Angel Sugar

「駄目かもしんない」 第6章

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「大君!!」
 藤城の声がどこからか聞こえたが、見えなかった。あと、数人の足音と争う声がし、大地は地面に叩きつけられた。そんな自分を誰かが起こしてくれた。だが大地は自分の肩を掴む手をはね除けた。
「落ち着いて、私だ、大丈夫。三人とも捕まえたから……」
 目を擦ってそう言った相手を、まじまじと見ようとするのだが視界が、流れ落ちる涙でよく見えない。
「藤城……さん?」
「そうだよ。大丈夫かい?目をどうかしたのか?」
「なんか、吹き付けられて……目が痺れてよく見えない……」
 何かに掴まろうと延ばした手を藤城が掴んだ。
「多分暫くすれば落ち着くと思うが、眼科に行った方がいいかもしれないね」
「あ、大丈夫……少し見えてきたから……あの、あいつらは?」
 見えにくい目で大地はキョロキョロと周りを見回した。
「今、警察を呼んだから心配しなくていいよ」
「来るまでに何発か殴って良い?」
 大地がそう言って、よろよろと立ち上がるのを藤城は止めた。
「止めた方がいい。大君手の先から血が滲んでいるよ。なによりこっちもここぞとばかりに殴ったりしたものだから完全に伸びてる」
 そう言って藤城は楽しそうな声で笑った。
「殴った?藤城さんが?」
「いや、私の部下だよ。三人連れてきていたからね。君のように空手は出来ないが喧嘩のプロだ」 
「助かった……」
 がくりと膝を付いて大地は藤城にもたれかかるような形で身体を沈ませた。ホッとしたとたんに身体の力が抜けたのだ。
「遅くなって済まない。もう少し早かったら……」
「いえ、感謝してます。なんかどっかに連れて行かれそうだったから……」
 そう言って大地はぞっとした。何処に連れて行こうと思っていたのだろうか?
「おい……安佐」
 藤城が、部下の一人にそう言うと、安佐は伸びている一人の胸ぐらを掴んで平手打ちを食らわせた。
「あ、ひいっ」
 その痛さに目を覚ました男が、怯えた声を上げた。その男に安佐が取り上げた警棒の先を目にあてがった。
「何をしようとしてたんだ?ええ?白状しないのならあんたの目はこれから先何も映さなくなるぜ」
「そんなことすればお前達は警察に掴まるぞ」
「こっちは正当防衛だと言えば何とでもなるんだよ。それにあそこにいるボンが証言してくれるからな、やりたい放題出来るって訳だ。いいでしょボン」
 安佐がそう言ってこちらを向くので大地は頷いた。
「ほおら、ね。強い味方がいるんだよ。で、どうなんだ。誰に何を頼まれたんだ」
「す……少し痛めつけて……あとは、好きにして良いと……誰かは良く知らない。ホントだ!」
 叫ぶようにそう言った男の言葉を聞いて大地は更にぞっとした。好きにして良いとはどういう意味なんだろう。想像したことを否定して大地は項垂れた。
「もう、何発か見舞ってやると良い」
 藤城は冷たく安佐にそう言った。安佐は嬉しそうにあと何発か警棒で殴りつけると相手は又伸びた。
「……俺……」
「いいから、もう大丈夫だから……」
 ポンポンと背を叩かれて大地は顔を上げた。やはりまだ涙が出て藤城の顔が見えない。そうしていると警官が走ってきた。
 大地が事情を説明し、警官達は三人を連れて帰っていった。だが大地はまだ震えが止まらなかった。
「目は大丈夫かい?」
 そのころには涙も止まって視力が戻ってきていた。
「大丈夫です」
 よろよろと立ち上がったが、足がまだふらついている。最後に受けた鳩尾の一発が効いているのだ。
「いい、私が……」
 そう言って藤城は大地を抱き上げた。
「あ、俺……」
「しようがないだろう。ね、このくらいさせてくれないかい?」
 藤城はにこやかにそう言った。
「……済みません」
「そうそう、こっちの三人を紹介しよう。この一番背の高いのが安佐、いかつい方が墨田、一番小さいが、気性は激しいこいつが住友というんだ。落ち着くまで大君を守ってくれるだろう」
 安佐は優男風で墨田ががっしりした体育会系の男、住友は痩せて、どちらかというと神経質っぽい感じがした。
「あの……宜しくお願いします」
 そう言うと三人は先程まで強面で立っていたが、急に破顔した。
「かわいいっすねえ……ぼんは……」
 安佐が言った。
「女の子みたいだなあ……」
 覗き込むように墨田が言う。
「うん可愛い」
 と住友。
「……お前達、変な気は起こすな」
「……とんでもない。若頭の思い人にそんなだいそれた……」
 と、墨田が言うと藤城は見たこともない目でジロリと睨んだ。睨まれた三人は背をピンと伸ばして整列する。それがなんだか大地には可笑しかった。若頭と呼ばれているのも似合うような似合わないような妙な気分に大地はなった。
「……あのう……本当に済みません」
 大地は三人に言った。
「若頭から頼み事されたのは初めてなんですよ。私たちも嬉しくてねえ」
 安佐が言った。
「そんな余計は話はしなくて言い」
 ごほんと咳払いをして藤城は言った。そんな藤城に大地は笑みがこぼれた。
「あ、でもなんか、落ち着いた……もう、自分で歩け……」
「とりあえず車で移動しようか」
 藤城は大地の言葉を途中で止めると、大地を抱いたまま歩き出した。他の三人もそれについて歩く。大地は恥ずかしかったが、有無を言わせない態度の藤城にもう一度、降ろして欲しいと言えなかった。
 車に乗り込んで藤城は自宅へと戻った。だが、三人の部下は車を降りたところで立ち止まった。
「あの……」
 やっぱり抱き上げられたまま玄関に向かう藤城に大地は言った。
「ああ、川原さんは私が父の仕事を手伝うことに反対でね。彼らは入れて貰えないんだよ。仕方ないんだが……」
 そう言って藤城は笑った。一年の期限付きで藤城はやくざの若頭に収まっている。それは病気で入院している父親の代わりで、本来なら母親の再婚相手の父親が経営している貿易の仕事をしているのだ。仕方ないとはいえ、川原の気持ちも分かると大地は思った。
 玄関を入ると、お手伝いの川原が嬉しそうに迎えてくれた。
「坊ちゃんお久しぶりです」
「あ、こんにちわ……」
 抱き上げられた自分を見て不審に思わないのかと大地は気になったが、川原は別に何とも思わないのか、笑顔で応対してくれた。
「慎一坊ちゃん。お茶でもお入れしましょうか?」
「ああ、大君は川原さんのアップルパイが大好きらしいから、お菓子はそれを添えて貰えると嬉しいんだが」
「ええ、ええ。もちろん」
 満面の笑みで川原はキッチンへと走っていった。小柄でぽっちゃりしている川原のそんな姿がとても可愛いと大地は思った。
「俺……もう大丈夫です」
「あ、ああ、そうだね」
 名残惜しそうに藤城は大地を下ろした。
「それで、高良田って人のこと分かりました?」
「色々ね。とりあえず一服しよう」
 応接に通されて大地が椅子に座ると、川原が入ってきた。コーヒーとアップルパイが乗せられた皿を前に置かれて、大地は嬉しくなった。心なしか藤城のアップルパイより大きいのが余計に嬉しかった。
「あ、川原さん。救急箱ももってきて貰っていいかな。大君がちょっと怪我をしてね」
「ええ、坊ちゃん大丈夫ですか?」
 驚いた顔で川原が大地に言った。
「大丈夫です。かすり傷ですから……」
「すぐにもってきます」
 川原はそう言って応接室を出ていくとすぐに戻ってきた。
 ものすごい早さだ。大地がそんな川原に驚いている間に救急箱を藤城に渡すと、いそいそと出ていった。
「手を見せてごらん。血が出ていたね」
「あ、これ、見ない方が良いですよ。俺、自分で見るのも気持ち悪いから……」
 薄い手袋に確かに血が滲んでいた。やはりまだ傷口は完全に塞がっていないのだ。そんな手で殴り合ったのだから、血も出るだろう。
「いいから」
 そう言って藤城は大地の手首を掴んで引き寄せ、あっと言う間に手袋を取った。
「あ」
 傷だらけの自分の手を見て大地はクラッと来た。何度見ても自分の手に見えないのだ。かさぶただらけで、しかも爪がはがれた指ははっきり言って醜い。
「ちょっとしみるかもしれないよ」
 そんな手に、全く動じない藤城はさっさと血の滲んだ部分を消毒し、クスリを塗った。それがしみて思わず大地は顔をしかめた。
「しみるかい?」
 笑いを堪えた顔で藤城が言った。
「え、はい……少し……」
「でもまあ、だいぶ治ってきてるようだね。爪も少し生えてきているよ。やっぱり若いからかな」
「え、爪生えてます?」
 大地は自分の傷をまじまじと見たことが無かったので、言われて初めて気がついたのだ。
「ああ、生えてきてるよ」
「ほんとだ……なんだか嬉しいなあ……」
 それを確認して、大地はへへへと笑った。
「手袋はそろそろ取った方が良いのかもしれないよ」
「……でもほら、他の人が見てぎょっとされるのが嫌だから……」
「外に出るときだけするといい。蒸れて膿むと大変だからね」
 そう言って藤城は大地から外した手袋を机に置いた。
「そうします」
「それで、だ。高良田のことは分かったよ。高良田の事を調べて、大良さんの父親は酒井ということがわかったよ」
「酒井……」
「酒井大蔵、年齢五十五歳。ISAKA物産の三代目の社長だ。会社の規模はかなりでかいよ。一部上場。会社経営はとりあえず黒字決算をしてるね」
「ISAKAって……俺でも知ってる……」
 その上自分が働いている会社では、ISAKAも警備に入っているはずだった。だが大地がそこへ行ったことはなかった。
「高良田という男は会社での秘書ではなくて、どうも個人秘書だな。社員名簿には無かった。裏の事を引き受けているので有名だよ」
「酒井って人……どんな人なんですか?」
 こんな事を平気でする相手を大地は知りたかった。
「実はねえ、今の父が付き合いがあるらしいんだよ。まあ、商社と貿易会社は切っても切れない関係だからね。父に聞くと、確かに強引でやや自己中心的らしい。だけど強引過ぎるが許せてしまうタイプだと父は笑っていたよ。高良田も裏の仕事を引き受けていると言っても、普段は政治家に金を運んだりする秘書らしい」
「……そうなんだ」
 強引だが憎めない博貴のあの性格は父親似なのだろうか。
「大良さんは父親と話したことはないのかい?」
「無いみたい。会いたくないらしいんです。ものすごく……憎んでる……」
「そうか、会って誤解を解くのも一つの方法なんだがね」
「……俺もそう言ったんですけど……駄目でした」
「酒井さんの息子さんね、やはり事故で亡くなっていたよ。海外出張で、テキサスの方へ飛行機で飛んでいたらしいんだがその途中、飛行機が落ちたんだ。そのときの酒井さんの落ち込みは酷かったそうだよ。本当に可愛がっていたそうだ。何より頼りにしていた分、悲しみは想像できないね。うちの母も私の弟の環が事故で亡くなったとき、ものすごく悲しんだよ……父親もそうだ。子供を失うって言うのは親にとって最大の悲しみなんだろうね。なにより数年前に酒井さんは奥さんも癌で亡くしている。一人になって寂しくなったのかもしれないな」
 しみじみと藤城は言った。
「俺……分からない……どうしてこんな汚い事ばっかりしてくるんだろう。自分ではっきり言いに来れば良いじゃないか……。断られたからって、こんな事してさ、余計子供に憎まれちゃうし、無理矢理帰ってきても嬉しくないと俺思う……」
「会いたいと思っても会えない事情もあるのだろう。話がしたいと思っても出来ないこともあるだろうね。ただ、帰ってきて欲しいにしても、関係のない人間を巻き込むことは許せないと私は思うんだよ。姑息で同情心もおこらない」
 藤城は真剣な顔でそう言った。
「……俺もそう思う」
「大君に被害が及んでいることは確かだ。もう少し調べてみるが、大君も無茶しないように。何かあったらすぐに連絡するんだよ。あの三人にも君を守ってくれるようにしっかり言い聞かせてある。見た目はどうあれ、絶対買収されない人間だから頼ってくれて大丈夫だ。安心しなさい」
 優しい瞳で藤城は言った。
「俺……藤城さんを頼ってばっかりで……何にも返せなくてごめんなさい……」
 大地は心の底からそう言った。
「言っただろう。私はごめんなさいじゃなくて、君のありがとうが欲しいんだよ」
「……藤城さん……」
「さあ、アップルパイ食べてくれないかな。残したら川原さんが泣いてしまうから……」
「はい……」
 アップルパイを食べ終わり、暫く雑談してから藤城は大地をコーポ近くまで送った。そうして大地と三人を車から降ろすと、帰っていった。
「ボン、俺達もここで失礼しますよ。適当にこの辺りをうろついてますんで」
 安佐がそう言った。
「あ、はい。本当に済みません」
「いやあ、ボンのためなら、頼まれなくても助けてあげたいと思いますよー」
 墨田がそう言い、三人は去っていった。それを見送って大地は自分のうちに戻った。
「はあ……やっぱりうちがいいなあ~」
 大地は一人そう言い、ようやくホッと安堵できた。次に川原から貰ったアップルパイを冷蔵庫に入れようと腰をかがめると鈍い痛みが身体を走った。
「あたた……」
 殴られた部分がまだジンジンとしている。シャツを捲り上げてそこを確認すると、手足や腹が痣になっているのを見て又溜息をついた。
 こんな痕を博貴に見せるわけにはいかない。と言うことは当分エッチは出来ないということだ。その為、余計に溜息が出た。
 藤城は随分心配したが、又病院に行くなどもってのほかであったのだ。当分医者は勘弁して欲しかった。
 ホッとするとなんだか眠くなっきた。時間はもうすぐ五時であった。博貴が戻って来ている様子はなかった。と言うことは、そのまま仕事に行く気であるのだろう。
「ちょっと横になろ……なんだか疲れた……」
 大地は万年床になっている布団に寝転がって、そのままうとうとしていると、隣の部屋から音が聞こえた。ぼんやりしながら、博貴が帰ってきたのかなあと思っていると、扉が開いて、博貴が入ってきた。半分眠った状態の大地は博貴に気づきながらも、うとうとしていた。すると博貴が横になっている大地の上に覆い被さり、額に唇が触れるのを感じた。大地は自然に博貴の背に自分の腕を廻した。
「大地……」
 耳元で博貴が囁いた。
「博……貴……」
 いつものコロンがふわりと大地を包んで、大地は夢心地になる。だが、博貴の手がシャツを捲り上げようとしたので大地は一気に目が覚めた。
「駄目だ!」
「大ちゃん……?」
 いきなり突き飛ばされた博貴は驚いた顔をしていた。
「ごめん……駄目なんだ……まだ……」
 少しまくられたシャツを直しながら大地は言った。打ち身の痕を見られたら大変なのだ。今のところお風呂に入れなかったので自分で身体を拭いていたのだが、その様子も博貴は知っていた。
 昨日無かった痣があちらこちらにあるのを見られたら、絶対何かあったと博貴は不審に思うだろう。これ以上の心配はさせたくなかったのだ。
「なんだか……大ちゃん……変だよ」
「え、別に……お前これから仕事だろ。やり始めたらお前遅刻するよ。だから……」
 ははっと笑って大地は言った。
「……大ちゃん……君、最近、本当に変だよ。自分もそう思うだろ?」
 じっと見つめられて大地は視線を外して立ち上がって博貴の側に立った。
「変じゃねえよ。ほら、お前仕事いかなきゃ……」
「……ああ、そうだね……」
 博貴はそう言って立ち上がり、二人の部屋をつなぐ扉に手をかけた。
「頑張れよ」
 ニッコリ笑って大地は言った。
「あ、ああ、そうだ大地……」
 普通に博貴はそう言って振り返った。
「なに?」
 と言ったところで手首を掴まれて壁に押しつけられた。
「何か隠してる……」
 そう言って博貴は大地のシャツを掴んだ。
「博貴、おい、やめろって!やめろ!」
 バタバタ暴れる大地を押さえつけて博貴はシャツを捲り上げた。
「大地……この……痣はなんだい?一体どうしたんだい?」
 博貴に見られて大地は観念した。
「ちょ、ちょっと昼間外に出て、喧嘩しちゃってさ、はは、肩があたったからって、いちゃもんつけられたんだ」
 そう、よくある因縁を付けられただけだ。そう思ってくれよと大地は普段通りに話すのだが、博貴はそれを信用している風には見えなかった。
「誰と?」
「え、知らない人達だよ。だって通りがかりの出来事だぜ。知ってるわけねえじゃん」
 大地はあくまでちょっとした喧嘩だと突き通すことにした。
「高良田の息のかかった奴らか?」
「だからさ~ただの喧嘩なんだからいちいち気にすんなよ」
「ただの喧嘩で大地がこんな痣を作って帰ってくるわけが無いだろう!君はどうして私に隠そうとするんだ!何故ちゃんと話してくれないんだ!そんなに私が頼りにならないか?それとも私に話しても仕方がないとでも思っているのかい?」
 博貴は怒鳴るようにそう言った。そんな剣幕で怒鳴られた事が無かった大地は本当に驚いた。
「ごめん……そんなつもりじゃないよ……頼りにならないとか……そんなんじゃない。本当にちょっとした喧嘩だったけど、言ったら、こんな時だし、今みたいに大良が疑うんじゃないかって思って……だから黙っていようと思ったんだ。それだけだよ。心配させたくなかったんだ」
 大地は必死にそう言ったが、博貴は無言でこちらを掴んでいた手を離した。
「……」
「ごめん……ごめんって……怒らせるつもりなんか無かったんだよ……」
「怒ってなんか無いよ……ただ……話してくれなかったことが……辛いだけだ……。きっと他のことも隠しているんじゃないかと……疑いたくなる。そんな疑う気持ちが君に対して起きることが……悲しいよ……」
 そう言って博貴は自分の部屋に戻っていった。大地は追いかけたが、博貴は既に玄関で靴を履いていた。
「大良……謝ってるだろ。許してくれよ。他には何も隠してねーよ……だから……」
 そうではない。隠し事はいっぱいあった。だが言えなかった。
「大地……それが本当だと私には思えない。疑いたくないんだけどね。それは自分がどう見えるか大地自身が分からないからだ。私から君を見ていて……最近の大地は行動や態度が変だ。胸に手を当てて本当に何も隠していないかどうか考えてみたらいい。そんな大地を……私がどんな気持ちで、毎日見ていると思っているんだ!」
 そう言って博貴は扉をバタンとものすごい音で閉めて出ていった。だが、大地は何も言えなかった。博貴がそんな風に言う気持ちも分かるからだ。
 もし立場が逆なら、やはりあんな風に腹を立てただろう。だったらどうしたら良かったと言うのだ?戸浪の事にしろ、高良田が昼間何を大地にしようと思ったかを話したとして、博貴を益々苦しめるだけにしかならない。
 ごめん博貴……
 大地は心の中でもう一度博貴に謝った。

 ぼんやりと大地は博貴のうちの玄関で座り込んでいたが、ふと顔を上げて時間を見ると七時をすぎている事に気が付いた。
 仕方無しに大地は部屋に戻って夕食の準備を始めた。一人で食べる食事が寂しいと思った。先程あんな風に博貴と喧嘩をしたからだろう。
「そう言えば安佐さん達ご飯どうするんだろう……」
 大地は滅多に使わない大鍋を出して、三人の分も作ることにした。最初くらいはご馳走してあげても良いだろう。と言うより感謝の気持ちを分かって貰いたかったのだ。
 何より今は一人で食事を摂るのが無性に寂しかったのだ。
 そうして大地は粕汁と炊き込みご飯を作った。簡単でしかも大量に作ることが出来るからだ。あとは母親が漬けて送ってくれた漬け物を幾つか切った。机が狭いかなあと思ったが、何とかなるだろう。だが彼らが何処にいるのか分からない。とりあえず大地は玄関を出て、通路から外を眺めた。
 キョロキョロ見回すが、既に暗くなった所為か、それとも隠れているから分からないのか、彼らの姿は見えない。
 何処にいるんだろうと、もう一度見回すと、向こう側の塀からちょこっと安佐が顔を出したのが、通りにある電灯の明かりで見えた。その安佐に向かって大地は手招きをした。安佐は辺りを見回し、どうも自分に向けてのことだと気がついて、塀を越えてこちらにやってきた。
「ボン、何かあったんですか?」
「え、別にたいした用じゃないんですけど、その、夕飯を沢山作ったから、皆さんにご馳走しようかなって……墨田さんと住友さんも来ていただきたいんですが……」
「そ、そんなことして貰ったら困りますよ。若頭に怒られてしまいます」
 安佐はびっくりした顔でそう言った。
「でも……もう作っちゃって……断られたら、どうにもならないくらいの量を作ったから、俺も困るんです」
 それは本当の事だった。
「……うーん……」
「捨てちゃうなんて出来ないんですよ……勿体ないし。でも俺一人で食べられない位の量作っちゃったし。助けて貰えませんか?」
「ボンにそこまで言われてご馳走にならないと、反対に申し訳ないですね。じゃ、これっきりと言うことでご馳走になりますよ」
 安佐はニッコリと笑ってそう言った。
「良かった……マジで、俺どうしようかと思ったんです。じゃあ、俺準備しますので他のお二人にも声をかけてあげて下さい」
 大地はそう言って玄関を開けて入った。お茶碗が足りないために、種類の色々な椀に入れることになってしまったが仕方ないだろう。
 そうして人数分を用意する頃に、三人がおずおずと入ってきた。
「どうも……ボン、ご馳走になります」
 小さな机に三人がぎゅうぎゅうに座る姿がなんだか可笑しい。
「何もお礼出来ないので、これをお礼にしてください」
 大地はそう言うと、三人とも同時に「とんでもない」と言った。
 最初は遠慮していた三人であったが、食べ始めると大変だった。
「ボンは料理が上手いっすね……何か俺感激だなあ……マジ美味い」
 と安佐。
「若頭が惚れるのも無理無いなあ……」
 と墨田。
「昔食べた母親の味を思い出した……」 
 住友に至っては涙が浮かんでいる。
「そんなに感激されたら……俺、嬉しいです」
 六合炊いた炊き込みご飯と大鍋の粕汁があっと言う間に空になった。
「ねえ、ボン。ボンは若頭が嫌いですか?」
 湯飲みをもった安佐が、おそるおそる聞いた。
「え、あ、いい人だと俺も思ってるんです。でも、俺、好きな奴がいるから……」
「でもねえ、若頭だっていい人ですぜ。まあ、怒ったら親父と同じくらいこええけど、親父よりこう、優しいところがあるよな」
 墨田が言うと住友が頷いた。
「あの、でも、期限付きの若頭さんですよね……藤城さん」
 話を変えようと大地はそう言った。
「そうなんですよ。俺ら、も一人いる親父の息子より若頭の方が似合いだと思うんですけどね。若頭にその気は無くて……俺ら困ってるんです」
 と安佐が言ったが、困っているのは藤城の方だろうと思った。
「藤城さん羨ましいなあ……いい人達に囲まれて……」
 そう言うと三人ともびっくりした顔になった。
「あれ、俺変なこと言いました?」
「いや、俺達がいい人とかボンがいうから……なあ」
 安佐がそう言って、あとの二人が頷いた。
「……え?何で?だって、藤城さんは貴方達を信頼してるから、俺のボディガードに安佐さん達をよこしてくれたんでしょ。変な人なら安佐さんに頼まないじゃないですか。信頼できて、いい人だから藤城さんは頼んだと思うんだけど……違うんですか?」
 そう言うと又三人は顔を見合わせて、急に破顔した。
「ああ、俺ボンのファンになるよ……ボンって本当に素直で可愛いなあ……若頭の思い人じゃなかったら俺が立候補してた」
 安佐が嬉しそうに言った。他の二人も「うんうん」と頷きあっている。
「はあ、ありがとうございます」
 俺、男なんだけど……と複雑な気持ちで大地はそう言った。
「さて、腹も膨れたし、俺達外に出ますね。これ以上ここにいたことが若頭にばれたら、殺されちまうから」
 そう言って墨田が立ち上がると他の二人も立ち上がった。
「宜しくお願いします」
「ところでボン。こういう気遣いは、これっきりにしてくださいね。これ以上は甘えられませんから」
 墨田が言った。
「分かりました」
「ごちそーさん。ボン」
 安佐がそう言って玄関を開けた。
「あの、寒かったら言ってきてくださいね。毛布……毛布貸しますから」
 そう言うとやっぱり三人は感激していた。なんだかやくざのイメージが変わってしまったと大地は思った。

 片づけを終え、久しぶりにシャワーを浴びて身体や頭を洗った。手足の先が石鹸でしみたが、耐えられるほどの痛みだった。身体を確認していくつも痣が出来ているのを見て大地は又落ち込んだ。これを博貴が見たと思うとなんだか急に辛くなった。
 風呂から上がる頃、電話が入った。
「もしもし……あ……兄ちゃん……」
 相手は戸浪だった。
『大地……調子はどうなんだ?』
「あ、うん。今日お風呂に入ったよ。そのくらい回復した」
『そうか……ところで大、以前の話はどうなったんだ?今日又せっつかれたんだが……』
「え、……あ。うん。分かってる。もう少し時間をくれよ……」
『……分かったが……それほど待てないぞ……と言うより、上司の柿本さんが待ってくれないんだ』
「うん。分かってる。何とかするから……じゃあ」
 それだけ言って大地は一方的に電話を切った。戸浪の上司に無性に腹が立った。休みはまだある。大地は明日戸浪の会社に行って直接聞きに行ってやろうと思った。兄の戸浪には関係ないと必死に訴えれば、もしかしたら許してくれるかもしれない。
 本当にそんなに上手くいくかどうか分からなかったが、理由が分からないと嫌なのだ。自分と博貴のことでこんな事になるなら、この事がいかに理不尽であるか話してやるのだ。大地はそう考えて、深呼吸した。
 何かしなければ。大地はそう考えた。
 


 博貴は、出かけ際大地にあんな言い方をして申し訳なかったと後悔した。帰ったら謝ろうと仕事中もずっと考えていた。
 一番酷い目にあっているのは大地なのだ。博貴の方には高良田は何も言っても来ないし、被害もない。だが大地は今日、喧嘩をふっかけられたのだ。身体に残る打ち身の痣はいくつもあった。大地はただの喧嘩なら無傷で帰ってくるだろう。だが相手はそれなりに計画された男達だったのだ。だから痣を作って帰ってきた。
 博貴はショックだった。何故、高良田はこちらに言ってこないのだ。どうして大地ばかりこんな目にあわすのだ。治ってきたとはいえ、大地の手足は酷い。神経が切れていなかったことが救いだった。
 仕事が終わり、憂鬱な気分で店を出、暫く歩くと声をかけられた。
「博貴様」
 振り返ると高良田が立っていた。博貴は人目があるにも関わらず問答無用で殴った。
「あんた、どの面下げて又私の前に姿を見せられるんだ。今日、いやもう昨日だな、大地を誰かに襲わせただろう」
「ああ、あれですか、捕まえることは失敗しましたがね」
 立ち上がりながら高良田は言った。博貴はその胸ぐらを掴んで更に言った。
「捕まえる?あんた何を言ってるんだ」
「痛めつけるのが目的じゃなかったんですよ。捕まえて良いことをしてやろ……」
 と言ったところでもう一発博貴は殴った。高良田は今度派手に倒れた。
「下司め」
「何とでも。戻っていただけないのでしたら、当分手はゆるめる気はありませんよ」
 高良田は薄笑いを浮かべて言った。
「……戻る気など無いね」
「今回は失敗しましたがいずれあの子を捕まえて見せますよ。あと、どんな目にあうかは私も知りませんがね」
「手を出すな!大地は関係ないんだ」
 博貴は怒鳴るように言った。
「戻ってきてくださるというなら……手を引きますけどねえ……どうなんですか?」
 高良田がそう言ったことで博貴はようやく気が付いた。
「……そう言うことだったのか……大地を酷い目にあわせてきた理由はそれか!」
「今頃気がついたのですか?さあ、どうなんです。貴方に守りきれないでしょう」
「……」
 博貴は何かを言いかけて止めた。何を言っても高良田は同じ事を繰り返して言うだけなのだ。
「あんな可愛い子が泣くのをこれ以上見ていられないんじゃないですか?」
 後ろからそう言った高良田をそのまま無視し、博貴はその場を去った。これ以上相手にはしたくなかったのだ。
 大地ばかり酷い目にあわせる理由が分かった。こちらが根を上げるのを待っていたのだ。
 確かにいい方法だよ……博貴は心の中で呟いた。
 大地は頑張ると言った。絶対こんな事に屈したくないとも言った。博貴もそのつもりであった。だが、これ以上大地を傷つけたくないというのも博貴にはあった。大地を捕まえることに失敗したと言ったが、これからも逃げられるとは限らないだろう。いつか自分の知らないところで大地が掴まり、酷い目にあわされたらどうする?そんなことを考えて博貴は傷もないのに痛みを感じた。
 コーポに戻り隣の部屋を覗くと大地がぐっすりと眠っていた。警戒心のかけらもないその寝顔は毎日疲れて帰ってくる博貴をどれだけ癒してくれるか分からないほどだ。
 その横に自分も身体を伸ばして、大地の額にかかる髪を撫で上げた。
「大地……」
 何処の誰か分からない奴らに大地が無理矢理身体を開かされることを考えると博貴は泣きたくなった。例えどんなことがあってもそれだけは許せなかった。絶対そんな目に大地をあわせたくなかった。もしそんな目にあわされたら大地がどうなるか予想がつかない。泣くだけで済む訳が無いのだ。心が壊れてしまうかもしれない。
 憎まれることは耐えられる。どんな償いだっていとわない。だが、どうあってもそんな目にだけはあわせたくないのだ。
 どうしたらいい?どうすれば大地を守ることが出来るのだろうか?
 何の力も後ろ盾もない博貴には、これと言った手を打つことが出来ない。
「……あ……」
 うっすらと大地の瞳が開いた。ぼーっとこちらの瞳を見ている。こういう場合の大地はまだ眠りの中だ。
「大ちゃんただいま……」
「……ん……んー……博貴……」
 ぼんやりした焦点が少しずつ合ってくる。
「起きなくていいよ。眠っていて良いから……」
 大地の身体を引き寄せて保護するように腕に抱いて博貴は言った。
「……あ……うん……」
 何とか開いていた瞼が閉じられ、暫くすると寝息が聞こえた。大地は又眠ってしまった。
 博貴も同じように瞳を閉じた。これほど辛い夜は無かった。
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