Angel Sugar

「監禁愛3」 第3章

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 あまりにも静かにしているのが気になった名執は、そっとリーチのいる部屋を覗いた。するとまた眠っていた。大暴れするだろうと思っていたが、意外に大人しく現状に対応しているのを見てやはりリーチは野生的なのだろうと感じた。
 無駄なことに体力は使わないのだ。だからといって気を許してはいけないことも分かっていた。彼は今、チャンスを伺っている。隙を見せることは出来ないのだ。見せた瞬間、ここから、いや二度と自分の元には戻ってこないだろう。
 自分の休暇は一週間である。その間に何とか進展させたいと考えていたが、良い案は浮かばなかった。インターネットで記憶喪失の記事や症例を探索し、知り合いの人間にメールで問い合わせては見たが、結局は何かのきっかけと、時間だけが唯一の治療であった。
「はあ……」
 名執の口から溜息が漏れた。リーチの方が精神的に強い。この環境に先にギブアップをするとしたら自分の方だろう……。だが、そんな気弱な自分を叱咤する。リーチを取り戻すと決めたのだ。だからこそ芳一から取り戻した。
 今頃芳一は必死に自分とリーチの事を探しているに違いなかった。リーチ達の友人は殆ど警察関係者であるのでそちらには迂闊に手をだしはしないだろう。幾浦にしても、出張でアメリカの方に行くと先程メールを貰った。その方がいい。芳一は怒りに燃えているはずだからだ。いずれ幾浦のことも気付く。だから手を出される前に日本から脱出した方がいいのだ。とにかく芳一は何をするか分からない。
 そっとリーチに近づくと彼の目が開いた。
「何だよ。何か用か?」
 憮然とした表情でリーチは言った。
「アルバムを見て、何か思い出しました?」
 急に目を開けるとは思っていなかったので、驚きながらそう言った。気配に敏感なのは健在であるようだった。
「うるせー!知るかそんなこと。それより、な、俺暇なんだよ……外に出してくれよ……滅入りそうなんだ……」
 最後の方は気弱な声を出してはいるが、この程度で気弱になるリーチでは無いことを名執は心得ていた。
「私の気が滅入ったとしても、貴方はそんなことにはならない。嘘はつかないでくださいね」
 そういうと、「ちぇっ」と舌打ちをした。
「出す気が無いなら出てけ!鬱陶しいんだよ……お前が女ならまた違ってたんだけどな……男だから退屈しのぎの運動も出来やしない」
 吐き捨てるように言うとリーチは布団にくるまった。
「芳一さんとは寝たのですか?」
 それははっきりさせておきたかった。
「き……気持ち悪いこと言うな!ただでさえキスされたのだけでも、今思い出しても吐き気がするんだからな!そんなんで抱けるかっ!馬とやった方がましだ」
 布団から急に飛び起きてリーチは言った。そのリーチは真剣に馬とでもしそうな顔をしていた。だがこちらの方がムッとしたのだ。
 リーチは事もあろうに芳一とキスをした。
「馬がいるなら連れてきましたのに……残念でしたね」
 そう言うとリーチはすごい顔でこちらを睨んだ。冗談も通じないようだ。
「イライラしているんだ……殴られたくなければ黙って出て行けよ!」
「……分かりました」
 リーチの本気の瞳を見た名執は部屋を出た。
 第一日目から既にこちらの気の方が滅入っていた。

 二日目に入ってリーチがごねだした。
「風呂、はいりたい」
「鎖は届くでしょう?」
「お前な……どうやって服を服を脱げっていうんだよ!片足の鎖が邪魔で脱げねーんだよ!」
「鎖の方に追いやれば良いんですよ」
 さらりと名執はそう言った。
「お……おお……お前な……」
 リーチは切れる寸前であった。こんな風に扱われたことが無いからだろう。
「毎日同じパンツをはけって言うのかよ!」
「あ……そのことは忘れていました」
 そう言えば……そうでした。
 本当に忘れていたのだ。かといって鎖を外す鍵は無い。
「どうしましょう……」
 名執は思わずそう言ってしまった。
 ここに連れてきた時は、そんな事などこれっぽっちも考えなかったのだ。鎖のことも、とりあえずこのうちから逃げ出さないように……だけを考えて足首に填めたのだ。服を脱ぐ時どうするかなど全く頭に無かった。
「どうしましょうって……お前……嘘だろ……」
 呆れたような声でリーチは言った。
「そうですね……全部脱いでバスローブでも羽織りますか?それなら下着は必要ないでしょう?」
「それ、本気で言ってるだろ……」
「え……駄目ですか?」
 結局リーチはぶつぶつ言いながらバスローブを羽織ることにした様であった。鎖をちゃらちゃら鳴らし、バスルームへと向かう。名執はそれを見ながら本当に悪いことをしたと思った。
 とにかく考える余裕が無かったからだ。
 暫くするとリーチが呼んでいた。
「おい!おいって!」
「何ですか?」
 駆けつけると既にリーチは素っ裸で立っていた。思わず名執は顔が赤くなった。が、リーチは自分の姿などいっこうに構っていないようだった。
「な、何でこんな傷があるんだよ」
 名執はじっとリーチの胸を見て、そっと指で触りながら言った。
「これは貴方が撃たれたとき、私が手術をした痕です……あの時本当に貴方が死ぬのではないかと思うほど酷い怪我でした……」
 あの時見た出血の光景は今でも生々しく思い出せた。初めて血が怖くなった。自分は外科医である。術中の出血は何とも思わないのだが、あの時は酷くショックだったのだ。
 多分、その出血の量を見て、駄目かもしれないと思ったからかもしれない。
 何より相手は自分の愛する人だったからだ。
「改造拳銃で撃たれ、その手術後、今度は二階から落ちて肋骨を折り、再度手術をしました。その時のものです」
 リーチはその言葉を「ふうん」等と言って聞いていたが、急に名執の手を払った。
「やべえ……触るなよ……。理由は分かったからもういい」
 本当に嫌悪感を露わにしてリーチは言った。それが酷く心を苦しめる。
「はい……」
「それにしてもちっこい風呂だよな……芳一の所はでかかったから、すげー気持ちよかったんだぜ……」
 ふと漏らすリーチの一言がいちいち名執の心を傷つけた。分かってはいるのだが腹が立つより辛かった。
「バスローブはここに置いておきますね……」
 そう言ってバスローブを籠に入れると名執はそこから出た。
 キッチンに行くと先程まで読んでいた本を繰る。論文提出用の資料をこの休みに集中しようと思い、ここに持ってきたが、なかなか進まなかった。
 要は集中力なんですが……。
 リーチは自分が近づくと得体の知れない人間を見るような目を向けた。その所為で不必要に近づかないようにしていた。しかしそれで良いのだろうか?嫌がっても側にいて、彼の昔の話を聞かせるべきなのではないのだろうか?
 色々考えるがどれも名執は実行に移せずにいた。
 少しで良い。こちらが彼の心に入る扉を開けて欲しい。どんな名医でも相手が非協力であればどうしようもないのだ。

 湯船に浸かりながらリーチは大きな溜息を付いた。
 欲求不満だ……
 だからと言って自分で慰めるても火に油を注ぐだけだと分かっていた。それよりこんなに欲求不満なのは何故なのか自分でも分からなかった。以前の俺は禁欲生活でも送っていたのだろうか?そう思わせるほどウズウズしている。
「たまんねーな……」
 酒でも飲みたい気分だ……
 ここには酒は無いのだろうか?
 無ければ買いに行かせればいい。
 そう考えたリーチはさっさと身体を洗い、バスルームを出た。
 籠には薄いグリーンのバスローブが置かれていた。そのバスローブを見ながら散々悪態を付き、渋々それを着た。
 これから毎日とっかえひっかえバスローブを着て過ごすのか?
 そう思うとまたそぞろ腹が立ってきた。何の権利があってこんな目に合わなくてはならないのか?以前の自分がどんな人間であろうと、今何かを感じているのは俺なんだ!
 名執を殴り飛ばしたい気分であるが、目の前にするとそれも出来ない。その理由も分からない。誰かを殴ったりすることに躊躇するなど信じられないが、あの男はそう感じさせるのだ。その訳も説明できなかった。
 ちゃらちゃらと鎖を引きずりながら、部屋に戻ると名執はいなかった。仕方がないので呼ぶとすぐにやって来た。それだけは誉めてやろう。
「酒無いのか?」
「無いわけでは……」
 ちょっと困ったような顔で名執が言った。
「あるのか無いのかどっちなんだよ!」
 本当にむかつく奴だとリーチは怒鳴りながら言った。
「ワインなら……」
 小さな声でそう名執が言う。
「じゃ、それもってこいよ」
「…………」
 どうしようかという思案気な顔を名執はした。
「一人でマスかく訳にもいかねーだろ!酒を飲んで気を紛らわすんだよ!」
 噛みつくような声でリーチは怒鳴った。本当に頭に来ているのだ。
「分かりました」
 暫くすると名執はワインボトルとグラスを二つ持ってきた。
「お前も飲むつもりかよ」
「いけませんか?私のものですから権利はあります」
 きっぱりと言った名執に腹を立てながら仕方なくそれを受け入れた。
 暫く無言でお互いワインを飲んでいた。そうして一本目が終わる頃だんだん気分が良くなってきた。
「なぁ……俺ほんとーにお前を抱いたのか?」
 どう考えても男と抱き合う自分が想像できずにリーチはそう聞いた。
「信じない貴方に何を言っても信じないでしょう」
 目線を落として名執は寂しそうに言った。
「その言い方……可愛気げ無いな。お前みたいな奴と寝たなんて信じられねーよ」
 けっと吐き捨てるようにリーチは言った。
 確かに普通の男より綺麗で、女のような顔をしているが、自分と同じものを股ぐらに持っているのだ。
 そう考えてリーチは気持ち悪くなった。
「最初は貴方が私が嫌がるにも係わらず、今とは逆の立場で私を拘束したのは貴方です」 そう名執に言われた瞬間、リーチはワインを吹き出しそうになった。
「ううう……嘘を付くな!」
 思わず声を張り上げる。
「嘘を言って何の得があるんです?」
 じっとこちらを見て名執は言った。その目は嘘を付いているようには見えなかった。
「お前の言ってることを信用してだ、そんな事をした男とつき合ってたなんて、お前はマゾか?」
「何とでも……その理由は貴方が知っているはずです。だから今更そのことを話す必要も無いでしょう」
 こちらを見ていた名執の瞳が又逸らされた。
「お高くとまってんなぁ……その鼻ッ面をへし折ってやりたくてお前を監禁したんじゃねーのか?」
 笑いながらそう言うと名執はこちらを振り返った。その顔は怒っていた。
「何だよ……」
「恐いんでしょう……」
「何だって?」
「今の自分が恐い。そして以前の自分を取り戻すことも恐い。臆病なんですね……」
 そう言って名執は婉然と笑った。馬鹿にされていると分かるとこちらも腹が立った。
「俺に恐いものは無い!」
「そうですか?私にはそんな風には見えませんが……」
 名執は鼻で笑う。
 その名執の胸ぐらを掴んで言った。
「お前、俺のことが好きなんだろう?じゃ俺の欲求不満を解消してくれよ。それが出来ないのなら女を連れてこい」
「私が女性を用意すると思いますか?」
「なら、銜えろよ!」
 名執の頭を掴んで自分の股ぐらに引き寄せた。名執は手をついて、きつい表情でこちらを見た。非難しているのか、怒っているのか分からなかったが、酒の勢いもあってリーチも引き下がれなかった。
「銜えろ。俺の事好きなんだろ?じゃ、気持ちよくしてくれよ」
「今の貴方は私の愛したリーチじゃない……」
「四の五の言うな!」
 名執の両手を後ろで捻りあげ、壁に押しつけるとリーチは言った。
「……っ」
 それでも名執はこちらを睨んだまま視線を外さない。謝れば許してやろうかと少しは思っただろうが、こう挑戦的な目で睨まれると、こちらも受けて立つしか無いだろう。
 リーチは捻りあげた手に力を込めた。すると名執の口からは呻きが漏れた。
「どうせ慣れたもんなんだろ?」
「嫌……です……」
 その言葉にリーチは思わず手を振り上げた。今度こそ殴ってやろうと思ったにも関わらず、手が宙に浮いたまま止まる。
「……くそっ」
 振り上げた手をそのまま下ろして名執の頭を掴んで後ろに反らせる。そうすれば自然と口が開くからだ。
 名執の責めるように見開いた目を無視し、自分の逸物を無理矢理ねじ込んだ。
「……う……うう……」
 名執はこれでもかという位瞳を開け、そこから涙を零した。
「歯を立てるなよ。お前が俺を嫌いになったとしても、以前の俺は好きなんだろう?記憶が戻ったときに不能になられてちゃ困るよな」
 口元を歪めて名執に言った。
「う……うう……っ……」
 名執は眉をしかめて酷く苦しそうな顔をしていた。涙が頬を伝い、その顔が何とも言えない艶めかしさを醸し出している。相手は男だと思ってはいるが、信じられないことに、その顔に煽られ、リーチは自分の快感を追った。
 腰を思いっきり振り、喉の奥まで進入させる。声も出ない名執は必死に手に力を入れていたがリーチががっちり両手を掴み、もう片方で頭を押さえられているので、なすがままであった。
「あんたの口の中……最高だぜ……」
 思わず笑みを浮かべながらそう言った。
 結局自分の欲求だけ満たすとリーチは名執から手を離し、さっさと布団に横になった。後ろの気配は、暫くその場に座り込んでいたが、立ち上がってバスルームへと向かったようであった。
 すっきりしたはずなのに、何故か罪悪感が心に生まれた。いつもやってたんだろ、別にあいつにとってはいつものことだ……そう思うことで割り切ることにした。

 喉や口内が痛んだ。顎も痛い。
 視線をあげ、鏡に映る自分の顔は涙とリーチからもたらされた白濁した液で濡れそぼっていた。それを見て思わず蛇口を開けて水を勢いよく出した。次に両手で水をすくい、何度も何度も顔を洗った。
「リーチ……」
 呟く相手はいなかった。口の中が苦い味覚だけを伝える。
 こんな扱いを受けたことはなかった。リーチは自分を監禁したときもこんな事は強要しなかった。
「う……」
 泣くつもりなど無いのに、涙が止めどもなく溢れた。
 怖かった。
 本当に怖かった。
 彼はリーチだと思うようにしても見知らぬ男のように見えて仕方がなかった。
 最中は顎が外れるのではないか、このまま息が止まって死ぬのではないかと思った。それ程苦しんでいるにも関わらず、リーチはうっすらと笑みを口元に刷いていただけであった。完全に自分のことを忘れているのだ。
 もう一度鏡を見る。道に捨てられ、脅えている子犬のような顔をしていた。
 一週間……この短期間にどれだけ進展するのか?
 その間に手をかけられそうな予感もした。
 こんな環境に置いた自分を憎んで、殺してやろうと考えるかもしれない。
 名執は首を振ってそれを否定した。
 弱気になってなにになる?
 あれは紛れもなくリーチなのだ。ただ酔った勢いと言うのもあったのだろう。なにより自分が何とかしなければ、誰が彼を助けることが出来るのだ。
 リーチは必ずそこにいる。あの体の中に、記憶のどこかに……確かにいるのだ。
 もう一度顔を洗って深呼吸をし、笑顔を作ってみた。
 笑える間は大丈夫。
 今より酷い状況はいくらもあった。それを乗り越えてきただろう。今回も大丈夫に決まっている。過ぎればいつか笑い話になるのだ。
 そう言い聞かせて名執は必死に鏡に向かって笑顔を浮かべていた。

 次の日、朝食を持っていくとリーチは驚いた顔をしていた。名執が笑顔で食事を運んだ為だろう。
 最初はチラチラこちらを伺うように、食べていた所を見ると少しは気にしていたのかもしれない。そんなリーチを見て少し気が楽になると共に、新たに大丈夫と言う気持が出てきた。
「おいしいですか?」
「べ……別に……」
 それだけ言ってみそ汁を飲む。
 想像すればいいのだ。
 今目の前にいるのはリーチで、一週間一緒に過ごしている。二人ッきりの時間を過ごしている。
 そう思えば良いのだ。
「お昼はリクエストがありますか?」
「別に……それより……外に出たい。風に当たりたい。ここは息が詰まるんだ」
 そう言ってリーチは四方の壁をぐるりと眺めた。
「済みません……鍵があれば何となしたのですが……」
 これはミスであった。鍵は幾浦が持っている。それは名執が持っていると分かればリーチが何をするか分からないからであった。その時は幾浦が持っているのが一番いい方法であると思ったが、誰だって何日も閉じこめられるのは息が詰まるだろう。その上、ここは地下で窓がない。外の景色が見えず、時間は時計でしか確認できなかった。
 本当なら、リーチの覚えていそうな場所を廻るのが一番であったが、芳一の目と警察の目を誤魔化すために、外をうろつくことは出来なかった。
 どちらに見つかっても大変だからだ。
「鍵を預けた人間に貰ってこいよ」
「出張で……アメリカにいるのです……」
「…………」
 リーチの目が点になった。その後、怒りの表情になった。その顔は名執にはもう慣れたものであったので、それ程びくつくことは無かった。睨まれても自分にはどうしようも無いのだ。
「本当に……済みません……」
 もう一度言うと「けっ……」と短く言ってそっぽを向いた。
「パソコンゲームならありますのでそれで遊んでみると良いですよ。結構時間がつぶせます。持ってきているものはリーチがのめり込んだものばかりですので、きっと気に入ると思います」
 そう言ったが今度は返事がなかった。
 後かたづけをするためにキッチンに戻り、洗い物を終えるとそっとリーチの様子を窺った。すると、リーチは必死にゲームをしていた。その姿は以前見たリーチそのものであった。
 のめり込んでくるとマウスをやたら振り回したりするのは彼の癖であった。そんな姿を見ると思わず笑みが漏れる。声をかけずにもう一度キッチンに戻ると名執は自分の仕事を片づけることにした。
 気が付くと十二時を少し廻ったところであった。昼食の支度をする前にリーチの様子を再度窺うと、彼はパソコンの画面を見つめながら涙を落としていた。
「リーチ?」
 声をかけると、ハッとした顔をしてこちらを振り返り、手で涙を拭った。
「どうしたんですか?」
 思わず駆け寄ると、画面には一面の桜のムービーが流れていた。
「分かんねーけど……これを見ると……涙が止まらないんだ……」
 意外にしおらしくそう言ってまた画面を見る。 

 春菜さんは翌年の桜が満開の時期に病気で亡くなったんだ……

 トシの言葉が急に頭に浮かんだ。記憶を失っても、桜イコール春菜の死、そういう式が記憶の底にあるのだろうか?
 今、人目もはばからず涙しているリーチを見ると、その時感じた悲しみが、いかに強かったかを名執は知った。
 何故かは思い出せない。しかし断片的に残った記憶がリーチに涙を流させているのだろう。それが記憶をたどるきっかけになるかどうかは分からなかったが、名執は言った。
「貴方は……大学三年の時、春菜さんという女性に会ったのです。貴方は真剣にその人を愛したと聞いています。その人は翌年、桜が満開の時期に病気で亡くなったそうです。その事があるので、涙が出るのではありませんか?」
「春……菜……?」
 リーチは手を額に当てて考えていた。眉間にしわが寄っている。
「春菜さんです」
 じっと名執はリーチの横顔を眺めていた。
「わかんねぇ……」
 額に置いた手を今度は目の前に持ってきて眺めながら言った。
「俺が真剣に愛した女を、どうして忘れてしまっているんだろう……」
 肩を落としてリーチは言った。名執はそんなリーチの姿にチクリと胸が痛んだ。
 春菜のことはそうやって残念がる。しかし、自分のことは何故毛嫌いするのだろうか?男性だからか?
 そんな事を考えて名執は何度目か分からない溜息を付いた。
「女とつき合っていたのに、どうして今は男なんだ?」
 リーチはしかめた顔をして言った。
「私に聞くのですか?」
 私を引きずり込んだ貴方がそんな事を言うのですか?
 本当はそう言いたかった。
「だってさ、お前しか知らないだろう?」
 解けない式を訊ねるような言い方だった。
「私だって男性とおつきあいするとは思いませんでした」
「じゃ、何でつき合ってたんだよ。お前男じゃないか、俺だって男だぞ……気持ち悪いと思わないのか?」
「貴方が……」
 言葉に詰まってしまった。どうしてその先が言えるというのだろうか。
「俺がなんだよ……」
「何でもありません……」
 そう言って名執はその場を離れた。「おいって……」と後ろから自分を呼ぶ声を聞きながら振り向かずに部屋を出た。
 昼食が終わると名執はキッチンで本を開いた。進まない論文がパソコンの画面を白く染めていた。暫くするとリーチが名執の事を呼んでいた。
 考えてみるとリーチは一人になるとすぐ自分を呼んだ。それが分かってきた名執は、わざと部屋を出ることにしていた。
 呼ばれると嬉しいのだ。すぐに行ったとしても、悲しくなるか腹が立つことしかリーチは言わないが、それでも呼ばれるとその度に、すぐにリーチの元へと駆けていく。もしかすると少し何かを思い出したかもしれない……そう期待してしまうからだ。
「何ですか?」
「あっちで何をしてるんだよ」
 ふてくされた顔でリーチは言った。
「論文をぼちぼちですが作成しているのです」
「フーン……」
 頭を掻きながらリーチは言い、布団に横になった。それだけで次の言葉は無かった。用事は終わったのだと、名執が立ち上がるとリーチは言った。
「なぁ、するんならここでしろよ」
「え?」
「いちいちウロウロされんの鬱陶しいからさ……なら、最初からここにいた方が、なんか聞きたいときにすぐ聞けるだろ!」
 叫ぶように言うが迫力はなかった。リーチは色々理由を付けているが、人恋しいのだと名執は考えた。そんな自分を知られたくないリーチは訳の分からない理由を言っている。
 リーチが名執のマンションに入り浸るとき、大抵彼の目の届く範囲に名執がいないと呼ぶ。どうしてもしなくてはいけない用事があると、別室で離れて用事を済ますが、そんなときは機嫌が悪くなった。その理由をはっきりは言わないが、名執はリーチが寂しがり屋なのを知っていた。例え同じ屋根の下にいても、側にいないと嫌なのだろう。
 事件の渦中や極限状態に置かれたときのリーチは強靱な精神力の強さを見せた。しかし、名執と送る日常の生活におけるリーチは、寂しがり屋で甘えたであった。それが普段ギリギリまで精神を酷使しているリーチの、ストレス発散なのだろうと名執は考えていた。
 そんなリーチを知っていた名執は今の彼を見るとリーチは、やはりリーチであった。
「お邪魔でなければそうします」
 にっこりと笑いかけ名執は言った。
 別に話すわけでもなく同じ部屋でリーチはゲームをし、名執は運び込んだ簡易机の上にパソコンと本を並べ論文を作成した。あれほど進まなかった論文が、時間が経つのを忘れるくらい没頭していた。
 気が付くとリーチは丸くなって眠っていた。無防備な自分にしか見せたことのない寝顔であった。名執はあまりにも気持ちよく眠っているリーチの横に自分も身体を寄せて目を閉じた。
 睡魔はすぐにやって来た。

 薄暗いところであった。
 木が四方から垂れ下がり、まるで自分を取り囲む様に生えていた。その木は顔のような凹凸を浮かび上がらせ、不気味な笑いを浮かべている。
 周りを見回しても自分だけしかその場にいなかった。
「ここは……何処なんですか?」
 呟く声も揺れる木々の枝に消えた。
(ユキ……)
 リーチの声が聞こえた。必死に木をくぐり、走ってリーチを探すが何処にも見当たらない。
「リーチ!何処なんですか?」
 何度も叫んで走った。
 すると視界が急に開けて小さな家がぽつんと建っていた。
 その扉を開けるとリーチがいた。しかしリーチは芳一とベットで激しく求めあっていた。
「嘘……そんな……」
 愕然とその場に佇んでいる名執に気が付いたリーチが顔を上げた。
「そこで何をしてる?」
「リーチ……こんな……どうして芳一さんと……友達だって言ったじゃないですか!」
「だってお前には相手がいるじゃないか」
「相手?」
 名執の方に指をさし、リーチはそれに答えた。
 おそるおそる名執は後ろを振り返った。
 そこには祖父がニタリと歪んだ唇に薄笑いを浮かべながらながら立っていた。
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