「駄目かもしんない」 第8章
入院して三日も経つと身体の痛みが引いてきた。昨日は打ち身の痛みが倍加してやってきたので、全く動けなかったのだ。打ち身の痛みは後からやってくるとは言うが、これ程とは思わなかった。
「母さん……俺……何時退院できそうなの?」
「あと一週間くらいで退院出来ると聞いてるんだけど……でも退院してもすぐに仕事は無理だそうよ。そのあと一週間くらいは家で養生しないといけないと聞いたわ」
「はあ……俺、首になっちゃうかも……続けざま会社休んでるし……」
ようやく口元に笑みを浮かべることが出来る位に大地は心も体も回復した。
「大地……そうなったら、帰ってきなさい。いいのよ。無理しなくても……」
母の咲子はそう言って微笑んだ。
「……そうだね……首になったら考えるよ……」
それもいいかもしれないと大地は本気で考えていた。実家に帰ればもう二度と博貴とは会わないだろう。噂も聞くことも無くなるはずだ。
お互い、その方がいいかもしれない。
「さってと、大地のコーポに行って掃除でもしてくるわね。夕方帰ってくるわ」
「え、いいよ……そんなの……」
大地は慌てて言った。
「こんにちは大君」
そこへ藤城がやってきた。
「丁度良いところに藤城さんが来たようだし、藤城さん、暫く出かけますので、この子の面倒お願いします」
「喜んで」
藤城はそう言った。どうも咲子の信頼を勝ち得たようである。
「藤城さん……毎日済みません……」
「うーん……そろそろ笑顔を見せて貰えるんじゃないかなあと思っているんだが……」
「え……あ、はは……」
「引きつったような笑顔だね」
椅子に座って藤城が苦笑いしていた。
「ごめんなさい……」
「そうそう、今日はこれを差し入れに持ってきたよ。退屈だろうと思ってね」
そう言って藤城は紙袋を大地に渡した。大地が中を確認すると、エッチな本ばかり入っており、大地は思わず顔が真っ赤にして叫んだ。
「なっ…何を、こ、こんなもん貰っても……俺……母さんの前で読めないじゃないか!」
「はははは。冗談だよ」
「や、やだなあ…も……あ……ははは……はははっ……っ……笑うとお腹痛い……けど、可笑しい……」
「うん。いつもの大君の笑顔だ……その顔が見たかったんだよ」
藤城はそう言って大地の頭を撫でた。本当に優しい。
「ごめんなさいねえ……いい雰囲気の所……大ちゃん水臭い!連絡くれないなんて!」
そう言って今度は真喜子が入ってきた。
「え……と、真喜子さん……でしたよね……」
大地はじっと真喜子を見てそう言った。
「いやあねえ……何言ってるのよこの子は!」
「なんか……記憶が混乱してるんです。俺……車に跳ねられたとき、頭強く打ったらしくて……色々抜け落ちちゃって……ごめんなさい」
大地はそれで医者からの質問も押し通してきたのだ。医者は適当な病名を勝手に付けてくれた。その為、都合の悪いことを誤魔化すことが簡単に出来るようになった。
「やだ、そうなの。大丈夫なの大ちゃん……」
心配そうに覗き込む真喜子は香水の良い香りをさせていた。
「そうなんですよ。一過性だろうと医者は言ってるんですが、まあ、生活に支障の無い程度らしいので心配はしていないんです」
藤城が言った。
「ふうん……」
と言って真喜子が入り口の方を眺めて「光ちゃん入らないの?」と言った。一瞬逃げ出したくなったが、平静を装うのだと大地は自分に言い聞かせた。
会ったことのない人なのだ。
大良博貴という人間は大地の中では他人なのだと必死に思った。
「……あ、ああ……。大地……大丈夫かい?」
ばつの悪そうな顔で博貴が入ってきた。
「あの……」
「知らなかったんだ……君がこんな事になっていたのを……知っていたら……」
知っていたらどうしたのだろう?
「……あの、どちら様でしょう」
言った。言えば楽になった。顔は強ばってはいないはずだった。大地はあくまで普通に話すことを心がけた。
「いやだあ……大ちゃん。とぼけちゃって……光ちゃんよ。博貴よ博貴。貴方の恋人じゃないの……」
真喜子が大地と博貴を交互に見ながら言った。正確にはもう恋人じゃなかった。赤の他人だ。今も昔も。
「ごめんなさい……思い出せない……」
大地は済まなさそうに俯いた。
「……時間が経ったら思い出すってお医者さんが言ったんでしょう?大丈夫よ。思い出せるわよ大ちゃん。貴方にとって大切な人なんだから……そうよね光ちゃん」
硬直している博貴に真喜子が慌てて言った。真喜子には何も話していないのだろうか?多分そうなのだろう。
「医者から聞いたんだが……人間はものすごく悲しい目にあったり、辛い目に合うと、心の平均が取れなくなってその原因となったことを忘れてしまう事があるそうだよ。大君がこうなったのも、大良さんに原因があるんではないのかね?本当に大君が忘れたくないと思っていたのなら、恋人を忘れたりするかね?忘れたかったから、事故のショックもあって、綺麗さっぱり忘れてしまったとしたら、思い出さない方がいいんではないのか?」
藤城は真喜子にそう言った。いきなりそんなことを言われた真喜子の方はとまどったように博貴の顔を見る。
「え、あ、光ちゃん……何か大ちゃんとあったの?」
「いや……」
自分が何を言ったのか覚えていないのだろうか?それとも真喜子に対していい子になろうとしているのだろうか。
大地はそんな事を思ったが、やはり平静を装った。
「あの…済みませんが……十分、いえ五分で構わないので……大地と二人っきりにしてもらえませんか?」
博貴はそう言うと、真喜子は藤城の顔をちらりと見てから「分かったわ……」と言って出ていった。
「藤城さん……」
博貴が訴えるようにそう言った。
「……ああ、五分だけだ。傷に障るようなことは話さないで貰えるかい」
「はい……約束します」
そうして藤城が出ていくと、二人っきりになってしまった。博貴はそっとベットに近づいて跪いた。
「大地……覚えていなくても良いから聞いてくれるかい?」
見たことのない様な笑顔で博貴が言った。あの時、大地を切り捨てた日の顔とは全く違った。
「はい……」
「良かったよ……。君が私の事を忘れてくれていて……本当に良かった」
だろうな。そう言う奴だったんだ。
「……そう……なんですか?」
「私との思い出は君にとって辛いことばっかりだったからね……忘れてしまいたいと思うのは心の自然な事なのかもしれない。大地はこれから毎日笑って暮らすんだよ……私はそう言う君の顔が一番好きだったんだ。幸せになるんだよ……。私はもう二度と君の前に姿を見せないと約束する。いつか私のことを思いだして辛くなっても……きっとあの藤城さんが側にいてくれるだろう。だから、私の事は……消してしまっていいんだ……」
博貴の瞳が潤んでいるように見えたのは気のせいなのだろうか?それを確認する前に博貴は立ち上がった。
「さて、帰るとするか……」
何か吹っ切ったような感じの博貴がそう言って笑顔を見せた。
「あの……俺……済みません……全然思い出せなくて……」
「言っただろ。思い出さなくて良いって。覚えていたらきっと君は、今頃私を叩き出してるだろうから……」
ははと笑って博貴は行って病室を出ていった。
あんなに好きだったのに……愛されたと思っていたのに、みんな無かったことにしろと博貴は言ったのだ。
それでも憎くはなかった。許そうと思ったからだ。
もう涙は出なかった。
「何があったのよ……ねえ、光ちゃん」
二人で病院を後にしながら真喜子がたまりかねて聞いてきた。
「うん……大したことじゃないよ。ただ、以前に、大地とは別れたんだ……だから今はもうつき合っていないんだ……」
「はあ?それが大したことじゃないの?光ちゃん一体どうしちゃったのよ。噂じゃ店も辞めたって聞いたけど……」
「辞めたよ……」
真喜子の方は見ずに、博貴はただそれだけを言った。
「ねえ、何があったの?貴方おかしいわよ。藤城さんに聞いたけど、貴方の家を出て暫く行ったところで車に跳ねられたんですって。見ていた人はまるで自分から飛び込んだように見えたって……」
「……そうだったんだ……」
博貴はもう少しで自分の責任で大地を死なせるところだったのだ。もしそうなっていたら、高良田を殺していたかもしれない。
「それだけ?それだけなの?貴方の責任じゃないの!貴方が好きで大ちゃんを恋人にしたんでしょ?それなのにどうして貴方から別れようなんて言えるの?」
「仕方ないよ……恋多き人間だからさ」
そう言ったところで真喜子は博貴に平手打ちを食らわした。
「最低!貴方って最低だわ!」
「何とでも言ってくれ……」
もう何もかも終わったのだ。今更取り繕う必要もない。
「……分からないわ……光ちゃん……何を考えてるのよ……」
「……何も考えてないよ……何時もそうだったろ」
そう言うと真喜子は黙ってしまった。
「ここで失礼するわ。でも光ちゃん。貴方とは当分会いたくないわね」
真喜子はそう言って立ち止まった。
「二度と会わないよ……真喜子さん」
そう博貴が言うと、もう一発平手打ちが飛んだ。
「こっちから願い下げよ!」
真喜子はそう叫ぶと駆け出し、タクシーを拾ってそのまま行ってしまった。
心が冷えて石のようになっていた。母が亡くなり大地も失った。生きていく意味が無くなるというのはこういう事なのだろう。
大地が事故にあったと聞いたとき、ショックだった。何もかも話してしまおうか、と気持ちが動いた。全部話して……抱きしめたいと思った。大地を傷つけたくないのだ。いつも笑顔で、生意気な言葉使いの大地でいて欲しかった。
だが大地は自分のことを忘れていたのだ。これで良かったのだ。忘れて良いのだ。そして幸せに暮らせばいい。これから笑顔の絶えることのない生活に戻れるだろう。
博貴が望んだ事はそれだけなのだ。本当なら自分が側にいたかった。だが自分が側にいると大地は今まで以上に傷つけられるだろう。それが何よりも耐えられない。
博貴は本当ならもっと早く実行しようとしていた事を行う為にある場所に向かった。
それは父親の会社だった。
タクシーを拾ってその会社に着くと、受付で自分が来たことを告げた。すぐに社長室に案内され、何年かぶりの父親に再会した。その横には高良田もいた。
「博貴……お前……」
酒井が目を見張ってこちらを見ている。
「帰ってきましたよ……」
冷たい瞳で博貴が言った。
「高良田……」
酒井はそう言って高良田を見た。
「ご自分の意志で戻られたのです……社長……」
「そうか……」
にこやかな笑みを見せて酒井は言った。吐きそうな偽善者だ。
母もこの男に滅茶苦茶にされたのだ。母の人生を狂わせた男……そして今度は大地まで無茶苦茶にしようとした。
どちらも博貴にとって一番大切な人をだった。
「あんたは……人の人生を狂わせて傷つけてきた……ですが、私のことまで思い通りには出来ないんですよ……」
ニヤリと笑って博貴は持ってきた大振りのナイフを取り出した。
「博貴……わたしを殺すつもりなのか……」
「博貴様!」
高良田が蒼白な顔で酒井を守ろうと近寄ってきた。
「近寄るな!私はね……誰にも干渉されたくないんだ。私の人生は私のものだ。それを無理矢理何とかしようなんておこがましいんだよ……。高良田……貴様のような奴は屑だ。私だけじゃない。私の大切な人まで無茶苦茶に貴様はしたんだ……だがね……」
自分の腹に刃先を突き立てて博貴は言った。
「博貴!やめなさい!何故こんな事を……」
酒井は蒼白な顔でそう言った。だがそんな言葉は博貴の耳には入らなかった。
「……もう……私を引き留める枷は何も無い……大切な物は全てを失った。だが、あんたらの思い通りにもならない……ならないんだっ!」
そう言って博貴は思いっきりナイフの柄に力を込めて自分に突き刺した。血が辺りに飛びちり、その血は高良田と酒井に降りかかった。
「私は……お前の子じゃない……母さんの子だ……」
そう言って博貴が倒れるのを酒井が走り寄って支えた。
「どう言うことなんだ……高良田!お前は一体博貴に何をしたんだ!」
遠くで酒井の声が聞こえた。
「博貴!博貴!駄目だ……死んでは駄目だ……」
博貴は必死の力を振り絞って酒井の手を取り、ナイフの柄を掴ませた。
「あ……んた……息子を……殺したんだ……は……はは……」
そこまで言って血を吐き出した。
「博貴!」
目にはもう周りが見えなかった。
霞んだ先に見えるのは、いつも側にあった大地の笑顔だった。
大地……終わったんだ……。
この痛みは君が受けてきた痛みだ……だから痛くない……。
君に会えて良かった……。こんなに人を愛せるとは思わなかったよ……。
大地を一杯傷つけてしまったけど……
何時か私を思い出した時……楽しかった事も思い出して欲しい。
楽しかった事も……沢山あったよね……。
あったよ……大地……私は全部思い出せる……。
母さんが死んだ時、心の隙間を埋めてくれたのは君だった……。
君の笑顔がどれほど私の慰めになっただろう。
……ずっと一緒に居たかった……。
愛してるよ……大地……
なのに……
こんな風にしか君を守れなかった私を……
許してくれ……。
真喜子は見知らぬ男から連絡を受けて、病院へ向かった。
何がなんだか全く分からない。
博貴が自分自身を刺して死のうとしたらしいのだ。何がどうなったらこんな事になるのだろう。
確かに博貴は何かを思い悩んでいた。だが話してはくれなかった。
昼間の事があったが、そんなことを言っている場合ではなかった。
病院に着くと、白髪交じりの五十代後半くらいに見える男と、目つきの暗い男が待っていた。二人とも衣服に血が飛んでる。もしかしてそれは……と思ったが、聞くのが怖くて聞けなかった。
「あのう……連絡を下さった酒井さんと言うのは……」
「私です。川上さんかね……博貴の友人の……」
「ええ、で、光……いえ博貴さんは?」
「ここ二、三日が山だそうです……」
隣の男が言った。
「案内しましょう……」
酒井がそう言った。
案内され通された部屋のガラス張りになった向こうに博貴が横たわっていた。
「光ちゃん……何でこんな事に……」
愕然とした真喜子はやっとのことその言葉を言った。
「中に入って……声を……あの子に声をかけて貰えませんか?」
酒井が涙声で言った。あの子ということは博貴の父親なのだろうか?
「え、ええ……」
促されるままに真喜子は博貴のベットに近寄った。真っ青で紙のような肌に真喜子はこちらまで血の気が引く思いだった。額に汗の玉をびっしりかいて、息が荒かった。規則的な機械音とその音が辺りに響いている。
「光ちゃん……どうしちゃったの?ねえ、どうしてこんな事に……」
真喜子は涙がこぼれた。
「……ち……」
小さな譫言が真喜子に聞こえた。
「なに?光ちゃん……何?」
耳を近づけて真喜子は言った。
済まない大地……
つなぎ合わせるとその言葉ばかりを博貴は言っていた。
「ずっと……大地といっているんです。済まないと……何度も何度も……。ここに運んでくる間も……その大地という人に……謝って……。彼を連れてこれませんか?」
いつの間にか後ろに酒井が来ており、そう言った。
「大地君を、ここに連れてきてあげたいのですが……。彼も……事故にあって入院中ですので……無理ですわ……」
涙を拭いながら真喜子は言った。
「事故?」
「はい。車に跳ねられたらしいのです……」
そう言うと酒井は怖い顔をしてその部屋を出ると、ガラス張り向こうにいる男を殴り出した。
「己は一体何をした!わたしが何時博貴に手を出せと……あの子のことは放って置けと言ったはずだろうが!」
「社長の為に……どうしても息子さんを取り戻して……」
「ええい!この馬鹿者が!それで何をしたんだ!博貴があれ程思い詰めるほど一体何をしたんだ!」
酒井は殴りつける拳の勢いを止めることはしなかった。それを見かねた看護婦が酒井を止めた。
「申し訳ございません。申し訳ございません」
男はそう言って這いつくばって謝っている。真喜子はそれをじっと眺めて、暫くすると視線を博貴に戻した。あちらはどうでも良かったのだ。それより博貴の方が真喜子は心配だった。
真喜子はそっと両手で博貴の手を包んで言った。
「なんだかよく分からないけど……そんなに大ちゃんに会いたいの?貴方、大ちゃんを振ったんでしょ?でも理由があったのね。そうなのよね。大ちゃんが動けるようになったら絶対連れてきてあげるからさ、早く元気になりなさいよ。ねえ、死んじゃったら、貴方の大好きな大ちゃんにもう会えなくなっちゃうのよ。嫌でしょ……そんなの。だったら元気になるの。死んだら承知しないから……」
言い終わると博貴の手が少し握り返してきたような気が真喜子にはした。
事故から一週間ほど経ち、ようやく大地は病室を歩けるまで回復した。だが、歩くとまだ手術をした腹の辺りや打撲した背中が痛んだ。それでも大地は、出来るだけ歩くようにしていた。身体を早く元に戻すためには、固くなった筋肉をほぐすために動かさなければならないからだ。
少し疲れを感じた大地はベットに腰をかけて、深呼吸した。早く外に出て思いっきり走りたいと考えていたが、今のところ無理なようであった。一週間ほどで退院と言われていたのだが、この程度の回復では退院させてもらえないだろう。
そう言えば高良田はどうなったのだろう?
ふと考えることもあったが、もう関わりたくなかった。あれから何も言ってこないことを見ると、博貴が帰ったことで終わったのだろうと思った。
ベットに横になっていると、色んな事を考える。暇なのもあるし、考えることしか出来ない所為もあるだろう。
高良田がもう何も言ってこないのは博貴がうちに帰ったからだ。だが、もしかして、大地が苦しんでいるのを知って、家に帰ると言いだしたのだろうか?そう考えて大地は首を横に振った。それは希望的観測だった。
大地はどんな事があっても高良田に屈しないと博貴に言ったのだ。どんな目にあっても頑張ると言った。そして博貴に約束させたのだ。それなのに、博貴はいとも簡単に家に帰ると言い出した。更にその為に大地は邪魔だと言ったのだ。
男同士なんていつかどこかでけりつけなきゃ駄目な事だと博貴は言っていた。本当にそんな事を考えていたのだろうか?一緒に暮らしていた日々、そんな事を考えているそぶりなど博貴は全く見せなかったはずだ。毎日ことあるごとにそんな事を考えながら、あんな風に楽しく笑って過ごせるのだろうか?
本当にそうなら余程博貴が役者だったということだ。
だが、それ自体が嘘だったらどうなのだろう……
あのとき言った博貴の言葉が全部嘘だったら……
今になって色々聞きたいことが山のように出てきた大地はもう一度溜息をついた。この間、博貴が見舞いにやってきた時の事も考えると、なんだか変であった。
二度と会わないとか、笑顔が一番好きだったとか、幸せになって欲しいとか、あんな冷たく突き放すように別れた相手に対して言う言葉なのだろうか?
分からないことばかりだ。
「大ちゃん!もう歩けるの?」
真喜子が驚いた顔で病室に入ってきた。博貴と見舞いに来て以来であった。
「何とか……ですけど、まだ手術したところが完全に塞がっていないので、無茶は出来ないんです。でも少しでも体力を戻さないとって思って……」
大地はベットに腰掛けて足をプラプラとふった。
「……ねえ、ちょっと抜け出したりなんか出来ない?」
真喜子が近づき、妙に緊張した顔で言った。
「あ、あの……まだ、庭を歩いたりする許可も出ていないんです」
「分かってるのよ……お医者さんだって絶対許可くれないだろうし、お母さんだって駄目だって言うと思うから、大ちゃんに聞いてるの」
「あの……何処に連れて行こうって真喜子さん思ってるんですか?」
「別に誘拐するつもりじゃないんだけど……ま、動けそうならそーーっと連れ出そうかなあって思ってきたのよ」
ニッコリと笑って真喜子が言った。もしかして真喜子まで高良田と……大地はそんなことを考えて、気分が悪くなった。こんな風に人を疑いたくないのだ。
「だから……何処に行こうとしてるんですか?」
「……うーん……ここで言っちゃうと大ちゃん行かないとか言いそうだから……」
それはもしかして、博貴が会いたいと思ってくれているのだろうか?この間のこともあって病院に来られないから、真喜子に頼んだのだろうか?
「変なところ……ですか?」
「大ちゃんさ、その……ひか……じゃないわね。大良さんのこと思い出した?」
やはり博貴だったのだ。
「済みません」
「まあ、その方がいいかな。で、ついてくる気はある?大ちゃんが覚えていない人だけど、会ってみない?っていうか、私どんなことしても連れ出す気で来たんだけど」
そう言って真喜子はくすくすと笑った。
「……あの、来ていただく方が……」
大地が言うと真喜子が複雑な顔をして言った。
「それがねえ……あっちはもっと動けない状態なのよ……」
それは家に縛られて動けないと言っているのだろうか?
「……ねえ、行こう大ちゃん。歩けるんでしょ?自分でトイレだって行くんでしょ。そのくらい体力があったら大丈夫だと思うの」
大地は迷った。だが……
「うん……でもすぐ帰って良いですか?俺…いなくなって大騒ぎになったら困るし……」
「ええ、ええ。もちろん。ちょっとの時間で良いの。良かった。でも大ちゃんならきっと、そう言ってくれると思った」
真喜子は嬉しそうに言って、持ってきた紙袋からコートと帽子を取りだした。
「準備してきたんだ……」
コートを羽織り、帽子をかぶりながら大地は言った。
「もっちろん。さ、いこう!」
二人でそっと病院を抜け出して、タクシーを拾うと二人は乗り込んだ。
「川崎病院まで」
真喜子がそう言うので大地は驚いた。
「真喜子さん。病院に行くの?」
「そうなの。大良さん動けないのはその所為なの……」
何かあったのだろうか?大地は鼓動が早まるのが分かった。
「……大良さん……事故にでもあったのですか?」
「事故じゃないわ……とりあえず会ってあげて。今朝やっと意識が戻ったの。本当はもう少し光ちゃんが元気になってから大ちゃんを連れ出そうと思ってたんだけど……」
「そんなに……悪いんですか?」
一体何があったのだろう。博貴を忘れようとしていた気持ちが、聞かない方が良いとずっと大地に警告している。だが、大地は聞いた。
「精神的にね……悪いんだと思うわ……。ごめんなさい。覚えていない人に何を言っても仕方ないわね。いいの。こっちの事情だから、大ちゃんは知らなくて良いわ。会ってくれるだけで充分だから……」
知りたかった。知りたくて仕方ない。
だが真喜子はそれだけ言うと口を閉じてしまった。大地は博貴を覚えていないと言った所為で、これ以上つっこんで聞くことが出来なかった。
病院に着くと大地は真喜子に連れられて博貴のいる病室に案内された。その扉の前に高良田と見知らぬ中年の男が立っていた。大地は高良田に殴りかかろうとして真喜子に止められた。
「大ちゃん!何しようとしてるの!どうしちゃったの?」
「俺……こいつ……殴らないと駄目な気分なんだ……なんだか分からないけど、腹が立って仕方がないんだ……っつ……」
ひびの入った肋骨と補合した傷から引きつるような痛みを大地に感じさせ、仕方無しに大地は振り上げた手を下ろした。
「大ちゃん……大丈夫?」
「はあ……はあ……くそ……あいつだけは……あいつだけは……」
「……このたびはご迷惑をかけて……申し訳ない……。博貴の父の酒井大蔵です」
酒井が大地にそう言って深々と頭を下げた。
「……え?」
このどこから見ても人の良さそうな顔をしている男が博貴の父親なのか?
大地には、どう考えてもあんな事を高良田に命令した男には見えなかったのだ。
「そんなこと良いから、大ちゃんさっさと病室に入りましょ」
酒井から視線を外せずに、大地の身体は真喜子に引きずられるように病室に入った。小さな部屋には看護婦が一人、せわしなくメモを取っている、視線を上げるとガラス張りの向こうに博貴の姿を見つけた。
「暫くここで様子を見て、もう少し元気になったら病室を変えられるそうよ。でもまあ、四日も意識が戻らなかったんだから、仕方ないわね……もう駄目かと思ったもの…」
安堵したように真喜子は言った。
「あの……入って良いんですか?」
大地は帽子を取ってそう言った。
「ええ、顔見せるだけで、元気になるわ」
真喜子はニッコリ笑って大地の背中を押した。