「過去の問題、僕の絶叫」 第6章
話してくれた内容を要約するとこういうことだった。
まず二係に、三年ほど前に起こった殺人事件で、今はお宮入りになっていた事件なのだが、その犯人は木島洋という男だと密告の手紙が舞い込んだ。調べてみると、その木島は現在、有働丈二朗という現職の建設大臣秘書の一人であり、政治資金などを運ぶ金庫番の役目を持つ男だった。
二係がうろうろとその周辺を洗っているところを、公安とバッティングしたのだ。公安はかねてから元警官であった経歴を持つ有働を追いかけていたのだ。
有働は裏でどうも警察関係者の上層部の誰かを取り込み、自分の周りであった事件などをもみ消して貰っているのだ。その上層部の誰かが限定されないために、公安が日々追いかけているのだ。
そこで話し合いが行われ、木島を泳がせ、いくつかの証拠を二係と公安で別々に固めていたのだが、有働の懐刀であり、金庫番の木島が今回殺されたのだ。
だが、有働の方には目立った動きが木島死亡推定時間には無かった。その上、公安職員が有働を見張っていたのだから、アリバイは成立。他の秘書達も各公安員が見張っていたのだが、こちらも動きはなかった。
結局誰が木島を殺したのか分からないのである。考えられるのは政治資金の事が表沙汰になるのを恐れた有働が、誰かに依頼したのか、それとも過去の殺人が表沙汰になるのを恐れた誰かが木島を殺したのか、それすら分からずじまいなのだ。
結局二人死んだのは確実なのだが、何が原因なのか全く分からない状況であった。
「三年前の事件との関わりはどの程度分かっているんでしょうか?」
トシは佐波にそう聞いた。
「ああ、そっちはうちには関係ないから、二係にきいてくれるか?当時の担当は確か四係だったと記憶しているが……」
自分の所には関係ないという態度で佐波は言った。
「……はあ……そうします」
「ところで君は当分うちの下に付いて貰うのだから、秘密厳守で願うよ。何かあちらさんに報告するときはこちらを通してからにしてくれたまえ。うちはそういう機密事項を扱っているものでね。君を信用しないわけではないんだが、マスコミに今動かれるとこちらも困る。こっちは警察の中の警察だ。もしこれが警察の上層部の人間か関わっていたとすると表沙汰にするわけにはいかないんだよ」
「あの……ところで……二課は何も言ってこないのでしょうか?」
政治資金は二課担当だ。こっちも入ってくるとなると益々ややこしくなる。
「今のところ何も言ってこないが、時々あちらさんがちらつくのを見ると、暫くしたら言ってくるだろうと思うんだがね。政治資金などこっちは関係ないから勝手にやらせておけば良いんだよ」
ニヤと笑って佐波は言った。
『うう、どうしてこう警察ってのは内部でまとまらねえんだよ……今の状況を聞いてもバラバラだぞ。こんなのでまともな捜査が出来るのか?』
リーチがげんなりとそう言った。
『そんな事言っても……』
『だってこいつ、俺達に公安の犬になれって言ってるんだぜ。この俺様に向かって犬になれたあどういうことだよっ!』
腹立たしげにリーチは言った。
『仕方ないよ……とにかく……二係に行こうか……』
トシは溜息を付いてそう言った。
「じゃあ、私は二係の方へ顔を出してきます。あちらからは誰が来られるのですか?」
「蓮沼という君と同じ歳の男だった。彼は先程話して、もう帰って貰ったよ。表向きは向こうの捜査で動いて貰うことになるからね。隠岐君も帰って良いぞ。又呼び出すだろうが……」
また怪しげな笑いを浮かべて佐波は言った。
「あ、はあ……蓮沼さんですね。分かりました……」
トシはいそいそと立ち上がって公安部を出た。出るまで何故かずっとお尻の辺りに視線を感じていたのは言うまでもない。
『ねえリーチ尾行ついてる?』
トシは恐る恐るそう聞いた。
『いや、無いみたいだ……。尾行を付ける気にはならなかったんだろうなあ。でも俺とユキの仲を裂くような行動に出る奴はとっつかまえてぼこぼこにしてやるつもりだ』
リーチはそう言って胸を張った。
『あのねえ……ぼこぼこって相手も一応僕たちと同じ警察官だよ』
トシは呆れてそう言った。
『俺達のプライベートを奪う奴は、ぼこぼこにしてもいいんだっ!』
またリーチは訳の分からない持論を展開していた。
『いいけどね。でも尾行が付いた段階で教えてよ。それまではとりあえずプライベートは今まで通り取れると思うし……』
『だから、付いた段階で捕まえて両手足縛ってその辺に転がしとけば良いじゃないか。別に気にすること無いさ。お前も安心して幾浦と会えば良いぞ』
不穏なことを言うリーチをトシは無視して、二係に入った。
「済みません。強行犯三係の隠岐です……」
そう言うと、二係の葛原係長が出てきた。
「隠岐……大変だったな。うちの蓮沼もさっき帰ってきたが、脅かされたようだ。聞いても何も答えやしない……」
全くと言って葛原はあきれ顔で言った。
「え、脅かされたんですか?」
「なんだお前は全然堪えていないようだな。まあお前は可愛い顔をしているが度胸が据わっていると里中が言ってたから、大丈夫だったんだろう。うちの蓮沼は図体はでかいがネズミ並の心臓しか持っていない男だからな」
葛原は苦笑してそう言った。
「そうでしょうか?」
何か脅されたのだろうか?
そういう会話は無かったはずだ。
『あー俺なんか分かる……』
リーチはそう言った。
『何が分かるの?』
『蓮沼って、ほら、可愛くないだろ?体育会系の体つきしてるしさ。あのは虫類の好みに合わなかったんだろ。だから苛められたんだよ~わはははは』
笑い事じゃないっての……。
『それ、嬉しい?僕あの人に見られるだけでなんかブリザードの中に立たされたみたいに寒くなるんだけど……』
『出ていくまでずっと俺らの尻ばっかり見てたしな……』
『や、やっぱり~僕も感じたんだよ……気持ち悪い~』
トシは嫌そうにそう言った。
「ところで、公安は何を言ってるんだ?」
「とにかくごちゃついているんです。このまま行けば二課も入ってよつどもえです」
溜息を付きながらトシは言った。
「二課も入るのか?政治も絡んでるって事か……。まあ、木島を捜査して上に大臣が居ることが分かった時点でもしかしてとは思ったがな……」
こちらは大きな溜息をついて葛原は言った。
「ところで、その発端になった事件の概要を教えていただきたいんですけど……」
資料などは既に四係を離れて二係に来ているはずなのだ。
「ああ、いいよ」
言って葛原は当時の捜査資料の入っている箱を持ってきた。
「これこちらで見せていただいて宜しいでしょうか?」
「そこの机を使ってくれて良い。それと、今回の再捜査になった手紙も一緒に中に入れてある。指紋は検出されなかった。手紙はパソコンから出力されたもので、パソコンの機種も紙も大量に出回っているもので全く手がかり無し。要するに手紙を誰が出してきたのか分からないって事だ」
「……そうですか……」
言いながらトシは机に資料の入った箱を置き、椅子に座った。
三年前、中野弘文という男が、雨の降る公園で殺されていた。所持金は奪われたのか、所持していなかった。雨の日という事もあり、犯人に行き着く証拠になるものは何も周囲にはなかった。
物取りの犯行と断定されたが、人気のない夜の公園であったため、目撃者も居ず、捜査は難航し、そのままお宮入りとなった。
『あっさりした事件だな……』
リーチがそう言って面白くなさそうな顔をした。
『あ、当時の重要参考人の写真があるよ。リーチどう?』
トシがそう言うとリーチはそれを暫く眺めていたが、溜息を付いただけであった。この中に犯人は居ないと言うことだろう。
『もう帰ろうぜ……ここも陰気だ……』
今度は欠伸をしながらリーチは言った。本日は確かに疲れただろう。
『うん。帰ろうか……』
「読み終わりましたので、私も三係に帰りますね……」
トシはそう言って立ち上がった。
「ああ、何かうちの蓮沼と関わることがあるんだったら、こいつを躾直してやってくれ」
笑いながら葛原はそう言って見送ってくれた。
暫く事件で振りまわされていたのだが、ようやく時間を取ることが出来たトシは幾浦と外食する約束をした。
事件というのはある一定の佳境を過ぎると、普通のサラリーマンより残業が多いという生活になるのだ。家にだってちゃんと帰られる。
大体何件かの捜査本部を兼務するのが捜査一課の刑事であり、余程大きな事件でないと一つに絞って人員を投入することはない。たとえそんな時でも兼務している事件が最終段階に入ると、そちらに一旦戻るのだ。
そして今日は時間が取れた。
トシはうきうきしながら幾浦との待ち合わせの場所へ向かうために、歩道を歩いていると、リーチが言った。
『付けられてるぞ……』
『えっ?』
言いながらトシは後ろを振り返ったが、トシには誰が付けてきているのか分からない。
『……あ、緒方さんだぞ……』
『え、だから何処に居るの?僕分からないよ……』
キョロキョロしながらトシはそう言った。
『電信柱の後ろだ……お前さあ、思いっきり身体はみ出させてる相手くらい気付よな……』
呆れたようにリーチは言った。
『あ、ホントだ……』
トシがリーチの言う電信柱を見ると、確かにそこに緒方がいた。こちらの視線に気が付いたのか、緒方は頭をかきながらこちらに近寄ってきた。
「ばれたみたいだね……さすが刑事のトシだ……」
『ばっかじゃねえのか?見つけて下さいと言わんばかりの尾行だったぞ……。まあトシは気が付かなかったけどな……』
そう言ってリーチは小さく舌打ちをした。だがトシは複雑だった。この間旅行先での緒方との再会は、まだ色々考える所が多かったのだ。
「……あのう……どうして私をつけているのでしょうか……」
困ったような表情でトシは言った。
「ゆっくり話ししたくて……」
「……もうお話は終わった筈ですが……」
やや視線を落としてトシは言った。
あの時の誤解は解けた。そして、緒方が自分に対してどういう気持ちを抱いて居たのかも知った。
だからこれからは元通りに……と言うわけにもいかない。わだかまりという物は、それが解けるまでに要した時間だけ、長く心に残るものだとトシは思っている。
これがリーチだったら、やあやあで済むんだろうけど……僕には無理だよ……
「もちろん、昔みたいに……ってすぐには無理だと思うけど、友達として時々食事したりして、ゆっくりお互いの関係を戻していきたいと思ってるんだけど……駄目かな?」
確かにそれも良いかもしれないとトシは思ったが、もうトシとしての付き合いは出来ないのだ。
あの時は限られた空間と時間内であったからトシとして緒方と会うことを許された。だが今後はそうはいかない。それは自分自身が特殊であるからだ。トシとリーチが自分をさらけ出してもいいのは互いの恋人達の前だけである。
リーチには例外があったけど……。
ただ、利一という作った男の性格上、ここで断る訳にはいかないのだ。
「私は刑事ですので、普通の友人同士という付き合いがなかなか出来ないのですが……例え約束をしたとしても、何時それを反故にしてしまうか分かりません。そう言う事情で離れてしまった友人も今までいましたし……」
やや、顔を上げてトシはそう言った。
「それは分かってるよ。良かった……トシはきっとそう言ってくれると思った。あ、そうだ。今暇だったら、どっか御茶でも飲みに行こうか?」
緒方は嬉しそうにそう言った。
僕はまだすごく引っかかってるのに……
緒方さんはこんな風に普通に接してくれている……
そんな緒方さんに僕の態度ってすごく酷い事なのかもしれない……
トシはそんな風に思ったのだが、本日は幾浦との約束がこれから待っているのだ。
『どーすんだあ?俺しんねーぞ~』
リーチはからかい口調でそう言った。
『まだ約束まで時間があるし……少しくらいなら良いかな……。あ、リーチ起きててくれていいから……』
気は進まなかったがトシは緒方に「少しくらいなら……」と言って二人で喫茶店に入った。
店内は白を基調にした明るい場所で、カップルもいれば待ち合わせ相手を待っている人、一人でコーヒーを飲むのを楽しんでいる人が沢山居た。
その中で二人席が一つ空いていたので、そこに座ると、二人ともコーヒーを頼んだ。
「なんだかトシにコーヒーは似合わない様な気がするよ……」
笑みを浮かべて緒方は言った。
「そうですか?」
僕はリーチのミルクセーキ好きの方が似合わないと思うけど……トシはそう思ったが口には出さなかった。
「そんな話はいいよな……。で、身体の方はもう良いのかい?」
「え?」
「ずっと入院していた事件があっただろ?それのこと……一時、ニュースではもうトシは駄目だみたいな報道もあったから……今こうやって元気にしてるのが不思議だよ……。ああいうニュースって言うのは信用ならないもんだよな……。もちろん、トシが元気になってホッとしてるけどね」
口調とは違い、しんみりとした表情で緒方は言った。
「……そうですね。あの時は沢山の方に心配を掛けました……」
「あんな事があって刑事なんか辞めるんじゃないかと思ったのに……」
「私の天職だと思ってるんです……確かに酷い怪我を負いましたが……辞めたいとは思いませんでした」
『えへへへへへ……』
いきなりリーチが妙な笑い方をした。
『な、何?何だよ……』
『何でもない……』
意味ありげにリーチはそう言って又沈黙した。
「そう。俺は辞めても良いと思ったんだけど……トシがそれほど真剣に仕事に打ち込んで居るんだったら、俺はこんな風に言ったら駄目なんだよね……」
緒方はそう言ってコーヒーを一口飲んだ。
「……いえ、そんな風に他の方からも言われましたから……」
トシはそう言って笑みを浮かべた。
「刑事って大変なんだろうなあ……」
「そんなこと無いですよ。本当に大きな事件があったら家にも帰られなくなりますけど、普段は捜査をしながらちゃんと家にも帰られること出来るんです」
「今日みたいに?」
じっとこちらを見つけて緒方は言った。その真剣な眼差しにトシはキュッと胸が痛んだ。
「ええ……ちゃんと友人とも会う時間を取れます……」
「俺にも時間をこれから取ってくれる?」
「……え、あ、もちろんです……」
トシは急にそう言われたことで何も考えずにそう答えた。
『うっへっへっへっ……』
又リーチが笑う。
『さっきから何?気持ち悪いんだけど……』
『……何でもねえ~』
と言って先程と同じく沈黙した。
もう~一体何なんだよっ!
と思いながら時間を確認すると、もう幾浦との約束時間が迫っていた。
「あ、済みません。今日はこれから約束が入っていまして……。又今度ゆっくり……」
慌てて立ち上がると緒方に手を掴まれた。
「連絡先……は?」
「忙しくしていますので、メールを頂けるとありがたいです……。これがメール番号です」
トシはそう言ってメール番号を書いた名刺を渡した。携帯の方は余り頻繁に掛けられると、それが事件の渦中である場合とても困るからだ。
「俺も渡しておくよ。携帯番号とメールの書いた名刺……。俺の方は暇にしてるから、連絡はいつでもいいよ……」
ニコリと笑って緒方はそう言うと、名刺をこちらに渡してきた。トシはそれを受け取ると胸ポケットに入れた。
「じゃあ……又……」
やんわりと掴まれた手を離してトシが伝票を取ろうとしたが、先に緒方に取られた。
「今日は俺のおごり……」
「……ありがとうございます……」
言ってトシはぺこりと頭を下げると、喫茶店を後にした。
遅刻だーーと、トシが約束の場所に向かって走っているとリーチが言った。
『トシちゃん~尾行されてるよ~ん』
リーチは嬉しげにそう言った。
『何?今度は誰?』
足を止めて振り返ると、幾浦だった。
「あ、あわわ……」
不機嫌そうに幾浦も足を止めて、今度はこちらに向かって歩き出した。
『な、なんで?』
『あそこの茶店ってさあ、外から丸見えだったの気付かなかったのか?あいつ歩いてる途中でお前を見つけて、ずーーーっと外でお前らの事見てたぞ……』
だから、リーチが変な声で笑っていたのだ。
『そ、そう言うことをどうして教えてくれないの?』
この男、幾浦の様子を見て非常に楽しんでいたのだろう。
『だってなあ、言ってもどうしようもねえ状況だったじゃねえか~。お前は緒方と浮気してるんだしよ~幾浦ちゃんショック~って奴だよなあ~』
もう、これでもかと言うくらい、リーチは楽しんでいる。
『リーチはどうしてそう……あっ!寝るなんて狡いよっ!』
引き留める言葉を無視してリーチはスリープしてしまった。
あーーもうっ!
リーチのばかあっ!
「トシ、約束はどうなった?」
じーっとこちらを見ながら幾浦は言った。
「……あ……と、あの、約束の場所に行く途中、緒方さんに会って、時間がまだあったから……御茶でもって事になって……」
もうトシは驚きすぎて、その口調はしどろもどろだ。自分でどう説明しているのか全く分かっていない。
「お前が誘ったのか?」
不機嫌全開で幾浦はそう言った。
「えっ、違うよッ!緒方さんから……」
と、そこまで言ってトシは考えた。
これってなんだか僕、悪い事していて言い訳してるみたいだよね……
悪い事している訳じゃないから、別に普通にしてたらいいんだよ……
そうだよ~
「緒方さんから誘われたけど、僕も時間があったからつき合っただけだよ。別に恭眞がそんな不機嫌な顔をするようなことしてないけど……」
そうトシが言うと、幾浦は急に破顔した。
「とにかく……ま、食事に行こうか……」
「あ、うん……」
こんな風に幾浦の機嫌が治ることは珍しいのだ。
そうして幾浦と約束していたイタリアレストランの店に二人で入った。
「あのさ……」
予約席に案内され、椅子に腰を掛けるとトシは言った。
「何だ?」
幾浦の方はメニューを見ながら言った。
「……え……と……」
急にどうして機嫌が治ったのかを聞きたいのだが、下手に聞くと又機嫌が悪くなりそうで、トシは次の言葉が出なかった。だが幾浦はそんな様子のトシが、今何を言いおうとしたのかに気が付いた様であった。
「ああ、トシが緒方と会っているのを見た事については、いい気はしなかったが、お前がきちんと自分の中で過去を清算できていると分かったことが嬉しかったんだ……。まあ、御茶だけだぞ許すのは……」
チラとこちらをメニュー越しに見て幾浦は言った。
「……うん……。ありがとう恭眞……」
「実はあんまり会って欲しくはないんだが……あの男がお前に何をしようとしたかを私は知っているからな。だから会うときはリーチを起こしたまま会うんだぞ。妙な行動に出たときはあいつに袋にしてもらえ、分かったな。リーチと一緒ならいい、それが条件だ。ああ、忘れていたが、あいつが又好きだのなんだの言ってきた時は、その場で二度と会わない相手にして貰うぞ」
くどいくらいそう言って幾浦は、やってきたボーイに注文を告げた。
「そ、そうする……」
苦笑してトシはそう言った。
幾浦はきっと、トシがトシでおれる相手を一人くらい許してやろうと思ったのだろう。だが、トシは緒方に対してトシとして会うつもりは無かった。というより、それはリーチとの約束上、もう出来ないのだ。
昔は良かった。だがもう今は緒方にトシとして会うことは出来ないのだ。それをトシは幾浦に言うつもりはなかった。せっかっく許してくれているのだ。その事で幾浦も色々考えたのだろうと分かるからだ。
会うなと言うことは簡単だったはずだ。
だが幾浦は会っても良いと言ってくれた……。
トシはそんな幾浦の優しい気持ちに、又幾浦という男に惚れ直した気分だった。
照れ照れとした顔でトシは幾浦を見つめていると「どうした?」と幾浦が言った。
「なんか恭眞って格好いいなあって思ったんだ……」
「……何だ突然……」
こほんと咳払いを一つして幾浦は言った。
これは幾浦が照れたときに良くする行動の一つだった。
「何時も思ってるけど、時々口に出して言いたくなるんだ……」
「……そうか……」
言葉短く幾浦はそう言うが、本人はとても喜んでいることもトシには分かっていた。
こうやって二人で一緒にいると本当に幸せだなあ……とトシが思っていると、幾浦が突然言った。
「実は緒方という男を少し調べさせて貰ったよ……」
言いながらなにやら鞄から取り出した。
「はあっ?」
「いや、お前が色々気にしていたからな……ほら……」
何冊かの雑誌をトシの前に差し出して幾浦はそれを見るように指さした。トシは幾浦に促されるまま雑誌に手を伸ばした。それには緒方が書いた紀行文や、ルポが載っていた。
「記者だっていうのもなんだか嘘臭かったからな。本当かどうか確認したんだ。確かに新聞社の文化部に居た」
何故か不服そうに言った。
「……恭眞って……すごい……」
「調べるのが本職のトシにそんな風に言われると、困るのだが……。私はお前も確認の為に調べているとは思ったが……しなかったのか?」
今度は苦笑したような顔で幾浦は言った。
「そんなこと考えもしなかった……」
と、トシが感心して言うと、幾浦はいきなり今出して見せた雑誌を掴んで鞄になおした。
「あ、中身見せてよ……」
さあ、ルポを読むぞと思って持っていた雑誌まで幾浦は取り上げた。
「……いや。それはいい。お前が知っていると思って出しただけだ。知らなかったら別に読む必要はない」
「どうして?何?都合悪いの?」
「……」
頑なにそう言う幾浦の態度にトシは理解できなかった。
「いいよ。そんな風にもったいぶるんだったら、僕自分で探すよ。こう言うの保管している部署もあるし……」
トシがそう言うと渋々幾浦は雑誌を又鞄から出してトシに渡した。それらを受け取ってトシは中の記事を読んだ。
それはどれもとても優しさの溢れる文体で書かれていた。
中でも重病の少女が病を克服するまでのルポは、さらっと目を通しただけでも、感動して目に涙が浮かびそうになるほどであった。
「緒方さんって……昔から優しい人だけど、今も変わらないんだ……」
変わっていない緒方の性格を確認できたトシは何故かとても嬉しかった。昔あんな風に喧嘩をしなければ、今どうなっていたのだろうか……
きっと良い友達で今もつき合っていたのだろう。
「だから……知らなかったら、知らないままでそっとしておきたかったんだが……。自分で株を上げてしまったな……全く……」
ムッとしながら幾浦は言った。
「え、僕は緒方さんがあれから変わってないって事が分かってすごく嬉しかったよ。どうしてそんなこと言うの?」
「……これだからトシは……」
幾浦はそう言って溜息をついた。
「これだからって何だよ……もう……」
トシがそう言うと、料理が運ばれてきた。だがその量は半端ではなかった。
「さあ、食べようかトシ……」
「ねえ恭眞……すご量なんだけど……」
じいっと並べられた料理を見て、トシは言った。
「そうか?お前は元々食べる方だろう?」
クスクス笑いながら幾浦は言った。
「……そうだけど……ねえ……」
「なんだ?」
「残ったらアルにお持ち帰り出来るかな?」
トシがそう言うと幾浦は爆笑した。
食事を終え、店を出るとタクシーを拾うために表通りまで歩いた。その途中トシはチラと視界に緒方の姿を見たような気がした。
あれ……
その方向を見ながら、幾浦を伺うと、幾浦の方はタクシーを拾うのに手を上げていた。
『リーチ……ちょっとウエイクして……』
『……何?ふあ……もう朝?』
リーチはそう言って目を擦った。
『違うよ……ちょっとあれ見て……緒方さんだよね……』
道路の向こう側にある路地に緒方が立っているのだ。だがこちらと向こうとの間には道路があるため、そこを車が常時行き来する。その為トシには、はっきりあれは緒方だと確認できないのだ。
『……おい、どうなってるんだ?』
リーチが声を低くしてそう言った。
『え……何?』
『緒方さんの相手だよ。あれは有働の秘書の一人だぞ……。それにだ、回りに何人か見知ったデカが張り付いてやがる……』
トシは絶句して声がすぐには出なかった。