Angel Sugar

「監禁愛3」 第2章

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 数日がたった。トシからあれから連絡は無かった。幾浦とも相談したが、相手が相手だけに良い方法が浮かばなかった。ここ何日も眠れなかった。それは幾浦も同じであろう。せめて状況を把握したい。名執はそう必死に考えていた。
 そこに携帯が鳴った。
「もしも……トシさん!」
「心配かけてご免なさい。とにかく監視がすごくて……今はくすねた携帯で電話してるんだけど、ここが何処だか分からないし、逃げるにしても夜はライトが点いてて実行に移せないんだ。何とかしないと、こいつ……ってリーチの事なんだけど、やばいんだ…」
「何が……です?」
 名執は嫌な予感がした。
「なんか芳一って人、変なんだよ。夜にリーチだと思って僕に迫ってくるし……昼間でもリーチに迫ってくる……リーチは相手にしてないけど……何なんですこの人!」
 聞いていた名執の方が完全に頭にきていた。
「私はそちらの場所を知っております。何とかして門の外まで抜け出せませんか?そうすれば車を乗り付けます」
「抜け出すって言ってもリーチが眠ってくれないと僕が主導権を握れないし……完全にリーチが寝付くのを見計らうと……2時頃かな……でもライトが邪魔で走り抜ける自信ないし……」
 暫く考え込んだトシが言った。
「そうだ、恭眞に伝えて欲しいんですけど、ここの家のセキュリティはAαってとこなんですよ。確かそこのサーバーはユニックスだった。それでセキュリティはコンピュータで遠隔操作してますので、恭眞に協力して貰ってAαにハッキングしてこの家のライトを消して欲しいんです。消すことが出来たら何とか僕も外に出られると思う」
「分かりました。必ず幾浦さんにそうして貰うようにいたします。時間はどうしましょう?」
「余裕を持って午前三時ジャスト。その時間に門に乗り付けて貰えます?もう、とにかくここから出たいんです」
 切実にトシが言っているのが分かる。余程芳一の行動に困っているのだ。
「私もそう思っています」
「あ、雪久さん。時間あわせますのでいいですか?」
「ええ」
「三、二、一、ジャスト一時。じゃ、今晩よろしくお願いします。それと、恭眞にハッキングのツールが足りなかったら僕の家から持っていって貰って下さい。あ、誰か来た」
 そう言ってトシから電話は一方的に切られた。仕方ないだろう。
「分かりました。必ず……成功させます」
 すぐさま幾浦に連絡を取ると三十分もしないうちに名執の家へとやってきた。
「とりあえずハッキングの準備はこれからする。トシのほうのツールは帰りに寄って持って帰るとしてだ、上手くいっても照明を消せるのは五分だ」
「五分……ですか……」
 かなり厳しい時間であった。
「日本のサイバーネットの守りはまだ甘い。だからユニックス自体は何とか外から潜り込める。しかし、照明を消すと岩倉の家からセキュリティ会社に照明がおかしいと連絡をするだろう。そして、会社側がその理由を探す。するとすぐに外から操作されていることに気が付くはずだ。向こうも馬鹿じゃないからな。出来ればツール自体を潜り込ませたいがそれは危険だ。気づいた会社も何処から来ているのかを今度は逆に追いかけてくる。こちらもそれを警戒していくつかのサーバーを経由させるつもりでいるが、そんな諸々を計算して五分だ。それ以上はこちらを発見されてしまう危険がある」
 難しそうな顔をして幾浦は言った。
 これは犯罪だからだ。
「分かりました。何とかします」
「それと、どうせ向こうはお前だと気づくはずだろうから、車はレンタカーを借りておけ、途中どこかの路地で私の車に乗り換えよう。それとだ、何処にかくまうかだ……記憶を失ったリーチを野放しには出来ないだろう。なによりあいつらは普通じゃない人間だ。記憶を戻してからでないと世間にはだせんぞ」
 きっぱりと幾浦が言った。
 確かにそうだろう。
「誰かの名義を借りてどこか部屋を借りましょうか?」
「それはまずい。新しいところを借りれば必ずそこからばれる。そうだ、昔私が買ったマンションの一室はどうだ?地下の一室で、狭いんだが……目立たなくていいだろう」
 それがいいと幾浦は言うのだが、どうしてそんな場所を所有しているのだろう。
「どうしてそんな場所を持っているんですか?」
 不審気に名執が言う。
「ああ、本当はコンピュータだけの部屋を作ろうと思って買ったんだ。それに地下ならオーディオをがんがん鳴らしても文句も出ないだろうしな。だが買ったすぐ後に会社から今のマンションを支給されてな、そのままほったらかしにしていたんだ。地下だし借り手も無いだろうということでな。但し、掃除などせずにほったらかしにしていたものだから、今頃埃まみれだろう。今のうちに掃除しておいた方がいいな」
 そう言って幾浦は笑った。
「幾浦さんの方がすることが多そうで申し訳ありません」
「何を言ってるんだ。これは分担だ。どちらが易しいとか難しいとかはないぞ。息が合わなければおじゃんだからな」
「はい」
「さて、私は車から操作できるように機材を用意する。名執は掃除……頼んでいいか?」
「ええ」
「キーはこれだ。場所はここ。そうだな……一旦十二時にここに集まろう」
 そう言って互いに約束をし、別れた。

 準備は整った。後は時間がくるのを待つのみであった。
 名執は岩倉家から離れた路地に車を止めていた。ただ昼間トシが言っていたことが頭を悩ましていた。
 リーチに迫る……あの芳一は一体何を考えているのだろう。 
 自分が馬鹿なことをしていることに何故気付かないのだろうか?
 記憶が戻れば自分が惨めになるのは分かっているだろう。それでもいいのだろうか?
 だからといって記憶のないリーチに名執はちょっかいを出されたくは無かった。何より芳一はリーチを愛している。それがそもそも名執の心を乱す原因なのだ。
 恐れもあった。芳一が本気になれば一番恐い相手だと言うことを知っていたからだ。そして名執を見る芳一の目は冷たい事を以前思い知らされたことがある。
 冷たいは適切ではない。それよりも憎悪の方が遙かに表現にあっている。
 何故か、芳一は名執の目を嫌っているのだ。一度その目が羨ましいと言われたからだ。それは羨ましいという言葉の裏に、お前の目が嫌いだと言う心が透けて見えた。
 自分では普通の目をしていると思うのだが、嫌われているのなら仕方がない。好かれようとも考えない。リーチの友人であるのなら仲良くもなろうと努力しただろう。しかし片方から恋敵と敵視されているのが分かっていて、仲良くなどなれるはずなど無いのだ。
 そんな名執の想いや芳一の想いをリーチは知らない。鈍感なのか知っていて知らない振りをしているのか判然としないが、敏感なリーチである。芳一の気持ちを知りながら、友人としての距離を保っているのだろう。
 芳一はそんなリーチを疎ましく思いながらも、それでも側にいたくてその態度を受け入れていた。だがそれは諦めたからでないことを名執は分かっていた。チャンスを狙っているのだ。リーチと名執の間に少しでも割り込める隙が出来れば、自分をかなぐり捨ててでもその間に入ろうとするだろう。そういう男なのだ。それ程リーチに執着しているのだ。
 これは嫉妬だ……
 リーチはものではないが、やはり自分のものだと思う気持がある。リーチは自分を選んでくれた。それは分かっていても芳一しか知らないリーチがあることも知っている。名執はリーチの事は何でも知りたい。だから自分の知らないリーチを知っている芳一に嫉妬を覚えるのだ。
 以前名執は芳一のことでリーチを怒らせたことがあった。しかしリーチは名執の気持を知ってただ笑った。自分は笑い事では無いのにリーチは笑ったのだ。別に馬鹿にされているとは思わなかったが、そんな鈍感さに腹が立った。しかしリーチにしてみればそれが答えなのであろう。名執と違って芳一に対して、友人としての目しか持たないリーチはそういう反応しか出来なかったのだ。
 名執は時間を確認してエンジンをかけた。しかし音は出ない。この車はエコ車である。昼間充電を充分し、今は電気で走るようにしてあった。瞬発力は無いが音が少ない。それがこの車を選んだ理由であった。
 予定通り携帯が鳴った。
「どうですそちらは?」
「こっちは上手く潜り込んだ。時間まで見つからないよう影に隠れている。連絡はこれで最後だからな。時間が来たら迷わず走ってくれ。では例の広場で待っているからな。気を付けろよ」
「ええ、大丈夫です。任せて下さい」
 携帯を切ると名執は静かに車を動かした。
 手に汗が滲んでいる。
 犯罪者にはなれないと思わず笑みが零れた。
 門に近づくとライトが消えていた。辺りは闇であった。人の声が岩倉家の方から聞こえる。
 どうして消えたんだ……そう誰かが叫んでいた。
 ドサッ……!
 車の前方で鈍い音がした。名執は小声でトシであろう人物に声をかけた。
「トシさん、こっちこっち」
 目の前の黒い影はこちらを振り向いて、脚を引きずりながらやって来た。
「いったー……門が閉まってたから灯籠に登って門を越えたんだ……」
「話は後です。このまま車を出します」
 ライトも点けずに車は走り出した。
「雪久さん……見えるんですか?」
「ずっとライトを消していましたので、目は暗闇に慣れています」
 そういうと「へえ」っとトシが言った。
「この先で車を乗り換えますね。リーチはどうしています?」
「ん……気持ちよく眠ってる」
 まだ不安なのか、トシは何度も後ろを振り返っていた。
「大丈夫ですよ」
 安心させるように言うが、真っ暗な車内では不安にもなるだろう。
 住宅街に入るとライトを点けた。そこを抜け、細い路地を走り三十坪ほどの空き地に着いた。そこでは紺のベンツにもたれかかった幾浦がたばこを吸っていた。
 だがこちらを確認すると走ってきた。名執は車を止め、二人とも外へと出た。
「警察には見つからなかったか?」
「ええ、それが一番恐かったのですが大丈夫でした」
 途中までライトを消して走るというのはリスクがあったのだ。
「とにかく私の車に早く!」
「幾浦さん。私が運転しますよ」
 気を利かせて名執は言った。
「では、頼む」
 幾浦はそう言うとじっと様子を窺うように立っているトシの手を取って車に乗り込んだ。「トシ……」
 まず幾浦がトシを抱きしめた。実際、本人をこの目で見るまで安心できなかったのであろう。
「御免ね……すごく迷惑かけちゃて……」
「いや、それで怪我の具合はどうなんだ?」
「うん、もう包帯は取れてるし、ちょっと見せられないくらい瘡蓋になってるけど、痛まないよ」
「そうか……良かったな……本当に良かった」
 やっとホッとしたような幾浦が再度トシを抱きしめた。
「でも、リーチが大変なんだ……」
「ああ、名執から多少聞いている。記憶がとんでるそうだな……」
「うん、僕のことも忘れてるから、声をかけられなくて……リーチが眠ったときしか今は主導権を取れないんだ……それに僕はあの芳一さんのこと知らないし……雪久さんは知ってました?」
「え……ええ。昔のご友人と聞いております」
 リーチはトシには岩倉家とのつながりを話していなかったのだ。
「友人……。ホントかな……。なんか今日はいつもよりやばかったんだよ……」
 うんざりという風にトシは言った。
「何がだ?何の話をしているんだ」
 幾浦には芳一がリーチをどう思っているかを話してはいなかった。
「う……ん……」
 勢いで言った所為か、本当は言うつもりが無かったようだ。
「トシさん。芳一さんは昔からリーチに好意を持たれております。リーチの方はご友人だと割り切っていたようですが……ですので、私は何を聞かされても大丈夫ですよ」
 言いやすいように名執はそう言った。聞きたくは無かったが知らない方がもっと嫌だったのだ。
「真っ裸で布団は入り込んできたんだよ……僕……どうしようかと思った……」
 名執は一瞬車をよれさせた。
「うわっ……頼む名執、気持は分かるが、ここでぶつけないでくれよ……」
 幾浦が慌ててそう言った。
「す……済みません……」
 怒りで既に頭の中は飽和状態であるにも係わらず、更に怒りがこみ上げてきた。
「なんだ、芳一という男はリーチが記憶を失っているのを知っているのだろう?」
 なのに何故?という表情で幾浦は聞いた。
「失っているからこそ、芳一さんにとってチャンスなのでしょう」
 なんて卑怯な男なのだ。
「名執……そいつは、お前のことを知っているのだろう?」
「知っておられます。だから強攻策に出たのですよ」
 そうしているうちに幾浦のセカンドマンションに着いた。
「狭いがトシ、我慢してくれ」
「えっと……閉じこめられちゃうのかな……」
 きょろきょろと部屋を見ながらトシは言った。
「悪いですが、お互いを認識をしていない貴方達を表には出せません。トシさんもそれは分かっているでしょう?」
「うーん……ここにいます……」
 トシは観念したように言った。
「で、医者の意見としてはどうなんだ?治るのか?」
「一時的なものだと思います。ですがこの場合、どの位で治るかは私も申し上げられません。私も専門医ではありませんので……」
 名執は外科専門だ。元々内科から心療科へうつり、最後に外科を選んだが、精神医学はそれほど得意ではないのだ。
「早く奴に治って貰わなければな……ところでもう一人出てきたとは考えられないのか?」
 名執もふとそんなことを考えた。しかしそれは否定した。二人は元々一人の身体に入っていたので、一人の人格が分裂したわけでは無いからだ。
「恭眞……僕たちは二重人格じゃないんだよ。もう一人が出来るわけないでしょ」
 ぷうっとふくれっつらになったトシがそう言ったのを聞いて、自分が言わなくて良かったと本当に名執は思った。
「すまん……失言だった……」
 トシの手を握ったまま幾浦は申し訳なさそうに言った。
「それに見てるとやっぱりリーチなんだ……それも落ち着く前のリーチ……だから僕は雪久さんの方を心配するよ……」
「え?」
「リーチは昔から今みたいじゃないんだ……。大学に入ってその三年まで、僕に隠れて悪いことばっかりやってた時期があって……。僕も理由が分かっていたから、何も言えなかったけど……言っても聞かなかったしね。利一を作って演じることが二人とも酷く疲れた時期だったんだ。自分とは違う人間を演じるわけだから、何処かでストレスが溜まってた。本当の自分は一体なんだろう……とか、これからどうなるんだろう……利一の友人って言っても僕ら個人の友人じゃない。それがすごく恐かったし、罪悪感にもなって……。僕の場合は内に向かって悩む方だったけど、リーチは外に対して発散してた。プライベートのリーチは止められなかった。喧嘩するか、くだまいてるかどっちかだったんだ……まるで手に負えない獣みたいだった」
 溜息を付きながらトシはそう言った。
 だがその話はリーチからきちんと聞かされていたため、名執はそれほど驚きはしなかった。
「一度だけ……そんな話を聞いたことがあります」
 トシを安心させるために名執はそう言った。
「良かった。じゃ、心配ないよね……きっと悪態ばっかりつくと思うけど、傷つかなくていいから……本気じゃないんだ……ただ自分でどうして良いか分からないだけなんだ」
「マズローの自己表現」
 呟くような声で名執は言った。二人は何のことか分からずにじっとこちらを見ている。
「心理学でいう自己表現の段階のことです。人間は生理的な欲求が安心して満たされ、何かに所属したなかで認められ、愛されて、そして他人を愛す。それが出来るようになって初めて自己実現のエネルギーを持って行動が出来るようになるのです。その段階が踏めないと今トシさんが言ったような状態になるのです」
 なるほど……と言う顔で幾浦は頷いている。
「まぁ後は医者に任せるとしよう。で、名執は病院の方に休暇を申請したのか?」
「ええ、この時期毎年一週間ほど休暇を取って学会に出す論文を作成するんです。恒例になっておりますので、別に不振がられず休暇を頂けました」
「そうか……じゃ、私はこれで……」
 そう言って幾浦が帰ろうとするとトシが声をかけた。
「恭眞……」
 不安げに幾浦のスーツの裾を持っている。
「大丈夫。すぐにリーチは元通りになるさ、何より名執と一緒なんだからな」
「うん。あのさ、時々……電話して良い?できたらだけど……」
「まっているよ」
 幾浦はそう言ってトシの額に軽くキスをした。
「そうだ名執、本当に私が鎖の鍵を持っていていいのか?」
「はい。私が持っていると何をするか分かりませんので……」
 考えたくないが、今のリーチは自分の知っているリーチではない。監禁したことで何をするか予想が付かないのだ。
 幾浦を見送ってトシの方を名執は向いた。
「お腹は空いていませんか?」
「ううん……ただ僕、眠くなっちゃて……」
 欠伸をしてトシは言った。
「着替えを持ってきますね」
「え、でも僕もうパジャマ着てますが……」
「汚れているでしょう?」
 にっこり笑って名執は着替えを取りに行った。何より芳一のところのものは一切身につけて貰いたくなかったのだ。
 新しいパジャマに着替えたトシは既に敷いてあった布団に潜り込んだ。
「当分スリープしてますので、何かあったら起こして下さい。リーチのことは完全に任せますから……雪久さんがウェイクって言ってくれても起きると思います」
「はい。あのトシさん。教えて欲しいのですが……」
「なんですか?」
「リーチが落ち着いたのには何か訳があったのですか?それとも自分で理解して落ち着いたのですか?」
 暫く考え込んだ後トシは言った。
「僕が話したって事は黙ってて下さい……」
「もちろん」
「大学三年の夏にリーチは春菜さんという女性に出会ったんだ。……肌が白くて……黒髪が腰まである綺麗な人……。リーチが初めて真剣に愛した人だった……。その人に出会ってリーチは変わったんです」
 こちらの顔色を伺いながらトシはそう言った。
「その……春菜さんという方は今……」
 喉がカラカラで、掠れた声で聞いた。
「翌年の……桜が満開の時期に……病気で亡くなったんです。それからかな……リーチが大学を卒業したら警官になるって言い出したの……」
「そうですか……その春菜さんという方は……私に似ておりますか?」
 そう言うとトシはびっくりしたような顔をして言った。
「えっ!全然似てませんよ!似てたらもっと早く春菜さん事を思い出してた。でも今までずっと僕も忘れてたもん。やだなぁ雪久さん……リーチは春菜さんに似てるからって理由で人を好きになんかなりませんって、それに昔に悪いことばっかりやった所為で、人を外見では絶対選ばないんだから……僕は騙されやすいけど……」
 そう言ってトシは笑みを見せた。それは気を使って言っているのではなく、本当の様であった。名執はホッとした。
 昔のこととはいえ、やはりリーチが初めて真剣になったという相手が気になるのであった。その人の影を自分に映していたのなら、とても辛いことであるからだ。まして死者には太刀打ちできない。
「二人にどんな会話があって、どんな付き合い方をして、リーチが変わったのかは分からないんです。だから、これといったアドバイスは僕には出来ないけど、雪久さんのやり方でいいと思います。僕信じてるから……」
「ありがとうございます。何とか頑張りますよ……」
 それを聞いたトシはスリープに入った。寝顔はリーチの寝顔に変わっている。
「リーチ……大丈夫……私が貴方を助けます」
 眠っているリーチに対し、幾浦と相談した結果出た準備をし、それが終わるとリーチの隣に横になった。名執はいつもの寝顔のリーチを横目に瞼を閉じた。

 起きると見知らぬ男が横に眠っていた。最初女かとリーチは思ったがよく見ると男だったのでがっかりした。
 周りを見回すと見たことのない部屋であった。どちらかと言えば生活感があまりない部屋であった。
「おい、起きろって……」
 隣に眠る男の肩を揺さぶる。意外に細い肩だと思いながら何度も揺すった。
「ん……」
 疲れているのか目を覚まさない。
「夢なのか?」
 隣の男を起こすのをやめて、立ち上がろうとすると足首に何かが絡まっている感触がした。
「なっ!なんだこりゃ!」
 思わず足首を掴んで目の前に持ってくると、鈍い光を放つ鎖を付けた手錠がかかっていた。その手錠のもう片方のわっかには太い鎖がやはり繋がれ、その先を追うと、頑丈な柱に繋がれていた。
 ぐいぐい、じゃらじゃら引っ張り回して、どうにも無理なのが分かると、リーチは隣に眠っている男を先ほどより強く揺すった。
「おい!起きろって!起きやがれ!」
「あっ……起きたのですか?」
 瞳を擦りながら男は言った。
「これは一体何なんだ!外せ!今すぐ!」
「外すとリーチ、逃げるでしょう?」
 にっこり笑って言う。
「逃げるって何処なんだここは?」
「リーチの知らないところですよ」
「リーチ、リーチて、誰のことだよ!」
「貴方のことです。忘れたのですか?」
「俺が?リーチって?何でもいいよそんなことは……それよりこれを外せ!」
 ジャラっと手に持った鎖を男に向けて差し出した。だが男はそれを見てうっすらと笑った。
「家捜ししても鍵は出てきません。知り合いに預けました」
「預けただと?お前何の権利があってこんな事をするんだよ!」
 それを聞くと男はじっとこちらを見つめてまた笑みを零した。男のくせにやたらと色気がある。
「貴方は記憶を失っております」
「それは聞いたよ。だから?」
「記憶を失う前……私とつき合っていたのです。大人の関係で……」
 まただ……また訳の分からないことを言ってやがる……
「芳一も似たようなことを言ってたが、じゃなにか、俺は男が好きな変態だったのか?」
「変態じゃありません。ちゃんとした恋愛です。それに芳一さんの言うことは嘘です。信じないで下さい。正確には芳一さんは貴方にとって友人で、私が貴方のその……」
 といいながら最後は言葉が小さくなった。だがリーチにはそんな事は今どうでも良かったのだ。
「何でもいいけどな……俺は縛られるのが嫌いだ。外に出たいときは出る。寝るときは寝る。女を抱きたいときは抱く。そうやって生きてきたんだ。記憶を失う前の俺がどうだったのかなんてどうでもいい。今の俺は男とはつき合いたくもないし、抱くなってもってのほかだ!」
 そう言うと男は潤んだ目をこちらに向けた。
 なんなんだこいつはっ!泣きたいのはこっちだろうがっ!
「リーチ……貴方が何と言っても私は貴方を取り戻す。どんなことをしてもです。逃げたいのなら……逃げると良いんです。出来ればの話ですが……」
「お前な!」
 胸ぐらを掴んみ、はり倒してやろうと手を挙げた。
「私の名前は……名執……名執雪久……貴方はユキと呼んでくれておりました。出来ればそう呼んでいただきたいのですが、貴方の好きに呼んで下さい」
 そう言って涙を一筋落とした名執に、振り上げた手が何故だか下がった。
「お腹……空いたでしょう?何か作りますね」
「か……勝手にしろ!」
 名執を突き飛ばしてリーチは言った。その名執は何も言わず立ち上がってキッチンへと消えた。いなくなったのを確認してからもう一度、足首にはめられた手錠を外そうとするが外れない。それに繋がる鎖もかなり頑丈であった。
 鎖の長さは充分あったがトイレに行くか風呂場らしきところまでの長さが限界で、とても玄関までは届かなかった。
「くそっ……なんて扱いをしやがるんだっ!」
 悪態をつきながら布団にしゃがみ込む。
 暴れても当分出られそうにない。奴を殺したところで飢えて死ぬのは自分なのだ。と、物騒な事も考えていた。
 しかし、何故ここにいるのだろうか?
 俺が眠っている間に運ばれてきたのだろうか?
 それなら気付くに決まっている。
 なのに自分は運び出されたことも、連れ出されてことも思い出せなかった。
 記憶喪失ってのは継続するのだろうか?
 ふとそう考え寒気がした。今でも自分がなんなのか、どうしたいのか、どうすればいいのか分からないのだ。その上、今だに時折記憶が欠落するのは不気味であった。
 気味悪い……
 周囲から聞かされる以前の自分が信じられない。かといって今の自分も頼りない。家族も親戚もいない。俺を俺だと証明してくれる人間は何処にいるのだろうか?元はサツだと聞かされたが、職場に行く気は無かった。
 一体俺は何者なんだ……
 考えると酷く頭が痛み出した。思わずうつぶせになって頭を抱え込む。そんなリーチに気が付いたのか名執はこちらに走ってきた。
「リーチ!どうしたのですか?何処か痛むのですか?」
 名執は抱え込むようにリーチを起こすと問いかけた。
「頭が……いてぇ……」
「少し待って下さい。クスリをお持ちします」
 そう言って近くの机に置かれている引き出しからクスリを取り出した。用意がいいのか水も既にグラスに入って置いてあった。
「鎮静剤です。あまり何かを深く考えないことです。記憶は少しずつ戻ってきます。急がないで下さい」
 別に急いで何かを思い出そうとしたわけではなかったが、薬を飲むと横になった。まだ頭の芯が疼いている。
 身体も本調子でない。仕方がないので暫く様子を見ることにした。
 ごろんと横になるが先程から何か不自然だと感じていたことの理由が分かった。
 窓がないのだ。
 ここは地下なのだろうか? 
 そう考えると急に息苦しくなってきた。それ程広い部屋でもない。家具があるわけでなし、がらんとしている。部屋の隅にはアルバムやノートパソコン、本らしきものが積んであった。
 そこに名執が食事を運んできた。
「リーチ暫くは我慢して下さいね……」
「…………」
 何を言っても無駄なことは今の状況を把握して分かった。とりあえず隙が出来るのを待つしかない。リーチはそう考えるとお盆を取り、無言で食事をし始めた。
 普通の人間ならこんな事をされると食事もひっくり返すだろうが、リーチはそんなことはしなかった。そう言う奴は馬鹿だと思うからだ。いつでも動けるように体力だけは付けておかなければならない。だからこそ食事を摂るのであった。
 無言で食べている自分を名執は嬉しそうにじっと見ている。何が嬉しいのかは分からないが、無視することにした。
 オムレツとスープにサラダ、ご飯。何となく記憶が知っている味であった。以前にも作ってもらったのかもしれなかった。そんな味であった。
 食べ終わると名執が言った。
「これを見て下さい。もしかしたら何か思い出すかもしれませんので……」
 渡されたのは先程見つけたアルバムやノートパソコンであった。
「私と旅行に行ったときの写真です。パソコンの方は貴方の記事が載っている所をスキャナーで取り込んで纏めたファイルがありますので覗いてみて下さい。フォルダ名は事件簿になっています。使い方が分からないのでしたら聞いて下さい」
 それだけ言うと名執は他の部屋に行った。
 最初は誰が見るものかと考えたが、することも無し、退屈しのぎにぱらぱらとめくってみる。確かに自分と名執が写っていた。警察手帳の写真は自分とは思えなかったが、同じ顔であるのにこの写真に写っているのは自分だと思った。その理由はまたもや分からない。記憶喪失というのはこういうものなのだろうか?
 どの写真も自分はとても嬉しそうな顔をして写っている。男と並んで写真を撮るのが何故、嬉しいのだろうと頭を捻った。いくら考えても男とつき合うなど狂気の沙汰としか思えなかった。女みたいに身体は柔らかくは無いだろう。その上、豊満な胸だって無い。抱き合って気持ちいいとはとうてい思えなかった。
 考えると、またそぞろ女性を抱きたくなったリーチは、気を紛らわせようとパソコンの方を開けた。名執が言っていたフォルダを開け、ファイルをクリックしてみると新聞記事が出てきた。小さな記事から一面の記事。その上かなりの広範囲にわたっての新聞社からのものがそこにあった。
 自分の経歴や、功績、事件の内容。どれを見てもピンと来なかった。反対に気味が悪かった。あまりにも優等生であるからだ。自分はどうつついてもこんな立派?な刑事であるとは思えない。何より刑事であるということも信じられない。別人の記事を眺めているようであった。
 暫く次の記事、次の記事と見ているとふと目が止まったものがあった。崎戸という殺人犯のことであった。一瞬瞳が見開いた。顔写真も載っていたが、酷い嫌悪感と憎悪を感じた。見るのも嫌な奴であった。
 今の自分は知らないが、何処かで覚えているのであろうか?
 暫く色々眺め、そんな事をするのも飽きたリーチはパソコンを閉じると、布団に潜り込んだ。もうすることが無いからだ。そんなときは寝るしかないだろう。
 寝てばかりの毎日になるのか?
 そう思いぞっとしながら、もう一度周りを見渡す。
 外からの音も何も聞こえなかった。
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