Angel Sugar

「監禁愛3」 第6章

前頁タイトル次頁
 それからというもの、リーチは自分が嫌だと最初言っていたはずなのだが、名執の身体を始終欲しがるようになった。名執もそれに従って、リーチが欲しがるまま抱き合ったのだが、その代償は名執が払うことになった。
 ずっと頭痛がしていたのだが、風呂場で抱き合いそのまま寝たのがいけなかったのだろう。風邪かも……と思う頃には遅かった。
 風邪薬は持ってきていなかった。
 熱がある為に何をする気にもなれない。そうしてリーチの食事を作るのも忘れて、キッチンの壁に身体をもたれさせ、ぼんやりしていた。
 まずい……
 酷くなるかもしれない……
 そんな事をふっと思ったが、どうしようもなかった。

「何時になったら飯を食わせるんだよ!」
 朝も昼も食事が無かったことで、リーチは仕方なくそう怒鳴ると名執がようやく食事を運んできた。
「済みません……お腹空いたでしょう?」
 そう言って簡易机に食事を並べたが、その表情は痛々しいものであった。熱っぽい目、そして顔色が悪かった。
「あ……当たり前じゃないか……餓死させる気かよ……」
 気遣う言葉をかけるのも躊躇われたリーチは目線を合わせずにそう言った。
「済みません……」
 やっと食べ物にありつけたリーチは必死にかき込むようにご飯を食べた。そんなリーチを見もせずに名執はシーツを代えていた。
「お前は食わないのか?それとも食ったのか?」
 ふと箸を置いてリーチは聞いた。
「食欲が無くて……気にしないで食べて下さい」
 その笑顔は哀しげであった。
「ふーん……」
 食欲不振の理由は分かっていたが、聞くわけにもいかなかったリーチは箸を再度取ると、黙々と食べた。
「明日の朝に……鍵を持って友人が来てくれますので、自由にしてあげますね」
「え……ほんとか?」
「ええ、貴方が気に入らないと思いますが、寄るだけで構いませんので、私の家を見ていって下さい。それから自由にして上げます。芳一さんの所にはそれからでもいいでしょう?」
「いいよ。別に用事も無いしな……ここから出られんなら、お前ん家に寄るくらい何でも無いさ」
 そう言うと名執は睫を伏せてしまった。
「どうしたんだよ……」
「ご免なさい……何の力にもなれなくて……貴方からしていただいたこと、何も返すことが出来なかった……」
「訳のわかんない事言うなよ。俺はここから出して貰えればそれでいいんだ。したとか返すとかそんなことどうでもいい」
 そう言うと名執は部屋を出ていった。
 お腹一杯になると、また暇になったリーチごろりと布団に寝ころんだ。こんな自分に必死になっている名執が哀れにも思えた。
 必死になっている人間に無理矢理犯されても、食事の用意をする……。どんな風に抱いても逆らわない。こちらから考えると馬鹿気た行為であった。
 自分ならリーチのような人間を相手にすれば、例え記憶を失う前どれほど愛していたとしても、次第に呆れ、次に憎み、餓死させてやろうと真剣に考えるだろう。しかし名執はそんなことはしなかった。
 リーチという人間がそれ程名執にとって大切な人間なのかと思うと何故か腹が立った。その感情は何から生まれるのかははっきりと分からないが、何となく自分に嫉妬しているのだと感じていた。それこそ正気の沙汰である。自分に嫉妬しているのだ。
 思わず笑いが漏れた。
 自分に嫉妬しているとは何事であろうか、しかし名執の言うリーチでは今無いことは分かっている。自分が誰なのかも分からないのが本当の所であったのだ。
 今、名執は何を考えているのだろうか?
 自分のことをどう思っているのだろうか?
 どうせ酷い奴だと思っているに違いなかった。
 俺はあいつをどうしたいのだろうか?
 あいつは俺をどうしたいのか?
 どうしたかったのか?
 俺はあの男に気を許したと見せかけて、外に出してもらえれば切り捨てる気だったはずだ。それなのに今は躊躇っている。
 何故だろう……
 いくら考えても答えは出なかった。
 夕方になると、こちらはいつもの時間に夕食が運ばれてきた。名執は昼見た時より酷い顔色であった。
 又、見て見ぬ振りをしてリーチは出された食事を摂った。内容は鰆のクリーム煮に温野菜、大根のみそ汁であったが、どれも味が薄いか、辛かった。こんな事は無かったので思わずリーチは言った。
「な、なんか味……変だぜ……」
「済みません……味が分からなくて……勘で味付けしたのですが……」
 そう言うと同時に、リーチは手を名執の額に当てた。
「逃げるな……と、熱があるみたいだな……薬は持ってきてるのか?」
 一瞬逃げるように身を引いた名執にそう言いい、もう片方の手で腕を掴むと自分の方に引き寄せた。
「貴方用の薬しか持ってきておりませんので……風邪薬はありません。ですが、このくらいなら横になっておればすぐに治ると思います」
 名執のそう言う息がリーチには熱く感じられた。何となく心配であったが本人が大丈夫だと言っているのに、これ以上心配するのも、こちらが馬鹿みたいであったので「ならいいよ」と言って食べることに専念した。何より明日は誰かが自分の脚を拘束している手錠を外す鍵を持ってきてくれると言っていたので、例え様態が悪化しても何とかしてくれるだろうという気持があったのだ。
「で、お前はまた食べないのか?」
 半分ほど食べたリーチが、壁にもたれて座っている名執に聞いた。その姿はかなり辛そうであった。
「少し……味見をしながら頂きました……」
「…………」
 食べたようには見えないが、無理強いをするわけにもいかなかった。何より相手は医者である。自分の体調くらい自分で面倒を見るだろう。
 食べ終わる頃、お茶が無くなったのでリーチは名執にお代わりを言ったが、名執は壁に背を寄りかからせたまま目を閉じていた。
「おいって……」
「あ……終わりました?」
 ようやくこちらを向いた名執であったが、目線がぼんやりとしている。
「お茶のお代わり」
「はい……」
 名執はよろっと立ち上がると、後かたづけをし、お盆を持ってキッチンへと向かった。暫くすると急須を持って来たが、足下が頼りなかった。
「大丈夫かよ……」
 簡易机に急須をどうにか落とさずに置いた名執に言った。
「何とか……」
 それだけ言うとぐらりと態勢を崩した。思わずリーチはその身体を抱き留めた。
「おい……おいって……」
 リーチがいくら声をかけても名執はぐったりとリーチに身体を預けたまま動かなかった。その身体は熱かった。
「参ったな……」
 そっと自分の布団に寝かせ、布団を掛けてやった。熱があるので額を冷やすものを考えたが、キッチンまでは鎖は届かなかったので、バスルームに行くと、タオルを水で濡らして額に置いてやることにした。
「…………」
 名執の口から吐息のような息が早い感覚で吐き出されていた。苦しいのか何度も身体を動かしている。このまま酷くならなければ良いんだけど……自分らしからぬ事を考えながら何度もバスルームを往復してタオルをかえてやった。
 馬鹿な奴……ふとリーチはそう思った。
 自分の身体の管理も出来ない医者が何処にいるのだろうか?
 医者の不養生とはこういうことを言うんだ……と、思いながらじっと名執の顔を眺めていた。
「寒……い……」
 身体を丸めて名執が言ったが、余分な布団は見つからなかった。リーチは散々悪態を付いてから、遠慮がちに同じ布団に入ると名執を引き寄せてその身体を抱いた。すると名執の腕が自分の腰に廻された。落ちないようにしがみついているような力が名執の手にこもっていた。しかし何故か嫌な気はしなかった。そっと自分の手で名執の背中を撫でてやる。すると口元に笑みが浮かんだ。
「…………」
 小さな声で名執が何かを言うのが聞こえたが、聞き取れずリーチは「何?」とその度に聞いた。
「リーチ……」
 やっと聞き取れた声は自分を呼んでいた。
 何と答えてあげれば良いのだろうか?
 リーチは必死に考えた。以前、自分はユキと呼んでくれていたと名執が言ったことを思い出してそっと口に出して言った。
「ユキ……」
 その声が聞こえたのか、閉じていた瞳がうっすらと開いた。熱の所為か瞳は潤んでいた。
「リーチ……」
 見たことのない嬉しそうな顔で名執はそう言って、リーチの胸に顔を擦り寄せた。その仕草がとてもいじらしく、可愛く思った。思わず名執のタオルを取って額にキスをしていた。それが嬉しいのか、名執は何度もキスをねだった。その度に頬や鼻先にキスをしてやった。
 しかし、思わず押し倒したいと一瞬脳裏をよぎったリーチは、そっと名執を離してタオルを水に浸しに立ち上がった。名執は泣きそうな顔でそんなリーチに手を伸ばしていた。子供が母親から引き離されたような姿が、そこにあった。
「タオル……冷やしてこないと……あんた……熱下がんないだろ……」
 こんな時に不謹慎な事を思った自分を隠すためにそう言い、駆け込むようにバスルームに向かった。そのバスルームで顔を洗うと、じっと鏡に映った自分を見つめた。
 この感情は何だろう……惹かれているのか?男だぞ……それは分かっていた。それでも惹かれているのは事実であった。名執が可愛い……大切にしてやりたい。今、熱で苦しんでいるのを何とかしてやりたい……。
 もう誤魔化せない感情がリーチを支配していた。
 しかし、名執が愛しているのは自分ではなく以前の自分なのだ。俺のことは憎んでいるはずだ。今、俺にかいがいしく世話をし、どんな無理なことも受け入れているのは以前の俺に対してで、今の自分ではない。もし、記憶が何時までも戻らないのなら、名執は別な人間とつき合うことにするだろう。
 いくら何でも無理矢理犯し、その後は好き勝手に抱いた相手を、いくら何でも好きになるはずは無いのだ。
 名執の側に戻り、そっとタオルを置いてやる。すると今度は水を求めるので、ぬるくなったお茶を飲まそうとしたが、上手く名執は飲んでくれなかった。仕方無しにリーチは口のお茶を含むと、口移しで飲ませた。名執の喉が上下し、飲み干した様であったが、足りないのか、リーチの口を離さず吸い付いたまま離れなかった。
「ちょ……待てって……」
 名執を離すともう一度お茶を口に含んで飲ませる。その度に名執は名残惜しいのか、足りないのか分からないが、リーチの口を自分からは離さなかった。
 何度かそんなことを繰り返して、名執は水を求めることなく大人しく眠りについた。
 結構お前って手間がかかる奴なのかもしれないな……。そう思って口元に笑みが浮かんだ。
 名執の手がまたリーチを探すように伸ばされた。その手を自分の手に絡めて引き寄せた。名執は保護を求めるようにリーチの腕の中で丸くなると、もう目を覚まさなかった。

 幾浦は朝早く預かった鍵を持って彼らのいるマンションへと向かった。途中、胡散臭い車に尾行されたが、それを巻いてから車を駐車場に入れた。
 名執は大丈夫だろうか?酷く心配であった。メールの返事が途中で途切れたので余計に心配であった。
 合い鍵で扉を開けて中に入ると、信じられない光景を目にした。二人仲良く布団にくるまっているのだ。記憶が戻ったのか?と思いながら声をかけようとしたが先にリーチの方が声をかけた。
「ああ……あんたがこいつの友達か……何でもいいから早く鎖を外してくれよ……」
 眠そうな目を擦りながらの第一声であった。
「なんだ……ちっとも治っていないじゃないか……」
 期待していたわけでは無かったが、かといって全く変わっていないとも思えなかった幾浦は、溜息を付きつつ名執の様子を窺った。
「おい、名執はどうしたんだ?」
 様子がおかしいことに気が付いた幾浦は慌てて側に寄った。
「昨日から熱でたんだよ……薬もねーし……仕方ないから寝かせてた」
「仕方ないからって……」
 リーチがあまりにも普通の事のように言うので絶句してしまった。
「おい、名執大丈夫か?」
 呼びかけると瞳が開いたが、酷く辛そうであった。幾浦は背中に腕を廻して肩を掴み、身体を起こさせた。
「済みません……私の方が先にダウンしてしまいました……」
 涙目でそう言う名執が酷く弱々しく見えた。
「病院に連れていった方がいいか?」
「いえ……私は医者ですよ……家に帰れば薬がありますので……大丈夫です。それよりリーチの鎖を外してあげて下さい……ずっと不自由だったようですので……申し訳なくて……」
 そう言ってうっすらと笑うが、顔色は無い。
「あんな奴はどうでもいい。それより本当に家に連れ帰るだけで良いのか?」
 幾浦が聞くと名執は頷いた。
「何でもいいけどさ、早く外してくれよ」
 後ろからそう言われた幾浦は後ろを振り返って、のほほんとしているリーチを睨み付けた。どうせこいつが手を焼かせて名執がこんな風になったのだろうと思うと腹が立った。誰の事を考えてここに連れてきたと思っているんだ!そう怒鳴ってやりたかったが、名執を見るとそんな言葉は出なかった。
 仕方無しにリーチの手錠を外し、柱に繋いであった方の手錠も外してポケットにつっこんだ。そうして再度名執の側に寄ると、自力で動けそうにない身体を抱きかかえ外に連れ出そうとした。
「おい、俺はどうすんだよ」
「何処へでも行くんだな」
 少し顔を後ろに向けて幾浦は言った。
「あんだと?」
 下手をすると掴みかかりそうなリーチがそこにいた。それに気が付いた名執が幾浦を止めた。
「幾浦さん……」
「済まないな……あいつの態度があんまり腹が立ったものでな……」
「今日は……私の家に寄って貰うようにお願いしたんです……芳一さんの所にはそれからでもいいと約束したんです……だから……リーチも一緒に……」
 苦しくて言葉が続けられないのか、名執は言葉を途切れさせたまま眉根をしかめていた。
「分かった。分かったから。おい、リーチ。そこのパソコンくらい持ってこい。こっちは名執で精一杯なんだ」
「はいはい」
 意外に素直にパソコン二台を側にあった箱に詰め、キッチンの方にあった名執専門書も一緒に詰めて持つと、幾浦の後を追った。そんなリーチを名執は幾浦に抱えられながらも顔だけは後ろに向け、リーチから目を逸らさなかった。
 車の後部座席に名執を座らせたが、もたれるのも辛そうであったので脚を立てさせて横に寝かせた。
「お前は前だ。しかしバスローブ姿なのはちょっと……それに素顔のままもまずいな……そうだ、私のスーツの上を羽織れ、それとサングラスをかけて貰おうか。少しはごまかしが利くだろう」
 幾浦はそう言ってリーチにスーツの上着を渡し、日除けに置いてあるサングラスをリーチに渡した。
 車を走らせながら幾浦はチラチラとリーチの様子を窺った。その度に目線が合い、リーチは睨んできた。
 可愛気がない…そう思っているうちに名執のマンションに着いた。車は住人の車でないと駐車場には入れることが出来なかったので、仕方なく路上に止め、名執を降ろした。
 マンションの周りによく見ると胡散臭い男が一人、住人を装ってウロウロしていたが、明らかに岩倉組の人間だと分かった。しかし向こうは手を出すつもりは無いらしく、こちらがマンションを入るのを確認するとどこかに消えた。
「名執……もしかしてお前のマンションに誰か待ち伏せしているんではないのか?」
「ここはセキュリティが万全なので選んだマンションです。鍵もドイツ製でスペアは簡単に出来ないんです。それも住人の委任状がないと鍵は余分に作れないようになっています。入り口も鍵がないと入れませんし、紛失すると鍵自体を取り替えるんです。お客様は管理人室から住人に連絡を取って許可が出なければエレベータが動かない仕組みにもなっているます。管理費と警備員費に月十万払っているんです。だからこれで泥棒にでも入られたら、マンション側を訴える権利もあるんですよ」
 名執は何とか幾浦に支えられながらそう言って鍵を取り出しエレベータの内側にある差込口に鍵を差した。
「だから私にリーチの家に行ってこの鍵だけはもって帰ってきて欲しいと言ったのか?」
「ええ……鍵があちらに渡れば……私も文句は言えません。それに今空き部屋は無いんです。買い取りなども出来ないでしょう……高いマンションですし……」
 そう言って名執は笑ったが、かなり苦しそうであった。
 家に入ると名執はホッとして玄関に倒れ込んだ。それをリーチが抱き留めた。
「寝室は何処だよ……」
 むすっとしていたが口調は優しかった。
「リーチ……」
「いいから、何処だって言うんだよ……」
「廊下を突き当たった右の廊下の突き当たりです……」
 名執がそう言うとリーチは大股で歩き出した。そんな二人を不思議そうに幾浦は見つめていた。

 寝室に入るとリーチは名執をダブルのベットに降ろした。毛布をめくり名執が横になりやすいようにしてやった。
「リーチ……」
「良いから寝てろよ……」
 そう言ってリーチは寝室を出た。それと入れ替わりに幾浦が寝室に入ろうとしたのでリーチは言った。
「変なことすんなよ……」
「お前じゃあるまいし……」
 冷たい目で幾浦は言った。リーチはむかついたが、無視をして薬を探しに行った。
 不思議であった。始めて来たはずなのに何処が何の部屋か分かるのであった。クローゼットルームも見つけた。そしてどれが自分の服なのか聞かなくとも分かった。
 自分はこの家を知っている。デジャブのような奇妙な感覚がリーチを襲った。しかし肝心なことを思い出せず、とりあえず服を着替えるとキッチンへと向かった。薬はそこにあることを知っていたからだった。氷枕を作り、薬を持って再度寝室に向かった。すると幾浦と名執が話をしていた。それが無性に腹が立った。
「氷枕作ってきたから……それと薬、水だ」
 ぶっきらぼうに言って名執に渡した。名執と幾浦は驚いた顔を向けていた。
「何だよ……なんか文句あるのか?」
「いや……服も着替えて……氷枕とか薬の場所をよく知ってたなと思ってな……」
「分かったんだよ……それだけだ。何故かは聞くなよ。俺だって説明が付かないからな。ただ分かったそれだけだよ」
 そう言ったリーチに向かって名執は無言で嬉しそうな顔をしていた。
「とにかく……早く薬を飲んで寝てろ。飯は俺が作ってやるからさ……」
 リーチはそれだけ言うと、またキッチンに向かった。先程見せた名執の嬉しそうな顔が頭から離れなかった。

「全て忘れている訳では無いようだな……」
「ええ……時折思い出すようです……かなり漠然ですが……」
「お前、これからあいつをどうする気だ?」
「あの人の好きしてもらおうと思っています」
「芳一って奴の所に帰るのでは無いのか?」
「多分……」
 そうなるのだろう……と名執は思った。もしかすると迎えが既に一階の方に来ているのかもしれなかった。それを止めることは名執には出来なかった。一緒にいた一週間それ程記憶の戻りは確認できなかったからである。だからといって今度ここに閉じこめるようなまねは出来なかった。閉鎖された所に拘束しても何もならないことが分かったからだ。
 リーチの思うままにさせる方が良い方向に向く。気持的には芳一の元へは行って欲しくはなかったが、これはリーチの為だと強く思うことにした。
 もしかすると、これっきりになるかもしれないという不安があった。
 自分は精一杯やった。
 戻って来てくれるだろうか?
 例え身体だけを求めるために帰ってきてくれても良い。
 それともやはり自分のしたことは無駄に終わるのだろうか?
 それだけは考えたくは無かったが、不安は払えなかった。このまま……永久に……どんなに待ち続けても、リーチは戻ってこない……。
 それは恐怖であった。
「おい、お前なんか変なことこいつに言っただろ。顔色真っ青じゃないか……」
「私は何も言ってはいない」 
 疑わしい目を向けながらリーチは名執の方を向いた。
「本当です。少し気分が悪くなりまして……」
 名執はそう言って誤魔化した。
「今晩は私も付いていようか?」
 幾浦が心配そうに言った。
「いえ……大丈夫です。幾浦さんも出張から帰ってきたところでしょう?うちに帰ってゆっくりして下さい」
「お前がそう言うなら……」
 チラリとリーチの方を見て幾浦は言った。まだ迷っているようであったが、名執はニコリと笑って見せた。それでとりあえず安心したのか、幾浦は「また明日電話する」と言って帰っていった。その後ろ姿は少し寂しそうであった。トシに会いたかったのだろう。名執も出来ればトシに会わせてあげたいと思っていたが、この状況では無理であった。
「あいつは一体何なんだよ。いやになれなれしいじゃないか……」
「リーチともご友人ですよ」
「ホントか?あいつ見てるとムカムカするぜ……きっと気にくわない奴だったに違いない。そんなことは良いか……お粥作ったから持ってくるよ」
 リーチはそう言ってキッチンへと行った。と、同時に電話が鳴った。
「名執ですが……」
「貴方は綺麗な顔をしていらっしゃるが恐い人ですね……」
 予想したとおり芳一であった。その声は平静を保っているが酷く怒っているようであった。しかし今、名執は話したくはなかった。また、その気力も無かった。
「そうですか?何とでもおっしゃって下さって結構ですよ」
「何処へ雲隠れしたのか結局分かりませんでしたが、それはもういいでしょう。今迎えに来ているのですよ」
「だから?」
「私を怒らせない方が良いことを貴方はご存じだ」
「それで?」
「彼を自由にして下さい」
「リーチは自由ですよ」
 そう言うと芳一は困ったように言った。
「では電話を代わって下さい」
 名執がリーチを呼ぶと彼はスープ皿にお粥を、付け合わせに梅干しを小皿に入れたものをお盆に乗せて持ってきた。
「なんだよ……」
「芳一さんですよ……」
 そう言うとリーチは脇机にお盆を置くと名執から受話器を取った。しかし芳一とすぐに話をせずにこちらを向いて言った。
「お前さ、しっかり食えよ。食わないからそんなに細っこいんだ」
「ええ……」
 口調は荒いが、気遣ってくれているのが名執には分かった。それが嬉しかった。
「なんだよ芳一。ああ?」
 静かにリーチが作ってくれたお粥を口に運びながら耳をそばだてていた。何を話しているのか気になったのだ。
「ん~っん……そうだなぁ」
 困ったような顔でリーチはこちらをチラチラ見ている。
「明日の朝にしてくれよ。え?うるせーな……俺のことは俺が決める。お前にとやかく指図されたくねーんだよ……あ?もういいって……明日!明日だ」
 そう言ってリーチは受話器を置いた。
「芳一さん……なんのお話でした?」
 平静に……動揺を見せないように聞いた。
「今から下に降りてこいって言うからさ、何だって聞いたら家に帰りましょうとか言うんだよ。だから明日にしろって言ったんだ」
「今は……駄目なのですか?」
「お前をほって行ける訳無いだろ……夜中に倒れたら誰が面倒見るんだよ」
 それを聞いた名執は思わず涙を零した。本当に嬉しかったのだ。
「お……おいって……何で泣くんだよ!」
「なんだか……とても嬉しくて……」
「飯を作って貰ったこと無かったのか?」
 不思議そうにリーチはそう言った。それが妙に間が抜けており、名執は泣き笑いをした。
「変な奴……、それは分かってたけど……、いやそんなことはどうでもいいけどさ、薬を飲んでさっさと寝ろよ。明日には俺も出ていくから、元気になって貰わないと困るんだよ」
 その言葉で名執は我に返った。そう、リーチは芳一の家に帰るのだ。引き留めたかったが、それは出来なかった。
 リーチの思い通りにさせると決めたからだ。
 あとは帰ってきてくれるのを信じて待つしかない。
「そうですね……」
「それとさ、客用の布団とか何処にあるんだよ」
「ありません」
「なんで?」
「貴方が捨てました」
「俺が?」
「覚えていませんか?」
「さぁ……でも何で?」
「気に入らないからとおっしゃってましたが……」
「気に入らないか……分かったような分からないような……何でもいいけど、じゃ、俺何処で寝ろって言うんだよ」
「窮屈だと思いますが、私の横で眠って下さい」
「狭くは無いけど……ま、どうせ今晩だけだしな」
 今晩だけ……その言葉が名執の胸をチクリと痛ませた。もしかしたらもう二度とリーチは戻ってこない。そんな事を考えてしまうのだ。物事を悪い方、悪い方へと考えてしまう癖がいつの間にか復活していた。
 リーチは芳一とこれからずっと暮らす……そしていずれ自分の事を忘れるのだ。そんなことは考えたくは無かった。考えたくは無いのに意識はそちらの方向へと傾く。
「食ったら薬のんどけよ」
「あ……はい……」
 名執は薬を飲んでベットに身体を沈ませた。心も身体も休息を欲していたのだ。
「……で……さ……」
 リーチが何かを言っていたが、睡魔には逆らえず名執は深い眠りに落ちた。

 翌朝目を覚ますと既にリーチはいなかった。名執は顔を洗うと服を着替え、長らく休んでいた病院に出勤する用意をした。
「おい」
「えっ……」
 突然声をかけられた名執は驚いて振り返るとリーチが立っていた。
「何だよ……幽霊を見たような顔してさ……」
「もう出られたとばかり……」
「お前の様子見てからと思ってな」
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
 そう言って名執はにっこりと笑った。
「そっか……じゃ俺帰るわ」
 背を向けたリーチに何か言葉をかけたかったが、何も思い浮かばなかった。
「あ、そうだ……」
 と言ってリーチは振り返った。
「ここのスペアキー持っていってもいいか?」
 リーチは右手に、赤いリボンに鈴を付けたキーを持っていた。
「えっ?」
「だからさ、お前言ってただろ……その……キーが無いとここに入れないって。元々俺のものらしいし、良いだろ?」
「ええ、貴方のですからどうぞ」
 満面の笑みで言った。
「そ……そっか。じゃ、貰っとく……」
 そう言ってリーチは今度こそ出ていった。しかし名執は辛くはなかった。キーを持っていったと言うことはここに戻ってくる気があるということなのだ。
 リーチが出ていった扉をじっと見つめながら、名執は早く記憶が戻るようにと祈った。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP