Angel Sugar

「監禁愛3」 第9章

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 リーチがマンションを出ていく音が遠くから聞こえた。
 身体がバラバラになりそうなほど痛む。心は既に修復できないくらい傷ついていた。
 これからどうすればいいのか自分でも分からなかった。こんな事を相談できる人はいない。幾浦ですら例外ではない。
 名執にとって唯一心を許すことが出来るのはリーチだけであったのだ。そのリーチも今はいない。
 心の支えを失ってどうやって真っ直ぐ立つことが出来るのだろう。そんなこと出来はしないのだ。
 夕方には怠い身体を起こして、キッチンへと向かった。まだ朝の恐怖が残っているのか膝がガクガクとし、力が入らない。
 それでも喉が乾いてどうしても水を飲みたかったのだ。叫びすぎて喉が痛み、乾燥していた。水分を取って少しでも潤したかった。
 戸棚からグラスを取り、ミネラルウォーターの瓶を冷蔵庫から取り出した。すると冷蔵庫の中身が少し減っていることに気が付いた。
 野菜室を開けて見てもやはり減っていた。リーチが何かを作って食べたのだろう……そう思って憂鬱になった。あんな事が合った後でも何か食べられるという神経が分からない。
 しかし、食べたのではないことを名執は気が付いた。食器乾燥機には圧力鍋や、サラダボール、いくつかの皿が入っていた。それが何を意味するのかは分からなかった。一人で食べる量を作った様には見えなかったのだ。
 じっと考えてもその理由が分からないので名執は椅子に座った。そうしてミネラルウォーターのキャップを取ってグラスに注ぎ、一気に飲んだ。冷たい水が口の中と喉を刺激し、痛みを感じた。
 何があったのか忘れたかった。何をされたかを忘れたかった。時間を戻したかった。涙と共に流してしまいたかったが、泣きすぎて水瓶は枯れていたので、涙は出なかった。
 からになるまで水を飲むと、ペットボトルをゴミ箱に捨てた。ゴミ箱にはメモが破られてバラバラになってそこにあった。何だろうと、名執はそのバラバラになった紙を全部取り、机に広げた。それにはリーチの筆跡で何かが書かれている。しかし何が書かれているか良く分からなかった。
 名執は何を思ったのか、ジグゾーパズルを解くように破れた紙を復元しようと試みた。自分でリーチを追い出したはずであった。きっと謝るような言葉でも書いてあるのだろう。
 そんな言葉は全く名執を慰めるものにはならない。それでも名執は必死に紙を合わせた。何故必死になっているのかは自分でも分からなかった。
 そうして、つぎはぎだらけではあったが、元の一枚の紙となって机の上に出来上がった。

 今朝はごめん。
 起きたときお前が俺の側にいなくて、なんだか無性に寂しかったんだ。そんな自分を偽るために憎まれ口を叩いたんだ。ホント馬鹿だよな。でもお前と一緒にいて分かった。俺はきっとお前が好きなんだと思う。上手く言えないけど。だから、たいしたもの無いけど一旦戻って自分の荷物を持って、帰ってくるよ。多分、ここが俺のいるべき所なんだって分かったから。
 明日昼には帰るから、それまでに機嫌を治してくれよ。お詫びに料理を作って置いたから良かったら食べてくれよな。出来たら一緒に食べたいな。

 名執はそれを何度も読み返し、この手紙が昨日、自分が家を出たあとに書かれたものだということに気が付いた。本当なら、今朝戻って自分がまず読むはずのものだったのだ。食器洗い機に入っている調理器具や、お皿にはリーチが作った料理が入っていたのだろう。
 リーチがすぐに出ていく様子が無かったのは、それらを片づけていたのだろう。手紙を破り、自分が作った料理を捨てて出ていったのだ。
 名執は手紙がまた、ばらけないようにテープでとめ、じっと手紙を見つめた。手紙から感じられるのはリーチの偽りのない言葉であった。
 手紙に書かれていたのは照れくさくて口では言えなかったからだろうか?
 その内容は、もしこんな事がなければ手放しに喜んでいたのだろう。
 ふと名執は、自分がリーチに言ったことを思い出そうとした。そしてリーチは何と言っただろうか?
 名執はあの時、感情にまかせるまま一方的にリーチに言った。リーチが何を言ったかを理解できない位、精神状態が極限であったのだ。
 だが記憶はじわじわと戻ってくる。
「キーは芳一が取った」と言うような事を名執はリーチから聞いたような気がした。何故もっときちんと聞こうとしなかったのだろうか?
 冷静に考えれば芳一が謀ったと考えてもおかしくはない。芳一は名執を以前から憎んでいるのは知っていたからだ。
 何より、リーチはこのマンションまで、芳一に送って貰っていたのだ。好意を抱いている人物から、恋敵の家に送れと言われた芳一のプライドはズタズタになっていたに違いない。だから一旦戻ったリーチから、どうやってかは分からないが、キーを奪って、自分に復讐をしたのだろうか?
 いや、そんなことはない。リーチが自らキーを芳一に渡したのかもしれないのだ。今の彼を信じることの出来る確固たるものは何もないのだ。
 希望的観測は余計に自分を惨めにさせる。
 しかし……
 破られた用紙に書かれている内容は決して自分を偽って書いた文章とは思えなかった。照れながら書いたのだろうと思わせるものである。
 それに芳一と共謀していたのなら、わざわざ助けに来るだろうか?
 気が付いたとき既に自分はシャツ一枚でベットにいた。
 キッチンを見回すと四脚あるはずの椅子が今は二つしか置かれていないことに気がついた。そう言えば男達を椅子で叩きつけていたのを思い出した。そのときあの椅子はバラバラになっていたはずだ。だがその残骸は床には見あたらなかった。
 鉄の棒ももちろん何処にも無かった。
 それをリーチは片付けて持ち帰ったのだろうか?
「リーチ……」
 自分は何を言ったのだろう。出ていってとリーチに言った瞬間、彼は酷く辛そうにしていなかったか?それなのに自分はリーチに出て行けと言ったのだ。今なら何とか平静に物事を考えられる。しかし、あの時は憎まれていると本当に信じていたから、今のように考えられなかったのだ。
 ふらふらと寝室に戻ると、彼に渡したキーが脇机に置かれていた。
 もうリーチは帰ってこない。いくら何でも二度と帰ってこれないだろう。それ程の言葉をリーチに浴びせたのだ。
「どうしよう……」
 床にぺたりと座り込んで名執は呆然となった。
「どうしよう……」
 涙がポロポロと頬を伝って床のカーペットに落ちた。
 リーチを芳一からもう一度奪い返すことなど無理であった。最初、上手くいったのはトシが起きていたからだ。今、トシは眠っている。協力者はいない。
 それよりリーチがあんな事を企んだ芳一の所に戻るかも定かでない。
「リーチ……ご免なさい……」
 名執はリボンの付いたキーを握りしめて泣いた。



「隠岐さん!止めて下さい!」
「うるせー!黙れ!」
 リーチは名執の家に行った男達がいつの間にか戻ってきて隠れていたのを突き止めて、又殴る蹴るを繰り返していた。
「私が悪いんです。だから……私を殴れば良いじゃないですか!」
 芳一はリーチの腕を掴んだままそう言った。
「お前を?馬鹿言うな。お前を殴ってもお前は苦しまない。こいつらを殴る方がよっぽどお前は堪えるだろう。だからお前には手を出さない。そこで見てろ!」
 リーチは止めようとする芳一を突き飛ばして、そう言い放った。
「お前らもな、いくら命令されたからって、して良いことと悪いことくらい区別が付く歳だろう?分からない奴は分からせてやるしか無い」
 三人の男達は既に血塗れで蹲っていたが、リーチは冷ややかな目つきで容赦なく蹴りを入れていた。
「何の騒ぎなんだ!」
 そこへ組頭の元一が、騒ぎを聞きつけてやって来た。
「おっさんな、息子の躾くらいきちんとしろよ!」
 ギラリとした目でリーチは元一の瞳を射抜いた。その激しさに元一は言葉を失った。しかし、意識が朦朧としている三人を更に蹴り上げようとするリーチの腕を掴んで止めた。
「芳一が……何かしたのですか?」
「何か?何かじゃねーよ!」
 噛みつくような言葉をリーチは吐いた。
「芳一……」
 元一は後ろで座り込んでいる芳一を見た。
「済みません」
「お前は一体何を……」
 芳一は沈黙したままで何も語らなかった。それを見たリーチは余計に切れた。人に言えないことならしなければ良いのだ。
「親父の前ではいい子になりたいか、芳一?お前は人間以下のことやったんだぜ、いや、命令したんだ。自分の手を汚さずに人に任せるのもむかつくことだが、したことに後悔するような奴はもっと腹が立つ!」
 そう言うと元一はリーチの方を向いた。困惑しているようである。
「隠岐さん……」
「こいつは……くそっ!てめーが説明しろ!俺の口からはいえねーよ」
 そう言ってまた殴りつけようとするので、元一は必死に止めた。
「何があったか分かりませんが、その位で許してやってくれませんか?こんな屑みたいな奴らでも、私にとって大切な部下なんです」
 元一は必死にそう言った。それでもリーチは腹の虫が治まらなかった。
「今度……こんな事して見ろ!そいつらをぶち殺してやる……」
 そう言ってリーチは最後にもう一度、ひと蹴りずつ蹴り上げると、その場を写真で取り、去った。
 そうしてリーチは自分の持ち物を紙袋に詰めて支度をした。何処に行くあてもなかったが、ここにもいられなくなったのだ。するとふすまが開いた。
「孫が……とんでもないことをしおって……」
 元造はそう言って手をついて謝った。
「俺は自分がしたことが間違っていたとは思わない。俺がしたことに文句があるなら言えばいい」
「なにもいえん……わしは、それより情けのうての……」
 苦衷に満ちた顔で元造は言った。
「……」
「お前さんが、どれほど名執というお方を大切にしているのかは知っておる。芳一も知っておるんじゃ……じゃが、今回お前さんが記憶を失って、我が儘になった。芳一は夢を見たかったんじゃ……お前さんに惚れとるからのぅ……。そのことが暴走してしまった要因じゃ。許してやってくれんか?」
 そう言う元造を一瞥してリーチは視線を逸らした。
「お前さんは、わし達に借りがある。記憶を失うまえじゃがな……その借りを返して貰おうかの」
「借り?」
「お前さんの為に人を一人海に沈めてやったんじゃ……記憶を失う前の話しじゃがな……今のお前さんにそれを持ち出すのは反則じゃが、それしか無いとおもぅてな」
「それは本当の事か?」
 リーチは驚いた顔で言った。
「嘘はつかん。なんなら名執さんに聞くが良い」
「…………」
 そこまで言い切るのだから嘘ではないのだろう。リーチは暫く考えると元造を見て言った。
「ここを出ていくよ……世話になったことは感謝してる……」
「当てはあるのかの?」
「無い……無いけど、ここにはいられない……」
 そう言ってリーチは紙袋を持った。
「この人物を知っているかの?」
 背を向けたリーチに元造は言った。そこには幾浦の名と住所が書かれてあった。
「あ、ああ。知ってる」
 あの時鍵を持ってきた男は確か幾浦と言ったはずだった。
「なら話は早いの。行くところが無いのならそこならお前面倒をみてくれるじゃろ」
 幾浦の印象はあまり良くはなかったが、選べる立場ではなかった。
「悪いな……」
 メモを取り、リーチは言った。すると元造が「蘭」(あららぎ)と、呼ぶと一人の男がやって来た。
「何かご用でしょうか?」
 年齢は三十代前後に見受けられる男は紺のスーツを着、仮面のように無表情で膝をつき、元造を見上げた。
「隠岐さんを送ってやってくれんか?」
「分かりました」
 そう蘭は言うとさっさと行ってしまった。
「門のところで車を待たせているはずじゃ。記憶が戻ったらまた顔を見せてくれんか……芳一の教育もその頃には出来ているじゃろ……」
「気が向いたらな……」
 リーチは感情のない声でそう言うと門へと向かった。
 門では既に蘭が車を止めて待っていた。無言で助手席の扉を開けたが、何も言わなかった。いかにもさっさと乗れと言わんばかりの態度が気にくわなかったが、自分がここの人間に何をしたか知っているのであろう。口も聞きたくないほど腹が立っているようであった。しかし、こちらも腑が煮えくり返るほど腹が立っているのだ。
「行き先は……」
「承っております」
 蘭はそれだけ言うと車を発進させた。
 リーチは窓を開け、外の景色を見ていた。
 自分はこれからどうすればいいのか全く分からなかった。記憶が戻ってくる様子もない。やっとホッとする場所を見つけたというのに、そこには戻れなくなった。
 名執は今、どうしているのだろうか?
 ちゃんと食事をしているのだろうか?
 やっぱり俺のこと誤解したまま恨んでいるのだろうか?
 そんな風にクエスチョンマークが付くことばかり考えていた。
 リーチはせめて自分が仕組んだことでは無いと言うことだけは分かって欲しかったが、名執は聞く耳を持たなかった。当然と言えば当然である。キーを奪われたのは他ならぬ自分である。何も無かったとはいえ責任は自分にあるのだ。
 既に日は落ち、行き交う車のライトが目にしみる。考えないようにしたいのだが、瞼裏に焼き付いている名執の笑顔がリーチを苦しめた。
 あの緩やかな笑みは二度と自分に向けられることは無い。
「一つ……聞いて宜しいですか?」
 蘭が急に話しかけてきた。しかし表情は相変わらず鉄面皮であった。
「なんだよ……」
 うざったいと思いながらリーチは言った。
「何故、芳一さんではいけないのです?彼が貴方を慕っていることはご存じのはずです」
「気付かなかったとは言わねーよ。だけどな、それに応えられないんだから仕方ないだろ。ならなにか、俺は来るものを拒む権利は無いんだと言いたいのか?」
 そう言うと蘭はジロリとこちらを睨んだ。
「憎むなら俺を憎めばいい。殴りたいのなら俺を殴れ。だけど、芳一は俺に対してじゃなく、関係の無い人間を巻き込んだんだ。それについて、あんたはどう思うんだ?まだ芳一が怒鳴り込むなら許せる。だがあいつは他人をそこに介した。それをフェアーだと言うのか?爺さんが言ってたが、芳一は夢を見たかったそうだ。だがな、だからといってあいつにしたことを許してやらなければならないのか?」
「坊ちゃんは……夢を見たかったのです。以前一度で良いと言っておられました。一度の夢を何故見せてやれないのです?」
 淡々と無表情に蘭は言った。
「お前おかしいんじゃないか?人間てな、一度だけで我慢するなんて事は出来ないんだよ。欲望って言うのは一度叶えたら、次々と際限なく出てくるもんだ。なんだって一度だけなんて業の深い人間にはできねーんだよ。それに俺は芳一と寝るなんて考えるだけでもまっぴら……」
 いつの間にか蘭は左手に銃を持ってこちらに構えていた。しかし顔は相変わらず無表情で前を見ながら、もう片方の手でハンドルを操作してる。
「私は昔から貴方が気にくわなかった」
「それで?気にくわないと、あんたはこうやって銃を持ち出すのか?」
 リーチはニヤリと口元を歪めさせて言った。
「時には」
「あんたに殺気は無いよ無理するなよ」
 そう言ってリーチはまた、窓からの景色を見るため上半身を横に捻った。すると後ろから突きつけられていた銃口の感触が消えた。銃を懐に直したのであろう。
「もし俺が……逆の立場で……芳一に対して胡散臭い奴らにあんな事させたら、それが例え未遂で終わっても、あんた迷わず俺を殺すだろう?」
「当然です」
「そう言うんなら……俺の方がまだ優しいと思わないか?」
 蘭は眉を一瞬つり上げたが、すぐに元に戻った。
「はっきり当然だと言える立場のあんたが羨ましいよ……」
 リーチはそう言って溜息をついた。蘭の方からはもう何の問いかけもなかった。

 幾浦のマンション前で降ろしてうと、車は早々に立ち去った。ここのマンションは名執の所とは違い、簡単にエレベータにのって家の前までたどり着けた。
 帰ってるかな……と、思いながら、ベルを押した。暫くすると扉が開いた。
「トシ……?」
 驚いた顔の幾浦がそこにいた。
「トシ?俺はそう言う呼び方もされてたのか?」
 えっ、と言うような表情を次に浮かべて幾浦は不機嫌になった。
「何だリーチか……何の用だ?」
「別に……」
 幾浦の対応があまりにむかついたリーチは、くるりと振り返って帰ろうとした。
「待て、お前……何故ここにいるんだ?お前はここの住所を知らないはずだ、名執に聞いたのか?」
「教えてくれたのは岩倉の爺さんだ。ここに来たのは理由があってさ、出て行けと言われたのが一件、勝手に出てきたところが一件、最後のここで迷惑がられて帰るところさ……」
「それは誰の所から追い出されて、誰の所から出て来たんだ?」
「あの……名執って医者から出て行けと言われて、芳一の所から出てきたんだよ」
「岩倉の家から出たのは分かるとしてだ、どうして名執がお前に出て行けと言うんだ?」
「色々あってさ……」
 理由は口が裂けても言えない。
「まあ……いい。とにかく家に入れ」
「嫌がられてる所には上がらない主義なんだ」
「そんな主義はどうでもいい。ふらふらその辺を歩かれるよりましだ。さっさと入れ」
 幾浦はそう言ってリーチの腕を掴んで家の中に引き入れた。
 リーチはここを追い出されると、本当に行くところが無くなるので、幾浦に従って居間のソファーに座った。すると毛脚の長い大型犬が側に寄ってきた。しかし、じっとこっちを見たまま身体を擦り寄せても来ず、ただ不思議そうな顔をしていた。すると幾浦がそれに気が付いたのか「アル、彼はトシじゃない」と、訳の分からないことを犬に言った。
「以前の俺とは違うと、犬には分かるのか?」
「あ……そうだな……そう言うことだ。この犬は賢いから分かるようだ」
 そんなものかと思っていると、くーっとお腹が鳴った。
「なんだ……夕食はまだなのか?」
「そう言えば……朝から何も食ってない……」
 食事をすることなど色々あり過ぎて忘れていたのだ。
「仕方ない。大したものは無いが、何か作ってやる」
 そう言って幾浦はキッチンへと向かった。意外に良い奴かもしれないとリーチは思いながら、まだこちらを見ているアルに「じろじろ見るな」と言った。

 幾浦はキッチンかで携帯を肩の所に引っかけ名執に電話を掛けた。
「何かあったか?」
 電話向こうの名執は黙り込んだまま何も言わなかった。
「お前がリーチを追い出すくらいだから、とんでもないことがあったと予想は付くが、話せないことなのか?」
「リーチを追いだしたことを、どうしてご存じなのですか?」
 名執は電話向こうで早口で言った。しかしその声は妙に掠れている。何があったのか予想も付かなかったが、リーチが今ここに来ていると言えば、名執が理由を言わないだろうと考え、「もう帰ったが、先程来て追い出されたと言っていたんだ。だから気になってな」と言った。
「そうですか……」
 何となく意気消沈しているようであったので、ここにいると言った方が良かったのかと後悔したが、今更それを撤回できなかった。
「で、何があったかは話せないのだな」
「済みません……」
「で、お前はどうするつもりなんだ?」
「もう……どうして良いか……分からないのです……」
 それは今にも泣き出しそうな声であった。
「私にこんな事を言う権利はないだろうが、名執……お前がしっかりしないでどうするんだ。お前が分からないという以上に、リーチは自分が分からないんだぞ、そんなリーチにその辺をうろつかれると問題だろう。それともあいつがお前を酷く傷つけることでもしたのか?」
 それに対しての答えは沈黙であった。
「まあ……いい。ただ、この問題はお前だけの問題ではないことだけは分かっていて欲しい。で、トシはどうしているんだ?」
「今、スリープして貰っています」
「何時からだ?」
「この間……貴方と会ったときから……」
 申し訳なさそうに言う。
「何故、リーチを追い出したとき、トシを起こさなかったんだ?トシが起きておれば少しは私も安心だったんだが……。それよりこんなに長い間スリープさせて大丈夫なのか?」
「分かりません……」
「…………」
 話が続かない……幾浦はそれが分かったので電話を続ける意味がないと判断した。
「また電話する」
「あの……幾浦さん……今度リーチがそちらに来ることがあれば……連絡頂けますか?」
 それは思い詰めたような言い方であった。
「ああ……分かった」
 そう言って幾浦は電話を終えた。
 何があったのだ……
 幾浦はどういう事があれば、名執が出て行けと言うのだろうと考えたが、思いつかなかった。たとえ罵詈雑言を浴びせられたとしても、名執がそんなことで追い出したりはしないだろう。それよりもリーチが家に来て嬉しかったに違いない。それにリーチが自ら名執の家に行ったのだ。今度は無理矢理ではない。そんなリーチに何故、出て行けと言ったのだろうか?
 芳一という男とリーチが寝たのだろうか?しかしそのことを名執は悲しむことはあっても、追い出したりはしないだろう?
 それともリーチが無理矢理……
 止めよう……
 幾浦は自分の考えを振り払うと、リーチの為に野菜炒めとインスタントのスープとご飯を盆に乗せて居間へと向かった。
 居間ではリーチがぼんやりとしていた。
「ほら、食べるんだな」
 机に置くと、リーチは嬉しそうに箸を持って食べ出した。
「ところで……何があった?」
 そう聞くと、リーチは口をもごもご動かしながらそっぽを向いた。
「お前なぁ……」
 そぞろ腹が立った幾浦は、怒鳴りたいのを必死に押さえてもう一度聞いたが、リーチは無言で食事を摂ることに専念していた。
「な、折角作ってくれて文句を言うのは悪いんだけど……」
「なんだ?」
「飯もスープもインスタントだよな」
「文句を言うな。こんな時間に来るお前が悪い」
「野菜炒めも塩とこしょうを入れすぎで、辛い……」
 本当なら怒鳴ってもおかしくない事であったが、ふと思い出したことがあって、幾浦は怒ることはなかった。
 トシはこの味の野菜炒めを喜んで、よくリクエストしていた。しかしリーチは辛いと言う。そう言えば以前、リーチは甘党でカレーも甘口しか食べられ無い、子供のような味覚の持ち主と聞いていた。それを思い出し、腹が立つより思わず笑いが漏れた。記憶を失ってもリーチはやはりリーチなのだ。
「何がおかしいんだよ……」
 ムッとしてリーチは言った。
「いや……つかぬ事を聞くが、砂糖を少し入れた卵焼きや、ケチャップで炒めたライスとか好きなのではないか?」
 くくくと笑いながら幾浦は聞いた。
「嫌いじゃない。けど、何でそんなこと言うんだ」
「いや、名執が昔そう言っていたのを思い出した。味覚は忘れていないのだと思うとなんだか笑えてな」
「うるせーな……ほっといてくれよ」
 不機嫌な顔をしながらリーチは食べることに又専念したようであった。
 
 就寝時間になると幾浦はベットの隣に布団を敷いて、リーチにそこに寝るように促した。リーチの方も疲れているのか、布団に潜り込んで暫くすると寝息が聞こえてきた。幾浦はそんなリーチをおいて、自分の仕事を片づけると、今度はリーチが眠っている側に寄ってトシを呼んでみた。
「トシ……ウェイクしてくれ……」
 どんなに深く意識を眠らせていても、ウェイクと声をかければ、意識が戻ると聞いていたのだ。しかし反応が無かったので幾浦はもう一度声をかけた。するとフッと目が開いた。
「あれ……恭眞?……」
 目をごしごし擦ってトシは身体を起こした。しきりに手足をさすっている。
「どうしたんだ?」
「なんか……身体がしっくりこないんだ……」
「随分眠っていたからではないか?」
「そんなに眠ってたの?」
「ああ、名執が起こし忘れたらしい」
「ふーん……なんだか……死んでいて生き返った気分……」
 言いながらトシは手足をぶらぶらと振っていた。そんなトシを幾浦は、ぎゅっと抱きしめた。
「恭眞……」
「全く……早くリーチに自分を取り戻して貰わないと、欲求不満でどうにかなりそうだ……」
 それは幾浦の本音だった。
「じゃ、まだリーチは記憶を取り戻してないの?」
「そのようだ……」
「世間では僕たちのこともう、死んでるって思ってるのかな……」
 溜息を付きつつトシは言った。
「いや、ニュースでは、お前を目撃した人が出てきて、必死に探しているようだ」
「そっか……良かった。葬式されてないだけでもましかぁ……」
 そう言ってトシは笑った。そんなトシの顎をそっと掴む。
「恭眞……」
 駄目だよと目が語っていた。
「キスすら許してくれないのか?」
「キスだけだからね……最中にリーチが起きたりしたら、大変だから、キス以外は駄目だよ。約束してくれたら……良いよ……」
「約束……する……」
 そう言って幾浦は愛しい恋人からもたらされる感触を暫く味わった。
「恭眞……」
 夢心地で細めたトシの瞳が幾浦の下半身を煽る。しかし、そこをグッと堪え、幾浦はもう一度トシを腕の中に抱いた。
「リーチ……どんな感じ?」
「いや、何があったのか分からないが、名執の家から追い出されて、岩倉の家を自分から出てようだ」
「ええーっ……雪久さんが追い出したの?」
「そのようだ……理由は何度聞いても、どちらも答えてくれない」
 それを聞いてトシはじっと考え込んでいた。
「私もあまりつっこんで聞くわけにもいかないだろう。相談に乗ってくれと言われるまで、もうこれ以上は言えないんだ」
「そう……。リーチが酷いことしたのかな……口で言ったことで雪久さんがリーチを追い出すなんて考えられない……」
「だが、リーチ自身が酷いことをしたようには思えんが……」
「僕もそう思いたいよ……」
 トシは小さな溜息をついた。
「暫く、ここに居座るようだから、トシもリーチの様子を見ていてくれないか?」
「うん……いいよ。でさ、変なこと聞くけど、僕の顔変じゃない?」
 幾浦はトシが何を聞いているのか分からなかった。
「だから……以前の利一の顔してる?」
 言ってトシはこちらをじっと見る。
「ああ、トシの顔だ……いや、少し顎がとがった感じだ。大人っぽくなった」
 よく見ると、幼さが少し無くなったような気がした。
「まずいなぁ……あんまり長くどちらかが主導権を持ったり、どちらかが長期にスリープすると顔の感じが変わるんだ……僕、当分起きておくよ……」
 そんなことになるのかと不思議に思いながら、トシが身体や顔に影響を及ぼすのなら良いが、リーチの影響が強くなるのは御免であった。
「ずっと起きておけ、ずっとだぞ」
 幾浦は真剣にそう言った。その顔がトシには可笑しかったのか、クスクスと笑っている。
「笑い事じゃないんだぞ……」
「御免……」
 トシはペロッと舌を出してそう言った。
「トシ……」
 額の髪を分け、そっとキスを落とした。
「ね、じゃぁリーチは何処にも行けなくなってここに来たの?」
「ああ……そのようだ。昼間は一人っきりになるだろうが、リーチを監視してくれ」
「リーチが何をしたかの報告は出来ても、それ以外は何も出来ないよ……」
 済まなさそうにトシが言った。
「それで充分だ。記憶を戻す兆候があれば教えてくれ……」
「うん。それで僕からもお願いがあるんだけど……聞いてくれる?」
「何だ?」
「僕が寝付くまで……その……抱いていてくれる?」
 頬を少し赤らめてトシは言った。
「ああ……言われなくともそうする……」
 幾浦は笑みを浮かべながらトシの横に寄り添い、腕の中に包んだ。
「恭眞の鼓動が聞こえるよ……」
「私にもお前の鼓動が聞こえる……」
「早く……リーチが元に戻れば良いのに……」
 トシはそう言うと、すぅっと寝付いた。幾浦はトシの寝顔を見ながら小さな溜息をついた。
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