「駄目かもしんない」 第7章
朝、目を覚ませると博貴が側に眠っていた。二人の生活時間が合わない時は、お互いに自分の寝床で寝るため、博貴がいたことに大地は驚いたが、とりあえず身体をずらして自分の毛布を博貴に掛けた。
昨日喧嘩をしたが、あの時も今も心配してくれているからだ。怒鳴ることも、こうやって側で眠ってくれている事も、博貴は大地を本当に心配しているからだ。
それが本当に大地には嬉しい。
「大良……ごめんな……」
博貴が怒った理由も充分分かっていた。今もきっと怒っているのだろう。だけど大丈夫。戸浪のことは俺が今日何とかしてくるから。それが終わったらお前に何があったのかちゃんと話すから……それまでもう少し待っていてくれよ。
本当にごめんな……大地は心の中で何度もそう呟いた。
朝食を作ると起こしてしまうと思った大地は、着替えてそっと外に出た。
時間は九時。喫茶店でモーニングを食べて暫くくつろいでから山手線に乗った。目指すは戸浪の会社であった。
以前貰った戸浪の名刺を頼りに大地は戸浪が働く会社にたどり着いた。大きなビルで大地はびっくりしたが、根性を振り絞って受付に行った。
「あの、柿本さんいらっしゃいますか?」
「本日柿本とアポイントの方はおとりでしょうか?」
受付嬢はそう言ってニッコリと笑う。
「え、あ、取ってないのですが、兄のことで少々お伺いしたいことが……あの、澤村戸浪の弟なんです」
そう言うと受付の女性はじいっとこちらを見て、次に社内電話をかけてくれた。
「受付ですが、柿本部長にお客様です。澤村さんの弟さんだそうですが、お時間宜しいですか?はい、はい」
暫くすると受付嬢は電話を切り、もう一度ニコリと笑うと大地に言った。
「少しなら時間があるそうです。エレベーターで八階まで上がって第三応接室においで下さいとの事です」
「あ、はい。ありがとうございました」
緊張し、ガチガチの身体を折り曲げて礼を言うと、大地はエレベーターホールに向かった。後ろから「可愛いー澤村さんの弟さんだってえ」と聞こえて益々顔が赤くなった。
どうにか応接室までたどり着き、暫くすると柿本がやってきた。
「初めまして。澤村君の弟さんでしたね。今日は何か御用ですか?」
それは中年太りの貫禄のある男だった。優しそうな目が印象的で、どう見ても戸浪にあんな事を言うような上司に見えなかった。
「あの……兄から聞いたのですが……俺……いえ、自分のことで色々問題があって、兄に会社を辞めるように柿本さんに言われたと兄から聞いたんです。自分のことで問題があるのなら、兄に飛び火するのは……おかしいって思って……俺が悪いんでしたら俺が責任を取りますから、兄にそんなことを言わないで欲しいんです……」
「は?」
柿本はびっくりした顔をしてじっとこちらを見ていた。
「あの……」
「私は君が言う事がよく理解できないんだが……。澤村君には満足しておるし、彼に辞めろと言った事など無いんだがね。何の話しか……どういう事を澤村君が弟さんの君に言ったのかね?」
「え……兄に、言ってないんですか?辞めろって兄に言ったって……もしかして柿本さん違いですか?」
大地は何がなんだか良く分からなかった。
「柿本は私しかおらんよ。変だね。弟さんにそんなことをどうして澤村君が言ったのだろう……彼が辞めたいと思っているんだろうか……」
柿本の方も不思議そうにそう言った。
「失礼します」
そこに戸浪が入ってきた。
「兄ちゃん……」
「部長済みません。弟が訳の分からないことを言いまして、勘違いしているんです。ほら、大地、帰りなさい……一体何を考えているんだ……」
言いながら焦っている戸浪が大地には良く分かった。
「まさか……兄ちゃん……嘘ついたんだ……」
それに気がついて大地はショックだった。どうやって博貴とのことを知ったのか分からないが、反対すれば自分が反発するのを分かっていた。だから戸浪が嘘をついたのだ。
家族思いの大地の気持ちを利用したのだ。
「大、良いから、帰るんだ。話しは帰ってからしよう。な」
戸浪の妙に作った笑顔に吐き気がした。
「澤村君。君、弟さんに何を話したんだね……」
柿本は心配そうにそう言った。
「いえ、本当にお気遣い無く……兄弟の問題でして……。大、ほら」
ぐいぐいと引っ張られてエレベーターホールまで連れてこられると、無理矢理大地はそれに乗せられた。あまりのショックに呆然として大地は言葉が出なかった。
「大、帰ったらちゃんと説明するから、今は帰りなさい」
必死に戸浪が言えば言うほどその言葉が虚しく耳を通り過ぎた。
「兄ちゃん……嘘ついた……」
別れ際大地がそう言うと戸浪は泣きそうな顔をしたが、大地の方が泣きたかった。戸浪に博貴との付き合いが知られるような事は無かった。きっと高良田が告げ口し、戸浪と協力しているのだ。それが大地には悲しかった。例え自分達の事を反対でも、あんな男に協力したと言うことが辛かった。
裏切られたという気がした。いや、裏切りだろう。
色んな事を考えながら、大地は博貴にこのことを博貴に話そうと思った。もう自分の中で抱えきれないのだ。博貴に抱きしめて慰めて貰いたいと思った。博貴の腕の中で泣けば少しは楽になるのかもしれない。そんな余裕が出来たら、戸浪の言い訳も聞けるだろう。
今は挨拶すらもう交わしたくないからだ。
コーポの階段を上がり、自分の部屋へ戻った大地は、博貴が自分の布団に寝ていないことを確認して冷蔵庫に入れてあったミネラルウオーターを一気に飲んだ。
一息ついて、博貴の部屋に繋がっている扉を開け中に入った。だが博貴はいなかった。
もう出かけたのかもしれない……と思いながら下の階へ降りると博貴はベットの上に横になっていた。
「大良……俺……」
寝てるのかなと思いながら声をかけると、博貴はむっくりと起きあがった。
「どこか出かけてたのかい?」
「あ、うん」
どういう風に切り出そうかと考えていると博貴が言った。
「大ちゃん。ちょっと話しがあるんだけど」
「え……話し?」
「ここに座って」
博貴は神妙な顔をして部屋の真ん中にあるクッションを指さした。大地は言われるままにそこに座った。
「大良……?」
「実はね。うちに帰ることにしたんだ」
「えっ……どう言うことだよ」
「私は復讐したいんだよ。あの男に。それを考えて一番いい方法は中に入って、滅茶苦茶に引っかき回してやることだと分かったんだ」
博貴は真剣な顔でそう言った。
「大良……そんなことやめとけよ……お前が辛い……」
大地が言い終わらないうちに博貴が続けて言った。
「いや、決めたんだ。自分で決めて自分が納得した事なんだ」
ちらりと博貴はこちらを見て言った。
じゃあ俺は?俺はどうなるんだ?
そう問いかけたいのだが大地は声が出ない。
「どうせすぐにあっちが決めた女と結婚することになるだろうし、そうなると大地がね邪魔だろ。なら家に戻ることに決めたんだから、この際精算してしまおうって……」
さらっと博貴はそう言った。
「それ……嘘だよな?」
ようやく大地はそう言った。
「ねえ、君は考えたことないのかい?男同士なんていつかどこかでけりつけなきゃ駄目なことだよね。それともずっと一緒にいられるとでも思った?」
思ってた。でも違うのか?
俺は思ってたけど、お前はいつかどこかの時点で俺を切ろうと思ってたのか?
ずっと……
最初から……
二人で抱き合っていた時ですら……
お前そんな風に思ってたのか?
「……そう……分かった」
大地は結局そうとしか言えずに、その場を立ち上がった。
「大ちゃん……済まないね」
日常会話のような博貴の言い方が、余計に大地を惨めにさせた。
「……もう、いいんだ……お前が決めたんだから……俺、何も言えない……」
辛いのも限界を超えると人間、涙も出ないんだなあと大地はフッと思った。そのまま階段を上がって自分の部屋に戻り、出しっぱなしにしていたミネラルウオーターをもう一度口に含んだ。
実感が無かった。家族にも博貴にも裏切られてしまったという事が何もかもを虚しくさせていた。涙が一滴も出ない。心が壊れるとはこういうものなのだろう。
大地は靴を履いてあてもなく外に出た。日はまだ高かった。よろよろと外に歩き出し、自分が何処へ行くとも考えずにただ歩き出した。
なんだか何も無かったかのような天気が感覚を麻痺させている。博貴はもう戻ってきてくれない。こんなに好きなのに、ずっと信じていたのに、博貴だけはどんなことがあっても側にいてくれるだろうと信じていた。好きで好きで堪らなかった。こんな気持ちは今までもったことが無かった。
帰ったらあれは嘘だった、冗談だよといって笑ってくれるような気もする。だがそんなこと等無いのも分かっていた。
「俺……」
「ボン!」
安佐の声が辺りに響いたと思ったら、身体が宙に浮いた。何があったのか全く分からず次にアスファルトのなま暖かい感触が頬に当たった。ぼーっとした視界の向こうで安佐がなにかを叫んでいた。
「墨田!住友!あの車絶対逃がすな!俺は救急車を呼ぶ!」
携帯で安佐が必死に救急車を呼んでいた。
俺は車に跳ねられたんだ……と霞み出す意識の中で大地は思った。このまま死んでも良いとも思った。
「ボン!ボン!すぐに救急車が来ますからね。大丈夫。このくらいなら何とかなります。でも寝ちゃだめですぜ。聞いてますかい?」
覗き込んだ安佐の顔が引きつっていた。
「安佐さ……ん。ありがとう……俺……もう、いいんだ……」
「馬鹿いっちゃいけませんぜ!何があったか知りませんがね。ボンが車に飛び込んだようなもんですよ。俺ら死んで貰ったら困るんです。藤城さんにぶっ殺されます。だから、しっかりして下さい」
必死になって叫んでいる安佐が大地には嬉しかった。まだ自分を心配してくれる人がいたのだ。
「俺……みんなに……裏切られちゃった……よ」
耳の辺りになま暖かい液体が触れた。
「何言ってるんですか。若頭だって俺達だってボンの力になってるでしょうが。ああ、くそっ!救急車がおせえ!」
「そう……だ……ふ……じき……さんにも……ありがと……って……」
意識はそこでとぎれた。
安佐から連絡を貰って藤城は病院に駆けつけた。安佐がこれまでにないほどの青い顔でその藤城を待っていた。
「安佐!」
「若頭……済みません!」
「そんなことは良いから、大君の様態はどうなんだ?」
病院の廊下を歩きながら藤城は言った。
「……大丈夫だろうと言う話しなんですが、今まだ手術中で……」
「何があったんだ?」
「それが、分からないんです。昼間にどっかの会社に行って、暫くしてから出てくるともう真っ青で、声をかけようかと思ったんですが、なんだか躊躇われて……。そのままボンはうちに帰ったんですが、暫くしたら気の抜けたような顔で出てきて……今度こそ声をかけようと思った瞬間に車に跳ねられて……。こっちもボンの方ばっかり気にしていたので、車に全然気がつかなかったんです……申し訳ありません」
「……何かあったんだろうな……それで、墨田と住友は?」
「跳ねた車を追っかけさせてます」
「そうか……」
手術室の前までくると、二人は設置されている椅子に腰をかけた。暫くすると一人の男が慌てて走ってきた。戸浪だった。
「あ、あのっ……ここは澤村大地の……はあはあ……私は兄の戸浪と申します……」
思いっきり走ってきたのだろう。息が荒く、顔も真っ赤になっていた。
「ええ、そうです」
「お宅は……どちら様でしょうか?」
「隣のいる安佐が大君を跳ねたところを見た者で、私は大君の友人です」
「そうですか……」
戸浪はがっくりと肩を落として向かいの椅子に座った。すると安佐がこそこそと小声で藤城に言った。
「昼間、ある会社にボンが尋ねて行ったのはこの人だったですぜ。入り口で一緒の所を見ましたから……そんときにはもう既にボンは青い顔をしてました」
それを聞いて藤城は戸浪の方を見た。肩を落として頭を抱えている戸浪は、表情が分からない。
「どうして……こんな事に……もしかして私の所為なのか……私が……」
どんな話しをして、大地がそんなにショックを受けたのか、藤城には分からなかった。なにより肝心な博貴がここにはいないのだ。多分知らないのだろう。今頃店で仕事をしているはずだ。連絡してやろうか?どうする?藤城がそんなことを考えていると、又安佐が言った。
「俺、思うんですけど……ボン彼氏と何かあったんじゃないですか?よくわかんないっすけどね。家の中まで入った訳じゃないんですけど、何となくそんな気がして……。ものすごいショックを受けてふらふら出てきたっていう感じでしたもんで……それにボンが意識を失う前に、なんか妙な事言ってました。みんなに裏切られた、もういいんだって……」
安佐はそう言って顔をしかめた。
「そうか」
ならば知らせてやる必要などないな。藤城はそう思った。かねてから博貴のことはよく思っていなかったのだ。大切な者を守る事もろくに出来ないくせに、大地とつき合っているからかもしれない。
「で……若頭にもありがとうって言ってくれって……」
「馬鹿だな……大君は……」
朝方大地の母親の咲子がかけつけた。顔は大地とそっくりであった。そっくりなのだが、優しい雰囲気がある。
「戸浪!」
「か、母さん……」
「大地は?」
「まだ……出てこない……。父さんは?」
「家族がそろったら、死に水を取らなければならなくなるから、わしはいかん!大地は大丈夫だって言い張ってとうとう来なかったのよ……」
「……父さんらしいか……」
戸浪は泣き笑いの顔で言った。
「……あの、そちらの方は……」
と、藤城に向かって咲子が言うと同時に、手術中の電気が消えて、大地がキャリアーに乗せられて出てきた。顔色は無く、元々色の白い肌が更に白く浮き上がって見えた。頬に血の流れた跡が残っていた。麻酔が効いているのか、目は閉じられたままだった。藤城はいつも元気な大地しか知らない。大地と言われなければ別人の様に見えた。
「大!」
戸浪がキャリアーを掴んでそう叫んだ。
「ご家族の方ですか?」
医者がそう咲子に言った。
「はい。息子がお世話になります」
咲子は気丈にそう言った。
「大丈夫ですよ。頭を強く打って出血しておりましたが、内出血は見られません。内蔵の方が少し出血を起こしていましたが、そちらの補合も全て終わりました。肋骨何本かにヒビが入っていましたが、他に骨折などはありませんでした。今日一日ICUで様子を見ますが、すぐに一般病棟に移せるでしょう」
ニッコリと笑って医者が言った。
「ありがとうございます……本当に……ありがとうございます」
咲子がこれでもかと言うくらい腰を曲げて医者に礼を言った。
「安佐、帰ろうか」
「若頭……」
「今は家族と一緒に居るのが一番大君の為になるだろう……」
名残惜しいが、日を改めた方が良いと藤城は思った。大丈夫だと言うことが分かれば、それで良かったのだ。
「そ、そうっすね……」
二人は病院を後にした。
大地は夢を見ていた。博貴が抱き上げて頬ずりしてくれていた。大地が好きな行動の一つである。博貴は頬ずりの他にもよく頭を撫でた。髪を撫で上げてそのまま頭を撫でるのだ。それがとても心地よかった。悪戯っぽい目で大ちゃんと呼ばれるともう降参するしかない。強引で時としてムッとすることがあるのだが、博貴は許せてしまうのだ。
例え喧嘩をし、絶対許すものかと頑張っても、博貴はそんな大地の気持ちなどお構いなしに、こちらが根負けするまで謝り倒してくれる。男のくせに情け無いと言うと、大地は絶対引いてくれないからねえと言って笑う。
そうなのだ。大地は引くことが苦手だ。そんな大地を博貴はよく知っていてくれる。
「大ちゃん可愛い……」
頬をすりすりしながら博貴が言った。いつまでそうやってるんだろうと思いながらも触れる頬が何とも言えない程気持ちいい。
「大良……いい加減にしろよ……」
「大地が可愛いんだから仕方ないねえ」
いつも見せる笑みで博貴が答えた。
「博貴……なあ、俺のこと……ホントに好き?」
「愛してるよ……大地……」
目はそこで覚めた。
頭がガンガンと疼いていた。身体のあちこちがぎしぎしと奇妙な音を立てているようであった。身体は全く動かない。少しだけでもと思い、もう一度動こうとしたが、身体は言うことを聞いてくれなかった。
大地は諦めて目を開けた。
一瞬光で溶けてしまうのかと思うくらい眩しかった。周囲が真っ白に見えたのだ。目をしばたいて慣れてくると、ここが病室だと分かった。自分がどうしてここにいるのか、まだ思い出せないのだ。
外は晴天、真っ青な空の色が目に痛かった。目線を外して天井を向くと、点滴が二つ吊られており、手の甲に繋がっている。
俺……何で又病院に……。
大地はまだ思い出せなかった。周りを見回すと誰もいない。見た覚えのある旅行鞄が脇机に乗っているのが見えた。何処で見たかも思い出せない。鞄を暫く見、結局思い出せずに、窓の外をもう一度見た。天気が良さそうな日だとぼんやりと感じた。
博貴……側にいてくれないのかなあ……昼間は暇だろ……それともちょと今席を外してるだけかなあ……ちぇっ………。と心の中で呟いて、大地は徐々に記憶が戻りだした。そうして今言った言葉など馬鹿げたことでしかないことに気がついた。
「そうだ……俺、あいつとは……もう……」
痛みが一気に押し寄せてきた。身体の痛みよりすさまじいものだった。何かがバラバラになってしまったようなそんな痛みだ。
「あ……ああ……そうだ……俺……はは……」
あのとき一滴も出なかった涙が一気に溢れてきた。止めようと思っても止まらなかった。
「何……馬鹿なこと……言って……」
ギュッと毛布を掴んで、痛みに耐えようとするが限界だった。吐き出せなかったものがここに来て外に出たいと叫んでいた。
「あ……ああ……うわああああああっ」
「大君!」
そこに藤城が飛び込んできた。手に持っていた花束を投げ捨てて大地の手を掴んだが大地には藤城が見えなかった。ただ堪えきれない痛みが全身を覆っているのみだった。
「ああああーーーっ……」
「大丈夫……もう大丈夫だよ……」
宙に向かって差し出された両手を藤城はしっかり掴んでいった。
「痛い……痛い……いたいよう……痛い!」
身体ではなく、心が痛かった。まるでナイフで切り刻まれたような痛みを感じていたのだ。血など流れていないのに、血が見える。
「大丈夫……落ち着いて……傷口が開くから……大君……」
大地の暴れる身体を抱き留めて藤城が言うのだが、大地には全く聞こえていなかった。
「うわあああああっ……」
半身を起こして大地は叫び続けた。涙も止まらない。痛みだけの世界に放り出されたようだった。ここから逃げなくては、ここにいたら死んでしまう。大地はそんな思いで一杯だった。
「あうっ……っ」
腕に小さな痛みが感じたと気がつくと、痛みが少し引いた。涙は相変わらず流れ、向こうが見えない。何故か母親の声も聞こえる。
「大地は大丈夫でしょうか……」
咲子はオロオロと聞いた。
「少ししたら落ち着くと思います。事故のショックで混乱しているのだと思いますので、優しく接してあげて下さい。それと、これでもまだ暴れるようでしたら、傷口が開く恐れがありますので又連絡を下さい」
看護婦はそう言って病室を出ていった。
「済みません……お友達の藤城さんにご迷惑をかけて……」
母親の声はそう言っていた。
「いえ、構いませんよ。大君はよっぽど怖い思いをしたんでしょう。仕方ありませんよ」
「大……大地……もう大丈夫よ。怖く無いのよ。貴方は助かったんだから、ほら、泣かないの……」
藤城にしがみついた大地の頭を優しく咲子は撫でた。
「……か……さん……?」
嗚咽と共に大地は咲子を呼んだ。
「そうよ。お母さんよ大地……」
「かあさん……俺……」
「もう大丈夫。ゆっくり休みなさい。今貴方に必要なのは身体を治すことなのよ」
「……うっ……うん……」
少し落ち着いてきた大地を藤城がベットに降ろそうとすると、大地は又しっかりしがみついた。胸の辺りが引きつるような痛みを大地に伝えたが、誰かのぬくもりを今は感じていたかったのだ。なにより、しがみついていないと、ここから何処かに落ちていきそうな気がしたからだ。
「あらあら、この子ったら……済みません藤城さん……うちの大地は甘えたで……」
咲子が恐縮したように藤城に言った。
「大君が落ち着くまで構いませんよ」
笑みを口元に浮かべて藤城は言った。
「……っ……うっ……うっ……えっ……」
大地は藤城の腕のぬくもりを今は離せなかった。
「大地お母さん貴方の意識が戻ったことをお父さんと戸浪に連絡してくるわね。藤城さん申し訳ありませんが、少し大地のこと宜しくお願いします」
藤城は頷くと大地の方を向いて、腕を回して背中を何度も撫でた。
「覚えているかい?君は車に跳ねられたんだよ。でもね、命に関わるような怪我はしていないから安心しなさい。鍛えた体だったから、大丈夫だったんだね。自然に受け身になっていたんじゃないのかな。やっぱり日頃から何か身体を鍛えた方が良いのかもしれないなあと思ったよ」
優しく宥めるように藤城が言った。だが大地はやっぱり涙が止まらなかった。
「……すんっ……すんっ……」
「安佐達が早く元気になってくれって言ってたよ。元気になって、又美味しい物作って欲しいってね。狡いなあ、私は君の手料理を食べたことが無いのに、安佐達にはご馳走したんだ。ちょっと悔しいよ」
藤城は何があったのか全く聞かなかった。その優しさに大地は又涙が出た。廻された腕をギュッと掴んで顔を埋めた。
「うー……っ……」
「君はお母さん似だね。そっくりでびっくりしたよ。もちろん君より腕も足も細いがね。今でもお父さんが心配するくらい、もてるんじゃないか?血は争えないと思ったよ」
「俺……俺……っ……」
「今は何も聞かないよ。だから言わなくて良い。もう少し元気になったら、話してくれるかい?」
大地は頷いた。又涙が溢れてきて言葉が継げなかったのだ。
その日夕方まで大地は藤城の腕を離せなかった。抱きしめて貰えるのなら、ずっと腕の中に囲われていたいと本気で思った。
夕方戸浪がやってきた。大地は視線を一切あわさなかった。そんな大地と戸浪に咲子は不審に思ったようだが、何も聞くことはしなかった。
戸浪は、ただ済まなかったと繰り返して言ったが、大地の耳には入らなかった。分かっているのだが、まだ許せない気持ちの方が大きい。
あと、何人か面会に来たが、大地が熱を出したために面会謝絶になった。その方が良かった。余り人には会いたくなかったのだ。
シクシクと痛む身体の打ち身と傷が眠りを妨げたため、大地は真っ暗な病室で目だけを開けていた。以前こんな状況の時、博貴が木を伝って会いに来てくれたことがあった。だがそれも遠い昔のことであった。
忘れよう……
大地は思った。博貴は知っているのか知らないのか分からないが、姿を見せない。
忘れるんだ……。
俺達は何も無かった。出会う事もなかった。博貴と抱き合ったことも無い。
最初から何も無かったのだ。自分の中から全部閉め出してしまうのだ。思い出として心の中に存在すれば苦しいだけだ。ただの隣人だ。今いるかどうか分からないが、もし今度何処かで出会っても、他人だ。最初から他人だったんだ。
大地は必死にそう思うことにした。
俺は頭を打った。それも強く打ったらしい。じゃあ、あいつのことを忘れてしまうには良い理由かもしれない。他の人に聞かれて話すことが辛いのだ。こちらが覚えていないと言えば聞く事もしないだろう。
誰にも博貴のことを話したくないのだ。例え藤城にだろうと話したくない。
許そう。博貴を……戸浪を許そう……。みんな許してやるよ……。
全ての立場にそれぞれ立って考えれば、きっとみんなそれぞれの思いで自分が何をするかを決めたのだ。大地自身が、各々の立場に立たされたら、そんな風に振る舞うかもしれないと考えた。
だから許そうと。
憎むより許す方が大地には簡単なことなのだ。人を憎むことは苦手だった。
そう決心すると少し気持ちが楽になり、ようやく訪れた睡魔によって眠りについた。