Angel Sugar

「過去の問題、僕の絶叫」 第10章

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 何をするのかとトシが見ていると、リーチはトイレから廊下に出ると、キョロキョロとし始めた。
 周囲には気味悪いほど誰もいない。
『俺……今日ほど利一の身長が低いことを恨んだことはねえぞ……』
 そんな中、意味の分からないことをリーチは呟いた。
『リーチ?』
 トシが訊ねるようにそう言うと、リーチは何故か笑いながら、廊下に設置されたゴミ箱を引っ張り出した。そうしてその上にのぼり、ライターをつけた。
『あ……そっか』
 ようやくリーチの行動が理解できた瞬間、周囲一帯に警報が鳴り響き、スプリンクラーから勢いよく水が降り出した。それを避けるようにリーチは又トイレに入る。すると廊下に人が集まってくる声が聞こえてきた。
『リーチって……はは。やるなあ~』
『あれはな、誤作動って言うんだ』
 ははとリーチも笑い、そうしてまたトイレの窓に手をかけ、今度は更に上の階へと上がった。
 すると三階のトイレには若い男がおり、一人洗面台で手を洗っていたようだった。その男はこちらを向いて目を見開いている。
「あ、こんばんは」
 と間抜けなことをリーチは言いながら、相手の男が何か言う前に鳩尾に拳を当てて、気絶させた。
『リーチ……すっごい手慣れてない?』
 既に男を引きずり、個室に隠そうとしているリーチにトシがそう言うと、リーチは『ん~ちょっとね』と言った。
 全く……
 こういうことどうして出来るかな……
 もちろんばれたら困るけど……
 ああもう……
 冷や冷やする~
 とトシが内心思っていることなどリーチは全く分からないのだろう。
 リーチにはどこか、何事に対してもどうにかなるもんだという意識があるのだ。それがいつだって上手く行くものだから、余計始末に負えない。
 これも運って言うのかなあ……
 絶対、悪運を持っているのはリーチだよなあ……
 ちょっと羨ましいかも……
 なんて思っていると、リーチは個室のトイレを閉め、廊下に出た。
 相変わらず鳴り響く警報の所為で、廊下には病人らしき人間がおろおろと様子を窺いに出てきていた。
 そこに「機械の誤作動ですからご安心下さい」と館内放送が流された。それでも、皆それぞれ普段聞き慣れない音を聞き慌てている。その所為か、こちらのことなど気にも止めずに、自分たちの病室から出て見知った仲間達とひそひそと何やら話していた。その中で一つ扉が閉ざされている病室があった。
 それは二階のトイレで聞いた一番奥の部屋だった。
『リーチ!あれだよ!』
『よし……いくぞ……』
 走ると不審に思われるため、リーチはゆっくりと歩を進め問題の病室前に立ち、ゆっくりと扉を開けた。
「何ですか貴方は……」
 すると、薄暗い病室にいた看護婦が一人立ち上がってこちらに近寄ってくる。その看護婦も次の言葉を発させる前にリーチが気絶させた。
 ……
 いいのかな……
 良いこと無いんだろうけど……
『トシちゃん~説得頼むよ。俺こういうの苦手』
 言ってリーチは、トシに主導権を渡した。
 病室を見回すと、それほど広くない個室にベットが置かれ、カーテンが下ろされていた。その為中が確認できなかった。
「……誰かいるの?」
 小さな声で急にカーテン向こうから問われて、トシは言った。
「由香里さんですか?貴方のお兄さんから伺ってお見舞いに来たんです」
「え、お兄ちゃんから?」
 その声は嬉しそうだった。
 幾つくらいの人だろう……
 そう思いながら、トシはベットに近づいてカーテンをそっと開けた。
 由香里はやや痩せた身体で、日に当たったことが無い独特の血色をしていた。緒方にどことなくその顔は似ており、その所為で兄妹だとわかる。年の頃は二十歳過ぎくらいだ。
「お兄さんの友人の隠岐利一と申します。ご存じだと嬉しいのですが……」
 照れた口調でトシはそう言うと、由香里の血色のない顔がパッと笑顔になった。だがこちらを見ている瞳は視点が合っていない。
 本当に見えないのだ。
「知ってます。お兄ちゃん良く隠岐さんの話聞かせてくれたから……すごい人だぞって……ふふ。今まで聞いたお兄ちゃんの友達って隠岐さんしかいないんですよ。ホントお兄ちゃんって友達を作るのが苦手みたい……」
 くすくすと小さく笑って由香里は咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」
 そう言ってトシは咳き込む由香里の背を撫でた。
「大丈夫。自分でも何が悪いのかよく分からないの……」
 悲しげにそういう由香里の肩まで下ろした髪がサラサラと揺れた。
「実はお兄さん……事故で入院してしまって……出来たら由香里さんを連れて行きたいのですけど……。お兄さんが会いたがってるんです……」
「えっ!お兄ちゃんが?嘘っ!大丈夫なんですか?」
 今度は蒼白に近い顔色で由香里はこちらにそう言った。
「あ、大した怪我じゃないんですよ。心配するほどのことは無いんですけど、私にわがままを言うんですよ。会いたいって。不安なんでしょうね」
「本当に大丈夫なんですか?」
 視点の合わない瞳が不安げに揺れる。
「ベットで悪態をついてます」
 そう言うと由香里はようやくこちらを掴んでいた手を離して、笑った。
「そう……そっか……もうお兄ちゃんたら……」
「ところで由香里さんは、外に出たりする事は出来ないんですか?」
「余り出られないんです……今は落ち着いているんですけど……。心臓に疾患があるらしくて……」
 悲しげに由香里はそう言った。
『リーチ……どうする?』
『余りっていうのは出られるってことだろ……』
『……そうなんだけどね……』
「でも……もし連れて行って貰えるなら……お兄ちゃんに会いに行きたいんですけど……。私……もうずっとお兄ちゃんに会ってないんです。お兄ちゃんは忙しいって聞いていたから、わがまま言ったら駄目だって何も言わずに待っていたんです。でも……」
 今度はそう言って由香里は目線を落とした。
「じゃあ……行きましょう。看護婦さんもいますし、苦しかったら私が背負ってあげますから……」
 トシがそう言うとバックでリーチが替われと言ってきた。
『なに?』
『見つかった……』
 既に主導権を切り替えてた、トシはバックで様子を窺うと、リーチは病室の入り口横の壁に身体を沿わせていた。
『……ばれたかな?』
『バレバレだろうなあ~』
 と、リーチが笑っていると、入り口から銃を持った手が見え、その手をリーチが蹴り上げた。その拍子に飛んだ銃を素早くリーチは掴むと、驚いて目を見開いている男をあっと言う間に床に押し倒し、先程掴んだ銃をその頭に押し当てた。
「銃刀法違反で緊急逮捕」
 リーチは言って持っていた手錠をその男にかけた。
「……なっ……なんだ……相手が刑事なんて聞いてないっ!」
 組み敷いた男はそう言って暴れるので、頭を殴った。
 大人しくなった男を床に放って、リーチが顔を上げると、胸に院長・井村と書かれたプレートを付けた男が驚いた顔で、言葉を発することなく立っていた。
 意外に年齢は若く、どう見ても四十代だ。
「さて……こちらの病院ではこういう人がまだ沢山いるんでしょうか?」
 ニッコリとリーチは笑いかけた。
「きっ……君こそ……不法侵入だろうがっ!」
「私はちゃんと正規の手続きでこちらの病院に入らせていただいたんですが……違いますか?不法侵入なんてする訳無いでしょう……」
 笑顔でやはりリーチは言った。
「先程の火災警報機にライターを当てた姿が、監視カメラに写っていたぞ。それはどう説明するんだ?」
「そんな事言っていて良いんですか?それよりこの銃の方が問題だと思うんですけど……密売に荷担……でも良いですし、そうですねえ……患者を脅かすのに銃を使っている病院……というのもなかなか良いかもしれません」
「……君っそんなことをしてみろっ!」
 井村は必死に虚勢を張ってそう言っているようであった。それが分かるように手先が震えているのだ。
「有働が黙ってませんか?彼と心中する気ならそれもいいですけどね。もう数日うちには有働も逮捕されますよ。そうなると、彼に荷担した人間が芋蔓式に検挙されます。となるとここに監禁していた女性の問題も出てくるでしょうねえ……。今更何も知らなかったじゃ済みませんよ。知らないと言い張ろうが、ここに銃を持った人間がいる。それらの説明をどうするんです?」
「……」
「この病院も終わりですよ。どうします?」
「他にも……何とか出来る政治家を知っているんだ」
「でもマスコミはこういの黙ってませんよ。何より証拠がたんまりあるんです。その事知らないでしょう……」
 そうリーチが言うと井村は蒼白になった。
『そ、そうなの?』
 トシがそう心配して聞くとリーチは笑った。
『はったり』
『……良いけど……別に……』
 本当にリーチにはいつも驚かされる。
「で、相談です。彼女を連れて行きます。他の病院に入院させる方が貴方も嘘を付きやすいでしょう?彼女がここにいる限り、有働との関係を否定出来ませんよね。だったら私が彼女を引き受けます。そして私は本日ここには来なかった。監視カメラのデーターも故障で本日分はない。宜しければこの男も連れて出ていきますよ。いかがです?悪い取引じゃないと思いますけどね」
 可愛い笑顔でリーチはそう言った。
 暫く沈黙して井村は言った。
「どっちとも……連れて行くと言い……私は関係ない。ただ頼まれてここに彼女を入院させていただけだ。それと、その男は有働の所から来た男だ。そいつも出ていって貰いたい。うちとは関係ないんだからな」
 所詮金だけで繋がっていた関係など脆いものだった。
「彼女はどういう病気なんですか?」
「ファロー四徴症だ。かなり重い。カルテも破棄するが、欲しいならやる。だからさっさと出ていってくれ」
『トシ知ってる?』
『心臓の病気だったと思うけど……良く知らないよ……』
 そうトシが言うと、リーチは『まあいいか……』と言った。
 本当にお気楽だ。
「よく分からないのですけど、歩かせても良いのでしょうか?」
「……車椅子をもってきてやる。暫く待ってろ」
 そう言ってきびすを返そうとする井村にリーチは更に言った。
「怖い男の人一杯連れて帰ってきたら、酷い目に合わせますからね!」
 井村はそれを聞くと、驚いた顔をこちらに向けて立ち止まり、また歩き出した。
 それを見送り、由香里のベットの側に戻った。
「あの……有働のおじいさんの事……話されてましたよね……」
 由香里はその様子から何も知らないことが分かった。
「詳しい話は後でちゃんとしますから、今はお兄さんの事だけ考えてください。いいですか?」
「……え、ええ……」
 困惑した顔で由香里は言った。
 
 暫くすると井村が車椅子をもって帰ってきた。その後ろから何故か篠原もついてきていた。
「隠岐~ばれたのか?」
 ばれた筈なのに意外に元気な顔で篠原は言った。
「篠原さん……大丈夫ですか?」
「俺はね。いきなりこの医者が来て、仮病はやめろって言われてさあ、お友達が待ってるって言うからついてきたんだけど……」
 ちらりと井村を見て篠原は、苦笑しながら言った。
「あ、でも篠原さん。こちらの院長先生はとても話の分かる方で、彼女を連れて行っても良いとおっしゃってくださいました。有働とのことは知らなかったそうですよ」
 そうリーチが言うと篠原は訝しげな顔を井村に向けた。
「へ~そう」
「これがカルテだ。さっさと出ていってくれ……」
 篠原の視線を避けるように井村はそう言って、小走りに走り去った。
「なんだありゃ……」
 井村の後ろ姿を見ながら篠原は言った。
「あんな小物追っかけても仕方ないですよ。それより、そこに転がっている男を篠原さんが連れて行ってください。あの人、銃を持ってましたから。それは取り上げました」
「銃?物騒な病院だな……こいつ一体なんだ?」
「さあ…警視庁に連れて帰って尋問してください。私は彼女を警察病院に連れて行かないと駄目ですし……」
 言いながらリーチは由香里の身体を車椅子へと移動させた。
「隠岐さん……私……」
「信用してください。大丈夫。お兄さんの所に行きましょうね……」
 それを聞いた由香里は小さく頷いた。

 車の所まで戻ってくると、田村が心配そうな顔でうろうろとしていた。
「隠岐さんっ!良かった……心配したんです。いきなり警報のようなものが鳴ったので……」
 こちらを認めて走ってきた田村はホッとした表情でそう言った。
「あ、彼女が妹さんね」
 トシが押す車椅子に座る由香里を見て田村は言った。由香里の方はまた不安げな顔になる。
「私は警察病院の看護婦をしている田村って言うおばさんよ。隠岐さんに頼まれて貴方のためにここまで来たの。怖がらないで頂戴……」
 膝を落として田村が由香里にそう言うと、由香里は手を伸ばして田村の頬を撫でた。
「お母さんみたいな……感じがする……」
 そう言ってようやく安堵の表情になった。
「隠岐さん……由香里さんはどういうご病気なの?」
「ファロー四徴症とこちらの院長先生がおっしゃっていました」
 トシがそう言うと田村の表情が翳った。
「そう、でもね。うちの名執先生なら大丈夫よ。あれは治らない病気じゃないの。どうして入院していてまだこんな状態なのかの方が、不思議だわ」
 田村はそう言ってトシに笑いかけた。
「あの……治るんですか?」
 由香里は恐る恐る田村の声のした方を向いて言った。
「治りますとも。名執先生にお願いしましょうね。名医なんだからきっと治してくださるわ」
 田村は自信満々でそう言って由香里の手を撫でた。すると由香里の見えない瞳が涙で曇った。
「……本当にそうなら……嬉しい……」
「目の方も見て貰いましょうね。あ、それは名執先生も分からないだろうから、眼科の先生にお願いするとして、さあ、さっさと帰りましょうか?」
「ええ。早く警察病院の方へ向かいましょう」
 トシはニッコリと笑ってそう言った。
「隠岐、こいつ起きたら面倒だからトランクに入れて置いてもいいか?」
 篠原は引きずってきた男を既にトランクに入れ、後は閉めるだけの状態でそう言った。それに対してトシは頷いた。
『あんな所に入れて死なないよね?』
 トシは一応リーチに聞いてみた。
『大丈夫だろ。人間、どんなとこでも死ぬときは死ぬんだろうし……』
 興味が無いことには思いきり無関心のリーチはそう言って、小さく欠伸をした。
『……聞くのを間違ってたよ……』
 溜息を心の中で付いてトシは言った。
「由香里さん、じゃあ身体をもう一度抱き上げますね?いいですか?」
 トシが言うと由香里は頷いた。それを確認してから、トシは由香里を抱き上げ、車の後部座席に横にさせ、足を曲げさせた。そうして、頭側のほうに田村が座り、由香里の小さな頭を膝に乗せる。
「篠原さんは助手席です」
「分かった」
 言いながらも既に助手席の扉に篠原は手をかけていた。
「なあ……隠岐……」
 運転席に座ったトシに篠原がふと訊ねてきた。
「なんですか?」
 車のエンジンをかけ、トシは言った。
「これってさあ……よく考えたら……やばいんじゃないの?」
「え?」
「俺達刑事だし……」
 今更そんな事を言い出す篠原に、トシは笑いが漏れた。

 戻ってくると、警察病院の入り口にはマスコミが溢れていた。それを警官が止めるという騒ぎになっている。
『わちゃ……これって、緒方さんの流した情報で集まってきてるんだろうな……。全く馬鹿なことしてくれたよ……』
 リーチは困ったようにそう言った。
「……裏から入りましょう。そのスロープを越えて一旦外に出ると、裏に回れます」
 田村がそう言うので、トシは車を一旦外に向かわせると、言われたとおりの裏に回ってようやく車を止めた。
 さすがにこちら側にはマスコミはいなかった。
「こっちは洗濯物のクリーニングとかを出す出入り口があるんですよ」
「田村さんは頼りになりますね。田村さんのお陰で由香里さんも不審がらずについてきてくれたことですし……無理を言って良かったです」
「そんな……私は何もしていませんよ……」
 とんでもないという口調で田村は言って顔を赤らめた。
「由香里さん……起きてください……」
 いつの間にか膝で眠っていた由香里を田村はそっと起こした。
「……あ……ご、御免なさい……眠ってたみたい……」
「急に起きあがったら駄目よ。ゆっくりでいいのよ。眠いのは、お薬の所為だから気にしないの……」
 田村に制されながらゆっくりと由香里は身体を起こした。
「あ、俺、表ちょっと見てくるわ。上も気になるけどな……さっき見知った顔見たから……何があったか聞いてくる。後で合流するわ」
 言いながら篠原は車を降りて走っていった。
「篠原さんは勝手に帰ってくるでしょうから、こっちは病院に入りましょうか?」
 トシは畳んだ車椅子をまた元に戻すと、由香里を乗せた。
「そうですね。そろそろ名執先生の手術も終わってると……」
 田村は時計を確認してそう言った。
『ユキに診て貰うのが一番安心だからな……』
『僕もそう思う……でもほら、もう終わってるかもしれないし……』
 帰る途中、リーチに電話を入れて貰ったのだが、あいにく名執はまだ手術中だったのだ。
「まだ終わられていないのなら、先にお兄さんの方へ行きましょうか?」
 とトシが車椅子を押しながらそう言うと田村は駄目だと言った。
「え……?」
 と言ったのは由香里だ。
「由香里さんは、今は落ち着いているけど、興奮したりするのが一番駄目な病気だとちゃんと聞いてるはずよね。お兄さんに会いたいと思うけど、先に診察してもらって、大丈夫だと言われてからにしましょう。その方が安心だから……」
 そう田村が言うと由香里は肩を落とした。だが緒方の怪我はたいしたことがないのか?それとも重症で面会謝絶になっているのか?それが分からない状態で会わせる事は出来ない。
 何より由香里は心臓の重い病気なのだ。ここは田村の指示に従った方が良いのだとトシは思った。
「じゃあ……先に私が信頼している名執先生を捜しましょう」
 病院内に入り、エレベーターホールまで来るとトシは言った。
「あ、私が先に行って先生を連れてきますよ。隠岐さんは三階の待合室で待っていてください。一階は五月蠅そうですから……。くれぐれも、彼女を興奮させないようにして下さい。分かりましたね」
「分かりました。あ、これ今までのカルテだそうです。田村さんにお渡ししておきます」
 車椅子の後ろに挟んで置いた書類袋を引っ張り、田村に渡した。
「用意周到ねえ……さすが隠岐さんだわ……」
 田村がそう言うとエレベーターが到着した。
「じゃあ私は三階で待ってます」
 すると田村はニッコリ笑った。その姿は扉が閉まることで見えなくなった。
 するとエレベーターが上昇し、三階に到着した。ここは外科専門の病室のある階で、トシ達には知らない場所など無かった。それほど長い間お世話になった場所なのだ。
 何となく懐かしさを覚えながらトシは車椅子を押して待合室へと入った。
「あのう……」
 暫く黙っていた由香里が口を開いた。
「苦しいんですか?」
「いえ……大丈夫です。さっきの田村さんが言っていた事……本当でしょうか?」
 それは自分の病気が治ると言われたことだろうとトシは思った。
「大丈夫でしょう。専門の方がおっしゃるんですから……」
 言ってトシは不安げな由香里の手を握った。するとその手首には昔自分で死のうとした痕が幾つも残っていた。それが分かったトシは胸がギュッと締め付けられた。
 どんな気持ちで今まで生きてきたのだろう……
 ずっと自分を責めて生きてきたのかもしれない……
 そう思うと無性にこの由香里を守ってやらなければという気持ちに駆られた。
「でも……ずっとこの所為で……私……家族に迷惑かけて……両親が二人とも亡くなってから……今度はお兄ちゃんに……」
 由香里の何も映さない瞳からポロポロと涙がこぼれ落ち、その雫がトシの手に落ちた。
「昔と今じゃ、医療も全然違いますよ。大丈夫です」
 本当に治るのかどうか等トシには分からない。だが治ると言ってやらないと、ここで死んでしまいそうなほど由香里は弱々しかった。
「……でも……」
「名執先生が駄目なら、ここの院長先生にお願いしましょう。こちらの院長先生は日本でも有名な外科医なんですよ。私も……ほら……」
 そう言ってトシはシャツの間から由香里の手を入れさせて、昔自分たちが負った傷跡の名残に触れさせた。
「これ……は?」
「私も酷い怪我をしたんです。多分死んでいただろうって言うほどのものだったんですよ。でも今はぴんぴんしてます。こちらの院長先生と名執先生にお願いしたから、元気になれたんです。だから由香里さんもきっと元気になれますよ」
 そうトシが言うと、由香里は傷跡を何度も指でなぞった。
「酷い痕……でも元気になれたんですね……」
 由香里は笑顔でそう言った。
「ええ。元気になれました。由香里さんも大丈夫ですよ」
 そう言うとようやく由香里は涙を落とすのを止めた。
「隠岐さん……そちらの方が由香里さんですか?」
「あっ……」
 いきなり名執にそう言われ、トシは思わず自分のシャツから由香里の手を引き抜いた。なにやらあやしげな二人に見えたに違いないのだ。それが分かるように、田村と名執は訝しげにこちらを見ている。
『わはははははは』
 リーチはバックでただ笑っていた。
 笑い事じゃないよ~
 とトシは思いながらも、立ち上がって名執に言った。
「こちらで彼女をお願いしたいのですけど……宜しいでしょうか?」
「カルテはざっと拝見いたしました。明日からでも検査をして、早速手術した方が良いでしょう」
 小さく溜息を付いて名執は言った。
『リーチ……あ、後でちゃんとこの事情雪久さんに話して置いてよっ!僕、変な風に見られちゃったかもしれないから……』
 トシは慌ててリーチにそう言った。
『お前じゃなかったら警察に連れて行かれてただろうなあ~。よっ変質者!』
 かははと笑ってリーチはそう言った。
『違うよ……僕は……由香里さんを勇気づけたくて……』
 内心汗だくになりながら、トシは平静を何とか保った。何より田村まで妙な顔でこちらを見るのだからたまったもんではないのだ。
「病室は確保しましたので、入院手続きをしたいのですが……。保護者の方には連絡が取れるのでしょうか?」
「いえ……色々事情があって……」
 こういう場合どうして良いかトシにも分からない。
「……仕方ありませんね。手術するにも緊急で無い限り保護者の同意がいるんですが……」
 困った表情で名執はそう言った。
『あ、こいつ。医者の口調でえらそうに言ってるぞ……。何だか腹が立つな』
 リーチがいきなりそう言った。
『だって規則だもん……緒方さんの場合は緊急だったから仕方ないんだろうけど……本来はちゃんと手続きして入院なんだから……』
 自分たちはいつも緊急であったため、その辺りがよく分からないのだ。
「名執先生……とにかく由香里さんを病室に連れて行きますね。お話は後で……」
 田村が間に入ってそう言った。
「あ、そうですね。今の状態もかなり辛いと思いますので、早く横にしてあげた方が良いでしょう……。それと、先程指示した点滴をお願いします」
「ええ。分かっていますとも……」
 車椅子に手をかけた田村に名執は暫く待つように言い、由香里の側に回った。
「由香里さん……でしたね?」
 そう言って名執は、怯えた表情になっている由香里の前に膝をついた。
「私はこの病院の外科主任をしております、名執雪久と申します。ところで貴方はきちんと病名や、その内容を聞いたことがありますか?」
 名執は患者にしか見せない笑みを浮かべて由香里に言った。その口調はとても優しい。
「いいえ……誰も教えてくれませんでした……」
「又詳しく説明いたしますが、貴方の病気は治らないものではありません。手術はとても難しいものですが、この病気の方は皆それを乗り越えて普通の生活に戻られています。分かりますか?治るんですよ」
「ほんとうに?」
「ええ……心配しないで、今日はゆっくり休んで、明日から検査をしましょうね」
 そう名執が言うと由香里の強ばった表情が、笑顔になった。
「じゃあ……田村さん。病室に案内してあげてください。私はまだ隠岐さんにお話がありますので……」
「分かりました……」
「あっ……あの、彼女を一人にしないで下さい。篠原さんが戻ってこられたら、暫く病室に付いていて貰ってくださいね。後で私も行きますから……」
 トシが慌ててそう言うと、田村は「分かってますよ!」と言って由香里の乗る車椅子を押して去っていった。
「何がどうなっているんですか?説明して頂けるとありがたいのですが……」
 困惑した表情で名執はそう言った。
「もちろん」
 そう答えたのはリーチだった。
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