Angel Sugar

「監禁愛3」 第1章

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 リーチは不機嫌であった。
 先々週も仕事で名執に会えなかったのだ。その上、今日は何事もなく帰られるだろうと思っていたのだが、別件で自分だけが横浜港に行くことになったからだ。
『くそー……なんか俺に恨みでもあるのかよ……』
『ちょっと顔を出すだけで良いって言ってるし、良いじゃない』
 トシはそう言ってリーチを宥めるが、こういうときのリーチは何を言っても無駄なのだ。
 もし本当に爆弾が仕掛けられておれば、夜どうし作業しなければならないだろう。それが本当に鬱陶しいのだ。それも自分は捜査一課で、担当外であるにも係わらずだ。
 さっさと終わらせよう……
 
 横浜港から二キロの所にその豪華客船は停泊していた。本来ならば本日接岸されていたはずなのだが、爆弾を仕掛けたと声明があった為、入港を見合わせたのだ。
 だが船を捜索したが、らしきものは見つからなかった。しかしその直後、今度は本日九時に第一の爆発が起こると新たに声明があり、利一にそれを確認する仕事が廻ってきた。
 彼らは危険に対するレーダーを本能的に持っていることで有名だった。それを顕著に表したのが崎戸の事件であった。崎戸から送られてきた爆弾を見もせず、その上場所も分からなかったにも係わらず、それを見つけだし、署員を怪我から未然に守った。そんなことからお呼びがかかったのだ。
 警察官が総動員で捜索し、無いと判断を付けた神奈川県警であったが、念には念をと言うことから警視庁に連絡を入れ、利一に問題の船に乗り確認して欲しいと要請したのだ。
 そんな経緯から本日夜から利一は横浜港にやってきた。
「警視庁の隠岐さんですか?私神奈川県警の佐藤と申します。本日はお忙しいところ申し訳ありませんでした。宜しくお願いします」
 若い刑事がそう言って軽くリーチにお辞儀した。しかしその佐藤という刑事はリーチに対して胡散臭そうな目を一瞬向けたことに気が付いていた。
『俺だってな……好きで来たんじゃねーんだよ!』
 リーチはいらいらしながらそう言った
『まーまー』
 利一としての表情を崩さず、心の中では腑が煮えくり返っているリーチをトシは宥めた。それすらリーチにしてみればうざいのだ。
 そうして案内されるまま、ボートに乗り沖に向かうと、停泊中の船に乗り込んだ。そのとたんリーチは言った。
「ありますね……」
 顔色を変えずに甲板に立つリーチと反対に周囲がどよめいた。
「何処にあるか分かるかね」
 爆弾処理班の班長らしき人物がそう言った。
「そこまでは……」
 本当に分からないのだ。ただ時間がもうあまりないのだけは分かったいた。
 それは危険が近づくと彼らの心の中で響くベルの大きさで分かるのだ。そのベルを鳴らしているのは昔知り合った春菜と言う女性である。その春菜は既にこの世にはいない。一度生死の境目にあるとき、春菜からそう聞かされたのだ。
 ずっと守っていると……。
「とにかくもう一度総動員で調べるしかないでしょうね」
 しかし隅から隅まで調べた署員達は半分信じられない顔をしていた。特に先程の佐藤はあからさまにそれを顔に出していた。
 だが、利一がそういうなら……ということで再度調べることとなり、署員達はだらだらと行動し始めた。
 リーチは怒り満開であった。
 俺だってこんな所に来たか無かったんだ!
 本当ならユキといちゃついてる時間なんだよ!
 と、心の中で悪態をつく。
 それにしても時間だけがじりじりと過ぎていく。周りの雰囲気も次第に緩み始めている。
 まずいな……とも思ったが所詮対岸の火事だ。
 俺には関係ない。
 巻き込まれるのもしゃくだと思ったリーチは甲板に出て風に当たろうとした。全員が必死ならリーチもこんな態度には出なかった。とにかく今日は機嫌が悪いのである。時間を確認するともうすぐ九時になるところであった。ベルは最大の大きさで鳴っている。
 おかしいな……船が完全に爆発するような仕掛けでもなければこんなに継続的に鳴らないんだが……それとも俺の近くにあるってか?
 そんなことを思いながら思わず笑いが漏れた。
『リーチ……真剣に探してる?』
 トシがムッとした口調でそう言った。
『だってな、他の奴らが、だれてんだぜ……俺だってだれちゃうよ……。あのさトシ、もかえろっか?そろそろやばそうだし、さっさとこの船から逃げた方がいいと思うんだけどさあ……』
『そんなことを言わないで探すの!あるのは分かってるんだから……』
『はいはいはい』
 誰が利一の性格を作ったんだったっけな……そう思っていると佐藤が声をかけた。
「隠岐さん。無いようですよ」
「いえ……きっと……あり……」
 先程甲板に上がったときには気付かなかったものがリーチの目に入った。
「あの、上にあるくす玉は何です?」
「明日のセレモニーの飾り付けだそうです。チェックは済んでいますので……あっ!何をするんですか!」
 リーチは思いっきりくす玉のひもを引いた。すると黒いボックスのようなものが、色紙の吹雪の中から佐藤の手に落ちてきた。
「な……何でしょうこれ……」
 佐藤は何となく分かったようであったが、震える手でそれを持ったまま硬直していた。
「佐藤さん……それをこっちに渡して下さい」
 リーチは静かに言った。しかし、佐藤は動けなかった。
「お……隠岐さん……」
 泣きそうな声で訴えるが時間は迫っていた。爆弾処理班を呼んでいる時間はない。リーチは覚悟を決めて佐藤からそのボックスを奪い取ると船首から投げた。が、バランスを崩してしまった。
「隠岐さん!」
 夜の闇に轟音と火花が散り一瞬辺りが真昼のように光った。その音で署員が駆けつけた。
「どうしたんだ!」
 甲板では佐藤が腰を抜かして震えるように何度も何度も言っていた。
「隠岐さんが……隠岐さんが……下に……下に……」
「何がどうなったんだ!佐藤!はっきり言え!隠岐さんがどうしたんだ!」
「爆弾を持って……海に……落ちたんです……」
「なんだと!」
 すぐに捜索が開始されたが利一の姿は一向に見つからなかった。

「兄貴……なんだかあの船で大騒ぎしてるみたいだぜ……」
 客船から少し離れた所に停泊していたクルーザーに乗っていた相原が言った。
「まずいな……サツがうろうろしてる……引き上げよう」
 望遠鏡で確認した長野が言った。
「兄貴!なんか船に当たってる」
「何が?」
「分からないけど……人みたいだ」
 相原は下を向きながらその浮かんだ人間を棒でつついた。
「ほっとけ、関わり合いになるのは御免だ!お前、今この船に何を乗せてるか分かってんのか?」
「でもよ……俺この人見たことあるよ……」
「ダチか?お前のダチが死体とは、ろくなのがいねーな。」
「俺じゃなくて……確か若頭のご友人様で……ないかと……」
「なんだってぇ!」
 長野は裏返った声でそう叫ぶと、ライトを持って相原の方に近づき、自分も下を覗いた。
「うわ……俺も見たことあるぜ……この人組頭とも仲がいいんだ……まずい……ほっとけないぜ……」
「兄貴……警察に知らせた方が……あっちで騒いでるのもこれでじゃない?」
「阿呆!船を調べられると困ると、なんべん言やー分かんだよ!とにかくだ、引き上げて生きているなら連れて帰ろう。死んでたらもっかい浮かべりゃ良いんだ。ほら、手伝え!」
 二人は先程積み荷を取るために使った銛で相手を傷つけないようにスーツに引っかけ引き上げた。耳の脇と手や胸の辺りから出血していたが、死ぬほどの傷は見あたらなかった。
「どう思う?」
「生きてる見たい……」
「お前は無線で……やばいな無線は拾われる可能性がある。接岸して携帯を使うか……」
 二人はそう決めるとクルーザーを出した。



 なんて暗いんだろう……ここは何処なんだ……
 真っ暗な所に漂いながらそう考えた。
 俺は一体何をしてたっけ……そうだ……何だったかな……思い浮かばねーや……
 リーチ……大丈夫?
 え……誰だ?……
 もう……何言ってるんだよ……
 俺にはお前が分からない。
 …………
 お前が……いや、俺は一体誰なんだ?



 芳一は連絡を受け、とりあえず融通の利く病院に利一を運び込んだ。命に係わるほどの怪我は無く、足の裏などに火傷を負っていることと、テレビでの顛末を合わせてだいたいどういう状況であったのかを予測した。
 爆弾を投げようとした瞬間、体勢を崩した利一は柵を越えて下に落ちた。しかし爆弾から遠ざかるために、船の側面を蹴って出来るだけ遠くに飛んだ。そして爆発。 
 爆風と海流の所為でかなり沖まで流されたのだ。
 背中と脚の裏に軽い火傷を負っているので俯きに利一は眠っていた。芳一はそっと髪を撫でる。
 意識が戻れば自分で帰って貰った方が良いだろう……ふとそう思った。いくら何でも暴力団に助けられたとは刑事である利一が、まずい立場になる可能性があったからだ。かといって助けもせず、ほおりだしておれば、長野と相原を半殺しにしていただろう。
 警戒心のない寝顔は芳一にとって心地の良いものであった。名執という彼の恋人はいつもこんな表情を見ているに違いない。少しくらい心配すればいいのだ。彼を独り占めにしているのだから、このくらいは許されるだろう。
 そんなことを考えていると利一が目を覚ました。

 ここは何処だろう……頭が痛い……
 リーチは頭を押さえながら上半身を起こした。自分の横には長めの黒髪を後ろで括った男が心配そうに覗いていた。
「隠岐さん……大丈夫ですか?」
 男はそう言った。
「ここは?」
「うちの息のかかった病院ですよ。安心して下さい」
 息がかかるという意味が分からない。
「お前……誰だ?」
「え?芳一じゃないですか……どうしたんです?」
 芳一……そんな奴は知らない。ところで……俺は?
「俺は……一体……誰なんだ!」
 思い出せなかった。自分が何者か、何処に住んでいるのかも……何か乾いた感じだけが心にあった。それだけであった。
 芳一は目を見開いて驚いた顔をした。しかし次に満面の笑みで言った。
「大丈夫ですよ隠岐さん。私がついています」
 不安であったが、どうやら自分を知っている人間であることが分かったリーチは、とりあえず安心した。
 意味もなく暴れても何も好転しない。
 暫く様子を見よう……
 リーチはどうにもならないことで騒ぐことは元々なかった。体力を無駄に使うだけで、どうにもならないことを本能的に知っているからだ。
「俺は……何の病気なんだ?」
「事故で隠岐さんはここに運ばれてきたのです。きっと記憶が少し欠落しているだけでしょう。ですが、こういうのは時間が経てば思い出すと言います。私、お医者様に相談してきますので暫く休んでいて下さい」
「そ……だな……」
 リーチはベットに再度沈み込むと横向きになった。芳一は病室を出ようと扉のノブに手をかけていた。
「あ、芳一……さんとやら……俺の両親とかに連絡してくれてるのか?」
 そう言うと、芳一は一瞬、翳りのある表情を見せたがすぐに笑顔で言った。
「その話は後で……それと私のことはいつものように芳一と呼んで下さい」
 そして病室にリーチは一人になった。
 ま、何とかなるだろ……
 すると睡魔が襲ってきた。

 眠った筈のリーチの瞳が開いた。
「どうなってるんだよ……リーチ記憶喪失だって?」
 呼びかけようと思っていたが、何となく変な様子のリーチに、暫く様子を窺っていたトシは溜息を付いた。
 今はリーチが眠っているので何とか主導権を切り替えることが出来たが、何時、リーチが目を覚ますかもしれない。気を付けなければとトシは思った。記憶喪失らしい状態のリーチに「トシだよ~」なんて話しかけると大混乱に陥ることが分かっていたから、トシは気が付いていながら沈黙を守った。
 それより自分を助けてくれた人は芳一と言った。リーチのことは知っているようであったが、トシは知らなかった。聞いたことも無かった。
 リーチが知っていて自分が知らない等と言う事はまず無いはずであった。
 どういうことだろう……
 だが、この状態ではどうにもならない。
 兎に角、何が何だか分からないが、幾浦か名執に電話をしようと考えた。二人とも心配しているに違いなかったからだ。しかし病室には自分のスーツや携帯すら見あたらなかった。
 トシは痛む身体を起こし、よろよろと立ち上がった、背や足がヒリヒリと痛むが耐えられるようであった。
 そっと廊下に出、近くを歩く看護婦に公衆電話の在処を聞いた。そうしてエレベータを使って一階まで下りると、目的のものを見つけた。
 しかしお金を一銭も持っていないことに気づくとトシは仕方なしに、詰め所の看護婦に頼み込んでテレホンカードを貰った。もちろん入院費に計上すると言われ苦笑しながらまず名執にかけた。
 最初に名執にかけたのには理由が合った。医者である名執にリーチをどうすればいいのかを聞くためと、芳一が何者かを知っているか聞くためであった。
 電話はすぐに繋がった。
「もしもし、雪久さん。トシです」
「ト……トシさん!今どこですか?皆さん大騒ぎで……私も心配で心配で……」
「怪我は大したこと無いみたいなんですけど……リーチがどうも記憶喪失になってるみたいで……僕のことも分からないんです。今はリーチが眠っているので何とか僕が主導権を切り替えたんですが……」
「リーチが!今……何処なんですか?大丈夫なのですか?トシさん!」
 悲鳴に近い声の名執であった。
「なんか……僕の知らない人に助けて貰ったんですけど……リーチの知り合いみたいなんです。芳一って名前の人で黒い髪を後ろで括ってて、そうだなぁ僕より背は高いけど恭眞程じゃなくて……それから……」
「もういいですよ。相手は分かりました……」
 その名執の声は怒りが込められているように聞こえた。。
 もしかして雪久さん怒ってる?
「あの、たぶんその人が警察に連絡してくれると思うから、すぐに帰られると思います。だから心配しない……」
「リーチが記憶喪失なのでしょう。芳一さんがそんなことをするとは思えません。私が今から迎えに参りますから、今どちらの病院か教えて下さい」
 名執は早口でそう言った。
 そんな名執もトシは初めてだった。
「えっと……すみません、ここは何という病院ですか?」
 側を通りかかった患者にトシは聞いた。
「櫻川病院って言ってます。それで分かりますか?あっ!」
「分かりますが、どうしたのです?」
「やばい、その芳一って人が必死にこっちに走ってきてる。うわっ!リーチの意識が戻りかけてる……」
「トシさん!」

「どちらに電話をかけているのですか?」
「えっ……」
 リーチは受話器を持ちながら、何故自分がここにいるかも分からず、「さぁ」と答えた。その受話器を芳一が取った。
「もしもし?どちら様ですか……切れてますね……」
「そのあんちゃんなら、さっきここの病院の名前を聞いてたよ」
 近くにいた患者がそう言った。
 だがリーチには覚えがなかった。
「え、俺聞いたっけ?」
 何がなんだかリーチには分からなかった。
 俺はどうしてここにいるんだ?
 いつの間に歩いて来たんだ?
 気持ちが悪い……
 そんな事をリーチが思っている間、芳一の方はテレホンカードを抜いていくつ穴があるかを確認している。それが済むとこちらを向いた。
「本当はもう暫く入院した方がいいのでしょうが、記憶を戻すには家で養生した方がいいそうです。ですので、お医者様には往診して貰うという形で、私の家に来ませんか?」
「あのさ、俺の家族に連絡する件はどうなったっけ」
「隠岐さん。隠岐さんは今忘れておられますが、ご両親もご兄弟も……親戚もいらっしゃらないと私は貴方から伺ったことがありますので……」
 言い辛そうに、芳一は言った。
「そうか……」
 俺は天涯孤独なのか……
「とにかく早く支度して参りましょう。大丈夫ですよ。私が付いています」
 芳一はそう言って笑みを向ける。
 その顔を見て悪い奴じゃなさそうだとリーチは思った。
「なんか……迷惑かけて悪いなぁ、でもまぁ、しかたねーよな」
 行く当てもねえし、でもまあ、こいつは俺のこと知ってるみたいだから、付いていくしかないか……
 今は芳一という男に任せるしかリーチには方法は無かった。
 
 名執は芳一の声を聞くと同時に携帯を切った。
 芳一さん……貴方という人は……なんて卑怯なんですか!
 名執は怒りがこみ上げてきた。
 昨夜、「必ず行くよ」とリーチから連絡が合ったのにも関わらず、来る様子が無かった。
 仕方なしにテレビをぼんやり眺めていると、リーチたちに何が起こったのかを知った。
 その後、発見されたというニュースは流れず、幾浦と連絡を取り合いながら、祈るような気持ちでニュースをチェックしていたのだ。
 それが、病院に収容されていたまでは良かった。だがそこにいたのは芳一であった。何故、どうして芳一がリーチを助け出したのかは分からなかったが、ニュースで依然行方不明のテロップが流れるところを見ると、芳一は警察に連絡をしていないのだ。それはリーチが記憶喪失をおこしていたからであろう。それを知って気が変わったのかもしれない。
 そのことがやけに腹が立った。
 何より芳一はリーチに好意を抱いている。それも普通の好意では無かった。リーチを愛しているのである。そんな芳一が記憶を失ったリーチに何を吹き込むか分からない。自分のものにしようとあの手此の手を使うに決まっているのだ。
 芳一のことは一度会って知っていた。関東を占める広域暴力団の岩倉組若頭、物腰は柔らかく、一見すると礼儀正しく見える。しかし侮れない目を持つ男であった。
 その瞳の奥にはいつでもチャンスを窺う狡猾な野生動物の様な光を見たことを思い出して、名執は寒気がした。
 オペが夕方からなのを確認すると、病院を繋ぐオンラインで櫻川病院の場所をメモに控え、白衣のまま飛び出した。一刻を争うのだ。勘の良い芳一が先に手を打つ可能性もあったからだ。
 案の定、既にリーチは退院していた。仕方なく、一度行った岩倉家へと車を走らせた。 歯がみするほど腹が立っていた。
 とばしたことのない車を全開にして走らせる。
 リーチの様子はどうなのだろう……怪我はどの程度だろうか?
 そう心配しながらも、昨日の今日に退院出来るのであれば、思ったほど怪我は酷くないのだろう。それだけが今は救いであった。
 岩倉家の門をくぐろうとすると黒服のいかつい男たちに囲まれた。普段なら躊躇するであったろうが、今日の名執は違った。
 ただでさえ、道を歩けば男も女も振り返るほどの容姿である。フランス人とのハーフということも手伝って、妖艶ですらある。そんな名執が怒りのオーラをまとって周りの人間を圧倒していた。
「芳一さんにお会いしたいのですが……」
 言葉使いは丁寧であったが、押し殺した怒りがそこかしこから立ちこめる。
「若頭はいらっしゃいません」
 がたいのでかい男が言った。
「ふざけないで下さい!こちらに男性を一人連れてきているはずです!」
 名執が門の付近で問答していると芳一が姿を見せた。
「名執さんではありませんか…本日はどのような件で?」
 芳一はそう言って微笑んだ。
「リーチ……いえ、隠岐さんを返していただきたいのです」
「何の事ですか?ああ、そう言えば昨日事故に遭われて警察が捜索してるようですね」
 口元をややつり上げながら芳一は言った。
 この男は何処までとぼける気なのだろうか?
 不敵に笑う芳一を見て名執の怒りは益々膨れ上がった。
「いい加減に……して下さい!彼が記憶を失っていることは分かっているのです。早く連れてきて下さい!」
 そう言うと芳一の眉がぴくりと上がった。
「不法侵入で訴えますよ」
 鋭い視線が交錯した。周りの人間はその余りの激しさに息を飲んでいる。
 だが……
 こちらは分が悪すぎる……
 名執は冷静さを取り戻した。いくら詰め寄ってもこの男はリーチをこちらに引き渡すことは無いだろう。それより余り騒ぎ立てるとこの男は何をしでかすか分からない。例え物腰は柔らかくとも、ここでは常識は通用しないのだ。
「分かりました、今日は帰ります。ですが、私は諦めませんから……」
 名執は掴みかかりたいという意志を何とか押さえると、そう言ってきびすを返した。
 とにかく……作戦を立て直さなければ……
 岩倉家を後にした名執は、帰り着くまでそのことを考え続けていた。



 和室に布団を引いてリーチは横になっていた。考えることしか今は出来なかったが、いらいらと心穏やかでは無かった。
 自分の名前は分かった。隠岐利一。
 それ以外は何も分からなかった。だが、酷く何かに飢えたような飢餓感があった。
 暴れ出したい気分であった。それが何故だか分からない。何に苛つきどうしていいのか全く分からなかった。
 何か大切なことがごっそり抜け落ちたような空洞感。
 それに対する焦り。
「どうすりゃいいんだか……」
 思わず頭を押さえる。
「痛みますか?」
 障子を開けて芳一が入ってきた。
「いや、別に……」
 ため息を付きながらそう答えた。
「怪我が治ればすぐに思い出しますよ……」
「なぁ、俺は一体何の仕事をしていてこんな怪我をしたんだ?」
「え、そうですね。貴方は警視庁の刑事なんですよ」
「ええっ?俺がサツ?」
 あまりにも突拍子もないことを芳一が言ったのでリーチは呆気にとられて、次に笑い出した。どう考えても自分がそんな職業を選んでいることが可笑しかった。
「何が……可笑しいのでしょう?」
 不思議な顔をして芳一は言った。
「だってな、俺を見てサツに見えるか?チンピラなら分かるけどな、サツだってよ……笑っちまうよ、どうせサツという立場を利用して陰で悪い事してたんだぜ」
 そうだそうに違いない。
 悪徳警官、俺にぴったりだ。
「はぁ……正義の味方のような刑事さんでしたが……」
 正義の味方……そのあまりにも古くさい言葉を聞いたリーチはまた笑い出した。そんなリーチに芳一は困ったような顔をしている。すると警察手帳を見せられた。
「隠岐さんのです。見覚えは?」
 じっと証明書になっているページを見るが、自分の写真に見えなかった。
「俺……こんな顔してるのか?」
「ええ、写真映りはすこし年若に見えますが、隠岐さんですよ」
 こんな可愛い顔してたっけ……
 自分の顔も忘れているのであろうか?
 思わず芳一に鏡を渡して貰い、その中に映る自分を眺める。
 あれ?こんな顔だっけ……?
 ピンと来なかった。
 もう少し顎が尖っていたような……もう少し大人びていたような……気がした。
 だがこんな顔なんだろう……。何となく納得できなかったが、こういう顔であるのだから仕方なかった。これが俺なんだと受け入れるしかない。嫌なら整形するしかないだろう。
「ま、いいか……こんな顔だからな……そうだ、芳一。俺の職場には連絡すんなよ。今の状態でサツなんてまっぴらだからさ、出来るとも思えないし……誰かと殴り合いしてるか、銀座で遊び回ってる方が俺には似合ってるような気がする」
 そう言うと芳一はひどく喜んだ顔を見せた。何が嬉しいのかリーチには分からなかった。
「夕食はもうすぐですのでもう暫くお待ち下さいね」
「なぁ芳一。俺に家族とかいないのは分かったけど、彼女とかもいないのか?」
 部屋を出ていこうとし、その問いかけに一瞬立ち止まった芳一はゆっくり振り返って言った。
「隠岐さんからそんな話は聞いたことがありませんでしたので、いるのかどうか分かりません」
「ふーん」
「じゃ、お祖父様と父がお会いしたいと申しておりましたので、後で伺いますね」
「な、男じゃなくて女が欲しいな……」
 それを聞いて芳一は振り返った。
「女……ですか?」
「ああ、やりてー。すげーやりてー」
 子供のようにリーチはごねた。
 そんなリーチの側に寄ると、芳一はそっと唇を合わせた。
「なっ!俺は男を抱く趣味はねーぞ!」
 本気で怒ってリーチは言った。
「そうですか?黙っていましたが、貴方は私を何度か抱いたことがある……。それすら忘れているのは悲しいことですね……」
「俺が?お前を?」
「忘れていることをとやかく言うのはやめます。ですが貴方に女を用意するほど私は都合のいい人間ではありません。覚えておいて下さい」
 そう言って芳一は今度こそ部屋を出ていった。
「俺が?あいつを?」
 何度考えても男と抱き合う自分は想像できなかった。
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