Angel Sugar

「駄目かもしんない」 第2章

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 目が覚めると頭が異常に痛かった。確かに昨日かなり飲んだのは覚えているが、どうやって帰ってきたかはあんまり覚えていない。家について大地の顔を見たような気はしたが夢だったのか現実だったのかピンとこないのだ。
 身体を横に向けると大地が丸くなって眠っていた。なんだか嬉しくなって大地を引き寄せようとしたが、様子が変なことに気がついた。
 毛布にくるまっている大地はどうも裸なのに、こっちはスーツの上着こそ脱ぎ捨てているものの、上下とも服を着ているのだ。良く見るとだらしなくジッパーが下ろされて自分のモノが出ていた。博貴は思わずなおしてジッパーを上げた。
 酔っぱらって大地とやっちゃったのかと思ったが、手の平に血のようなものが目に入って硬直してしまった。
「えっ……これはどういう……」
 そう思って辺りを見回すと、毛布やシーツに血の跡が点々としている。その上、床にはボタンが散らばり、それらが付いていたであろうパジャマやズボンがやはり散らかっていた。
 自分が何をしでかしたのか全く思い出せない博貴はそっと大地を揺り動かした。
「……大地……大ちゃん……」
「……う……ん」
 目を薄く開けて大地はまだ半分眠っている様な顔でこちらを見た。
「あの……あのねえ……眠いと思うんだけど……」
「……ん……良かった……お前、正気に戻ってるみたいだ」
 クスリと笑みを見せて大地は言ったが、その顔は泣きはらした顔だ。自分が大地にしてしまった事を博貴はすぐに納得できなかった。
「だ……大……地……」
 愕然としている博貴に大地は言った。
「飯は今日作れないぞ……」
「そ、そんなこと良いんだよ……私は君に……一体何をしたんだ?」
「別に……大したことじゃねえよ……気にすんなよ」
 あくまで笑顔でそう言う大地であった。
「……酔った勢いで……もしかして……私は大ちゃんに無茶したかい?」
 そう聞くと複雑な笑みを大地は返してきた。
「とにかく……俺……眠いんだ……暫く寝てもいい?」
 そう言って丸くなった大地の毛布をめくり上げると、シーツが血であちこち染まっていた。それが目に入ると一瞬頭の中が真っ白になりそうだった。
「寒いよ……大良……」 
 先程より丸くなった大地であったが、言葉とは裏腹にまるで誰かに強姦されたような後であった。
「とにかく……その、このまま寝たら駄目だ」
「……でも俺……今すぐは動けないよ……」
 そう言った大地をそっと抱き上げると小さな声で呻いた。そんな大地を抱きしめて許しを請いたかったが、今はそれよりも先にすることがあった。
「身体を少し洗おう……。いいね大地」
「……ん……そうだな……」
 ぐったりと博貴に身体を預けた大地はかなり疲れているようであった。残されたキスマークは普段より強く痕が残っている。これだけの痕がついていると言うことはかなり痛みを伴ったはずであった。
 バスルームで大地を抱いたまま浴槽に湯を張った。膝に抱えた大地は身体を預けたまま動かず、目を閉じている。その顔には口の端が切れて血が出た痕も見え、ギュッと身が縮まるような思いに博貴は駆られた。
「大ちゃん……ちょっと痛いと思うけど……我慢するんだよ」
 温く設定した温度で、シャワーを出して博貴は言った。
「え?」
 大地の方は閉じていた目を開けて、不思議そうな顔を向けた。訳が分からないうちにしてやろうと、大地の敏感な部分に石鹸をつけ、滑りを良くしてから指をそっと入れた。
「あっ痛い!」
 大地は叫ぶと腕を廻して博貴にしがみついた。痛いだろうが、ここを綺麗にしてやらないと後が辛いだろう。
「暫く我慢だよ……大地……」
 シャワーで流しながら、出来るだけそっとするのだが、触れると大地は博貴を掴む手に力を入れて、声を上げた。
「痛い……大良……やめろ……っ……」
 これでもかという力で抱きついてくる大地をしっかり抱き留めて博貴は洗い続けた。
「大地……」
 タイルを流れる水は血が混じった色をしていた。それを見ると博貴は覚えていないが、余程手加減無しに大地を抱いたのだろう。いや、強姦だ。痛みを耐えている大地をおもいきり抱きしめたいと何度も思いながら、必死にその気持ちを抑えた。
「博貴……も、いい。痛い……」
 目の端に堪えた涙が光っていた。
「身体も少し、洗わないとね。もう少しだけ我慢して……」
 そう言うと、酷く怯えたような目で大地は博貴を見た。こんな目を向けられるとは博貴は夢にも思わなかった。
「……うん……我慢するよ……」
 羽で撫でるように身体をスポンジで擦り博貴は大地の身体を綺麗に洗った。それが終わると、シャワーで泡を流した。
「いいよ。じゃ、次は湯船に少し浸かって、筋肉をほぐしてやった方が楽だよ」
「……しみそう……」
 そう言いながらも、博貴に支えられて大地は湯船に身体を浸した。ちょっとしかめた顔をしているが、大丈夫の様であった。
「ちょっと私はあっちを片づけてくるから、ここで暫く待っていてね」
「……うん……」
 大地がそう言うのを聞いて、博貴はバスルームを出た。自分も濡れた服を脱ぎ捨て、かごにつっこむとバスローブを羽織った。
 寝室に戻ると、新しいシーツと毛布を出し、汚れたシーツや毛布と交換した。そのほか床に散らばった衣服や、ボタンを全部拾い箱に詰め、次に二階に上って救急箱を持って来た。それを丸テーブルの上に置いて、バスルームに戻った。
 大地はもう少しで沈んでしまうだろうと思われるほど湯にどっぷりと浸かり、うとうとしていた。
「お待たせ大地」
「……寝てたみたい……」
 小さくあくびをした後、大地は博貴に手を伸ばして首に掴まり、湯船から上がった。博貴は用意していたバスタオルで身体を拭いてやり、一枚物のパジャマを大地に着せると、抱き上げてベットに運んだ。
 ベットメイクの済んだ所に大地を下ろし、真新しい毛布をそっと掛けてやると大地はすぐに丸くなった。
「大地……もう一回だけ……我慢してくれる?」
「え、何だよ……俺もう寝たい……」
 ぎょっとした顔で大地は言った。先程のシャワーが余程痛かったのだろう。
「傷を放っておけないからね」
 そう言って先程持ってきた救急箱から消毒液と塗り薬を取り出した。
「え、良いよ……俺……」
 そう言ってこちらから離れたところへ移動する大地を捕まえて、博貴は消毒液を浸したガーゼを傷ついた部分に当てた。
「あっ!痛い!痛いよ大良!止めろ!」
 そう言って暴れる大地を押さえつけて、今度は塗り薬を塗り込んだ。
「ひっ……あ、痛い……痛い!」
「ほら大地……ちゃんと手当てしておかないと、ここが化膿でもしたら大変だろう?」
 博貴が言うと大地は急に大人しくなった。
 そうして手当が済むと博貴は毛布を上まで引き上げ大地に被せた。大地の方はホッとした顔をして又丸くなった。
「大地……あのね……」
 ベットに腰をかけ、博貴は大地の表情を覗き込みながら言った。
「ごめん……大良、話し先に聞きたいけど……マジで眠くて、今聞いたら途中で寝そうだからさ。起きたら……お前、話しちゃんと聞かせろよ」
 博貴は無言で頷いた。
「あ、でもその前に……なあ大良……」
 立ち上がって二階へ上がろうとする博貴に大地は声をかけた。
「なんだい?して欲しいことがあったら何でもしてあげるから遠慮なく言ってくれていいからね」
「あのさあ、キスしてくれよ……優しい、いつもの……。俺……まだお前がちゃんと正気に戻ったかが分からないんだ……だから……」
 大地が言った言葉が博貴の胸元にグサリと突き刺さった。こんな風に言わせてしまったのは自分が大地に行った事の所為だ。それを考えると博貴は胸が痛んだ。
「いいよ……」
 博貴はベットに乗り上がり、それから大地をまたいで唇を合わせた。そっと気遣うように舌を絡めると血の味がした。口の中も切れているのだろう。
「博貴……。いつもの博貴だ……良かった……」
 口元を離すと大地はそう言ってギュッと抱きついてきた。それに応えるようにこちらも力を込めて抱きしめた。大地は胸板に頬をこすりつけて、うっとりと目を細めた。
「大地……大……済まない……許してくれ……」
 どんな気持ちで大地が耐えたのだろうと考えると、博貴は目頭が熱くなった。
「気にすんなよ……」
 大したことじゃ無いという風に大地は言った。
「私は君に……酔っていたとはいえ酷いやり方で君を……」
「だからさ、いいって……逃げようと思えばお前を殴る蹴るして逃げられたのに、俺が逃げなかったんだから……」 
「どうして……逃げなかったんだい?」
 そうしてくれていれば、今、これほど身が切れるような痛みを味わうことなど無かったのだ。
「……お前すごく苦しんでた。俺が何言っても、聞いてくれなくて……。でも苦しんでるのは分かったんだ。だから逃げちゃ駄目だって思った。俺が受け止めてやらなきゃって……。無茶されるの何となく分かってたけど、お前が苦しんでる痛みを少しでも俺が肩代わりできるのならいいやって、そう思ったんだ」
 ニッコリと笑って大地は言った。博貴はその笑顔を見て胸が一杯になった。自分の恋人がこんなに自分を思いやり、優しいことを言ってくれているのだ。本当なら怒鳴りつけられ、別れると言われても仕方がない事をしたにも関わらず……。
「大地……」
「それにお前……酔っぱらってたとはいえ、俺を信じられないって言ったんだからな。そんなお前をほって逃げ出したら、俺が嘘言った事になるじゃんか。だから意地でも逃げるもんかって思ったんだ」
 何故か大地は得意げにそう言った。
「ありがとう……大地……」
 大地の温もりが博貴には心地よかった。どんな慰めよりも、その温もりは確かに博貴を癒してくれたのだ。
「……あ……俺もう……駄目だ……」
 そう言って大地はかくっと頭を下げて、眠りについた。そんな大地をゆっくり寝かせてあげようと、ベットに下ろそうとしたが、しっかり抱きついている大地を離すことが出来なかった。博貴はそんな大地を胸に抱いたまま、自分も一緒に毛布にくるまった。伝わる大地の体温があまりにも心地よく、博貴も目を閉じた。

 目が覚めると博貴の腕の中で眠っていた事が分かった。身体があちこち、ぎしぎしといっていたが、大地は後悔していなかった。それより妙な満足感があったのだ。
 昨日の博貴は裸の感情でぶつかってきてくれたのた。まあ、だからといってもう一度は無理だった。ああいう経験は一度でいいと心の底で本当に思った。怖いと思わなかったと言えば嘘になる。本当は怖くて逃げ出したかった。だが、博貴のことを想い、根性を振り絞って必死に踏ん張ったのだ。
「博貴……」
 もっと近づいて大地は頬を博貴の胸板に寄せた。すると博貴の目が開いた。この男は目覚めが良いのだ。
「大ちゃん……起きた?」
 そう言って博貴は大地の額に口づけた。
「何時頃なんだろ……」
「んー十二時前だね……」
 部屋の時計を博貴は確認しながら言った。
「……お腹空いた……」
 くーーとお腹を鳴らしながら大地は言った。その音が博貴にも聞こえたのか、笑いを堪えた顔で「ピザでもとろうか?」と言った。こってりしたものが食べたいと思っていた大地は、すぐに頷いた。が、
「いや、君には、お粥か雑炊か作るよ……」
 ちょっと困った顔で博貴は言った。
「えー俺もピザ食う……」
「だってねえ、暫くトイレがきついとおもうからさ、柔らかいものが良いんじゃないかなあってさ」
 と、くすくす笑った。それを聞いて大地は一気に顔を真っ赤にさせた。
「……病気じゃないから食欲はしっかりあるのに……。お前の所為で俺は、当分柔らかいもんしか食えないってことかよ!くっそーこれってむかつくぞ」
 酷い抱き方をされたことより、そちらの方がむかついた。
「済まないね……大地……」
 申し訳なさそうに博貴が言った。
 まずい、博貴はその事でものすごい罪悪感を持っているのだ。そんな博貴に何も考えずに言ったことを大地は後悔した。
「え、あ……仕方ねえよ……。雑炊食う。暫くそれで我慢する……」
「作ってくるから暫く横になってるといいよ」
 博貴はベットを降りて二階へ上がっていった。それを見送って大地は広いベットで身体を伸ばした。するとやっぱり薬の塗った部分からピリピリとした痛みを伝えてきた。
「俺……何時になったら普通にご飯が食べられるんだろう……」
 大地は恐る恐るお尻をそっと撫でてみた。確かに薬が効いているのか、朝感じた痛みよりかなり楽になっていた。まあ、普通の怪我と同じだと思えば良いのだ。
 放っておけば何時の間にか治っているだろう。
「大ちゃん出来たよ」
 暫くすると博貴がお盆に雑炊を作って持ってきた。それを丸テーブルに置く。
「うん。食べる」
 そおっと身体を起こして、ゆるゆると丸テーブルまで来ると博貴が言った。
「そのまま座ったら辛いだろうから、柔らかいクッションをひくといいよ」
 クッションを幾つか持って、博貴は大地の座る場所にひいた。
「あ、うん。ありがと」
 そこに座ると、やはり痛みが走り「う……」と、思わず口から出てしまった。それを聞いた博貴が心配そうに立ち上がった。
「あ、大丈夫。大丈夫」
 手を振って大地はそう言うと、博貴は座り、大地にお茶を入れた。
「君の口に合うか分からないけどね」
 そう言って博貴も自分の分にスプーンを入れた。
「えーーっと……で、話しは?」
 聞けるうちに聞いておこうと大地は思った。
「ご飯をちゃんと食べてからね」
 博貴はそう言った。
「あ、うん」
 暫くお互い無言で食べていたが、大地はだんだん沈黙が気まずくなって口を開いた。
「……何かしゃべれよ……」
「え、あ、ああ……考え事をしていたんだよ……ごめんね大ちゃん」
 ハッと気がついたように博貴が言った。いつも通りであるのだが、やはり様子がおかしいと大地は思った。
「……じゃあ、いいよ……」
 もそもそと口の中に雑炊を入れて大地は言った。
 何となく話をするのを延ばそう延ばそうと博貴がしているように思える。実際ちゃんと話してくれるかどうか分からないのだ。
 言いたくないと博貴が思っているのなら聞かない方が良いのだろうか?
 それも優しさなのだろうか?
 大地にはどちらも選べなかった。
 少なくとも、昨晩の事でこちらは博貴に対して強気で問いただすことが出来るだろう。だがそれは博貴にとって辛いことなのかもしれない。話したいと思うまでそっとしてやるのも優しさだろう。
 もぐもぐと口を動かしながら大地はそう必死に考えた。やっぱり今は聞かない方が良いのだ。
「ごちそうさま。美味しかった」
 手をあわせて大地はそう言った。
「……本当かい?なんだかあんまり美味しくなさそうに食べていたけど……」
 心配そうに博貴がそう言った。だが博貴のことを心配に思っているのは大地の方なのだ。
「え、いや、俺も、考え事してたから」
 ニッカリと笑って大地はそう言った。
「そう。なら良いんだけど……」
「あのさ、大良。俺、別に話聞かなくて良いよ。そう言うことだから、もっかい寝る」
 眠くは無いが、身体が怠いのだ。今日は一日中ベットに横になっていても退屈しないだろうと大地は思った。
「……大地……そんなに眠いのかい?」
「ちょっとさ、身体怠くて……。横になっていたいんだ」
 よろよろと立ち上がって大地はベットに登った。
「そう、そうだね……でも……」
 こちらが毛布に潜ったところで博貴がベットに腰をかけた。
「大良、お前、用事あったら行って良いぜ。俺どうせ一日動けそうにないから、大人しくしてるよ」
「ねえ、大ちゃん。もしかして気を使ってくれているのかい?」
 気を使っているのはお前だろと大地は言いそうになった。博貴が妙に優しいと、こっちもどうして良いか分からないのだ。
 確かに博貴は酷い抱き方をしたのだが、それを受け入れたのは大地なのだ。その事で罪悪感を余り持たれたくないのだ。でないと受け入れたこと自体に、今度は大地の方が罪悪感を感じてしまう。
「……別に……」
 鼻元まで毛布を引き上げて大地は言った。
「……大地……」
 博貴は大地の隣に身体を横たえて、背を撫でた。その手の動きが大地には心地よかった。
「君は本当に……優しい子だね……」
 嬉しそうに目を細めて博貴が言った。
「別に優しくなんか……」
 と大地が言ったところで、博貴はそっと大地を毛布ごと抱きしめた。
「大地に会えて良かった……」
 博貴はそう言って鼻先にキスを落とした。大地はくすぐったくて身を縮めた。
「俺はお前が正気に戻って良かった」
 冗談ぽく大地は言ったが、それを聞いて博貴は苦笑した。
「だからね、きちんと話しておくよ。言い訳のつもりではないけど……聞いてくれるかい?」
「お前が……話してくれるって言うなら……聞きたい」
「母はある男の愛人で、私はその愛人の息子なんだよ。認知はされてないけどね」
 大地はびっくりして言葉が出なかった。確かに不思議に思ったことがあった。父親は死んだと聞いたことがあったのだが、その後で、どうも父親がいるような言葉を聞いたことがあったからだ。複雑な事情が有るのだろうと、大地はその辺りを深くは聞かなかったが、今の話を聞いて、なるほどと思った。
「認知されていないのは、私が生まれたとき、あの男が母に言ったんだ。認知を取るか生活費を取るかってね。母は元々それほど身体が丈夫な方じゃなかった。その心配から生活費を取ったらしい。その事は高校の時に母から聞かされたよ」
「…あの高良田って誰?」
「あれはあの男の第一秘書だ。いつも汚い手ばかり使う男だよ。で、問題はこれからなんだ。あの男の一人息子……まあ、私の異母兄弟で三つ上の兄がいたんだが、どうも事故で死んだらしい。それでこっちにとばっちりが飛んできたという訳なんだ」
「えーっと……今頃、博貴に子供になれって言ってるのか?」
「まあ、そうなるね。丁寧に断ったよ。だけど、あっちが諦めてくれるかどうかわからないけどね」
「お前そんなんで、あんなになっちゃうのか?」
 大地がそう言うと博貴は苦笑した。
「違うよ……大地……。高良田はね、私と大地の事を知ってるんだ。それで戻って来れないのは君がいるからだろうって……だから……」
 急に険しい顔になった博貴が言い淀んだ。
「だから?」
「金で解決させると言っていたんだ」
「お前さ、俺がそんな金を取るような男だと思ってたのか?」
 なんだかムッとして大地が言った。
「……母がね……あんな風になる前に……病院に入る一ヶ月ほど前から……私は知らなかったんだが、一億で私を母から買うという話が進んでいたらしいんだよ。母ですら……肉親すらそうなんだから……正直言って、高良田が出す条件を大地がはねつけてくれるという保障はないって……思ったんだよ」
 博貴は苦悩に満ちた表情をした。
「……なあ、大良……お前その高良田って奴の話信じたのか?」
「え?」
「その話はお母さんから直接聞かされたんじゃないだろ。じゃあさ、高良田って奴が都合良く嘘をついたのかもしれないじゃん。そりゃ本人に聞きたいけど、もうお母さんは亡くなってるから、本当のところ分からないけど……。でも例えそれが本当だったとしても……俺……お母さんの気持ちも分かるんだ……」
「……どう分かるんだい……君に……」
「俺さあ、もしかしたら養子に出されてたかもしれなかったんだ」
「え……」
「俺んちそんな金持ちじゃなかったから、二人の男の子を育てるのも必死だったらしいんだよ。で、そこに俺が出来て……生活がいっぺんに苦しくなってさ。親戚で子供のいなかった夫婦が俺を養子に欲しがって、母さん俺が苦労も知らずに幸せに暮らせるのならそれも良いかもしれないって思ったんだって。まあ、親父がそれを知って激怒して、結局その話はおじゃんになったらしいんだけど……。母親ってさ、子供の幸せを一番大切に思ってると俺はおもうよ。大良のお母さん……俺、会ったこと無いけど、写真見て思うんだ。身体が弱そうで、儚げな人だなあって……。大良も言ってたじゃない、身体は丈夫な方じゃなかったってさ。だから、きっと将来の事が不安だったんじゃないのか?お前をずっと面倒見られない、それなら、本当は手放したくはないけど、お前の将来を考えて父親に任せようって思ったんじゃないか?それにさ、お前、金を積まれてって言うけど、お前の値段だぜ。我が子に値段なんか付けられないだろ。でも値段を付けるなら一億って言ったんじゃないのか?母親のプライドだと思うけどな……その金額……お金が欲しいんじゃなくてさ……まあ、想像しかできないから言えないんだけど……」
「大地はそう思う?」
 驚いた瞳を博貴はしていた。何か驚くようなことでも言ったのだろうか?
「俺が大良で高良田って人からそう言われたら、こんな風に考えるって事だけど……」
「大地……君は本当に素直でいい子だよ……。そうだね、そういう考え方だってあるんだね。目から鱗が落ちた……」
「……って事はお前やっぱり俺を金になびくって、そんな軽い男だと思ってたんだ!」
 それが昨晩から今までの間で一番腹が立つ事だった。
「だから……悩んだんよ……君をどうしたら……失わずにおれるんだろうって……。母のことも……色々ね……。気がついたら浴びるほど酒をあおって、あんな風になってしまった訳なんだ……大地……本当に済まなかった……」
 博貴はそう言って大地を抱きしめた。
「大良……」
「怖かったよ……大地……」
 毛布を通して博貴が震えているのが大地には感じられた。この男がこんな風になるなんて今まで知らなかった。いつだって自信家で強引な博貴からは想像付かないのだ。
 きっとこんな姿を博貴が見せられるのは大地だけなのだ。それが分かると大地は博貴の反応とは逆に嬉しくて仕方が無かった。
「俺……何時だってお前の味方だし……お前の側にいるよ……金なんかいらねえもん。その代わり借金するようなことになったらお前に頼むからな」
「もちろんいいよ……いくらでも貸してあげる。そうだ利子は身体で払って貰おうかな」
 ニッコリ笑って博貴が言った。だが目は本気である。
「……それ怖いかも……」
「怖い……かい?」
 もそもそと博貴も毛布に潜ると、大地を腕の中に引き込んだ。大地の頬は博貴の胸にピッタリとくっつき、少し息苦しいが心地よく大地は感じた。
「あの男は……嫌がる母を私の目の前で犯したことがある……」
 淡々と言う博貴であったが、大地はショックを受けた。
「え……」
「私は中学生だった……あの男が憎くて憎くて仕方が無かったよ……父親だと思ったことなど無かった。いつも母を言いなりにしてきたんだ。母が父親にくってかかったのは二度だけ……。私の目の前で犯したあと、あの男を殺してやるって言ったこと……私を殴りつけた父に向かっていったこと……その二つを良く覚えている……」
 遺影に写る儚げなあの母親がどんな風に向かっていったのだろうか?大地には全く想像がつかなかったが、博貴を本当に大切に愛しいたに違いない。
「大良のこと……本当に愛していたんだね……」
「……そう思う?」
 何故そこで母親を信じられないのだろうか?博貴はどんな人生を今まで送ってきたのだろうか?例えどんな環境で育ったとしても、自分の母親ですらそんな風に疑うのは悲しいことだ。
「……なあ、何で良い方に考えられないんだ?そりゃ俺の方が楽天的で、騙されやすいけどさ、家族のことまで疑うなよ。それと俺のこともさ。疑いだしたらしんどいぞ。信じる方が楽だよ。それのお前のお母さん……聞いてると本当に優しくていい人だったんだなあって思うよ。絶対お前を裏切るような事なんてしたこと無いと俺思う」
「ありがとう……大地がそう言ってくれると何でも信じてしまうよ……」
「しまうじゃなくて信じろ!全く、昨日の晩だって最後まで面倒みてやったじゃねえか。普通、別れるよな。あんな目にあわされるとさ。俺って絶対お人好しかもしれない」
「……考えた?別れたいって思った?」
 じっとこちらを射抜くような目で博貴は言った。
「俺が別れるって言うときはお前が約束を破った時って決めてるんだ」
「君以外に愛していると言った時と、君以外を抱いた時……だろ」
「そうだよ。他の奴にあんなことしたら速攻バイバイだったぞ」
「……でも、君を酷い目にあわせたことは確かだよ……」
 博貴は目を伏せてそう言った。
「昨日言ったけど……お前忘れてるから言うぞ。お前、俺のことあんまし信じてないけどさ。なら信じるなよ。そうやって疑ってりゃいいさ。でも、俺はそれでもこうやってお前の側にいる」
 そう言って大地は博貴に腕を廻して擦り寄った。
「大地……」
「なあ、信じてくれないの辛いぞ……俺はお前を裏切ったりしない。例え高良田って男がどんな条件を言ってきても俺は受け入れるつもりもないし、聞くつもりもないよ。だからさ、俺がいなくなるとかそんなの考えて欲しくない。俺にはそんなつもり全くないのに、疑われるのは嫌なんだ」
「分かった……信じてるよ大地……」
「うん。俺だけでもいいから信じてくれよ……」
 ニコリと笑って大地は言った。
 恵まれなかった家庭環境の所為で、博貴は人を信じるのが苦手なのかもしれない。大地には考えられない世界で大人になったのだ。そんな男に無理矢理人を信用しろと言っても無駄なのだ。だから大地は自分だけでも信じて欲しいと思った。
 絶対俺は博貴を裏切らない……。そう思っている自分をどうしても分かって欲しいのだ。
「ねえ、こんな話を今まで誰かにしたことが無かったんだよ……だから誰にも話さないでくれるかい?」
「誰に言うんだよ……。お前があんなになる位、苦しんだ理由なのに……。俺そんな口軽く無いよ。話して良いことと悪いこと知ってるつもりだけど……」
 こう言うことを言われると、信じて貰っていないと大地は思うのだ。それを博貴はムッとした表情の大地から憶測したのか、慌てて言った。
「大地……私はね……今まで誰かを信じることが出来なかった。それが自分を守るものになっていたんだ。過度の期待をしない、誰かを愛さない。そうすれば何かあっても、傷つかないから……。でも、大地はそんな私の心にいつの間にか入り込んで……もうどうしようもないくらい大切な存在になっているんだ。自分でも信じられない事だよ……。だから、怖いんだ。失うということが……。こんなに心を占めている君という存在を失ったらどうなるんだろうか?そんなことを考えて不安になったんだ……ああ、上手く言えないね」
 困ったように博貴は言った。
「そんな風に見えなかったよなあ……。大良に初めてあったとき、何にも考えていないタイプに見えたよ。楽天的でなんか、その日、その時間たのしけりゃ良いって人生送ってるんだろうと思った」
「き……傷つくなあ……」
 と言いながら博貴は笑っていた。
「あれがお前の外面ってやつなんだな……全く、奥の深い奴だな……大良って」
「その点君は奥のない人間だね……大地」
 笑いを堪えながら博貴は言った。
「なにそれ」
「大地ってね、眠いから寝る。お腹空いたからご飯食べる。っていう感じに、思考と行動が直結してるんだよねえ」
 どう聞いても馬鹿にしてるとしか聞こえない。
「あーのーなあ……その言い方って、俺、すっげえ馬鹿じゃん」
「でもそう言うところが魅力なんだよ」
「……そんなのが魅力になるのか?」
 はあーと溜息をついて大地は言った。
「もちろんなるよ。私のように色々物事を斜めに見てしまう人間には、大地の存在は貴重なんだよ。ただねえ……」
 意味ありげに博貴が言った。
「ただ?なんだよ」
「やりたいからやるっていうところは直結しないなあって……」
「お前……何恥ずかしいこと言ってるんだよ」
 大地は思わず顔を赤らめた。
「早くそうなって欲しいね……大地……愛してるよ……」
 博貴は囁くようにそう言って大地に唇を合わせた。触れる舌は、優しく口内を愛撫しながら大地の舌に絡まった。
「ひろ……き……んん……」
「……んーー大地……君を抱きたくなっちゃったよ……」
「冗談はよせよ!昨日ずっとつき合ったんだからな。俺の身体、当分駄目だぞ」
 本気で言っているのなら、殴ってやると真剣に大地は思った。
「分かってるよ……でもね大地って側にいると、何時だって抱きしめてエッチしたくなるんだから不思議だよ」
 思わず大地は目が点になった。
「お前って……やること淡泊だって聞いたけど……」
「だあれがそんなことを言ってるんだい?」
「え、あ、その……はは……真喜子さんが言ってたんだ」
「あのねえ、真喜子さんとはやったことないのに、どうして私が淡泊と分かるわけ?」
「いや違うよ。真喜子さんはお前からそう聞いたって言ってたぞ!」
 あわあわと大地が言った。
「……今度真喜子さんに訂正しておかないとね」
「何て?」
「大地相手なら何回でも抜けるってね」
「馬鹿野郎!」
 大地は茹で蛸の様になりながら博貴の頭を叩いた。博貴はただ笑っていた。ようやく、ここ暫く博貴の表情に落ちていた影が消えたように大地は思った。
「大地……」
 そう言って熱っぽい目を向ける博貴に大地はもう一度拳を飛ばした。
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