舎も違った所為もあって、トシはトシとして色々相談に乗ってもらってたみたいなんだ」
「その緒方さんという方はリーチのこともご存じだったのですか?」
「いくら何でもそれはばらせなかったし、ばらすつもりもなかったからその事は知らないはずだよ。だけどトシが利一としてではなくて、トシ自身として会ってたんだ。そういう友人が居なかったからトシもすごく嬉しかったんだろうな。とにかく何でもよく相談してたよ。それがある日、トシが緒方さんと仲がいいのを知ったクラスメイトの女の子がトシに緒方さんに渡して欲しいって手紙を預かってさ、分かると思うけどその子、緒方さんのファンだったんだよ。確かに緒方さんはサッカー部で人気があったんだ。で、トシはああいう性格だし、利一だったとしても受けるしかなくてさ、緒方さんに預かった手紙を渡したんだよ。そしたら急に不機嫌になって……。そんな緒方さんを見たこと無かったトシはそれだけでおろおろしてな、とどめに言われたんだよ「これを俺に渡すのはいいけど、どうしろっていうわけ?」……ーてさ。トシはどう答えていいか分からずに「だから相談しようと思って……」てとりあえず言ったんだ。今度は「何でもかんでも相談すると嫌われるよ」て返事でさ、それもすげー怒って緒方さんが言ったもんだから、トシは必死に謝ったんだ。でも一向に機嫌なおんなくて、それ以来トシは緒方さんを避けるようになって、更に人に自分自身の事を出すことも無くなったんだ。一時は俺にまで気を使ってたくらいなんだからな。よっぽどショックだったんだろ……」
リーチが一気に話すのを聞いていた名執がふと言った。
「私が何となく思ったのですが……その緒方さんという方はトシさんのこと……気になる存在だったのではありませんか?」
「やっぱりそう思う?俺もさ、なーんかピンときたんだけど、男が男を好きになるって事もあるのは知ってたし、俺はそれ程悪いこととは思わなかったけど、トシは絶対そのことで、余計変に距離を置きそうで言えなかったんだ。でも、言わなくてもトシはそれから内にこもっちゃって、自分の性格の全てが駄目だみたいに思いこんでしまってな。今も少し引きずってるみたいだけど、当時はとにかく酷かったよ。俺が何を言っても聞かなくて、そんなトシに緒方さんはお前のことが好きだから怒ったんだ、なんて言えなくてさ、今に至るってわけだ」
「緒方さんの方はそれから何も言ってこなかったのですか?」
「時折、門のところで待ってたみたいだけど、トシはそう言うのは敏感で裏から帰ってたよ。俺が会えって言っても聞かなかったし、そう言ってる間に緒方さんは転校していったよ。今どうしてるか知らないよ」
「そうなのですか……」
「今になって思うんだけど、あの時ちゃんと緒方さんと話し合ってれば良かったと今になって考えるんだ。それにトシは気付いて無いけど、緒方さんって幾浦によく似てるんだよ。顔とか雰囲気とか性格とかさ、本人は気付いて無いみたいだけど……俺も言えないしな……。言えば、昔を思い出して内にこもりそうだし……。トシにもどう思ってるのかは聞けない。忘れたとは思わないけどさ、思い出させたくないし……困ってるんだよ」
本当に困ったという顔でリーチは言った。そんなリーチに名執の方は意外に静かに言った。
「リーチはトシさんに甘すぎます」
「え?」
「はっきり言えば良いんですよ。そうでしょう?隠し通すことなど出来ないのですから……。結局いつかそのことにけりをつけなければいけないことでしょう。それが第三者が黙っているのはどうかと思いますが……。後でトシさんにそのことがばれたとき、リーチどうするんですか?トシさんは貴方にまで心を閉ざしてしまう可能性も出てきますよ」
「その言い方随分棘があるよな……」
ムッとした顔でリーチは言った。
「棘だと思うのは本当のことだからじゃないのですか?トシさんをかばうのは宜しいですが、逃げ出してばかりでは何も変わらないでしょう。考えても見て下さい。このことで一番苦しい立場なのは幾浦さんだと思います。肉親とトシさんに挟まれて、幾浦さんはそれでもトシさんを失いたくないと思ってらっしゃるのに、そのトシさんが逃げるんですよ。トシさんはそれで良いのでしょうが、置いてけぼりをくった幾浦さんはどうなるのですか?例え苦しい立場に互いが立たされても、一緒に立ち向かうことがトシさんに今必要な事では無いのですか?」
名執は滅多に聞かれないほどの厳しい口調で言った。確かにそうなのだが相手がトシだとメンタルな部分に関してリーチは本当に躊躇してしまうのだ。
「お前に相談したのが間違ってたよ」
「どうしてです?本当のことでしょう。何か間違ってるのでしたら、おっしゃって下さい」
「もういいよ。どうせお前に関係ないことだから、言えるんだろ……。意外にお前は冷たいって分かったよ」
そうリーチが言うと名執は涙ぐんでいた。
「何、泣いてんだよ。お前が泣くこと無いだろ!」
「リーチが……酷いこと言うからです」
「お前の方が酷いこと言ったじゃないか!」
思わずリーチは口調に力が入った。その所為か、名執はポロポロ涙を落とした。
「だからっ……何で泣くんだよ……」
リーチは名執の頬を両手でそっと包むように掴むと自分の方に向かせた。その名執の表情はやけに色香があり、こんな言い合いをしているにも関わらず、思わずどきりとした。
「もし私がトシさんの立場に立たされても……私は自分からは貴方の元を去ることは出来ません。貴方に両親が居たとして……その人達に非難され、罵倒されようと……私は……私にとって……一番大切な人を失うことに比べれば……そんな事は……」
名執はそこまで言って声を詰まらせた。そんな名執を優しくリーチは抱きしめた。
「本当に……大切なものは一生涯に一度しか手に入らないと私は思います。それを見つけたらどんなことがあっても手放してはならないと思うんです。手放したら……二度と戻っては来ない……。そして違う大切なものには出会えない。私はそう思うのです。だからトシさんにもそれを分かって欲しいのです。本当に大切なら……何を……誰を優先しなければならないのか……誰の気持ちを大切に考えなければならないのか……二つを同時にたてることは出来ないのです。そうでしょう?」
必死にリーチにしがみついて名執は訴えるように言った。名執の言っていることは充分に分かりすぎるほど分かっていた。幾浦もその肉親もたてることは出来ない。ならば幾浦をとるのが本来ならば筋だろう。しかしトシにそれを強要することは酷な事である。誰もがそう割り切ることが出来るのなら悩むことも無いだろう。
「分かるよ……俺だってもしお前に両親が居て、反対されても別れる事なんて出来ない。お前を失う辛さは身をもって知ってるから……あんな生き地獄は沢山だからな……」
宥めるように名執の背を撫でながらリーチは言った。
「トシさんもきっと辛い毎日を送るんです。私はそれが心配なのです。トシさんにとって、幾浦さんは優しく包み込んでくれる安らげる場所……それを失ったらどうなりますか?悩むを超えるのでは無いかと思うのです。それならば反対をされても二人なら何とか乗り切ることが出来るのでは無いでしょうか?同じ辛さでも一人より二人の方がいいでしょう?」
「そうだけど……」
答えが出ずにリーチはそう言ってじっと考え込んだ。
「リーチ……」
静かになったリーチに不安を感じたのか、名執は問うようにそう言った。
「俺……帰るよ……」
名執を離すとリーチはそう言って立ち上がった。幾浦ともう一度話し合った方がいいような気がしたからである。名執に言われたとおり、ずっと黙っている事も出来ないだろう。だから、やはりきちんと話してやるのが本当の優しさかもしれない。
「リーチ……怒ったのですか?私……」
引き留めるようにリーチの手を掴んだ名執は、また涙を零しそうな表情であった。
「違うよ。お前に言われて、やっぱりトシに黙っておくのもなんだと思って……かといって俺が勝手に話して幾浦に責められるのも嫌だから、今から行って話してこようと思ってさ……」
リーチがそう言っても名執はリーチを掴んだ手を離そうとはしなかった。
「ユキ……?」
「今夜は一緒にいて下さい……駄目ですか?」
「どうしたんだよ……」
「一人になりたくないんです……」
「ばーか……子供みたいな事言うなよ」
冗談だと思ったリーチはそう言った。が、名執の目は真剣だった。
「お願い……」
そう言って名執はリーチに抱きついた。
「ユキ……?」
「なんだか怖いんです。このままリーチが帰ってこないような気がして……何となく不安で……どうしても今夜は側にいて欲しいのです。幾浦さんと今晩話さなければなりませんか?明日ではいけませんか?」
リーチは名執の必死の言葉に驚いたが、トシと幾浦の不安を自分の身に感じているようであった。
「不安になるようなこと無いだろう?」
そう言って名執の身体を抱きしめてやる。その身体は小刻みに震えていた。
「リーチ……怖いんです……今度……又あんな事があったら……」
それはこの間のことを指していた。リーチは名執が自分の側に戻ってきてくれた事であの件は済んでしまっていたが、名執の負った心の傷は簡単には癒えないのだろう。それだけ自分より心が繊細に出来ているのだ。いや、酷い仕打ちをされた名執の方が、より傷ついているのは当たり前なのだ。
「大丈夫……俺はここにいるだろう?」
柔らかい茶色の髪を撫でながら名執に言った。それでも原因の分からない不安にかられている名執には充分では無いようであった。
「リーチ……」
「暫く黙ってろ……」
何か言いたそうな名執の唇を塞ぐと、リーチは舌を絡めた。穏やかな愛撫を口内に感じた名執はじっとその快感を味わっているように瞳を閉じていた。そのままの状態でリーチはシャツの上から胸の突起を掴んだ。
「あ……リーチ……」
身体を竦めるように曲げると名執は行為を制止しようとリーチの腕を掴んだ。しかしリーチはここでやめるつもりは無かった。不安を感じた身体からそれを取り除くためには言葉だけでは不足することを知っていたからであった。
そして現れた不安はその都度解消してやらないと心に蓄積する。
「今、欲しいんだ……」
夕食は途中であったが、そんなことはどうでも良かったリーチは、名執を抱え上がると寝室へ向かった。
「リーチ……」
ベットに降ろされた名執は目の前の男性がリーチであることを確認するかのようにじっとこちらの瞳を見つめて言った。
「なに?」
自分のシャツを脱ぎながら名執に言葉を返す。
「ご免なさい……」
「何を謝ってるんだよ……」
上半身裸で名執が座るベットの側に立ったリーチはそう言って背を屈めた。
「私……酷いことを言いました…トシさんに対しても……貴方に対しても……。なんだか感情的になって本当に済みません……」
「いや、お前の言った事はやっぱり正しいよ。俺だってそう考えたよ。でもいざ言おうとしても躊躇してさ……適当にごまかせるならって思ってしまって……。いずれ決着をつけなければならないことなんだから、話すべきだったんだよ……もっと早くに……」
「私が感情的になったのには理由があるのです。最近……リーチが……トシさんの事ばかり話しているので……あの……リーチがトシさんの事を大切に思っておられるのは分かります。私も……トシさんのことは好きですし、大切な友人だと思っています。ですが……なんだか……寂しくて……それに何故か不安で……そんな自分を、どうして良いか分からない……」
視線を落として申し訳なさそうに名執が言う姿がとても愛おしく感じた。確かに最近トシと幾浦の事で自分も振り回されていた。そのことで苛つくことも多々あった。特に恭夜が鬱陶しかった。こっちの関係にまで影響を及ぼしている原因は恭夜だからだ。
「悪かった……」
名執を抱き寄せて心の底からリーチは言った。
「ご免なさい……。リーチの方が大変なのに……私……我が儘を言ってしまいました。もう二度と言いませんから……こんな事一瞬でも思った私を許して下さい……」
「お前が謝る事じゃないだろう……もう、この話はやめよう……今は俺達の時間だろ……」
名執の髪を梳きながらリーチは言った。
「リーチ……ぎゅっと抱きしめて……力一杯……息が止まるくらい……」
そう言って名執はリーチに腕を回した。それに応えるようにリーチは名執を力一杯抱きしめた。細い身体に巣食う不安を取り除くように強く……そして愛おしく。
「幾浦……俺、トシにやっぱり言うわ……」
電話向こうの幾浦は「何を言ってるんだ!」と叫んでいた。そして「今何処にいる」と問われ「群馬」と答える。
「仕事で警部とこっちに来てて、今晩帰れそうに無いからさ……。え?トシは今寝てるよ。ユキに電話するって言って寝てもらった。俺も色々考えたんだよ、お前だってずっと黙ってる訳にはいかないだろ?俺が話して、お前ときちんと話をするようにトシに言うから心配すんな」
それだけ早口に言い、幾浦から反論される前にリーチは電話を切った。そしてその晩トシに以前恭夜から言われたことを話した。
最近……おかしいと思ってたけど……そう言う事だったんだ……。
トシはそう考えながら花畑でぼんやりしていた。リーチは既に眠っていたがトシは寝付けなかった。リーチが主導権を持っているので、外の景色は見えない。ただ暗い花畑の中でぽつんと自分が座っている。そこで何度目か分からない溜息を付きながら、リーチから言われたことをもう一度繰り返し心の中で呟く。
幾浦を一人残して逃げるようなまねはするなよ……
最初は会わずに消えるのが一番だろうと考えていた。しかしリーチから言われて考えが変わった。幾浦が迷うことなく自分を守ろうと必死になってくれているのに、その当人が逃げるようなまねは、やはりしてはいけないだろう。もし幾浦の両親に自分の事がばれたら、息子の幾浦にではなくトシに怒りは向かってくるだろう。
それは当然だった。跡継ぎを奪うのは他ならぬ同性であるからだ。仮にそのことで幾浦から別れようと言われたなら、仕方なく身を引いていた。しかし幾浦はそんなつもりは無いらしい。ならば自分も腹をくくるしかない。
そのことでトシは嫌な気はしなかった。幾浦がそこまで真剣に考えてくれていることが嬉しかった。色々大変であるが、頑張ってみようかと思った。祝福は貰えなくても理解して欲しいと考える。
会いたいな……そんな思いで心を一杯にしてトシは眠りについた。
『おはようリーチ』
『あ……おはよう』
意外にトシが元気であるのがリーチには拍子抜けのようであった。
『ごめんね。心配かけて……でも、僕は大丈夫だよ。恭眞と頑張ってみるよ。結構、きつそうだけど……』
『そ、そうか……良かった』
リーチはホッとしたようにそう言った。
『リーチ……話してくれてありがとう』
トシは心底そう言って感謝した。
『実を言うと俺は心配だったんだ……お前のことだから、幾浦に何も言わずに会うことをしなくなるんじゃないかってさ……』
『それも考えたよ。でも恭眞が頑張ろうとしてるのに……僕が逃げること出来ないよ』
『そうか……お前もいつの間にか大人になったなぁ……』
リーチが何故そう言うのかよく分からなかったが、子供扱いされていると思ったトシはムッとした。
『なんだよそれ……リーチは、僕が子供だって今まで思ってたわけ?』
『あ、そういうんじゃないんだ……』
何となく乾いた笑いでリーチがそう言ったのが気になったが、警部に呼ばれ、話はそこで中断した。
群馬に逃げた殺人犯を追ってきたが、情報収集に成功した所為もあって、意外に簡単に逮捕した。それも事件発生から二日とかからずに解決した。係長と管理官からお褒めの言葉を頂き、報告書を書きあげたのが翌朝であった。その日から新しい週が始まった。
『今日は休み貰ったことだし幾浦の所に行くんだろ?』
『うん。メールには行くってことだけ送ったから、恭眞からのメールの返事は書いてないんだ。会ってちゃんと話したかったし……メールじゃ上手く書けないから……』
『うわ……それってすごく残酷じゃないのか?』
リーチは幾浦に同情するように言った。
『いいよ。今晩会うんだから……』
徹夜明けの目を擦りながらトシは言った。
一旦家に戻って一眠りしてからでも良かったが、その日のトシは幾浦の家に向かった。帰ってきたら驚かしてやろうとトシは思ったのであった。
驚くかな……恭眞……
くすっと笑みを浮かべてトシは幾浦の家に向かった。
幾浦の足取りは重かった。今夜トシが来るとメールに入っていたからだ。自分が送ったメールの返事は一言も入っていなかった。何を話そうとしているのか全く分からなかった為、不安の方が強かったのだ。
この間リーチから全て話すと言われてから今日まで殆ど眠ることが出来なかった。かといって事件の捜査中に彼らの携帯を鳴らす事は絶対に出来なかった。
胃がキリキリと痛みを訴えていたが、それより頭痛がした。自分はこんなに精神が弱いとは思わなかったが、身体は敏感にその悩みに反応しているようであった。
マンションに着くとキーを取り出し、扉を開ける。すると見慣れた靴があった。
「トシ……来てるのか?」
靴を素早く脱ぎ、廊下を駆け出すがトシの姿は見あたらなかった。ただ、居間にボストンバックと脱いだスーツが掛けてあった。
「トシ!」
声を上げて探すとトシは寝室で布団の上に眠っていた。きっと少しだけ横になろうと思ったのが、眠ってしまった。そんな感じであった。そしてその足下にはアルが丸くなっており、幾浦の方をチラリと見て又目を瞑った。
「何だ……疲れて眠っているのか……」
出張中だと聞いていたので、ボストンバックとスーツがあったのは、自分の家には帰らずにここに来たと言うことなのだろう。
ホッとしながらも、そんなにトシが急いできたと言うことに更に気が重くなる。このまま眠っていて欲しいと思いながら、自分もトシの隣に横になった。そしてじっとトシの寝顔を伺う。すると目の下にはうっすらとクマが出来ていた。昨日は捜査で徹夜だったのだろう。
「トシ……」
そっと頬を撫でると、無意識にトシはきゅっと身体を縮ませた。その仕草が幾浦には妙に可愛かった。次に鼻先に軽くキスをすると虫だと思ったのか、トシは手で払いのけようとした。
「こんなに無防備な姿は初めてだ……」
笑みを浮かべながら、手をトシの背に回して引き寄せた。起きるかな?と、思ったが余程眠りが深いのか、全く幾浦の思うがままであった。
「トシ……お前を失う事など考えられない……」
そう囁いて、抱きしめる。抱きしめた身体は規則的な心臓の鼓動を幾浦に伝えた。
「う……ん……」
トシは小さくそう言ったが、まだ瞳は閉じたままであった。そんなトシに幾浦は少し悪戯心がムクムクと膨らみ、シャツのボタンを外しだした。
いつ気付くだろうと、内心ドキドキしながら、結局全部外してもトシは起きなかった。
脂肪のない身体が半分露わになると、過去の悪夢の名残を見つけた。それは心臓の辺りに残る手術痕であった。周りとはっきり違う肌の色が胸を斜めに走っている。名執からは一生残る傷だと聞いていた。その傷を舌でなぞるとトシの身体がピクッと震えた。
「あ……」
眉根をしかめてトシは呻くように言った。眠っていても感じるのだろうか?
「トシ……」
最初はからかうつもりが、いつの間にか自分自身が押さえきれなくなり、そのまま舌を這わし、胸の突起を口に含んだ。
「あ……」
無意識にトシが手で幾浦を払いのけようとするが、それを無視して周りを揉みほぐしながら口内で突起を転がす。すると口の中で乳首がピンと立ってきた。次にもう片方も口に含んだところでトシが目を覚ました。
「や……な……恭眞……ななな……何してるんだよ……!」
顔を真っ赤にさせてトシは上半身を起こした。幾浦が上に乗っているので起こすと言うより、ややベットより身体を浮かせたという感じであった。
「トシ……愛している……」
「だから……ちょっと……待っ……」
トシが言い終わらないうちに幾浦は唇を塞いだ。
「ん……んん……」
なおもトシは幾浦を引き離そうと肩を掴んで力を入れるのに苛立った幾浦は、その反抗する手を片手で押さえつけると、もう片方の手でズボンを一気に下ろした。
「恭眞っ……だめだよ……僕……話が……っ」
やっと唇が自由になったトシがそう言ったが、幾浦は自分の行為に専念して聞く耳を持たなかった。
「あっ……やっ……」
幾浦の手が下半身の敏感な部分を撫でるとトシは両足を曲げて、刺激が伝わっていることを伝えた。
「話は……終わってからでいい……」
それを聞いてトシも観念したのか、幾浦に身体を任せるように、両手の力を抜いた。そんなトシが幾浦を更に駆り立てる。
これで最後だと思っているから身を任せようとしているように見えたのだ。
考えたくは無かった。だが、これが済めば、もしかすると別れを告げられるのかもしれない。その兆候は出張先から直接来るというトシが今までしたことのない行為に現れていたからだ。
「恭眞……」
少し荒くなった息と共にトシは言った。その目元が少し潤んでいるように見えた。それは快感によってもたらされたものであろう。そんな瞳が幾浦の身体を熱くさせた。
こういう時、最初のうちトシの身体は強ばるが、暫くすると大抵素直なほどこちらの刺激に敏感に応えてくれる。触れる度に身体はしなり、快感によって発せられる声は素直に出した。そんなトシが幾浦は愛しかった。
「トシ……どうして欲しい?」
そう言うと、いつもトシは視線を逸らす。何か言いたげな口元と、赤らめた頬が何ともいえない色香を漂わせる。いつもは焦らすのであったが、そんな余裕は今日幾浦には無かった。
その日の幾浦はトシの全てを貪るような激しさがあった。何度達ったか、何度達かせたのか自分でもよく覚えていないほどであった。
気が付くとトシがじっとこちらを見ていた。
「今日はすごく変だよ……」
シーツにくるまりながらトシはそう言った。どうして変なのか分かっていはずなのに、どうしてそんな質問をするのか理解できなかった。トシの方はもう割り切ったと言うのだろうか?そんなことを考えながら幾浦はトシを引き寄せ胸に抱いた。
「恭眞……僕……」
「それから先は言うな……私が良いと言うまで言うんじゃない」
「……」
暫く抱きしめてから幾浦は言った。
「話し……聞こうか……」
「リーチから聞いたよ。恭夜さんが言ってた話し……。気を使って言えなかったそうだね。恭眞もリーチからその話し聞かされたそうじゃない……。僕の知らない間にみんな悩んでたんだね……ごめんね気を使わせて……」
申し訳なさそうにトシは言った。その口調がやけに落ち着いているので幾浦はもう駄目だと思った。
「気を……使った訳ではない。ただ……私は……」
そのことでお前を失いたくなかった……そう続けるつもりが言葉が詰まって幾浦は言えなかった。
「恭眞……一番大変なのは恭眞だよ……それでもいいの?」
「え?」
何が大変なのかピンと来ずに幾浦は言った。
「僕は一緒に頑張るつもりだけど……恭眞が別れようって言うまで、例え御両親に非難されても僕は恭眞が側にいてくれるのなら頑張る。でも本当に苦しいのは恭眞だよ。それでもいい?僕の所為で御両親を裏切ってしまう事になるけど……それでもずっと側にいてもいい?」
「トシ……」
思いもよらない言葉を受けて幾浦は不覚にも涙ぐんでしまった。そんな自分を見られたくなくてトシを抱きしめたまま顔を上げられなかった。
「恭眞……?」
「お前がそう言う風に言ってくれるとは思わなかったからな……感激しているんだ」
「ホント言うとね……会わない方がいいって考えたんだけど……それをリーチに言ったら怒られちゃったよ……一人で逃げ出すのかって……恭眞の方が大変な立場なんだぞって……それで僕の考えが間違ってるって分かったんだ」
「そうか……」
リーチに借りを作ってしまったな……苦笑しながらも幾浦は感謝していた。
「恭眞……」
幾浦を見上げながらトシは何か言いたそうであった。
「なんだ?」
「いいの?本当に……本当に……いいの?」
トシは確認するように何度もそう言った。
「それは愚問だ……たとえどんなことになってもお前を守る……約束する」
「恭眞……ありがとう……」
「やっとホッとしたよ……お前から返事のメールが来ずに、会いに来るとしか返事がなかったからな……毎日眠れなかった」
「ほんと?」
「ああ…胃は痛む。頭痛はする。大変だった」
「僕も……眠れなかった。さっき言った言葉を自分の口で言いたくて……本当は一旦家に戻るつもりだったんだけど、それすらもったいなかったんだ。だから急いできたのは良いんだけど、恭眞が会社なのをすっかり忘れていて、仕方ないから食事の用意だけして少し横になるつもりだったのが眠ったみたい。驚かすつもりが驚かされちゃった……」
そう言ってトシは笑った。