Angel Sugar

「監禁愛3」 第11章

前頁タイトル次頁
 リーチが記憶を戻したにもかかわらず、連絡が無かった。名執は小さな溜息と付いて、窓から見える円かな月を眺めた。
 心配なのはリーチが記憶を失っていたときの事を覚えていることであった。どの位まで覚えているのかは分からなかったが、あの時見せた泣きそうな顔が、全てを語っていた。
「リーチ……」
 すぐにでも連絡が入ると思っていただけに、何故?が心を占める。どこの病院に行ったのかは見当が付いていた。無理がきくところは一つであったからだ。その病院に行けば良いのだろうが、行くことに躊躇いがあった。
 何がリーチを苦しめているのかは分かっていた。自分の身に起こったことが原因なのだろう。しかし果たしてそれが当たっているかは分からなかった。もしかすると他にも理由があるのかもしれない。
 宮原のことでリーチは手を汚した。そしてそれに手を貸してくれた、家族同然の存在を自分から切った。だがそれはリーチにとって一番ショックだったことかもしれない。
 名執はリーチに、それらを取り戻してあげたかった。
 今まで生きてきてリーチが大切にしてきたものを、それは元通りには出来ないかもしれない。だが、つぎはぎだらけでも繋ぎ止めることができる。
 名執はそう思い立つと、マンションを出、愛車に乗った。
 その行き先は岩倉家であった。
 岩倉家に着くと、名執は「こちらの御館様にお会いしたいのですが……」と、門の所にいる黒服の人間に言った。するともめることなく、あっさりと屋敷に案内された。もしかすると自分が来ることを予想していたのだろうか?
 その答えは元造と会うことで出た。
 通された十二畳ばかりの部屋は床の間に水墨画が掛けられ、その下に小さな花が生けてあった。塗りの机は名執の顔を映している。その表情は至って冷静であった。
 暫くすると戸が開けられ、元造が入ってきた。もうずいぶんな歳であるのだろうが、足取りはしっかりとし、身体からは精気がみなぎっている。深い皺に刻まれた中にある瞳は、穏やかではあるが、奥に鋭さを持っていた。
 元造は言葉を発するよりも先に畳に膝をつき、頭を垂れて名執に言った。
「このたびは……孫がとんでもないことをしおって……申し訳ない」
「…………」
「どんな詫びでも叶えるつもりじゃが、名執さんのお望みはおありかの」
「私の望みを聞いていただけますか?」
「芳一の指が欲しいと申されるのなら、お望みの数だけ差し上げましょう」
「私は外科医です。あるべきところに、すぐさまくっつけたくなりますので、ご遠慮します」
 名執がそう言うと元造は驚いた顔をして、次に苦笑いを口元に浮かべた。
「ではどうすれば許してくれるのかのぉ」
「蘭さん……から聞かれたと思いますが……」
「縁を切ると言う話じゃな……」
 そう言った元造は酷く辛そうに見えた。それを見た名執は、やはり元造にとってもリーチは孫のような存在なのだろう。
「彼は……あの様なことを本当は言いたくはなかったと思っております。家族のいない彼にとって、貴方は実の祖父のように……元一さんは父親のように……芳一さんは弟のように思っていた分、その決断は辛いことだと私は思います。はっきり申しまして私にとって、芳一さんが私に対して行った事は許せないことです。ですが……それは私の身の上におこったことで、彼がそのことで岩倉家と縁を切ることは無いと思っております。何より……彼には貴方方のような存在が必要だと思うのです。付き合いの長さから言って、私よりそちらの方が長い……。簡単に縁を切るのはもったいない事だと思うのです。ですので暫く時間はかかると思いますが、いずれ彼とは昔通りの付き合いを再開して欲しいのです」
 名執が言うと元造は目を見開いていた。
「あんたさんの……言いたいことは分かるんじゃが……。隠岐さんはそう簡単には納得しないじゃろう……」
「私がきちんと彼に話します」
 真っ直ぐと元造の目を見つめて名執は言った。その目を逸らさず、元造は暫く見返していた。
「あんたは……不思議な方じゃ……自身に受けた痛みを隠岐さんの為に忘れられるというのか?」
「私は忘れません。それに恨んでもおります。ですが……彼には貴方達の存在が必要なんです……」
 視線をやや畳み目に移してそう言った。
「…………」
 元造からの返答が無いのを確認し、名執は立ち上がった。
「突然お邪魔して申し訳ございませんでした……」
 そう名執が言うと元造はようやく言った。
「どうして隠岐さんが、あんたさんを選んだのか、ようやく分かった」
 名執はそれに対しニッコリ笑って答えた。
「芳一さんに伝えて下さい。恋愛を得るより……信頼を得る方が、彼にとっては難しいのだと……ある意味で貴方は幸せなのです……とお伝え下さい」
 名執は岩倉家を後にした。



 退院してすぐに職場復帰をしたトシであったが、リーチは相変わらず考え込んでいた。
名執に連絡を取りたかったが、自分がしでかしたことがリーチを苦しめていた。
 どうして記憶がところどころ残っていたのか分からないが、その記憶を捨ててしまうことが出来るのならどんなことだってするだろう。
 しかし現実は、無情にも鮮明な記憶を残していた。
「で、何時雪久さんに連絡する気なの?」
 電子メールを片づけながらトシが聞いてきた。
『え……ああ……そうだな……』
 会いたかったが、名執の方が拒否しそうで恐かった。それ程のことを自分がしたからである。
「煮え切らないな……もうっ……何があったか何で話せないの?」
 トシの「どうしたの?」攻撃はリーチがウェイクしてからひっきりなしであった。別にそれは嫌なことではなかった。トシが心底心配してくれいているのが分かるからである。誰かが自分を心配してくれることは嬉しいことであった。しかしトシに言えることは何もなかった。
『トシ……ごめんな……』
 それしか言えなかった。
「謝るんなら、まず雪久さんに謝ってよ……僕は何もできなかったんだからね……」
 呆れたようにそうトシは言った。
 そうだな……リーチにしても限界であった。名執に会えないことはとても辛いのだ。謝ることは何でもないことだった。それに対して名執が許してくれるかどうかが問題であった。
 名執は許してくれるだろう。しかしそれが分かっているだけに、辛いのだ。
 確かに名執はリーチを監禁した。そこでリーチは名執に対して本当なら絶対出来ないことを名執にしてしまったのだ。その上、もう少し遅ければ名執のあの瞳は今、景色を映すことなど出来なくなっていた。
 確かに記憶を失っていたからと言う事情もあっただろう。
 だが、それで名執は納得してくれるのだろうか?

「貴方はリーチじゃない……」

 そう絶叫に近い声で言った名執の声を今も鮮明に覚えている。
 リーチが名執にすぐ連絡出来なかったのはそう言う事情であった。
『電話するよ……』
「うん。今晩のプライベートは代わってあげるよ」
 トシは嬉しそうにそう言った。
 記憶を失っていた間、ずっと眠っていたような気もする。反対にずっと起きていたような気もしていた。分からなかった。疲労感だけがずっしりと身体と心に掛かっていた。
 時間が経てば、元通りになるさ……出来るだけ楽観的に考えるように努力しようとリーチは思いながら名執に連絡をした。しかし名執は忙しいのを理由に、待ち合わせの場所を警察病院近くの公園を指定してきた。リーチは少し引っかかったものを感じながらも、普段通りに振る舞うのが、自分にとっても名執にとっても良いのだ。
 気は焦っていたが、リーチの方も仕事に追われ、約束の時間を一時間オーバーして公園に着いた。
 電灯の中に浮かび上がる公園内を、きょろきょろしながら歩くと、止まった噴水の前にある椅子に名執は腰掛けていた。
「ユキ!ごめん……遅くなって……」
 名執に駆け寄ってリーチはそう言った。
「いえ……私も来たところです」
 ニコリと笑う名執はいつも通りの名執であった。
「忙しそうですね……」
「復帰後、ひっきりなしだから……」
 そんな話はどうでも良かった。ただ、早く自分の腕に名執を抱きしめて、彼の匂いを感じたかった。それなのに名執から、見えない一線が引かれているように感じ、実行に移せなかった。
 リーチは名執の隣に座って、水流の止まった噴水に視線を合わせながら暫くとりとめの無い話をしていた。
「話は変わりますが……」
 突然名執がそう切り出した。 
「なんだよ……改まって……」
 嫌な予感がした。
「岩倉家へ行って来ました」
「えっ……?」
 リーチは思わず名執の方を振り返っていた。
「芳一さんにされたことは許せないことですが、リーチにとって必要な方たちです。だから付き合いをいつか元通りにして欲しいと思って……。もしリーチが私にしたことを覚えていて……それを忘れられないとおっしゃるなら……私が一年くらい……海外に研修に行っても構わないですよ。そう言う話は以前からありましたし……」
 もしかして俺自体を切り捨てたい?
 リーチはやっと分かった。どうしてここを指定してきたのか?
 名執があの事件を忘れるには、自分の存在自体を消さないと、忘れられないのだ。
 あの日、男達がもう少しで名執の目から光を奪っていた時のことを、リーチを見る度に思い出すのだろう。だから名執は離れようとしているのだ。リーチが追えない遠いところへ……。
「たった一年ですし……そのくらいあったらリーチも少しは楽になるでしょう?」
 残酷な判決を聞いた気分であった。名執は一年とは考えていないだろう。既に気持は自分から離れている。それより、今も一緒にいる事は彼にとって気が重い事なのであろう。
 名執はこう思ったのだ。
 リーチと一緒にいると、散々な目に合うということ……
 名執は自分を守るために、リーチから離れようとしている。それを止めることなどリーチには出来なかった。だが約束をしたのだ。お互いに離れないと……そのことを破棄するのだろうか?
 あの約束は生半可な気持でしたのではない。どんなに重傷を負っても必ず名執の元に戻ると約束もした。それなのに、こんなに簡単に終わらせてしまうのだろうか?
「お前が決めることだ……好きにすればいいさ……」
 溜息と共にリーチは言った。
「リーチ……」
「良くわかんねーけど……お前がそうしたいんだろ?どうせ帰って来るつもりなんか無いくせに、一年なんて簡単に言うな!」
 口調が知らずに強くなっていた。
「…………」
「こんなとこに呼び出して……言いたいのはそれだけか?じゃ、はっきり言えよ。疫病神の俺を切り捨てたいってな……」
 立ち上がってリーチは言った。名執を見ることなど出来なかったのだ。
「そんなこと……思っていません……私はそう言うつもりで言ったわけでは……」
「良いんだ……ホントのことだから……」
「リーチ……」
「初めてだよな……お前からこんな事言ってきたの……それだけお前も真剣に考えたんだろ……。でもさ……俺……お前を大切にしてきたんだ……いつも幸せでいて欲しいと思ってた……いつも笑っていて欲しかった。なのに望む俺が、お前にとって厄災にしかならない存在だったんだ……」
「リーチ!違います……そんなこと……」
「ごめんな……も……俺……」
 眠りたかった。ただどこかに逃げたかった。何も考えなくて良いところに……何も感じないところに……存在自体を消してしまいたかった。

 リーチが急に体制を崩してよろめいたので、名執は倒れないようにリーチの身体を支えた。しかし、その身体はまるで死体のように重かった。支えきれずに名執はリーチを抱えながら地面に膝をついた。
「リーチ!リーチ!」
「雪久さん……」
 目を開けたのはトシであった。
「と……トシさん……あの……リーチは?」
「あれ……起こされてもいないのに……主導権が切り替わってるのはどうして?」
 トシは起こり得ないことが起こったことに驚いて、名執が聞いていることには答えなかった。しきりに「へんだ……」と繰り返していた。
「トシさんお願いです!リーチは……リーチは……」
「あ……そうですよね……リーチに聞けば……あ……」
 トシは目を閉じながら、眉間にしわを寄せた。
「トシさん……」
 目を開けたトシは慌てた顔をしていた。
「あんな……リーチ見たこと無い……どうしよう……変なんです……すごく……変……」
 おろおろとトシは言ったが、何が変なのか名執には分からなかった。
「トシさん……何が変なんですか?」
「埋まってるんです……」
「埋まってる?」
「何があったんですか?雪久さん……リーチに何を言ったんですか?」
 酷く取り乱しながらトシは言った。その様子からただ事ではないと名執は感じた。
「私は……何も……」
「リーチは仰向けに、……花の中に埋まってる……」
「それは……どういう意味なんですか?」
「分からない……分からないけど……返事がないのは、からかっているわけじゃない……まるで死んじゃったみたい……」
 真っ青な顔でトシは言った。
「雪久さん……何を言ったんですか?」
 名執は自分がしでかした事にショックを受け、トシの言葉に返事が出来なかった。

 トシはどうしていいか分からなかった。リーチの様子がおかしいのだ。原因は名執と何かあったに違いない。その名執はオペで、理由も話さずに行ってしまった。
 今までにない不安をトシは感じていた。リーチの存在を感じられないのだ。例えリーチがスリープをしていても、そこに息づくリーチの存在を感じることが出来た。起きているときはまるで後ろにいるような感じがする。慣れた、その誰かに守られているという感じが今はしない。無防備になったような気がした。
 トシは幾浦のマンションに着くと、驚く幾浦に抱きついた。
「なんだ……どうした?」
「どうしよう……どうしたら良いんだろう……恐い……」
 身体が小刻みに震えていた。そんなトシに幾浦の方は宥めるようにトシの身体をさすっていた。
 暫くすると落ち着き、トシは幾浦に自分が分かっていることだけを話した。しかし話しながらも幾浦の手を離すことは出来なかった。誰かの温もりが無ければ、安心できなかったのだ。
「一体どういう会話があってリーチがそんなことになるのだ?」
「分からない……こんな事今まで無かったから……経験ないんだ」
「で、原因の名執はどうなってるんだ」
「オペでどうしても遅くなるって……今晩こっちに来てくれることになってるんだけど……僕……それより心配なことがあるんだ……」
「なんだ?」
「僕一人じゃ……刑事の仕事は出来ないんだ……。犯人を捕まえるのは……リーチにしかできない……だって僕は空手も柔道も……剣道も出来ない。段を持っているのはリーチなんだ……。もしこんな状態で犯人と取っ組み合いになんかなったら……怪我で済まないかもしれない……」
 ぶるっと震えてトシは言った。危険なこともしてきたが、それはリーチがいてくれたから恐怖心は無かった。しかし今は違った。
「どうにも起こせないのか?」
「眠ってるのと違うんだ……僕もあんなリーチを見たのは初めてだから上手く説明できないんだけど……リーチが狸寝入りをしてるわけじゃないのは分かるんだ……」
「それにしても……だ、当分休んだ方が良い……」
 幾浦は真剣に言った。その口調からとても心配しているのが分かった。しかし記憶喪失で仕事をずっと休んでおり、それは出来なかった。
「本音言うとね、休みたいんだ……でも出来ない…」
「トシ、大怪我をするぞ……」
 じっとこちらの目を見つめる幾浦がそこにいた。
「分かってる……でも僕も刑事だから……」
 震えながらトシはそう言った。
「とにかく、何か作ってやるから、少し胃に入れた方がいい……」
「うん……」
 幾浦はそう言ってキッチンへと向かった。トシは一人が恐くてアルを抱きしめた。誰でも良いから誰かの温もりを感じていたかったのだ。
「リーチ……眠ってるだけだよね……ちゃんと起きて、いつも通りに悪態を付いてくれるよね……リーチ……」
 そう言ってトシはぎゅっとアルを抱きしめた。アルは鼻面を慰めるようにペロペロと舐めた。

 簡単に食事の用意をして、机に並べた。しかしトシの来る様子はなかった。心配になった幾浦は居間へと向かった。
 居間ではアルを抱きしめたトシが、床のカーペットの上に丸くなっていた。
「トシ……食事の用意が……」
 そこまで言って不安になった幾浦はトシの側に寄ると、身体を起こした。たらんと腕が床に落ちる。アルは心配そうにそんなトシを見つめていた。
「トシ!」
 不安になった幾浦がそう叫んでトシの身体を揺さぶった。
「あれ……眠ってたのかな……」
 パチッと目を開けてトシは言った。その顔を確認して幾浦はホッとした。リーチに引きずられて、トシまで眠ったような気がしたのだ。
「脅かすな……」
 ホッと安堵の溜息をついてトシに言った。
「恭眞……」
 するりとトシが幾浦の胸にすり寄って身を預けた。その仕草が何とも可愛かったが、そんなことを考えている場合ではなかった。
「さ、食事の時間だ……」
 トシを抱き上げて幾浦はキッチンへと向かった。
 椅子にトシを降ろすと「お腹一杯食べるんだぞ」と言ってお茶をついだ。トシはやっと嬉しそうな笑顔を見せて、箸を取った。
「美味しい……」
 野菜炒めを口に頬張ってトシは言った。その光景を見て思わず幾浦はリーチのことを思い出して笑いが漏れた。
「どうしたの?」
「いや……記憶を失っていたリーチにもその野菜炒めを作ってやったんだが、塩っ辛いと言って、不服な顔をしていたんだ……それを思い出して……」
「そう……」
 折角、笑みを見せたトシがその話で、また沈んだ表情になった。
「ほら、トシ、お前が落ち込んでいたら話にならないだろう。リーチのことは後で話し合おう。だから今は食べることに専念するんだ。腹が減っては何とかと言うだろう?」
「うん……」
 少し顔を緩ませてトシは言った。
「私も食べようかな」
 幾浦も椅子に座って自分の分を食べ始めた。
「恭眞……」
「お代わりか?」
 違うという風にトシは首を振った。
「リーチ……大丈夫だよね」
「ああ、心配するな。あいつは高層ビルから突き落としても死ぬような奴じゃない。心配しなくても、二、三日すれば元気に起きてくるさ」
「そうだよね……きっとそうだよ……」
 トシは自分に言い聞かせるようにそう言った。
 食事が済むと二人は居間の方へと向かった。しかしテレビを点けてみたが、トシはテレビより時間が気になるのか、チラチラと柱時計に視線を送っていた。
 不安なのだろう。
「トシ……おいで……」
 幾浦は前のソファーに座っているトシを手招いた。大抵、来るのを渋るのだが、今日はすんなりと幾浦の隣にやって来た。そのトシの肩に腕を廻すと、首を自分の肩に寄せてきた。
「恭眞……恭眞といるとすごく安心できるよ……」
 うっとりとトシは言った。人の温もりが欲しくてたまらない様である。そんなトシを愛しく思う。今トシが感じている不安を取り除くことが出来るように祈りながら、幾浦はそっと自分に引き寄せて、きつく抱いた。
「トシ……大丈夫だ。私がいるだろう?それとも私では役不足か?」
「もし……恭眞がいなかったら……僕きっとこんな状況。保たなかったよ……」
「トシ……」
 トシの口元がうっすらと開いていた。これはキスをねだっているのだろう。そう考え幾浦はトシの唇にそっと自分の唇を重ねた。その瞬間トシの腕が幾浦の首に廻った。触れているトシの身体は小刻みに震えていた。
「トシ……やはり仕事は休んだ方が良い……」
 今、一番の心配事であった。
「大丈夫……」
 必死に笑顔を作っているが、引きつっていた。
「だが……」
 そこに来訪を告げるベルが鳴った。
「名執だな……」
「うん」
 玄関を開けるとやはり名執が立っていた。その顔は疲れた顔をしている。
「あの……」
「とにかく……中に入れ」
 幾浦はそう言って中にはいるよう促した。
 居間のソファーに三人は座った。最初誰もが口を開こうとしなかったが、まずトシが名執に言った。
「雪久さん……一体……何があったんですか?どうしてリーチがあんな風になったか理由を教えて下さい……」
「それは……」
 名執は目線を床に落としながらまた黙り込んだ。
「雪久さん……黙られても僕には何があったが推し量ることも出来ないんだ。言いたくないと思うけど……これはリーチと雪久さんだけの問題じゃない。はっきり言って下さい」
 トシは必死にそう言った。チラリと名執はトシに視線を向け、今度は膝で手を結んだ。
「実は……あるお話がありまして……それを受けてもいいとリーチに話しました……」
「ある話し?」
 幾浦は聞いた。
「その……一年の海外研修を受けるかもしれないと、リーチに話したのです。今回のことでリーチがどうも私とのことを気にしているのが分かっていましたので、少し時間をおいた方がリーチのためになるのではないかと思って……」
 名執がそう言うとトシは一瞬驚いた顔をし、それから顔を真っ赤にしていた。幾浦から見てそれはどう見ても怒っているのを押さえている顔であった。
「僕は鈍感だけど……リーチが何であんな事になったのか分かった……」
 トシが身を乗り出して言うのと反対に、名執は頭を垂れてじっとトシの言葉を聞いている。
「おかしいと思ったんだ……リーチは落ち込んでたし……。それはきっと僕の知らないことで二人は気を使っていただけだと思ってた。でも二人だから大丈夫だとも思ってたのに……。リーチ確かに悩んでたよ。どういうことで悩んでいたかは教えてくれなかったけど、じっと考えて、自分の中で折り合いを付けたみたいだった。だからあの日雪久さんに会うことリーチ本当に楽しみにしてた。それなのにそんなことを雪久さんから言われたら……ショック受けると思う。ううん、ショックってもんじゃなかった。だからあんな風に……」
「まさか……こんな事になるとは思わなかったのです……私はただ、これが一番良いことだと思って……」
「良い事ってなに?雪久さんにとって良い話しでも……リーチにとっては残酷な事じゃない。知ってるくせに……リーチがどんなに雪久さんのこと好きか……それなのに……。もう起きてこないかもしれないんだよ……雪久さんはこれで研修でも何でも行って忘れられるのかもしれないけど……僕にはリーチが必要なんだ……。リーチを返してよ!」
 今にも名執に掴みかかりそうなトシを、幾浦は引き寄せた。
「トシ……名執が理由もなくそんなことを言うわけが無いだろう?そうだな名執……」
 そう言って名執を見ると、ただじっと視線をしたに落としている。膝にのせた震える手だけが彼の気持ちを伝えていた。
「あの監禁生活の間、本当に色々あったんです。その事でリーチが悩んでいるのが手に取るようにわかりました。その後起こったことでも酷く悩んでいるのが想像できたんです。私が側にいる限り、きっとずっとリーチは悩むだろう……そう思うと、リーチが可哀想で……リーチが悪い訳じゃないのに、私を見るたびに失っていた時間の事を思い出すリーチに申し訳なくて……それなら少し時間をあけた方が……リーチの為になるんじゃないかって……そう思って……ただそれだけだったんです……」
 手に涙を落としながら名執は言った。
「雪久さん……それをリーチに言ったんですか?」
「違うと弁解する間もなく、リーチがこんな事に……ただ私は……リーチにとって一番良いことをしようとしたつもりが……済みません……謝っても……どうしようもないことですが……こんな事になるとは思わなかっ……」
 名執は言葉が続かず、涙だけがいくつもこぼれ落ちていた。そんな名執を見て、何も言えなくなったのか、トシも黙ってしまった。
「要するにだ……お前達はどちらも自分が悪いと責めていたわけだ」
 そう言うと名執はコクリと首を立てに振った。
「それにしても……名執、お前は精神科医の免許を持っているくせに自分や身近な人間の事は素人同然じゃないか……普通に考えても、お前がそんな話を持ち出せば、リーチが誤解することは分かるはずだ」
「そう……だから……精神科医には……ならなかったのです……」
「…………」
 言葉が出なかった。
「雪久さん……怒鳴ってご免なさい……」
 トシがおずおずと言った。すると名執は必死に首を横に振った。
「それにしても……どうすればリーチを起こせるんだ……」
 それが問題であったが、トシですら方法が分からないのに、自分や名執に良い考えが浮かぶとは思わなかった。それでも何もしない訳にはいかなかった。
「今のリーチは……僕の声すら届かない……花畑に埋まっているけど、そこにいるのに存在感が無いんだ……僕はそれが恐い。このまま……起きないのかもしれない……ううん……もしかしてこれが僕たちの死なのかもしれないって……」
 トシは静かにそう言った。
「馬鹿なことを言うな!」
 幾浦はトシにきつく言った。
「恭眞……」
 こちらを向いたトシに目線で名執を見るように促した。その名執はトシの言葉で壊れてしまいそうなほど弱々しかった。
「ご免なさい……」
「私の……責任です……」
「名執……確かにお前はリーチに言うべきではなかった。しかし、お前の気持ちも分かる分、私はお前を責めることは出来ない。リーチとて、よくよく考えれば、お前が本心から言ったことではないと分かったはずだ。だがリーチにも考える余裕が無かったんだ。お前の言葉を誤解してしまった。だからリーチにも責任がある。しかし言って聞かせる相手がいない今は、いつも通りに暮らすしかないだろう」
「幾浦さん……」
「話して聞かせる相手がいないんだから、今、悩んでもどうにもならんだろう……」
「…………」
 名執は黙ったまま返事をしなかった。
「雪久さん……」
「私は……どうすればトシさんに許して貰えるのですか?」
「え……そんなこと……雪久さんの気持ちを聞いた今では、もう怒ってませんから……」
 トシは名執に笑顔を見せた。
「ですが……もし……これから先……」
「リーチはどんなことでも逃げ出したりしない。きっと自分から起きてくると思う。僕は逃げることを選ぶけど、何時だって、どんな困難なことでもリーチは立ち向かう方を選ぶんだ。だから、暫くすれば、うじうじしてる自分に苛立って、きっと起きてくるよ……僕はそう信じてる」
 真摯な目でトシは言った。
「私も信じて良いでしょうか?」
「僕の方がリーチと付き合い長いから……その僕が言うんだよ」
 トシは胸を張ってそう言った。
「信じます……」
「だから雪久さん……これだけはお願いしても良いですか?」
「何でしょうか……」
「リーチが起きたら……さっき僕たちに話してくれた事をちゃんと言って下さい」
「はい……」
「人生なんてすっごく残酷なことをしでかすこともあれば、こうやって僕が恭眞に……リーチが雪久さんに会えたという奇跡みたいな事も起こしてくれる。人生って良いこと悪いことどちらかかたよっているんじゃなくて、半々にやってくるものだと思うんだ。だから嫌なことがあれば今度は良いことがやってくるって思ってる。そう思いません?」
「そう……ですね……」
 名執はそう言ってまた涙を零した。
「以前リーチが、雪久さんと約束したことを嬉しそうに僕に話してくれたことがあったんだ……」
「何を……ですか?」
「雪久さんがずっと側にいてくれるって約束してくれたって。照れながら言ってたんだ。その時のリーチ……本当に幸せそうだった……」
 思い出すようにトシは何処か遠くを見ながら言った。
「リーチに会いたい……」
 名執は泣き崩れた。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP