Angel Sugar

「監禁愛3」 第10章

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 リーチは窓を開けてじっと外の風景を見ていた。
 何を考えているんだろう……トシはそんなリーチを窺っている。幾浦は既に会社に出かけ、アルはリーチから距離を取り、見える範囲にいた。しかしいつものようにじゃれつきはしない。
 アルは僕じゃないって気が付いてるんだ……そう思うとトシは少し嬉しくなった。
「あ~あ……退屈だな……」
 突然リーチはそう言って床に転がった。
 退屈であろう。ただでさえリーチはじっとしているのが苦手であった。事件が無い日は悪態ばかり付いているのだ。今の状況はリーチにとって生殺し状態であろう。
 早く記憶が戻れば全てが解決するのに……
 そんなことを思いながらトシは、再度リーチの様子を窺う。
「見てくれたかな……あいつ……」
 呟くようにリーチが言う、見てくれたのは何を指しているのか、トシには分からなかった。
「ちくしょうっ……!」
 吐き捨てるようにリーチはそう言って拳を壁に打ち付けた。
 ……
 トシには全く分からないリーチであった。



 郵便受けに入っていた封筒には差出人の名が無く、ポラロイドカメラで取られた一枚の写真が入っており、そこに写っているものが名執を驚かせた。
 小さい砂利を引いた地面に転がっているのは、血塗れの人間であった。顔をしたたか殴られたのか、元の容貌が分からないくらい腫れ上がっていた。しかし名執にはその写っている三人を覚えていた。この間来た男達であった。
 封筒にはそれ以外なにも入っていない。メモすらなかった。しかしこれはリーチの仕業だと思った。リーチが彼らにあれから更に制裁を加えたのであろう。
 では、この所為で岩倉家を出る羽目になったのだろうか?
 多分そうなのだ。
 益々罪悪感に苛まれる。折角、自ら自分の元に来てくれたリーチを追い出したのだ。
 リーチは関係なかったのにも関わらず……。
 今では芳一が企んだことだと確信していた。以前、会ったときはこれほど憎まれているとは思わなかった。多分、リーチが記憶を失ったことで、芳一の中にある何かが食い違ったのだろう。同情も多少は出来る。自分が好意を抱いている人間に気持が伝わらないと言うのは辛いことである。だからといってこんな目に合わされるのは理不尽である。ある意味、こういうやり方しか出来ない芳一を哀れだと感じた。
 それにしてもリーチは今、何処にいるのだろうか?
 芳一の家にはもう戻れないだろう。それに名執の家にやってくることも考えられなかった。後は幾浦の家だけである。
 僅かな希望を見つけて名執はそれにすがることにした。何よりリーチは殆ど現金を持っていないはずであった。必ず幾浦の家に行くだろう。自分が分からない人間がアルバイトなど出来ないからだ。頼れるところは幾浦しかいないことをリーチは充分、分かっているはずだった。
 名執はそう思いながら、祈るような気持で幾浦からの連絡を待つことにした。



 数日が経った。リーチは既に退屈で半死半生状態であった。幾浦は気を使っているようであったが、それすら負担になっていた。
 その日、十時頃電話が鳴った。しかし幾浦から電話を取るなと言われていたので無視をした。すると留守番電話がテープを回しだした。

 名執です。またお電話します。

「あっ……」
 受話器に駆け寄ったが、既に切れていた。
「何処に掛けるつもりなんだ?」
 いつの間にか帰ってきた幾浦が、不思議そうな顔でリーチに言った。
「いや……別に……電話が鳴ったから……」
「取るなと言っただろう……」
 そう言って幾浦は、留守番電話を聞くためにボタンを押した。そのメッセージを聞く前にリーチは、さっさと部屋から出ていった。
 暫くすると幾浦が「おい!」と呼ぶので仕方なく戻った。
「ほら……」
 そう言って幾浦は受話器を差し出した。
「何だよ……」
「良いから」
 受話器をリーチに渡すと幾浦は行ってしまった。誰だろうと思いながら受話器を耳に当てると、名執であった。
「あ……」
 リーチはそれだけ言って沈黙をした。
「リーチ?」
 久しぶりに聞くことが出来た名執の声は、リーチの心に染みわたった。
「ああ……」
「写真……見ました。それで……聞いて宜しいでしょうか?」
「な……なんだよ……」
 思わず不機嫌に返答したので、もっと素直に言えば良かったと後悔した。
「写真に写っていた人達は……今……どうしているんですか?」
 死んだと言いたかったが、そこまでは出来なかった。
「入院してる。あんたが……自身で文句が言いたかったら……入院してる病院を教えてやるよ……」
「いえ……そんなことは……。それで……芳一さんは?」
「あいつの前で、奴らをぼこぼこにしてやったから、かなり堪えてるはずだけど……。お前は芳一を半殺しにしたかったと思うけどな。それじゃ、あんまり芳一は堪えないだろうから、奴らの方をぼこぼこにした。お前の気がこれで済むとは思わないけど……」
「そう……ですか……」
 その声は何となく納得していないようであった。本当は今度話す機会があれば、あれもこれもと考えていたが、会話が詰まり、リーチは諦めた。
「じゃ……」
「リーチ……待って……」
「なに……?」
「今から……そちらに窺っても宜しいですか?」
「えっ?」
 信じられない事を名執が言ったので、リーチは思わず耳を疑った。
「こちらに来て頂いても良いのですが、こんな時間に貴方を幾浦さんに送って貰うのも申し訳ないことですので、私がそちらに伺います」
 名執はそれだけ言うと、電話を切った。
 リーチは名執が何のために、こちらに来ると言っているのか分からず、不安になったが、とりあえず幾浦に「あいつ来るって……」と言った。すると幾浦はニヤニヤと言う顔をした。
「地下駐車場に名執は車を入れるだろうから、十五分位すれば迎えに行くと良い」
「あ……そうだな……」
 別に何とも思っていないと言う表情をしたつもりであったが、あまり効果は無かったようであった。
 たかが十五分、待つことができずにリーチは数分後には靴を履いていた。
 地下駐車場に付くと壁にもたれて名執を待った。周囲は人気が無く、しんと静まり返っている。そんな中をリーチは落ち着かず、ウロウロと行ったり来たリを繰り返していた。 暫くするとベージュのソアラが入ってきた。それは名執の車であった。リーチの側に車を止めると名執が下りてきた。
「よ……」
「リーチ……あの……」
 名執は今にもこちらに走り出しそうな気配がした。しかしその後ろに蘭の姿を見つけた。
「蘭……お前何しに……」
 そのリーチの声に名執は振り向いた。
「目障りなんですよ……」
 いつものごとく無表情な顔で名執の方を向いて蘭は立っていた。名執の方はその人物が何者なのか分からずに蘭とリーチを交互に見ている。名執は気が付いていなかったが、リーチには蘭の殺気を感じ取っていた。
「どういうつもりだ?」
 リーチは蘭にそう問いかけた。額に汗が浮かぶ。
「一つ断っておきます。これは誰の命令でも無い、私個人が判断してすることです」
 そう言って蘭はすっと銃を名執に向けた。サイレンサー付きの銃である。名執はそれを見て凍り付いたようにその場に立ち竦んでいる。
「蘭……爺さんは知っているのか?」
「言ったはずです。誰もこのことは知りません。私個人で判断したのです」
「こいつを殺してみろ……俺はお前を殺す」
 そう言うと蘭は口を歪ませて声を出さずに笑った。普段無表情であるために、その笑いは不気味であった。
「どうぞ……」
 また無表情な顔に戻った蘭が言った。
「俺にしておけ……こいつには関係ないことだろ」
「分かっていないようですね。貴方を殺したりすれば、芳一さんは私を許さないでしょう。それだけは避けたいのです。ですが名執さんなら殺しても、貴方に殺されることがあっても他の人達は私を憎んだり、恨んだりしないでしょう」
「私が死んで……何かが変わるのですか?」
 突然、名執が言った。
「状況は悪くなるばかりだと思われないのですか?」
「安心して下さい。貴方が死ねば答えが出るでしょう」
 そう言って蘭は安全装置を外した。その音が静かな駐車場に響きわたる。
「蘭!よせ!」
 リーチは蘭に向かって走り出したが、誰よりも早くその銃を持つ手を止めた影があった。
「……っ!」
 ぐるる……と唸り声をあげ、噛みついた腕に牙を立てている。そこに後から来た幾浦がびっくりして走ってきた。
「アル!お前何を……」
 いきなり人に噛みついているアルを見て幾浦は驚いたが、その噛みついている腕の先に鈍い光を発する銃を見つけ、もっと驚いたようであった。
 リーチはその隙に名執を自分の後ろに立たせ、自分の身体でガードした。
「ちっ……」
 蘭はアルの細い足を、咬まれていない方の手で、捻った。するとゴキッと音が鳴り、次にアルの悲鳴のような鳴き声が響いた。
『アルッ!』
「アル!」
 幾浦の声と、頭の中から誰かの声が聞こえた。
 何だこれは……リーチはガンガンと頭から響く声に、身体が硬直した。
『リーチ!アルを助けて!』
 頭の奥から聞こえる声は必死にそう言っていた。目線では、キャウンキャウンと鳴きわめくアルを幾浦が抱えているのが見えていた。しかしリーチはそれを見ていなかった。
 俺は……一体……どうしちまったんだ……
 自分が狂ってしまったのかと考えるほど、頭の中から聞こえる声は幻聴に思えない響きを持っていた。その声は必死にアルを助けてと叫んでいた。
「お前一体!」
 幾浦が蘭に向かって言った。
「邪魔だ!」
 蘭はアルに向かって銃を突きつけ撃った。しかし撃たれたのはリーチの方であった。
「リーチ!」
 幾浦と名執が同時に叫んだ。銃弾はリーチの耳脇を掠めており、そこから血がドッと流れ出した。頭の芯からの痛みと、銃の衝撃で一瞬頭の中が真っ白になった。遠くから自分を呼ぶ声が聞こえる。
 ああ……何があったんだ……
 真っ白な中に突然色が付く。それは複雑な色の塊であった。その塊は肥大し、リーチに向かってくる。恐怖感と安堵がない交ぜにリーチを翻弄し、とうとう自分を覆ってしまった。
 俺……どうしたんだ?
 確か……横浜港に……トシ?
『リーチ!リーチ!良かった記憶が……』
 何を言ってるんだろう……
 リーチはトシが早口で言っていることが聞き取れなかった。暫くすると耳脇が酷く痛んだ。そっと手を当てるとヌルリとしたなま暖かい液体が指に触れた。
 血?何で?
 まだ意識がはっきりとしない。身体も動かせなかったが、誰かに身体を支えて貰っている。良く知っている匂いがした。そして自分を支えてくれている人物が何かを話していた。
 俺の大切なユキの声だ……
 名執に手を伸ばそうとしたが、いろんな記憶がリーチを怒濤のように襲った。それは一度目の波を被り、暫くして、より大きな波がリーチをのみ込んだ。その中で目まぐるしく記憶が見えたり消えたりした。
 何だ……
 記憶を一つ一つ認識しながら、リーチは恐怖に襲われた。
 これは夢だろう?

 名執はリーチを支えながら、傷の具合を見た。確かに血はかなり出ていたが、何針か縫うだけで大丈夫だろうと思った。意識が混濁しているのは衝撃で脳しんとうをおこしているのだ。それを確かめてから自分のシャツを引きちぎり、リーチの頭に巻いた。 
 そんなリーチをしっかりと抱きしめながら名執は蘭に言った。
「芳一さんは幸せな方ですね」
 蘭は何を言ってるんだという風に、やや眉をつり上げた。
「沢山の方に支えて貰って……心配してくれる方がいる…。芳一さんは私がリーチと一緒にいることを羨ましいと思っていらっしゃいますが、私を見て本当にそうだと思われますか?私はリーチに出会うまで、誰に支えて貰うこともなく、何の楽しみもない年月を過ごしてきました。友人と呼べる方は、そこにいる幾浦さんだけです。寄りかかることが出来るのはリーチだけです。こんな寂しい人生を送る私を羨ましいと本気で考えているのなら、芳一さんは我が儘すぎると思います」
「坊ちゃんは我が儘ではありません」
 鉄面皮を崩さず蘭は言った。相変わらず銃をこちらに向けている。
「なら、どうして彼が直に私に言ってこないのです?いつでも誰かが自分の事を気遣って、自分ではなく他の人間が動くのを待っているのですか?我が儘でないとすれば、卑怯ですね。いえ、もっとはっきり言うと臆病です。自分の後ろ盾を切り離すことも出来ず、砦から出ることが出来ない人間なのですから……」
「余程死にたいようだな……」
「私は死など恐くない。私にとって恐いのはリーチを失うことだけです」
 糸がピンと張ったような緊張感が周囲に漂った。幾浦は無言で成り行きを見守っている。すると突然リーチが叫んだ。
「あああああっ……!」
 名執の支える手を振り払って、地面にリーチは頭を抱えて蹲った。
「リーチ!」
「ユキ……」
 リーチは名執を見て言った。その一言で名執には分かった。記憶が戻ったのだ。
「リー……」
 名執が言おうとするとリーチは今にも泣き出しそうな表情をした。しかしそんな表情は一瞬だけで、次に見たことのない怒りの表情をその顔に刷いた。
「蘭……貴様……」
 ジリッと蘭に歩を詰めリーチは歩き出した。蘭の方はそんなリーチをじっと見ている。銃を持つ手首を掴み、捻りあげると腕が折れる鈍い音がした。苦痛の声は出さなかったが、その痛みに蘭は銃を落とした。
「何故……芳一を止めなかった?あいつを止められるのは、お前しかいないだろう?それなのにどうしてお前まで一緒くたになってるんだ……ええっ?」
 そう言ってリーチは蘭を殴った。その衝撃で蘭はコンクリートの地面に倒れ込んだ。その胸ぐらを掴んで再度リーチは言った。
「知ってるな?俺がユキをどれだけ大事にしているか……な、知ってたよな……しらねーとは言わせねーぞ!」
 殴りながら何度もリーチはそう言った。
「蘭……お前の黙秘にはあきあきしてるんだ……言いたいことがあれば言えよ。だがな、目障りだからと言う理由は聞けねーぞ……目障りならてめーが、外国でも地獄でもいきゃいいんだ。それとも俺が地獄に送ってやろうか?ん?」
 蘭が落とした銃を拾い上げ、リーチは手に持っていた。
「リーチ!止めて下さい!」
 その名執の声にリーチが一瞬動きを止めた。
「俺が……記憶を失っていたときのことを忘れていると思ってるだろ……」
 こちらを向かずにリーチは言った。
「え……まさか……」
 リーチは覚えているのだ。それも全て……。
「覚えていない方が良い記憶ばっかじゃねーか……こういうときに限って、定石通りにいかないものなんだな……」
 自嘲するような笑みでリーチは言った。
「蘭……止められなかった責任を死んで詫びろ……芳一は後から俺がお前の所に送ってやる……」
「…………」
「俺よか年上のくせに、人を見極める能力が無いんだな……俺が怒るとどうなるかは分かってただろ?それとも、記憶を失っていた俺なら何とかなると思ってたのか?」
 こめかみに銃口を当てられているにも関わらず、蘭は終始無言でリーチを見つめているだけであった。
「リーチ……もう……良いんです……」
 名執は銃を持つリーチの腕を掴んだ。
 リーチの気持が痛いほど名執には分かっていたのである。リーチは怒りより悲しみの方が強いのである。赤の他人なら、リーチは迷わず引き金を引いていただろう。しかし蘭にしろ芳一にしろ、リーチにとって大切な友人であったのだ。その気持がリーチの怒りにセーブを掛けている。
 辛いだろう。一人なら泣いていたかもしれない。そんな気持が手に取るように分かった。
 リーチは自分を止めて欲しいのだ。
「リーチ……止めましょう……」
 銃をリーチの手から取り、そっと抱きしめた。
「辛いでしょう……もう良いんです……みんな終わったんですよ……」
 そう言うとリーチは目を瞑った。
「蘭……俺は……芳一に対してもだが、ずっと信頼してきた……。お前達がどんな商売をしているか知っていたが、そんなことどうでも良かった。自分で言うのも何だけど……俺はめったやたらに人を信じはしない。その俺が信頼していた……。その意味が、お前に分かるか?どうして……俺が記憶を失っていたとき……ユキの力になってやれなかったんだっ!滅多に人に紹介しないユキをお前達に紹介したのも、俺が何かあったときにはきっと力になってくれると思ったから会わせたんだっ!。こんな……結果になるなんて……思わなかった……」
「貴方も悪いんです……芳一さんの気持ちを知っていながら……」
 苦痛に顔を歪めて蘭は言った。
「お前も分かっていないっ!。分かっていると思っていたのにな……」
 リーチは溜息をつきながら言った。
「あいつは本当の俺に惚れているわけじゃない。どうしてそれが分からない?あいつは坊ちゃんで育てられて、自分が命令する側の人間で甘やかされたんだ。爺さんやおっさんが悪いとはいえねーがな……。だから俺みたいに芳一に反論したり、怒鳴ったりする人間が物珍しかっただけだ。思い通りにならない人間がいたことにショックを受けて、自分のものにしたくなった。それは愛情なんかじゃ断じてねーぞ……。ただ芳一は自分でそれが分かっていない。子供じみた執着だと気付かない。そんな芳一と恋愛ごっこ出来ると思ってるのか?」
「それは貴方が考えた理屈でしょう。坊ちゃんは本当に貴方のことを……だから私は叶えてやりたかったのです」
「ユキは……優しい奴なんだ……何故だと思う?」
 じっとリーチは蘭を見つめていった。
「今まで人より辛い経験をしてきたからだ。辛く悲しい経験を積んだ人間は、人の痛みが分かる……。芳一のように誰かに保護されてきた人間には、絶対持ち得ない優しさがある。別に芳一が優しくないと言っているんじゃない。上手く言えないが、俺がユキに惚れたのは、無償の優しさをあいつの中に見つけたからだ。だから例えユキが俺より先に死んだとしても、代わりを見つける気はない」
 名執は初めて聞くリーチの告白に胸が一杯になった。
 本当に自分を見てくれているのだとわかり、涙が出るほど嬉しかった。ただ、自分にそんな優しさなどあるようには思えないので、リーチが何を見てそう思っているのかは分からなかった。
「ユキが俺を止めている間に……帰ってくれ……」
 リーチは名執から銃を取り、蘭の足下に転がした。その銃を取り、蘭はよろっと立ち上がった。去っていく後ろ姿にリーチは言った。
「もう二度と俺の前に姿を見せるな、見せたら今度こそ殺す。岩倉とも縁を切る。芳一にそう言っておけ。例の三人組は今晩中に日本を出した方が良い……俺は記憶を失っていた俺とは違うぞ。優しくはない。分かったな」
 背を向けて蘭はそれを聞いていたが、リーチが話し終えると去っていった。
「リーチ……」
 名執が廻していた腕を放して言った。するとリーチは、蘭が出ていった後を追うように歩き出した。
「リーチ?」
 何処に行くのだろうと名執は不安になった。
「ああ……赤の他人に見つけて貰って、元の生活に戻るよ……」
「傷の手当が……」
「いいよ……」
 それだけ言ってまた歩き出すのを幾浦が止めた。
「おい、リーチ!」
「幾浦……早く犬を病院に連れていってやれ……」
 こちらを振り返ることなく去っていくリーチを、二人は声も掛けられず見送った。



「それにしても隠岐が記憶喪失だったなんてなぁ……」
 篠原は不思議そうにそう言った。
「私も驚きです……」
 病院のベットに身体を起こしてトシは、適当に会話を流していた。昨晩、川崎病院に自ら向かい、院長に頼み込んでずっとここに収容されていたということにして貰ったのだ。こちらが言う嘘の理由を信じてくれたようであった。
 気が付くとこの病院に来ていたのです。何となく覚えているような気がして、ウロウロしていました。そう言ったが、こちらは血塗れで、何かやばいトラブルに巻き込まれているのを川崎が見過ごすことは無いだろう。
 しかし彼は傷を縫い、何も聞くことなく、迎えてくれた。
 借りばかり作っていたが、以前彼の娘を誘拐犯から取り戻したことに川崎は恩を感じており、隠岐利一と言う人間に絶大な信頼があるのだろう。
 リーチは今回もそれに甘えさせて貰うことにしたのだ。人の良い川崎を騙すことは心苦しかったが、仕方がなかった。
「しかし、川崎さんは隠岐のこと知ってたはずだろ?じゃ、なんで警視庁に連絡が入ったのが、あれから一ヶ月も経ってからなんだ?」
「最初、救急車で運ばれた私を診て下さったのが、新人の先生だったそうです。私の方も記憶を失っておりましたし……分からなかったらしいんですよ。そのうち川崎先生が偶然、私が廊下を歩いているのを見られて、初めて分かったそうです。私の記憶もその頃には徐々に回復していたのですが、記憶が曖昧で自信がなかったのです……。だから自分から警視庁にも連絡を出来ずにいました」
 今朝から何度も同じ台詞を繰り返してきたトシが、ウンザリしながら、しかし顔には出さずに言った。
「で、俺のことは思い出した?」
「篠原さん……いくらなんでも、もう大丈夫ですよ……」
 少しむくれたポーズを取ってトシは言った。
「そっか……そうそう、明日にでも神奈川県警の連中が来るって言ってたぜ。特にほれ、佐藤というルーキーの刑事が泣きながら喜んでいたそうだ。毎日刑事課の連中にタコ扱いされて、ほれ、北村なんかあのことで佐藤をかなり苛めたみたいだ。その所為でお前が見つかるまで、ノイローゼ寸前まで追いつめられてたらしいからな……」
「別に気になさらなくても良いんですが……。あれは仕方のないことですから……」
 リーチでは言えない台詞をトシは言った。そのリーチは今朝から「疲れた……」と言ってスリープしていた。
「あと数日で退院しても良いそうです。皆さんにご迷惑掛けた分、頑張りますね」
 トシはそう言って笑った。すると銃弾がかすった耳脇に響いて、思わず頭を押さえた。
「良いって、無理すんな。係長や部長も充分身体を治してから退院させてくれと、こっちの先生に話したらしいから、暫く惰眠を貪っておけよ」
「はぁ……」
「じゃ、俺、聞き込みに行くわ!」
 ウインクして篠原が病室を出ていった。それと入れ違いに幾浦がやって来た。幾浦にはトシが今朝電話をしたのである。
「恭眞……アル……どう?」
「大丈夫だ……それより、骨を繋ぎ合わせるとき、ほら、両方を引っ張るだろう、その時のアルが子供みたいに泣き叫んで私に目で訴えるんだ……それが忘れられなくて、今も可笑しくてな……」
 くくくと笑いながら幾浦は言った。昨日、あれほど緊迫したにも関わらず、幾浦はいつも通りであった。
「そんなに笑わないでよ……アルが助けてくれたんだから……。本当に賢いんだね」
「ああ……私も見直した」
 急に真剣な顔になった幾浦が言った。
「どの位入院するの?」
「もう、家に帰っているよ。疲れたのか、ずっとソファーで眠っている」
「今度、骨付きの肉をプレゼントするよ……」
 トシは笑顔でそう言った。
「ああ、それよりリーチはどうなんだ?名執には連絡をしたのか?」
「それは……リーチが待ってくれって……」
「そうか……だが、名執は心配していたぞ……あまりにも情緒不安定に思えたから、昨日はうちに泊めた。早く連絡をしてやらないと、もたないぞ」
 何がもたないかはトシも充分、分かっていた。だが、リーチもかなり参っているのだ。
 互いがそんな時に会うのは、トシも賛成できなかった。
「分かってるよ……でも僕からは連絡は出来ない」
「ああ……」
 渋々という感じに幾浦は返事をした。
「それで、岩倉のことは聞いたのか?」
「うん……大学の時、知り合ったみたい……。ただ僕がああいう職業の人達を毛嫌いするのを分かっていたから言えなかったんだって言ってた。でも本当は昔の自分を知られるのが嫌だったのかな……って。別に構わないのに……全然知らなかったわけじゃないのに隠されてたことがちょっぴりショックだったな……」
「いくら同じ身体を共有していても、秘密はあるさ。言えないことだってある。お前だって何でもかんでもリーチに話すわけでは無いだろう?それが普通だ。お前が気に病むことは無い」
 幾浦はそう言った。
「うん……分かってるんだ……。でもね、リーチって僕に言わないこと一杯あるんだよ。知らない振りしてるけど……それが寂しいかな……僕には肝心なことを相談できない様な気がして……そんなに頼りにならないかな……」
 トシは以前からそれを感じていた。リーチはあまり自分には相談事を持ち込まない。一方的にリーチに相談しているのはトシなのだ。はっきり気付いてしまうと、これほど辛いものはない。確かに自分では力不足なのは分かっていた。しかし、ずっと二人で身を寄せ合って今までやって来たのだ。どうして何も言ってくれないのだろうか?
「トシ……」
 幾浦が心配そうにこちらを見ている。
「恭眞だって……僕にはあんまり相談してくれないよね……。リーチとか……雪久さんには言うくせに……」
 自分は、そんなに子供扱いされているのだろうか?そう思うと涙が零れた。疎外感をヒシヒシと感じるのだ。
 幾浦はじっと聞きながらトシが話し終わると言った。
「私の場合は話しているぞ」
「本当?」
「お前がそう思うのなら、私は信用されていないと言うことだな。それはショックだ……」
 残念そうに幾浦は言った。
「御免……信じてるよ……本当だって……」
「ま、いい。ではリーチが悩んでいるな……と、気が付くとトシはそのことを聞くのか?」
「聞いても……言ってくれないから……いつの間にか聞かなくなっちゃった」
「そうか……それも問題なのかもしれないぞ……」
「えっ?」
「ほら、悩みはなかなか自分から相談できないだろう?かといって一度聞かれたからと言って、すぐに言えるものでは無い。何度か聞かれてやっと聞いて貰おうかなと、思うものだ。一度くらい断られたからと言ってそれでめげては駄目だと思わないか?悩んでいる人間は話せないと思いながら、助けを求めてると私は考えるが……どうだ?」
 その幾浦の口調は優しかった。
「リーチは聞いたって絶対言わないよ」
「言うまで問いつめてみたことはあるか?」
「それはないけど……」
「しつこく言いすぎて嫌われるのが恐いと思うんだろう?」
「それも……あるかもしれない……」
 幾浦はそれを聞くとフッと笑みを零した。
「何が可笑しいの?」
「いや、お前達は散々喧嘩をするくせに、そう言うメンタルな部分に関して、どうして弱気になるのだろうと思ってな……」
「別に……弱気にはなってないけど……」
「聞いたとして、力になれない無力さを知るのが恐いんだろうな」
「…………」
 図星であった。
「誰だって無力だよ……トシ……。相談されたからと言って、相手は良い案を出して欲しいとは思ってはいないさ、確かに良い案も出ることもあるだろうが、相談する側にとっては聞いて貰うことこそ、望んでいると思うが……どうだ?」
「分からないよ……」
「分からなくてもいい。でもお前が本当に誰かの力になりたいと思うなら、お前もぶつかっていくしかないだろうな……」
「アドバイスになってないよ……」
 涙声でトシは言った。幾浦のいわんとしている事が分かるようで、分からなかった。幾浦はリーチの性格を知らないからそう言うのだ。そう思いながらも、幾浦が言うことが正しいのではないかと思う。
「泣くな……」
 幾浦はトシの頬をそっと指で撫でた。
「僕って……頼りない?」
「ああ、泣いているうちは頼りにはならない」
 トシは幾浦にそう言われてグッと泣くのを堪えた。その顔が可笑しいのか、幾浦はぷっと吹き出した。
「ひっ……人が真剣になってるのに普通笑う?」
 そう言うと、幾浦はそっとトシの上半身を引き寄せて抱いた。
「何も無理をすること無いだろう。お前はお前だ。無理をしたとしても所詮付け焼き刃だ、変わろうとしなくて良い。自然に変わるから……」
「本当?」
「ああ……」
「でも……頑張ってリーチに聞いてみるよ……駄目もとって言うし……僕、リーチに早く元気になって貰いたいんだ……」
 それを聞いた幾浦は満足そうに笑みを浮かべていた。
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