Angel Sugar

「監禁愛3」 第8章

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 けたたましく目覚ましが鳴った。名執は重怠い身体を起こしてベルを止めた。リーチに視線を戻すと、彼は満足そうな顔をして眠っていた。このまま一緒にベットで抱き合っていたいと思ったが、名執には仕事があった。
 身体中の間接がギシギシと音をたて、腰は腰痛のような鈍い痛みを訴えていた。それでも頭はスッキリしており、久しぶりに深い眠りが取れたようであった。
 嫌な気怠さでは無かった。
 伸びをして、リーチを起こさないように、そっとベットから下りた。
「何処行くんだ?」
 不機嫌な顔で言うので、名執は慌てて
「済みません……起こしてしまったようですね……」
 と言った。
「そんなことどうでも良いんだよ……」
 そう言ってリーチは名執の腕を掴んでベットに引っ張り込んだ。
「リーチ……」
「ん……ベットマナーのなっていない奴だな……」
「どうしてもキャンセルできないオペがあるんですよ……」
 リーチにしっかり抱き留められながら名執は、困ったように言った。
「夜勤?」
「ええ……」
「じゃ……仕方ないな……」
 リーチは名執を拘束している腕を解いた。
「リーチはどうします?」
「何だよ……帰れって言うのかよ……」
「そうではなくて……その……」
 自分が帰ってくるまで待っていて欲しいと言いたかったが、怒ったような顔をしているリーチを見て、喉元まで出た言葉を飲み込んだ。
「分かってるさ……あんたが帰ってくるまでに退散するよ……」
 抱き合っていた時はあんなに優しかったリーチが、自分のことをあんたと言い、その上、不機嫌に帰ると言ったのが信じられなかった。そう、名執の家はリーチにとって行くところであり、帰るところは芳一の所なのだ。それが分かった名執は急に心が冷えた。
「……」
「じゃ、さっさと支度しろよ……俺はもう少し眠ってから出てくから」
 リーチはそう言って毛布にくるまった。
 名執は返す言葉を失って、バスルームに向かった。折角暖まった心が、急速にその熱を失った。泣き出しそうな自分を冷たいシャワーが流してくれた。
    
 玄関の扉が閉まる音が遠くから聞こえ、名執が出ていったことを知った。
 リーチは毛布から頭を出すと、溜息を付いた。
 あんな風に言うつもりは無かったのだ。ただ、もう少し二人で互いを感じていたかったのである。甘えて欲しいとか、そう言うのではなかった。自分が起きたときには側に眠っていて欲しかったのである。
 目が覚めると既に名執はベットから離れていた。それに対して腹が立ったのだ。自分が名執に言ったことは、子供じみた我が儘から出たのだ。冷たく言い放ったのも、それが原因であった。馬鹿だな……と、後悔しても出てしまった言葉は引っ込められなかった。先ほどの酷く傷ついた顔の名執がリーチの脳裏に焼き付いていた。
「悪かったよ……」
 謝る相手のいなくなった部屋でリーチはそう言った。その言葉は空虚に響いた。
 一眠りしたリーチが次に目を覚ました頃は既に日が暮れ遅い時間であった。まだ寝たり無いと思ったが、お腹が限界まで空いていた。シャツだけを羽織った格好でキッチンへと向かった。冷蔵庫を調べてみると、この間とは違い、結構材料がそろっていた。
 眺めながら何を作ろうかと思案した。
 そうだ、あいつの分も作って置いてやろうとリーチは思った。ありきたりではあったが、食事の用意をして、メモにでも謝りの言葉を添えれば、今度来たときには機嫌を直してくれているだろうと思ったのである。
 そうと決まれば実行するのみであった。リーチは自分が空腹であるのも忘れて料理を作ることに没頭した。



 送れと言われたり、迎えに来いと言われると素直に従っている自分が情けなかった。小さな溜息をついて、助手席に座るリーチを横目でチラリと窺った。するとリーチは窓を開けて風を受けながら、微動だにせず、すれ違う車の光弾をぼんやりと眺めているようであった。
 風になびく髪がサラサラと上下する。虚ろな瞳が今ここにはいない人物を写しているのが芳一にも分かった。
 名執雪久……利一の瞳に映るのは彼なのだ。記憶を失い、その彼に先に出会ったのは他ならぬ自分であった。それにも関わらず、彼が選んだのは名執であった。
 どうして自分では駄目なのだろうか?
 芳一は色々考えたが、その差が何処にあるのか分からなかった。確かに名執は容姿端麗である。誰もが振り向くほどの器量と、日本人離れした彫りの深い顔立ち、何よりも自分が持ち得ない澄んだ綺麗な瞳を持っていた。
 しかし、利一は外見だけで人を選ばないと、祖父や父から聞いていた。人を見る目がある二人が言うのだから間違いは無いのだろう。
 では、自分と名執の差は何処にあるのだろうか?
 それは何度考えても分からなかった。
 自分はただ記憶が戻る間での間、夢を見たかっただけなのだ。決して利一を奪えるとは考えてはいなかった。あの利一が、名執をどれほど大事にしているかを充分知っていたからである。
 自分の命より大切な人だ……そう利一から聞かされたことがあった。その言葉を聞いて、自分が入り込む隙間など無いのだと諦めたのだ。だからせめて記憶を失った利一を自分のものにしたかった。
 記憶を失った暫くの間だけで良かった。
 一瞬だけ現実に見える陽炎のような儚さで良かったのだ。
 一度で良いから抱かれたいと切実に願った。それは大それた希望では無いだろう。ずっととは言ってはいないのだ。それなのに名執は利一を奪い、一週間どこかに雲隠れし、その間に何があったのか分からないが、利一を手なずけた。こちらも対抗して名執がマンションに帰った時点で奪い返せば良かったのだが、あのマンションはセキュリティが完璧であった。キーが無ければ入れないのだ。
 こちらも住人になれば良かったのだろうが、空き部屋はなく、その上価格は三億もするのだ。いくら何でもそんな金額を自分の一存では動かせなかった。
 名執とは何者だろう?
 芳一は二人の姿が消えた一週間の間に、そのことを調べた。
 名執の母親は京都の旧家生まれで、十八の時フランスから観光に来ていた男性と知り合い、結婚しようとしたが反対を受け、駆け落ちをした。そうして名執が十歳のころ、原因は分からないが両親は心中をしている。
 それから母方の祖父に引き取られ、その祖父が名執が中学一年の頃亡くなり、莫大な財産を相続していた。その名執は祖父の葬式が済むと、単身アメリカへ留学し、スキップで大学卒業までを四年で済ませていた。
 その後、医学の道に進み、内科から精神科、その後外科に移って次に研究室に入る。その頃、学会でアメリカに来ていた、警察病院院長の巣鴨と出会い、その巣鴨に勧められて、十数年ぶりに帰国し、今では警察病院の外科主任に若くしてなった。
 ただ不思議なのはアメリカでも友人と呼べる人間はおらず、日本では幾浦というコンピュータ関係に勤める男がいるようであるが、それ以外は特に見つからなかった。
 病院での評判は良い。腕も良い。患者からも信頼されているが、同僚で友人と呼べる人間はいないようであった。だからといって協調性に欠けるわけではなく、相手を信頼していないと言うわけでも無いようであった。
 芳一は不思議であった。確かに過去はあまり恵まれていたとは言えないが、それでもあれだけの容姿と財産があれば、もっと違う道もあっただろうと思う。自分なら財産を使って何か事業をするか、有益な事に使うだろう。しかし名執はあまり使っていないようであった。そして仲の良い友人を故意に作らないようにしている名執……そのガードを破ろうとして玉砕した男が何人もいたようであった。
 そんな名執のガードをどうやって利一は壊したのだろうか?
 それより名執の何が利一を惹きつけたのか?
 芳一には分からないことばかりであった。
 この間、利一からキスをされ、やっぱり男は気持ち悪いと言って突き飛ばされた。利一はその後すぐに名執の家に行き、丸一日帰らなかった。それら全て考え合わせても、あのマンションで何があったのかは推し量るまでも無かった。
 利一は名執を抱いたのだ……。
 名執のマンションから出てきた時の満足そうな顔がそれをつぶさに語っていた。
 激しく熱いキス……。
 今、思い出しても身体が震えた。名執はあんなキスをいつもして貰っているのだろう。自分はキスだけでその場に倒れてしまいそうになるくらい、感じた。だったら利一に抱かれると、どうなるのだろう?あの指が、あの唇が自分の身体を愛撫する……考えただけで身体の奥が熱く疼くのであった。
 名執が羨ましいと思った。しかしそれ以上に、心の底から沸き上がる憎悪の方が強かった。
「なぁ……芳一には世話になったな……」
 突然、利一はそう言った。
「いいえ……大したことはしておりません。そんな風に言わないで下さい」
「実は俺、色々考えたんだけどな、お前ん家出るわ……」
「えっ!」
「なんて言うか……お前ん家……広すぎて落ち着かないんだよ……」
 言いにくそうに利一は言う。
「……それで……私の家を出て、どうするのですか?」
 分かっていたが自分の口からは言いたくはなかった。
「ん……ユキ……いや名執って医者の家……」
 ユキ……そんな風に名執を呼ぶほど、親密になったのだ。その言葉が剃刀の刃になって心を傷つけた。
「お前には本当に悪いと思うんだけどな……」
「ではどうして今日、迎えに来させたのですか?」
「覚えていなくても俺はデカだったんだろ?警察手帳とかお前の家に置きっぱなしだし、それを持ってから出ようと思ってさ……それに、爺さんやおっさんにも挨拶くらいしないと、俺の気が済まないから……」
 残酷な事を、さらりと言ってのける利一に怒りを覚えながらも「そうですか……」としか言えなかった。
 家に着くと利一は「風呂に入る」と言って風呂場へとさっさと向かった。芳一は無言で利一の着替えを用意し、自分も風呂へと向かった。
 浴室の方から機嫌のいい利一の歌が聞こえてきた。機械的に着替えを籠に入れて出ようとしたが、ふと目にとまったものがあった。
 名執のマンションのキーであった。それは利一が脱いだ上着のポケットから覗いていた。 キーだ……。
 あのマンションはキーが無ければ入れないことは調べが済んでいた。合い鍵も作れないものであることも分かっていた。
 銀色のキーをじっと見下ろし、芳一はそれを無意識に取って自分のポケットにしまい込んだ。一瞬躊躇ったが、いつの間にか駆け出し自分の部屋に戻った。
 暫くどうしようか迷っていたが、風呂から上がったリーチが突然部屋へ入ってきた。
思わずキーを後ろに隠した。
「何か?」
「俺の……キーを知らないか?」
「さぁ……知りませんが……何のキーですか?」
「いや……いいよ。どっこに落としたのかな……」
「一緒に探しましょうか?」
「いや……多分車の中か、庭に落としたんだろう。探してくる」
 そう言って利一は部屋から出ていった。
「…………」
 芳一は後ろに隠したキーを、そっと目の前に持ってきた。リボンに鈴を付けたキーが、蛍光灯に鈍く反射して自分の顔を映していた。
 キーに映った自分の顔は歪んだ笑いを浮かべていた。



 昨日と同じ早朝に帰宅した名執は、ぐったりと疲れていた。今日は一日休みであったので、一日身体を休めることが出来るのだから、別に疲れること自体は苦ではなかった。ただ、もしリーチが待っていてくれたのなら、一緒に一日を過ごせる。しかしもう既に芳一の家に行ってしまったに違いないと思いながら、扉のノブを廻すと、鍵はかかっていなかった。
 慌てて玄関で靴を脱ぐとリーチを呼んだ。リーチはまだいてくれていたのだ。そう思うと喜びで一杯になった。
「やっと帰ってきたみたいだな……」
「え……」
 見たことのない男が三人、居間のソファーに座っていた。こちらを見てニヤニヤと笑っている。
「へー。ホントに綺麗なかおしてる」
 中で一番背の高い男がたばこをくわえながら名執の側に来た。
「貴方達は……ここで何を……」
「これ、貸してくれたんだよな」
 そう言ってリーチに渡したはずのキーを目の前で振った。
「それは……リーチに渡したはずですが……」
 どう言うことが分からなかった。リーチがこの男達に貸したのだろうか?
「そんなことはどうでもいいさ……」
 真ん中に座っていた男がそう言って名執の顔を撫でようと差し出した手をはたき落とした。
「恐い恐い」
 そう言っているが、顔はいやらしい笑いを浮かべていた。
「出ていって下さい!」
「なんで?俺達は遊んで来いって言われたんだぜ。何にも無しで帰らないさ」
 名執はその瞬間、逃げようとしたが、腕を捕まれて阻止された。
「離して下さい!」
「そんな恐い顔すんなよ……用が済めば帰るからさ……」
 そう言って腕を捻りあげられた。
「…………っ」
 これはどう言うことなのだろう……。リーチに渡したキーが、いま見知らぬ男達が持っている。考えたくは無かったが、どうしても信じられないことであるが、リーチが自分をこの男達に引き渡したのだ。
 名執は必死に抵抗したが、しっかりと手足を押さえられていたので逃げることは出来なかった。見下ろす三人の男がじっと舐めるような視線を自分に向けていた。
「嘘……」
 涙が溢れ出した。
「こんなの……嘘……」
 リーチと少し距離が縮まったと本気で思った。昨日ベットでのリーチは優しかった。こんな事になるなど考えられない。しかし現実は違ったのだ。
 本当は憎まれていたのだ。そんなそぶりを一切見せず、機会を待っていたのかもしれない。一週間拘束したお返しなのだろう。
 優しくして……私の心を掴んで……最後に地獄に落とす。
 自分は騙されたのだ。トシからリーチがどれほど無茶苦茶なことをしてきたかを聞いたはずであった。だが名執は自分は大丈夫と高をくくっていたのだ。例え記憶を失っていても、リーチの心のどこかに自分を認識してくれる部分があると信じていた。
 しかし今はリーチにとって自分はどうでもいい存在なのであろう。拘束された屈辱を晴らすタイミングを待っていた。
 何故気付かなかったのだろうか?考えれば分かることであったのだ。リーチが芳一の家に帰ると言った時点で、自分より芳一を優先しているのに何故気付かなかったのか?
「目を潰せって言われてるんだよな……おい……」
 こちらを拘束している男が近くに立っている背の高い男に言うと、男はコンロをつけ、手袋を填めた手で、細長い鉄の棒らしきものを火に炙りだした。
「……何……を……」
 名執はその様子を見て言った。声は掠れて上手く出ない。
「あんたの目が気に入らない人がいてねえ……可哀想になあ、綺麗な目なのに……」
 顎を捕まれ男は言った。
 目……
 目を潰す気なのだ。それが分かると名執はもう一度必死に抵抗したが、拘束されている身体は全く動かなかった。
「いやぁぁぁっ!」
 その声は絶望の響きを伴っていた。



「おかしいな……何で鍵がねーんだ……」
 キーは結局、昨日の晩見つけられなかった。明るくなれば見つかるのではないかと芳一に言われ、翌日の朝早くから必死にリーチはキーを探していたのだ。
 だが、車庫に置いてある車と庭を何度も往復して結局キーは見つからなかった。
 庭で途方に暮れているリーチの側に芳一はやって来た。
「見つかりませんか?」
「ん……困ったな……あれ、スペアつくるの大変みたいだし……」
「そうなんですか……リボンがついているのですぐに見つかるはずなんですけどね」
「そうなんだよ……鈴だって……おい、何でリボンがついてるの知ってるんだよ」
 リーチはじろりと芳一を見た。
 そう言えば変な話であった。確かにポケットに入れて置いたのだ。なくすことなど考えられない。それが忽然と無くなったのだ。それに芳一にはどんなキーかは話していなかった。何より芳一は名執をどうも快く思っていないことに気がついていたからだ。
 そう……快く思っていないのだ。
「お前が隠したんだろ……」
「ま……まさか……そんなことはしませんよ」
 そう言ったが、芳一の顔は青ざめていた。その表情からリーチは一気に不安になった。
「嘘を付くな!」
 胸ぐらを掴み、庭に生えている松の幹に押しつけ、リーチは言った。
「知りません……」
「お前があいつのこと嫌いなのは分かってるんだよ!」
 いくら問いただしても、芳一は黙ったまま何も言わなかった。リーチはそんな芳一をその場に放り出して車庫に向かった。
 キーを差し込んで一気に車を出した。何人か、自分の前に立ちはだかるのを窓を開けて「どけっ!ひき殺すぞ!」と言って追い払った。
 不安が益々つのった。何故だか分からないが、背筋に冷や汗をかくほど不安であった。 マンションに着くと、管理人に頼み込んだ。キーが無いのでそうするしか無かったのだ。しかし管理人は冷たく言った。
「今、お部屋に連絡をしましたがね……まだお戻りじゃないようですよ」
 朝早くたたき起こした所為で、管理人はまだ眠そうだ。
「さっき電話貰ったんだっ!急に苦しくなったって……なんかあったんだよっ!だから俺が来たんじゃないかっ!それにあんた、俺の顔知ってるだろ?よく来てただろ?そのときちゃんとキーを持ってただろうがっ!」
 リーチはそう嘘を付いた。だが、管理人はリーチの顔を知っているようだ。当たり前だが、記憶を失う前は頻繁に訪れていたのだから、面識はあるのだ。
「まあ……知らない訳じゃないですけどねえ……」
「あいつになんかあったらあんたの所為だからなっ!」
 更にリーチがそう言うと、管理人は組んでいた手を下ろして、マスタキーを持って管理人室から出てきた。
「仕方ないですねえ……」
 そう言って管理人はリーチについてくるように言い、二人一緒にエレベーターに乗り込んだ。そして最上階に着くと、リーチは管理人からマスタキーを奪って駆けだした。
 トロトロ歩く管理人に業を煮やしたのだ。
「あっ!あんたっ!ちょっと待ちなさい!」
 後ろから管理人がリーチを追って走り出したが、所詮、リーチに追いつけるわけなど無かった。
 名執の住む部屋の扉は開いていた。リーチはキーを玄関に放り投げて靴を脱ぐのも忘れて中に駆け込んだ。
「おい!いるんだろう!」
 リーチがそう叫ぶと、キッチンの方から悲鳴のような声が聞こえた。リーチはすかさずその声の方へ走り出した。
 キッチンに入ると、二人の男に拘束された名執が、泣き叫んで抵抗していた。もう一人いる男は手に赤くなった鉄の棒を持っていた。
「貴様らーーーっ!」
 もう完全にリーチは怒りに支配されていた。近くにあった椅子を持ち上げてその男どもに投げつけた。突然のことに驚いた三人は逃げようとしたが、リーチ逃げる相手を捕まえては、殴りつけ、蹴り上げ、更に鉄の棒を持っていた男には、その棒を背や胸に押しつけて、やけどを負わせた。
「ひいいいいっっ!」
 抵抗することも出来なくなった三人を更にリーチは蹴り上げる。このまま行けば相手を殺すまで止めなかっただろう。
「け、警備員を……いや警察を……」
 と、ようやく駆けつけた管理人がそう言った言葉でリーチは自分を取り戻した。
「こいつらが不法侵入したんだよ」
 言いながら二人を引きずってまず玄関から追い出し、キッチンに戻り、床で唸っているもう一人を引きずって、やはり玄関から追い出した。
「あいつらをどうするのかあんたに任せるよ……」
 言ってリーチは管理人も外に追い出した。
 そうして、玄関に鍵をかけるとリーチはキッチンに戻った。名執の方は茫然自失で部屋の隅に自分を守るように手で抱きしめて座り込んでいた。
「おい、俺だよ……分かるか?」
 名執の前に膝をついて、リーチは頬を軽く叩いた。だが名執の目線はこちらを見てはいなかった。
「おいって……」
「いやああああっ!近寄らないでっ!来ないでっ!出ていって!」
 そう叫びながら名執は床を這って逃げようとする。リーチはそれを捕まえてギュッと抱きしめた。
「もう大丈夫だ……大丈夫。俺が追っ払ったから……」
「目……目が……目がっ!」
 そう言って名執は自分の目を必死に手で触っている。それを見てリーチには分かった。芳一はあの男達に名執の目を潰せと言われたのだ。だから焼けた鉄の棒を持って、名執の前に立っていたのだ。
 こんな風に怖がるのは、目を潰すと言われたのかもしれない。
 殺してやれば良かった……
 リーチは先ほど追い出した三人に対して本気でそう思っていた。
「大丈夫だ。目はちゃんとついてる……俺の顔見えるだろ?」
「……あ……ああ……」
 名執の視点がようやくリーチに合った。そして、リーチの頬を震える手で撫で、次に自分の目を確認するように触れた。
「……目……」
「見えるだろ?どうもなっちゃいない……」
 そうリーチが言うと名執はリーチの腕の中で気を失った。
「良かった……ほんとに良かった……」
 腕の中で名執を抱きながら、リーチはようやく安堵の溜息を吐いた。

 気を失った名執を寝室に連れて行き、シャツ一枚にするとベットに寝かせ、毛布を掛けた。すると名執は意識を戻したのか、すぐに身体を丸め、小さな嗚咽を漏らし始めた。
「眠った方がいいよ……」
 リーチはそう言ったが名執は泣きやまなかった。
 どうすればいいだろう……そう心の中で呟くと、ふと昨日自分が飲もうとして飲まなかったワインが目に入った。
 リーチはグラスを取り、名執をこちらに向けさせた。
「飲んだ方がいいよ……眠れるし、身体もあったまる……」
 そう言って名執の口にグラスを近づけたが、口を引き結び、飲もうとしなかった。仕方なしにリーチは自分の口にワインを含むと、名執の口に無理矢理流し込んだ。その口の中は血の味がした。
 名執はせき込んではいたが、吐き戻しはしなかった。
「すぐ眠くなるから……ゆっくり寝るんだぞ……」
 リーチは名執の頭を軽く撫でながら言った。暫くそうしていると名執は眠りについた。その姿を見て、ホッと胸を撫で下ろした。
 リーチは部屋の電気をベット脇にある小さな明かりだけを残して消した。白熱灯が薄闇に暖かい光を灯している。その光から受けるホッとした雰囲気がリーチを包んだ。
「な、俺のこと……許してくれる?」
 床に膝をついて名執の涙の跡の残る寝顔を見ながら小さく呟いた。しかし名執からの返事はなかった。それでもリーチは言葉を続けた。
「ごめんな……」
 許してくれるのなら、どんなことだってする……
 どんな償いだってする……
 だから……嫌いにならないでくれよ……
 心の中でそう呟いてリーチはキッチンを片づけるために寝室を出た。出来ることなら何があったかを、名執の眠っている間に消してやりたかったのだ。
 キッチンに戻ると、先ほど男どもを殴った椅子がバラバラになって床に散らかっていた。その他にも鉄の棒が落ちていた。まだ赤く焼けた棒は床を焦がしていた。
 椅子などの残骸をゴミ袋に入れ、鉄の棒はこのままでは危ないので、流しに置き、水を流しながら熱を取った。
 リーチは片づけながら又怒りがこみ上げてきた。
 何故こんな事をしなければならないのか?
 こんな事をして何になるのだ?
 神経が怒りで焼き切れそうであった。
 数時間かかってやっとキッチンを綺麗にし終わると、リーチは寝室へと名執の様子を窺いに行った。名執はまだ眠っている。その顔を床に膝をついて覗き込んでいると、名執の目がうっすらと開いた。
「ここ……は……?」
 叫び続けた喉は言葉を掠れさせていた。
「ん……寝室……」
 何と言っていいのか分からないリーチはそれだけを言って沈黙した。そんなリーチに名執は背を向けて毛布に顔を埋めた。
「あのさ……」
「でて……行って……」
 震え掠れた声で名執は言った。
「…………」
「貴方は……リーチ……じゃない……」
「俺……その……キーは……」
「芳一さん……と……私のこと……話して……笑っていたのでしょう……」
「えっ……違……」
「貴方のこと……ずっと……リーチ……だって……信じて……いました。記憶を……失っていても……リーチは……リーチ……だって……信じてた。 だけど……違った……貴方は私を憎んで……こんな事……。拘束したのは……悪いことでした……でも……こんな事を……されるほど……憎まれていたなんて……」
「違う!俺はキーを……芳一に取られ……」
「出ていって!」
 悲痛な声で名執は叫んだ。
「ユキ……」
「その名前で……呼ばないで……リーチだけがそう呼ぶの…貴方じゃない……」
 背を向けた名執の背が震えていた。
「リーチはいない……今はいない……。貴方はリーチじゃない。リーチは私を……大切にしてくれた……そして愛してくれた。いつだって私を支えてくれた……。あの人がいるから……私は今、生きている……。その貴方が……こんな事を……するなんて思えない。思いたくない……。何より憎まれているなんて……。だから……貴方はリーチじゃない……リーチだと……認めてしまったら……私は……もう生きて行けない……。だから……出ていって……もう……来ないで……お願い……」
 嗚咽とともに吐き出された拒絶の言葉にリーチは何も言えなかった。いくら説明しても名執は信じてはくれないだろう。それを当然だと言う気持ちと、それは違うという事を説明したい気持ちがせめぎ合い、その場から動けなかった。
「俺は……」
「早く……出ていって……!も……顔を見たくない……リーチの顔の……他人の貴方を……見たく……無い」
 そう言って名執は泣き出した。
「ごめんな……。でも今更……何言っても……無駄だよな……。もう……来ないから安心しろよ……」
 自嘲気味にリーチはそう言うと、寝室を出た。玄関に向かいながらふと昨日書いたメモをそのままにしていることを思い出した。
 玄関の手前でUターンしてキッチンに向かった。すると昨日自分が作った料理が手を付けられていないのを見つけた。きっと名執が帰ってきたときには既に男たちがいたのだろう。
 帰らなければ良かった。リーチはその事を本当に後悔していた。
 帰らなければキーを奪われることも無かった。名執がこんな目に合うことも無かった。そう考えると自分自身が許せなかった。しかし後悔してももう遅かった。
 自分が作ったシチューを流しに捨て、サラダも冷蔵庫から出してゴミ箱に捨てた。自分が昨日一生懸命作ったすべてのものを捨てた。シチューは流れきれないで流しに白い筋を作っていた。
 馬鹿みたいだ……。ふとリーチは思った。昨日料理を作っていたときはワクワクしていた。喜んでくれるだろう……そう思うと力が入ったのだ。
 それが次の日にはこんな事になっている。
 何処で食い違ったのか分からなかった。
 そうして最後に机のメモを掴んだ。名執は読んではいないだろうが、こんな場違いな、そして滑稽なものを置いておく気は無かった。まず、名執の方も読みたくないだろう。そう考えてリーチはメモを思いっきり破いてゴミ箱に捨てた。
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