Angel Sugar

「駄目かもしんない」 第10章

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 目を開けると周りは薄暗かった。もうそんな時間なのかと横を向くと、大地がベットに頭を置いて眠っていた。
「大地……」
 そっと手を伸ばして頭を撫でると大地が小さく「ん……」と言った。身体をずらせて大地の頭に鼻面を置いた。手入れされていないサラサラの髪がくすぐったい。だが、気持ちが妙に穏やかになるのが博貴には分かった。
 無理して帰ってきて良かったと博貴は思った。あとから帰ってきて、大地が引っ越していた日には当分、復活できなかっただろう。幸いそんな気が無いようだ。記憶が欠如していて博貴がどれほど傷つけたのか覚えていないからだろう。覚えておれば今頃、何発か殴られていたはずだ。
 どうしてこれほど愛しいのか博貴にも分からない。なんだかんだと言っても大地は面倒を見てくれている。いきなりこんな風に近い存在として感じられるとは夢にも思わなかった。ただ博貴はここに早く帰りたかっただけなのだ。大地の側で大地の存在を感じていたかっただけだ。それだけでいいと思って帰ってきたのに、それ以上の事が今おこっている。これは奇跡に近い。生きていて良かったと本当に思う。
 もっと自分の身体が元気であればこのままベットに引きずり込んでいただろう。何もしなくても、抱きしめて一緒に眠るくらいしたかったなあと博貴は本気で思った。
 そうして博貴の髪を撫でる仕草で大地が目を覚ました。
「……あれ……俺寝てた……」
 目を擦りながら、そう言う大地も可愛らしい。
「気持ちよさそうだったよ」
「うわ、もうこんな時間だったんだ……と……でしたね」
「そのままでいいよ。でしたねはいらない」 
 そう言うと大地は照れたように頭をかいた。
「大ちゃん悪いんだけど……電気を点けてもらえないかい?」
「いいよ」
 うーんと伸びをして大地は立ち上がると、慣れた家のようにスイッチを押した。それを見て博貴は変だなと思った。この部屋は他の部屋と違って内装を特別にリフォームをかけてある。その為、各部屋にあるスイッチの位置とは違うところに電灯のスイッチがあるのだ。それなのに記憶をなくしている大地がどうして知っているのだろう。
「ねえ、大ちゃん。スイッチの在処を簡単に見つけたけど、思いだしたのかい?」
「え、いや、立ち上がったら見えたからさ、あれかなとおもって……」
「……そっか……」
 少し何かを思いだしてくれたのだろうかと期待したが、違ったようであった。大地は博貴の事の全てを記憶から閉め出してしまったのだろう。他の事や他の誰の事も覚えているのにも関わらず、博貴のことだけを忘れている。それほどショックを受けたのだ。何もかも忘れたいと思うくらいに……。
 事故で頭を強く打った事で、大地の願いが叶えられたのだろう。それを思うと博貴は胸が痛かった。大地がどれほど苦しかったのかを思うと泣きたくなる。
「あ……と」
 携帯が鳴り、それをとって大地は話し出した。博貴は誰だろうと思わず聞き耳を立ててしまった。
「もしもし……はい。あ……」
 と言ってこちらを見ると、いそいそと自分の部屋へと大地が帰っていった。そうか藤城がかけてきたのだと博貴は溜息をついた。食事の誘いなのだろうか?
 今のこの状態は自分の責任であるのに、悔しくて仕方がなかった。身体が思うように動かないのも情けなくなる要因だ。
 暫くすると大地が帰ってきた。
「俺、出かけるから……でも、大良さん、大丈夫かな……」
 既に上着を着て大地が言った。
「さん付けはやめてくれ……」
「あ……うん」
「私の身体を気にかけてくれるのは嬉しいんだけど、君には君の付き合いがあるだろうから、気にしないで良いんだよ。全然動けない訳じゃないんだからね」
「そっか、じゃ、行ってきます」
 大地は嬉しそうに自分の部屋に戻っていった。暫くすると玄関が開いて閉じる音が聞こえた。遠くにそれを聞いて博貴はベットに沈んだまま、暫く動けなかった。
「大ちゃんに……行くなと言いたかったな……」
 喉元まで出そうになった言葉を博貴は飲み込んだのだ。
 シンと静まりかえった部屋が急に寒くなり、博貴は毛布を引き上げた。少しお腹が空いたなと思ったが、動くのがめんどくさくてもう一眠りしようと目を閉じた。だが、大地と藤城のことが気になって眠れない。
 もう、二人は抱き合ったのだろうか?いや、大地の身体はまだそんな事が出来るほど回復していないだろう。藤城も今の大地に無茶はしないはずだ。
 それでも、どんどん二人の距離が近くなってきているのが分かる。焦っても仕方のないことなのだが、この焦燥感をどうしたらいいのか分からないのだ。取り戻したいと心の底から思っている。だが気持ちばかりが先走って、傷ついた身体が追いつかない。
 大地を抱きしめ、キスして、許しを請いたいのだ。だが向こうが忘れているために、そのどれも出来ない事が苦しい。せめて少しでも覚えていてくれておれば何とかなったのかもしれない。
 色んな思いを抱えながら、博貴はうつらうつらと又夢の中へと落ち込んだ。
 次に目を覚ましたとき、汗をびっしりとかいていた。時間を見ると十時になろうとしていた。隣から物音がしない所をみると、大地はまだ帰っていないようであった。
 博貴は何とか身体を起こして、パジャマを脱ぎ、身体の汗を拭くと新しいパジャマを出して着がえた。たったそれだけの行動に一日全ての体力が失われたような疲労感が博貴を襲った。その為、もう、立っておれずにベットに座って一息ついた。
「はあ……この程度で息切れするなんてねえ……」
 こうなると苦笑しか漏れない。まだこれからキッチンに立ち、何か食べられるものを作らなければならないのだ。以前からレトルト食品を沢山購入してあったので、湯を入れるだけで出来上がるお粥でも食べようかと思案した。大地が来てからほとんでレトルトは食べなくなったので、蓄えが沢山あったのだ。
 考えてみると、朝に帰ってきてから何も口に入れていないことを思い出した。確かに空腹だった。これじゃあ体力も戻らないと考えて、よいしょと立ち上がった瞬間、ぐらりと目眩がした。
「あ~あ……なんだか分からないけど……クラクラするねえ」
 一人そう呟いて、よろよろとキッチンまで来たのだが、立っているのも辛い。
 自動湯沸かしポットの電源を入れていなかったのと、ほったらかしにしていたので、中の水を捨てて、洗ってから水を入れて、電源を入れた。それを終えると、ずるずると床に座り込んで一息つく。
 少し休んでからキッチンの床を開けて、直してあるレトルト食品の入った袋をがさがさと引っ張り出そうとしたが、力が入らない。
 気が付くと足を床のボックスにつっこんだまま動けなくなった。最悪の状態だった。まあ、良いかと思いながら、レトルトをかき分けるのだが、肝心のお粥が無い。いや、確かに以前買ってきた筈だと中身を出して捜すと一番下になっていた。
 勘弁してくれよ……と溜息をつきつつそれを持って辺りを見回すと、かき分けて出したレトルトが床に散らかっていた。それを片づける元気もない。見つけたお粥の箱をもってぼーっと座ったまま動けなくなってしまった。
 腹の傷は酷かったが、今は身体を動かすとチクチクと痛むくらいで、大きな動作さえ控えておれば耐えられない痛みではない。今から考えると、腹を切るなんて自分でもすごいことをしたなあと呆れるやら感心するやらだった。 
 又うとうとするのだが、ここでは寝ることは出来ない。分かっているのだが、瞼が重く感じる。何だってこんなに眠いのか分からないが、きっと飲んでいる薬の所為だろう。お腹が空いているのに、睡魔にも抵抗できない。
「大良!」
 呼ばれて顔を上げると、大地が泣きそうな顔でこっちに走ってきた。
「あ、大ちゃん。帰ってたんだね」
 嬉しくて笑顔でそう言った。
「大丈夫か?何してるんだよ!」   
 肩を支えてくれる大地の腕が嬉しい。それなのに大地からほのかな石鹸の匂いがするところを見ると、藤城とやったのだろうかと一瞬考えたのを振り払った。
「ああ、朝から何も食べてなかったから空腹でね。それで何か食べようと思って……お粥を捜していたらこんな事になってしまったんだよ。片づけようとしたら、今度は眠くなってね、うとうとしてしまったんだ」
「馬鹿じゃないのか、そんなんで動ける訳無いだろ。ずっと眠ってたから起こさなかったんだけど、俺いるんだからお腹空いたら言えよ」
 いつも通りの大地が余計に博貴を笑顔にさせた。
「……ありがと……でも迷惑これ以上かけられないからねえ……」
「笑いながら言うなよ。全く……。それに何だよこれ、こんなの食う気だったのか?」
 手に持っていたお粥の箱を大地は取り上げて言った。
「さすがに料理をするほどの時間立っていられないんだ。これだったらお湯を入れるだけですぐに出来るから……」
「馬鹿野郎!身体弱ってるときにこんなもん食ったら違う病気になるだろ。こういうのは元気なときにたまに食べるもんなんだよ。まさかずっとこれ食べる気だったのか?」
 散らかっているレトルトの箱を眺めながら大地は言った。
「……うーん。そうなるかな」
「馬鹿馬鹿!大馬鹿野郎!こんな身体で何だって帰ってきたんだ」
 馬鹿を連発されているのに博貴は嬉しくて仕方がなかった。
「だってねえ……大ちゃんの側にいたかったから……」
 そう言うと大地は顔を真っ赤にした。これはきっと脈があるんだと博貴は思った。
「ふざけるなよ……ほら、立てよ。俺が片づけるから」
 そう言って大地は博貴の肩を引っ張り上げた。すると引きつった痛みが走って博貴は思わず呻いた。
「っつ……」
「ご、ごめん……痛かった?」
「大丈夫……大丈夫だよ……」
 博貴は大地に支えられながらベットに戻って横になった。
「……ちゃんと……夕飯作って用意してたんだからさ……」
 レトルトを片づけながら大地がそう言った。
「え、でも何処かに出かけてなかったかい?」
「そんなのすぐに帰ってきたよ。俺だってまだ身体そんな元気じゃねえもん。会社だって病欠になってるし、遊びには行けないよ。兄ちゃんと外で話してきただけだから……。帰ってきて様子見たら寝てたし……起こすのも悪いかと思って起きてからでいいやって思ってたら、お前、こんな事してるしさ……」
 大地はぶつぶつ文句を言っていたが、大地は戸浪と会っていたのだ。藤城ではなかった。その上、夕飯を作ってくれていたのだ。何から何まで博貴は感動してしまった。笑顔のまま表情が変えられない。そんな博貴に大地は又「笑ってる場合か!馬鹿」と言った。
「ちょっと温めてくる」
 片づけ終わった大地は部屋に戻り、暫くするとお盆に雑炊を乗せて帰ってきた。
「ほら、熱いから気を付けろよ」
「ありがとう……大ちゃん……」
 膝にお盆を乗せて博貴は言った。博貴が食べている間、大地はさっき博貴が脱いだパジャマを片づたり、新しいシーツをもってきたりとうろうろしていた。
「大ちゃん。本当にいいから……君も身体辛いだろ?」
 見かねて博貴が言った。
「今のうちに体力戻さないと、仕事で息切れしそうだからさ。走ったり跳ねたりはしちゃいけないけど、こうやって用事をするのは良いって病院でも言われたから。リハビリかねてやってるんだ。ほんとに気にすんなよ。しんどくなったら俺やめるから」
「……ありがとう……大ちゃん」
 幸せだなあと本当に思う。このままずっとこうして側にいてくれるのかもしれない。
 期待して良いのだろうか?ただの隣人という付き合いだけなのだろうか?
 だがよく考えてみれば、大地とつき合う前、互いの部屋を行ったり来たりしていたが、こんな感じだったことを思い出した。大地は困った人を放って置けない性格なのだろう。だからこうやって面倒を見てくれているのだ。過度の期待をしてはいけないと博貴は自分を戒めるように心の中で呟いた。今はこうしてくれているが、藤城とどうなっているか分からないからだ。聞けば答えてくれるのだろうか?聞いていいのだろうか?
 そんなことを考えてぼんやりしていると大地が言った。
「食べたら薬飲めよ」
「あ、そうだったね」
 薬の袋を手にとって、博貴は薬を飲んだ。暫くすると一気に眠気がやってきた。
「ゆっくり寝ろよ……」
 博貴の布団を直して、部屋の電気を消すと大地は自分の部屋に帰っていった。睡魔は直ぐにやってきた。

 次の日、大地は藤城から呼び出されて外でお昼を食べることになった。朝、博貴にご飯を食べさせて、そのあと眠ったようであったから一時間ほどで戻れば良いだろうと大地は思った。
 全く心配で仕方がないのだ。動けないくせに自分で何とかしようとしている姿が痛々しくて見ていられないのだ。怒っても嬉しそうに笑顔を返してくるので、のれんに腕押し状態だった。その上ぬけぬけと側にいたいとぬかす。
 全く……もう。と大地は博貴のことを思い出しながら、口元に笑みがこぼれた。頼られるのは嬉しい。博貴だから嬉しいのだろう。自分より年上で、いつもは大地が面倒を見られているような気がするが、こういう時、弱さを見せてくれるのが嬉しい。藤城ではこうはいかないだろう。弱さなど絶対見せないはずだ。
 大地は小さい頃から兄達や両親に守られてきた。それが嫌だった。確かに見た目は守ってあげたいかわいらしさがあるのだろうが、守ってやってるというのがいつもヒシヒシと伝わってくる。
 守られるのは嫌ではない。だが対等に見られていないと言うのが嫌なのだ。
 兄弟や両親ならまだ納得できるが、恋人にまでそんな風に見られるのは嫌だった。だが博貴は年上で普段は遊ばされているなあと思うが、頼ってもくれる。必要だと思わせてくれる。一方通行な付き合いでないから好きなのだ。強引で躊躇する隙を与えてくれないと言う部分もあるが、甘えてくる部分もある。自分だって相手を支えているんだと思わせてくれるのだ。だから一緒にいて楽だった。
 藤城は優しく見守るような暖かさがある。どんなときにもきっとしっかり地面に立っているのだろう。だがそう言う人間は今までも沢山いた。嫌いではないが、恋人としてつき合っていく自信が無い。好かれていると分かっていても、それから先に進めない。
 確かに藤城は自分が辛かったときに側にいてくれた。その腕の中で甘えていたいと思ったこともあった。
 だけど……
「大君どうしたんだい?」
 ぼんやり考え込んでいる藤城が聞いてきた。
「え、あっ……別に何でも無いです……」
 ははっと笑って大地は言った。
「そう言えば大良さんも事故にあっていたそうだね。それで今帰ってきていると聞いたんだが……君はもう会ったのかい?」
 穏やかに藤城は言った。
「……ええ。お隣さんだし、なんかまだ身体調子悪いのに帰ってきてるみたいで……お医者さんが往診に来るんですけど、そのとき、こういう時はお隣同士助け合うものだろうと言われて……時々様子を見に行ってます」
 時々なんてものではなかったが大地はそう言った。それにしても藤城の情報は早い。父親が酒井と付き合いがあると言っていたのも理由なのかもしれない。
「そうか……で、君は彼のことを何か思い出したのかい?」
 聞かれて大地は首を横に振った。
「……そう」
 嘘がばれているのだろうか。藤城の表情はいつも全く変わらない為、何を考えているのか本当に分からない。
「……あの、俺そろそろ帰らないと……」
 何となく息苦しくなった大地は藤城にそう言った。
「これからドライブでもと思っていたのだが……」
 残念そうに藤城が言った。だが博貴のことが気になるのだ。起きて又自分で料理を作ろうとしているのではないかと思うと気がかりでしかたない。
「済みません。もう少し身体の調子が良くなったら、ドライブにつき合えると思います」
「約束だよ」
 嬉しそうに藤城がそう言った。
「はい……」
 笑顔でそう答えたが、藤城を騙しているという罪悪感が大地にはあった。
 車に乗り込みコーポまで来ると藤城は玄関迄一緒についてきた。
「あの……ここで良いです」
「お茶くらいご馳走してくれないのかな?」
 嫌とは言えなかった。
「良いですよ。でも散らかってるし……」
「構わないよ。うちだっていつも散らかってる」
 二人で中に入ると大地はすぐにキッチンに立った。
「インスタントのコーヒーしか無いですけど……良いですか?」
「充分だよ」
 コーヒーを入れて小さな机に並べた。藤城は正座している。
「なかなか住み心地の良さそうなコーポだね」
 本気で言っているのなら、絶対藤城の感覚はおかしいと大地は思った。
「一人で住むのは充分だと思いますけど……済み心地はどうだろ……」
 自分で部屋を見渡して大地は言った。
「……で、この扉は?」
 博貴との部屋を繋ぐ扉をじっとみて藤城が言うので、大地は慌てて扉の前に立った。
「飾りです。飾り……前の住民の趣味だそうです」
 最近自分は嘘ばっかりついているなあと心の中で溜息をついた。
「ふうん。面白い趣味の人がいるんだね」
 扉の前に立つ大地に近づいて藤城は言った。
「そう……ですね」
 近寄って来た藤城にやばいと思いながらも、見つめられて大地は動けなかった。
「あの、コーヒー冷めて……」
 と言ったところで藤城の唇が触れた。
「あ……っ。ちょっ……」
 藤城の舌は大地の舌を捉えて離さなかった。大地は、驚きと与えられる刺激に立っていられなくなり、そのまま膝が折れて座り込んだ。
「藤……城さ……」
 藤城の舌は肉厚で、逃げをうつ大地の舌を器用に絡め取って愛撫する。細やかに口内をなぞり、まるで生き物のように大地の中を味わっていた。
「はっ……はあ……」
 ようやく唇を離してくれた藤城は今度は首元にキスを落とし、そのまま舌を走らせ手来た。手は胸元をまさぐっている。
「俺……駄目だ……よ……」
 違う、何かが違うのだ。キスは博貴が教えてくれたキスだ。身体を愛撫してくれたのも博貴だ。藤城ではない。感じる刺激が違うのだ。博貴が起きていたらどうしようと大地は思った。こんな事は知られたくない。だが、抵抗しているうちに、組み敷かれて動けなくなってしまった。藤城はシャツのボタンを外しだした。大地は上に乗られたことで鋭い痛みが身体を走った。肋骨はまだヒビが入った状態で、コルセットで固定しているが、上に乗られるとかなり痛い。
「……い、痛いっ!」
 急に身体を丸くして大地はそう言ったので、藤城は身体を離した。
「済まない……大丈夫かい?」
 胸を押さえる大地に藤城は言った。肋骨の事をようやく思い出したのだろう。
「……痛い……」
 涙を滲ませて大地は言った。涙が出るほど痛いわけではなかった。自分の馬鹿さかげんに呆れているのだ。そんなことが分からない藤城は、自分の所為だと思ったのか、大地を起こしてそっと抱きしめた。
「……忘れていたよ……身体のこと……あんまり君が可愛いから……」
 厚い胸にすっぽり包まれた大地は、涙が止まらなかった。この優しさに甘えている自分に腹が立つのだ。
「ごめんなさい……」
「いや……いいんだ」
 藤城が大地を離して立ち上がった。
「あの……俺……」
 俺は藤城さんとはつき合えません。そう言うつもりだった。
「もう少し良くなったらドライブに行こう」
 にこやかな笑みを浮かべて藤城は帰っていった。心の中で大地は何度も藤城に謝った。

 聞き耳を立てていたわけではない。静かだから聞こえたのだ。それだけだった。大地が面倒を見てくれることに喜んでいた自分が馬鹿だと博貴は思った。もしかして大地は自分のことに好意を持ってくれているのかもしれないと希望として思っていたからだ。だが、扉向こうで時折聞こえる声で、大地と藤城に何があったか大体分かった。
「仕方ないよねえ……」
 小さく博貴は言って目を閉じた。大地をどんな理由があったとしても、傷つけ切り捨てたのは自分だ。助かるつもりが無かったのに、助かったからと言って今更昔のように戻りたいと言う方が勝手な事なのだ。
 自分の中では止まっていた時間が周りではちゃんと時を刻んでいた。それだけだった。
「あのさ……お昼食べた?」
 急に大地に問いかけられて目を開けた。いつの間にか扉を開けてこちらにやってきていたのだ。
「え、あ。今何時かな?」
 何となく大地がよそよそしく見えるのは思い過ごしだろうか?
「えっと……二時」
「ああ、そんなに眠っていたんだ……君に起こされるまで気がつかなかった」
 そう、博貴は嘘を付いた。
「寝てたんだ……そっか、じゃ、なんか作るよ」
 急に笑顔になって大地はそう言った。聞かれたかもしれないと思っていたのだろうか?
「ありがとう……大ちゃん」
 このままずっと一緒にいたいのに、自分の心だけが置き去りになっていた。本当に何とかなるのだろうか?大地が戻ってきてくれる可能性はあるのだろうか。それをいくら今の大地の中に見つけようと思っても分からなかった。
「あ、お医者さん来た?」
「君が出たあとで来たよ」
「え……俺が出たの知ってたんだ?」
「いや、医者が大ちゃんを捜しに行ったんだよ。君のことを話したら、ついでに診てやるとか言ってね。それでいなかったから出かけたんだろうって」
「い、いなくて良かった。俺もう、当分医者はごめんだよ……」
 手を振って大地は言った。
「注射されるからだろ」
「そうなんだけどね……」
 照れくさそうに大地は言った。
「小さい頃注射で逃げ回ったくちだね……」
 くすっと笑って博貴は言った。大地のその行動が想像付くからおかしいのだ。
「別にいいじゃんか……嫌いな物は嫌いなんだ。そんな事言うなよ」
 大地は顔を赤々とさせてそう言った。その首元にキスマークを見つけて博貴は気が滅入った。想像したくないのだが先ほど聞こえてきた二人の会話で、色々想像してしまう自分が情けなかった。
「ごめんよ……」
 そう言うと博貴は布団に潜った。自分の好きな相手が違う男と……そう思うと次に何を話して良いのか分からなくなる。
「どうしたんだよ……又熱でも出たのか?」
 急に博貴が沈んだ声を出した事に不審に思ったのか、大地は博貴の額に手を置くともう片方の手を自分の額に当てた。
「熱は無いみたい……」
 その手が離される前に博貴は思わず大地の手を掴んだ。
「……大良?」
「……うん……」
 掴んだ手を自分の頬に当て、博貴はその温もりを感じた。大地の手の平は既に綺麗になっているが、やや固い手はやはり空手をやっているからだ。
 それでも博貴には心地よかった。
「あのなあ……」
 言いながらも大地はこちらの手を振りほどく事はなかった。
「大ちゃんの手……爪が半分まで伸びてきたね……」
「え、あ。うん」
「……良かった……」
「なあ、そろそろ離してくれない?俺、飯作ってる途中」
 照れくさい顔で大地が言った。
「ごめん……こんな事したら藤城さんに怒られちゃうよね……」
 そう言うと大地は手を振り払った。
「余計なこと言うな!」
 急に怒り出して大地は言った。その程度で怒るのなら、首元のキスマークを指摘したらもう二度とこちらに来てくれることは無いだろう。そう思った博貴はキスマークのことは言わなかった。例え藤城と関係が出来上がったとしても、大地との繋がりを、どんな形でもいいから続けていきたいのだ。どれだけ辛くてもだ。
「……」
「今度、変なこと言ったら飯つくらねえからな」
 大地はキッチンからそう叫んだ。博貴は答えなかった。答える元気が無いのだ。
 暫くすると大地は木の葉うどんを作って持ってきた。
「なあ、うどんは良いんだよな」
 覗き込むように大地がそう言った。
「あ、ああ……」
 身体を起こそうとすると、大地が支えて手伝ってくれた。背中には枕の上にクッションを置いて楽にもたれられるようにしてくれる。そんな一つ一つの事が、博貴には嬉しい。嬉しいのだが、同時にそれは隣人としての大地なのだ。それが悲しい。
「それだけじゃあ少ないかな?」
「充分だよ」
 うどんを食べていると大地が横でじっと見ていた。大地の大きな瞳でじっと見つめられると緊張してうどんが喉を通らない。
 暫く我慢して食べていたのだが、途中で博貴は咳き込んだ。
「だ、大丈夫か?」
 大地は博貴の背中をさすってそう言った。
「けほ……けほ……いたたたた……」
 咳をすると腹にひびいて痛むのだ。
「慌てて食べるからだろ……もー」
 違う。大地がじっと見つめるから、その目に見とれて飲み込む事が出来なかったのだとは言えなかった。
「だ、大丈夫……」
「ちょっと待ってろよ……」
 大地はキッチンに行くと箸を持って帰ってきた。それをどうするのか眺めていると、お盆に乗っているどんぶり鉢に箸をつっこんで、うどんの麺を短く切り出した。
「俺が悪いんだよな。やっぱ長いと飲み込みにくいもんな。最初から短くきっとけばよかったんだ。ごめんな」 
 申し訳なさそうな大地の表情を見て、博貴は思わずその箸で食べさせてと言いたくなった。言えばなんと答えてくれるだろうか?又怒るのだろうか?
「…ど、どんぶりを持って食べるのに力が入ってしんどいんだよ。本当に体力が落ちてしまった」
 ちらりと大地を見ながらそう言った。我ながら訳の分からない事を言ったと心の中で博貴は苦笑した。
「……何て手間のかかる奴なんだよ」
 大地は持っている箸でうどんを掴むと、冷ましてからこちらに向けて「ほら」と言った。
「え……あ」
「は、恥ずかしい事してやってるんだから、さっさと食え!」
「ありがとう……」
 そうやって食べさせて貰って綺麗にうどんを食べ終わった。最後の方でうどんを食べるのが辛くなったが、大地が作ってくれ、その上食べさせてもらって残すことなど出来なかったのだ。
「今度からうどんはやめよ……」
 大地は片づけながらそう言った。
「でも、私は嬉しかったよ。食べさせて貰ったのは子供の頃以来だ……」
 そう言うと大地はじっとこちらを見て、すっと視線を逸らせた。どう見ても照れた顔だ。
「それに大ちゃんが食べさせてくれたから、嬉しさ倍増……」
 ニコリと笑って博貴はそう言った。
「も、いいから、薬飲めよ……」
「あ、そうだったね……」
 満面の笑みのまま博貴は薬を飲み、身体をベットに沈ませた。
「なあ、どの位で普通の生活出来るようになるってお医者さん言ってた?」
「仕事は当分出来ないらしいけど、生活するのに困らなくなるにはあと一週間位と言っていたね。抜糸も済んだし、あとは回復するだけだよ」
「ふうん」
「ずっと迷惑かけてるから……ね。済まない……」
「あ、違うんだよ。俺来週から仕事始まっちゃうからさ、面倒見られないだろ。だから心配だったんだ。でもそのころにはお前も少しは何とかなってそうだから安心した」
「……本当に感謝しているよ……大ちゃん。君にとって迷惑なことなんだろうけど、私はそれでも大ちゃんにこうやって側にいて貰いたい……。わがまま言って済まない」
「大良って……何でそんなに恥ずかしい台詞をポンポンいえんのかな……」
 全くと言う顔で大地は言った。
「言っておかないと……何時か君がもうこうやって側にいてくれなくなったときに、あの時言えば良かったと後悔したくないんだ……それだけだ……よ……」
 だんだんと睡魔がやってくる。
「大良?」
 大地が覗くと博貴は眠っていた。
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