Angel Sugar

「駄目かもしんない」 第9章

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「……」
 大地はそっとガラス張りの扉を抜けて博貴が眠っているベットに近づいた。機械が周囲に色々おいてあるのをみて、それほど悪いのかと大地は思った。癌や治らない病気だったらどうしよう……どんな言葉をかければ良いのか分からない。
 何より大地は博貴を覚えていないと言う前提があるのだ。
 ベットにそっと近づいて、脇に置かれた椅子に腰を下ろした。自分が入院していたときよりも多い数の点滴がぶら下がっていた。そっと視線を下に下ろして博貴の姿を確認した。青白い血の気のない顔、やや頬が痩けていた。それがどう見ても博貴に見えない。こんなのは博貴じゃないと大地は叫びそうになるのをぐっと堪えた。すると閉じていた瞼がすっと開いた。
「……私は……夢を……見ているんだ……」
 小さな声で博貴が言って、震える手をこちらに伸ばしてきた。振り払うことも出来ずに大地はそっと手を取った。
「……変だな……温かい……」
 じっと見つめる博貴の瞳に射抜かれそうだった。
「……あの……本物です……」
 大地はそう言った。
「……え……でも……大ちゃんは……っ……」
 急に顔をしかめて博貴は声を詰まらせた。
「あの……看護婦さんを……」
 慌てて大地は立ち上がって周りを見回したが、看護婦はいつの間にか硝子向こうに行ってしまっていた。
「いい……呼ばなくて……このまま……」
 ゼイゼイと息をしながら博貴が言った。そんな博貴の姿に、涙が出そうになるのを必死に大地は我慢した。
「……一体どうしてこんな事に……」
 どうして?何があったたんだ?答えてくれよ。大地は心の中で何度もそう言った。
「大ちゃん……私の事……を…思い出してくれた?」
「済みません……」
「じゃあ……聞かない方が……いいよ。君が思い出してくれたら……話す……」
 笑顔を必死に作って博貴は言った。額に汗の玉がいくつも見える。こうやって話すのも辛いのだろう。 
「……そうですか……」
 聞きたいよ……博貴……。
「目が覚めて……何故死ねなかったんだろう……ってずっと後悔してた。今の今まで……。でも……君の顔を見て……生きてて良かったって……思えたよ……」
 小さな声で…それでも博貴は必死になって言葉を紡いでいた。
「あの……話さない方が……」
 心配だった。身体に触ると大地は思ったのだ。
「もう一度君に……会える事を……考えてなかった。だから目が覚めてから……ずっと考えていた……。これからどうするかって……君に会ってようやく……答えが出たよ……」
 そう言って暫く言葉が途切れた。
「……大良さん……」
「君が……私のことを……忘れているのなら……最初から……出会いから……やりなおそうって……それを……言いたかった……」
 この男は何を血迷っているのだろう。大地は頭が混乱して言葉が出なかった。
「……うん……もう、私じゃない人に……大事にされているから……駄目なんだろう……けどね……諦め……きれないんだ……大地を……」
 独り言のように博貴は言った。
「……俺……その……」
「大地……愛してるよ……それが、一方通行でも……これだけは……言わせてくれ……」
 そう言って博貴の目は閉じた。眠ったようであった。
「……」
 分からなかった。一体どうなっているのか分からなかった。だが自分の両手にある博貴の手は大地の手をしっかりと握っている。それだけは本当の事だ。
 お前が俺を切り捨てたんだ。それがどうしてこんな事になってるんだよ。お前、何隠してるんだよ。俺にどうして話してくれないんだ。お前を忘れていると言ったからか?
 ……多分そうなのだ。確かに覚えていない人間に説明したところで、理解出来る訳など無いのだ。そう思うから博貴は言えないのだろう。
 だが今更、思い出したと急に言えない。
「大ちゃん……ありがとう……光ちゃんきっと元気になるわ……」
 いつの間にか後ろに立っていた真喜子が言った。
「この位なら……何時でも言って下さい」
 このまま俺はここにいたら駄目なんだろうか……
 博貴の側で博貴の顔を見ていたいのだ。だが、そうもいかない。自分も病院に帰らなければならない。
「じゃ、かえろっか大ちゃん」
「はい……」
 博貴の手をそっと毛布の中に入れて大地は名残惜しく立ち上がった。そしてガラス戸を開けて外に出ると、酒井が立っていた。
「大地君と少し話しをしたいんだが…いいかね?真喜子さんは少しだけ待っていて貰えますか?」
 そう酒井が言うと真喜子は頷いた。
「じゃあ、大地君少しつき合ってもらえるかな?」
 酒井は口調は柔らかいが、有無を言わせない瞳で大地に言った。
「え、あ……はい」
 大地が答えるとすぐに酒井によって応接室に通された。
「本当に……このたびはご迷惑をかけて……」
 酒井は深々と頭を下げた。益々分からない。この酒井という男が命令していたのでは無いのか?違うのか?
「……もう、いいんです。あんまり覚えていませんから……」
 だが、聞きたくても聞けない大地の事情があった。
「覚えていない?」
「事故のショックで記憶が抜け落ちているところがあるらしいんです……だから……。でも、大良さん……どうしたんですか?」
「記憶の無い君に言ってもいいのかい?」
 酒井が困ったように言った。
「知りたいです。取り戻したいと思います。それが例え辛いことでも」
 嘘だった。全て生々しく思い出せる。 
「……博貴はね……私の前で死のうとしたんだよ」
「え!」
 大地は真っ青になった。死のうとしたとは自殺しようとしたのだろうか?
「自分にとって大切なものはみんな失った……だから引き留めるものもない。誰の思い通りにもならないと言って……自分の腹を刺した。私の目の前で……」
 視線を外して酒井が言った。
「病院に運んでいる最中……ずっと君の名前を呼んでいてね……。済まないと何度も何度も繰り返し……謝っていた。許してやってくれないか?」
「……俺……」
 死ぬつもりだったから……俺をあんな風に切り捨てたのか?
 俺が追えないように……俺が泣かないように……。
 俺が……他に誰かを好きになれるように……。
 大地はぐるぐると色んな考えが頭を巡って爆発しそうだった。
 博貴はどんな気持ちでその決断を下したのだろうか?
「私たちのことも許して貰えないか?高良田に問いつめ吐かせたが、酷いことを……。だが、あの男も悪気があったわけじゃないんだよ。私の息子が死んだとき……高良田は考えたのだろう。息子を私に取り戻してやろうと……ね。私は昔に、博貴のことはもう放って置くんだと、きつく言い聞かせてあったのだが、私も年を取って、跡継ぎとして頼っていた息子を失った所為で、気が弱くなっていて……そんな私を見かねて高良田が勝手に動いたようだ。だからといって責任逃れをするつもりはない。君が言う責任を取らせて貰うつもりだよ」
「遅い……」
 大地は思わず言った。それしか言えなかった。恨み言を言おうと怒鳴りつけようと遅いのだ。それならさっさと何故手を引いてくれなかったのだ。こんな事になる前に、二人の仲がまだ繋がっていたときに、何故……。
「博貴と同じ事を君も言うんだね……」
 悲しそうに酒井が言った。
「同じ事……?」
 博貴もそう言ったのだろうか?遅いと……。
「そうだよ。博貴の意識が戻ったとき……最初に今の君に対して言ったように話した。だが博貴からの言葉はそれだけだった……もう遅い……と」
 今駆けだしていけるのなら駆け出し、博貴の元へと行きたかった。手を握りしめて抱きしめキスをして……
 大地はそう考えて項垂れた。
「博貴は……私を憎んでいる……分かっている。今更親子を名乗ることなどできはしない。だから高良田に放って置けと言った。随分昔に……親子を名乗れないと分かったときに……。だがね、私は博貴の母を愛していた。彼女が亡くなってからもずっとそう思っている。どうにもならない事情が沢山あった。だが一緒になれなかったことが、今後悔してもしきれない棘のように刺さっている……。何故自分の想いを貫けなかったのかとね……。そんな人生もあるんだよ……」
 苦渋に満ちたような顔で酒井は大地に言った。どうにもならない事情とは一体なんだろうと大地は思ったが、それを聞くことは出来なかった。
「私には、もう追えないところに彼女は逝ってしまった。だがまだ、追える君達は幸せだと私は思うが……。男同士だからどうこう言うほど私は堅いつもりではない。そんな事をいう資格も私にはない……。ただ、博貴が幸せならそれでいい……いや、こんな事を言える資格すら私にはないんだが……済まない……」
「……」
「さあ、君も……病院に戻りたまえ。今日は来てくれてありがとう……」
「いえ……」
 何故ばかりが大地の頭を駆けめぐっていた。どうして死のうと思ったのだろう。何があったらそうなるんだろう。酒井の目の前で死のうとした博貴。何故死を選んだのだろう。側にいると大地は言った。屈しないと誓った。なのに、自分一人全部背負って精算しようとしたのだ。どうしてそんな勝手なことをしたのだ。何も話してくれなかった。何でも話し合おうと約束したのに……そこまで大地は考えてハッと気がついた。
 そうだ、俺が最初に隠したんだ……。襲われたこと、兄のこと……藤城に助けを求めたこと……。博貴を苦しめたくなかったから隠した。それがそのまま自分に返ってきただけではないのか?
「大ちゃん?疲れた?」
 タクシーの中で無言になった大地に真喜子が心配そうに聞いた。
「え、いえ……大丈夫です」
 真喜子は何処まで知っているのだろう。聞いても良いのだろうか?
「光ちゃん……嬉しそうだったわねえ……やっぱり大ちゃんパワーは違うわ」
 うふふと笑って真喜子が言った。
「酒井さんが……大良さんが死のうとしたって……」
「聞いたんだ……。そうね……そうらしいわ。その理由が私には分からないんだけどね。光ちゃん全然私に相談してくれなかったもの……。この間大ちゃんのお見舞いの帰りに光ちゃんから大ちゃんと別れた話しを聞いたんだから……詳しく大ちゃんに聞きたくても、大ちゃんは色々忘れてるみたいだし……もう、気持ち悪いったら無いわよ。もう一発ひっぱたいてやりたいわ」
 そう言って真喜子は笑った。もう一発と言うことは何発かひっぱたいたのだろう。
「そうなんですか……」
「光ちゃん……大ちゃんと別れた理由がさ、自分が恋多い人間だったのが悪いと言ってたけど、嘘ばっかり!譫言でずっと大ちゃんの名前しか言わな男が、恋多き人間な訳ないでしょ。済まない大地、済まないって……耳にたこ出来ちゃったわよ。それなのに真喜子さん済まないって一言も言わないのよ!信じられないわ」
 それを聞いて思わず大地は笑った。
「……そうそう、大ちゃん。その笑顔が貴方らしいわ。今度光ちゃんにも見せてあげてね。あ、駄目だわ。自分の身体のことを考えずに襲うかもしれないから当分笑顔は見せない方がいいかもね」
 真剣な顔で真喜子は言った。それが可笑しくて又大地は笑った。お腹が引きつって痛いが、笑いが止まらないのだ。そうこうしているうちに病院の玄関についた。大地は車を降りると、コートと帽子を真喜子に返した。
「今日は本当にありがとう。大ちゃん」
「いえ……何時でも言ってください……俺構いませんから……」
 毎日だって良いと大地は思ったが、それは言えなかった。
「じゃあね、大ちゃん」
 タクシーが見えなくなるまで見送って、大地は病院に入ると向こうから咲子が青い顔をして走ってきた。
「大!大地!貴方何処に行ってたの?突然いなくなるから……みんな大騒ぎになって……捜していたのよ」
 息荒く咲子はそう言った。
「ごめんなさい。体力を少しでも戻そうと思って……庭を歩いたりしてたんだ……天気も良かったし、外に出たくて……その……」
 出かけていたことは口が裂けても言えなかった。
「大君!」
 今度は藤城だ。なんだか大騒ぎになっていたようだった。
「ご、ごめんなさい……その……俺……」
 藤城も青い顔をして、場所を考えずに大地を抱きしめた。
「何かあったのかと思って心配したよ……良かった……」
 藤城はとても優しいのだ。いつもいつも優しくしてくれる。博貴とは全く性格が違うのだ。藤城は強引ではない。包み込むような優しさで見守っていてくれる。
 きっと藤城は今度は大地を自分の恋人に出来ると考えているはずだ。博貴に振られたと話していないが、今までと全く接し方が違うからだ。この優しさに何もかも忘れて甘えたいという気持ちが大地にもある。藤城ならきっとずっと優しく守ってくれるだろう。
 だけど……
「さて、逃走するのはいいが、そろそろ身体を休めないとね」
 そう言って藤城は大地を抱き上げた。母親は不思議そうな顔をしている。誤解しないでよねと大地は思ったが、果たして咲子に気がつかれたのだろうか?大地はそんなことを考えながらいつの間にかベットに降ろされた。
 そこへ戸浪が息を切らせて帰ってきた。
「大……ああ、良かった。何かあったのかと思って息が止まりそうになった……」
「ごめんなさい……心配かけて……」
 その日の晩大地は又熱を出した。

 浅い眠りから目を覚まして博貴は周りを見渡したが、もう大地の姿は無かった。
 あれは夢だったのだろうか?
 会いたい会いたいと思っているから幻覚を見たのだろうか?
 博貴は、大地が握りしめてくれていた温もりを捜すように手の平を見た。ゆっくりと指を動かして、あの時感じた温もりを思い出そうとした。
 はっきりと思い出せるその感触は本物だった。真喜子が見かねて連れてきてくれたのだろうか?多分そんなところだろう。
「大地……」
 とまどった大地の顔が眼裏に残っている。我ながら、馬鹿なことを言ったと博貴は思った。あんな風に大地を切り捨てたくせに、大地が記憶を無くしているのを良いことに出会いからやり直そうなどと言ったのだ。全く厚顔無恥甚だしい……。
 そう考え博貴は苦笑した。だが、ここまで来たらもうなんだって出来そうな気が博貴にはした。恥も外聞もない。一度は捨てようと思った命が今あるからなのだろう。
 だが、大地も酷い怪我を負ったのではなかったのか?それなのに、来てくれたと言うことは期待しても良いのだろうか?少しくらい脈があると取っても良いのだろうか?こんな風に希望的観測を持つことなど無かったが、大地に関しては僅かな脈でも信じたいのだ。 ただ藤城と立場が逆になった。あの男と張り合って大地を取り戻せる自信は無かった。博貴より先に藤城に大地が出会っていたら、きっと大地は藤城を選んだろう。
 藤城は博貴にないものを沢山持っているからそう思うのだ。あんなに優しくはなれない。目の前に大地がいて、自分の欲求を押さえ込むことなど博貴には出来ないからだ。そんな自分の性格に呆れながらも仕方ないと博貴は思った。これが自分なのだと。
「ちょっとは元気になりました?」
 にっこーと笑顔で真喜子が入ってきた。
「ありがとう……真喜子さん……」
 あんな風に喧嘩をしたはずの真喜子がこんな風にまだ気遣ってくれるということが博貴には嬉しかった。
「大ちゃんも貴方の手をじっと握って何か考えてたわ……思い出したいと思ってるんじゃないの?」
「私のことを……思い出したら……許してくれないかもしれない……」
「ばっかね、光ちゃんは。大ちゃんは……ちゃんとした理由があったら、許してくれるわよ……そういう子でしょ。貴方だって理由無くて死のうなんて思わないわよね。大丈夫よ。今は元気になることだけ考えなさいよ。大ちゃんを抱きしめられるくらいにね」
 真喜子は本当にいつも博貴が欲しい言葉を言ってくれる。
「大地……身体……大丈夫……だったのかい?」
「ええ、今日尋ねていったら、自分で病室内をうろうろしてたから連れ出してきたの。最初とまどってたみたいだけどね。私思うんだけど、人ってさ悲しくて記憶が失われても、取り戻そうと思うに決まってるわ。気持ち悪いじゃない。自分は覚えていなくて他人は覚えているのって……私は嫌だわ。きっと大ちゃんもそう思ってるはずよ。だって色々聞いてきてたもの……それに酒井さんからもなんか聞かされたみたいだし……。一生懸命記憶をつなぎ合わそうとしてるんじゃない?大ちゃんが全部思い出して……ショックを思い出したときに……光ちゃんが側にいて抱きしめてあげれば良いんじゃないの?どうせ、貴方がショックを与えたんでしょうから……責任取らなきゃね」
「……そうだね……うん……その通りだ……」
 そのとき藤城ではなく自分が側にいたいと博貴は思った。
「じゃ、私も仕事に行くわね……」
「……ありがとう……」
 真喜子は手を振って出ていった。どの位でここから出られるのだろうか?何日ここで過ごせばあの住み慣れた場所へ戻れるのだろう。
 早く帰りたいと博貴は痛烈に思った。早く帰って大地といつもの生活を取り戻したいのだ。暫くは藤城に大地を預けるしかない。だがこのままずっと預けっぱなしにはしない。
 博貴はそう決心して、眠りについた。



 大地が結局退院したのは入院してから二週間目の事であった。もっと早く出られるだろうと思っていたのだが、夜になると熱が出たために、余病ではないかと疑われたためであった。
 一度、博貴の所へ行ったが、あれ以来行くことが出来なかった。始終母親に見張られていたからだ。外へ散歩に出るときはやっぱり誰かが付き添ってくる。子供じゃないと言い張っても監視は緩まなかった。
 だがようやく家に戻って、懐かしい匂いに大地はホッとした。やっぱりここが今の我が家なのだ。
 博貴はどうしたのだろう。退院できたのだろうか?
 あれから真喜子がチョロチョロやってきてはいたが、どうしてか藤城とバッティングして博貴の話が出来なかったのだ。もちろん逃げ出すことも出来なかった。
 色々知りたいことが多すぎて、きっと頭を抱えることが熱を出す原因なのだと大地は思っていた。昔からそうなのだ。一年つき合った彼女に振られたときも一週間ほど熱が出た。昔から自分が納得できない事が持ち上がると、考えすぎて熱が出るのだ。
「大、本当に大丈夫なの?一人で生活出来るの?」
 咲子が心配そうにそう言った。
「うん。大丈夫だよ。会社も首じゃないって言ってくれたうえに、まだ休ませて貰えるらしいから、暫く体力を付けることに専念するよ。それより父さんが帰ってこいって五月蠅いんだろ。帰って良いよ」
 大地が入院して動き回れるようになった頃から、父親から帰ってこいという電話が毎日のようにかかっていたのを大地は知っていた。父親は、まだまだ美しい母の咲子を心配しているのだろう。はっきり理由を父親が言わないところが何とも可愛いと大地は思っていた。咲子の方もそれは分かっているのだろうが、一番末の息子が心配で堪らないのだ。まだ十八歳という年齢もあるのだろう。上の兄二人に対してはこれほど咲子は気にかけたりしないのだ。
「そう……それなら……」
「父さん心配なんだよ……母さん綺麗だから誘惑されないかなってさ」
「馬鹿なことを言わないの。三人も息子がいるのに何を言ってるのかしらこの子は」
 と咲子は言ったが、まんざらじゃない顔をしている。
「それに、俺、うごけねえわけじゃないし、母さんに面倒見て貰ったら怠け癖がついちゃうよ」
 笑顔で大地はそう言った。
「そうね。じゃあ、大、母さん帰るわね。一人で寂しくないの?」
「大丈夫」
「大、本当に辛くなったら帰っていらっしゃい。分かったわね」
「ありがとう……母さん」
 咲子は笑顔をもう一度見せて帰っていった。大地はうーんと伸びをして大の字に寝転がった。ホッとしたのだ。色々ありすぎて既にもう頭がパンクしそうだった。元々問題を抱えることを苦手としている大地であるから、今の状態でまともであるにはかなりの忍耐が必要であった。
 部屋をぐるりと見回して意外に部屋が綺麗なのに驚いた。咲子が綺麗に掃除をしてくれていたのだろう。
 母親っていいなあと大地は本当に思った。そう言えば博貴はまだ帰っていないだろう。部屋が汚れているかもしれないから、こっそり掃除してやろうかと大地は思った。扉はまだ塞がれずについている。大地は近寄ってそっと開けて博貴のうちへ入った。
 博貴のうちは大地のうちと又違った匂いがする。大地はこのうちの匂いが好きだった。微かに博貴のコロンの香りがあるからだ。
「大ちゃん?」
 いきなり声をかけられてびっくりした大地は「わああっ」と叫んでしまった。
「どうしたんだい?何か用かい?」
 嬉しそうな顔で博貴がベットからこっちを見ていた。まだ退院できるような感じではなかったはずだ。なのにどうしてここに帰ってきているのだろう。
「え、部屋に扉が合ったので……何だろうと思って……入ってきたです……済みません」
「いいんだよ。いつでも遊びに来てくれて……何時だって来てくれていたんだから……」
 ちょっと身体を起こして博貴は言った。
「あの……もう大丈夫なんですか?」
 枕にもたれかかるようにして博貴が座っているのを見て大地が言った。
「まだねえ、退院は無理だって言われたんだけど……君が今日退院って聞いてどうしても同じ日に帰りたかったんだよ。まあ、当分養生することと、医者が一日一回こっちに往診に来ると言うことで帰らせて貰ったんだ。君の側にいることが私の薬なんだから……」
 何て無茶なことをするんだよ!そう叫びそうになって大地は気持ちを抑えた。
「……病院に戻った方が……良いです」
「あそこにいると気が滅入るんだよ……それよりここの方が精神的に安定するしね」
 博貴はそう言って笑った。この顔が好きだと大地は思った。
「そうですか……」
「それより……その、他人行儀な話し方何とかならないかい?もう気持ち悪くて……」
「え?」
「覚えているかどうか分からないけどね。君がお前とか言う言葉遣いなのを知っているから、普段通りの話し方で話して欲しいって言ったことがあるんだけど……」
「あ、そうですね……そう言えばそういう事があったような気が……」
「だからいつも通りに大良って呼んで欲しいよ大ちゃん……」
「……あ、うん」
 会話している間、少しずつ博貴の顔に赤みが差してくる。辛いのだろうか?
「あの……横になっていた方がいいです」
 とにかく心配で仕方ないのだ。
「……何時も通りに大ちゃんが言うまでこのままでいるよ」
 この男は何時だってこんな風に言うのだ。だが腹は立たない。
「だから……その……苦しそうですって……」
「嫌だよ」
 お前はガキか!言うこと聞けよ!腹の中で大地は叫んだ。
「だ……大良……さん」
「さんはいらないって言ったでしょ」
 こいつは自分の思い通りになるまで、こちらの言うことを聞かないだろう。そんな奴なのだ。大地は溜息をついて、次に息を吸い込んで言った。
「ガキじゃねえんだから、言うことききやがれ!」
 と勢いを付けて大地が言うと、博貴は驚きながらも嬉しそうな笑みを返してきた。
「……って感じでいいですか……」
 真っ赤になった大地は小さな声で最後にそう付け加えた。
「最後の付け加えはいらないけど……許してあげるよ……」
 そう言って博貴は大人しく身体をベットに沈めて毛布を首元まで引き上げた。よく見ると額に汗をかいている。そっとベットに近づいて様子を伺うと、吐き出す息も熱かった。
「なんか……やっぱり、病院に帰った方が……」
「ああ、もう大ちゃんが他人になってる……」
 全く何処までもふざけている博貴に頭に来た。そんなことを言っている場合ではないのだ。ちゃんと話してはいるがかなり辛そうだった。瞳が熱っぽい。こんな状態でどうやって自分の面倒を見られるというのだろう。見られもしないのにこの男は無謀にも帰ってきたのだ。
 大地は無言でくるりと背を向けると自分の部屋へと戻った。
「……大ちゃん……」
 と、後ろから寂しそうに自分を呼ぶ声が聞こえたが、それを無視して扉を閉めた。
 何だってあいつはいつもこうなのだ?
 氷を砕きながら大地は一人そうごちた。
 熱だってある。動くこともままならない。そんな状態でここに帰ってどうしようって言うのだ。誰が薬だって?いい加減にしろ……何で俺があいつの面倒を見なきゃならないんだ。それとも俺のこういう性格を知っていて、戻ってきたのだろうか……。
 手を止めて大地はじっと砕けた氷を眺めた。
 いや、面倒を見て貰いたいとか、そんなこと考えて帰ってきたんじゃない。俺の側にいたいだけで帰ってきたんだ……それは分かる……分かるけど。
「無茶苦茶なんだよ!」
 ガキっと最後に氷を砕いて大地は言った。そうして砕いた氷の中に水を入れ、タオルを持って博貴の所に戻った。
「これ……」
 タオルを絞って博貴の額にのせた。
「……気持ちいい……」
 ふうっと息を吐いて博貴が言った。
「熱……あるよ……」
「うん……ねえ、さっき叫んでたね」
 くすくすと笑いながら博貴は言った。さっきの声が聞こえたのだ。ここの壁は薄いことを忘れていたのだ。
「あ……はは……」
「……何時も通りに話してくれないかい……言いにくいのかもしれないけど……ほら、そうやって話しているうちに君の記憶も戻ってくるかもしれないだろう?」
 そうだ、俺はこいつのことを忘れているという事になっていた。大地は重大な事を思い出し、今更ながらに自分が馬鹿だったことを思い知った。嘘をつくと更に嘘をつかなければならなくなるというのは本当だったのだ。
「……分かった……そうする」 
 と言ったところで誰かが博貴の玄関のベルを鳴らした。
「ああ、お医者さんかな……」
 身体を起こそうとするので大地がそれを止めて自分が玄関を開けた。確かに医者だった。
「ああ、君が面倒を見てくれているんだね。誰もいないと言うから、かなり心配したんだが、なら大丈夫だろう」
 勝手に言うなと言いそうになったが、大地は愛想笑いだけを顔に浮かべた。医者が診察しているのを見ないようにしていたが、ちらりと見えた博貴のお腹にはへその辺りを真っ直ぐ走った傷を補合した縫い目が見えた。思わず視線を逸らせ、大地はぞっとした。
 人間があんな風に自分の腹を切ることが出来るのだろうか?どんな意志があって、どれほどの精神力があればできるのだろう。大地にはとうてい出来そうにない行為だった。本気になっても大地には出来そうにない。
 もう一度そっと博貴の方を見ると今度は注射を何本か打たれたのか、腕をさすっていた。
「薬をちゃんと時間通りに飲まないから熱が出るんだ、そこの君、面倒見るならきちんと薬も飲ませてくれないかね」
 医者は不機嫌そうな顔を大地に向けて言った。
「え……俺?」
「あの、彼はただの隣人で、面倒見て貰ってるわけでは……」
 博貴は慌ててそう言った。
「お隣さんならこういうときに助け合うものだろう。そうだろう、君」
「あ、はい……」
 大地はそう言った。こういう風に言われて拒否できる人間がいたら会ってみたいものだと大地は思った。
 そうしていくつも大地と博貴、交互に注意事項を並べ立て、医者は帰っていった。
「……すまないね大ちゃん。別に面倒見て貰わなくても何とかなるから、気にしなくて良いんだよ。君だって病み上がりなんだから……私に構わなくていい……」
 額にタオルを置いて、博貴は言った。
「別に……いいけど……俺だって……当分うちにいるように言われてるし……あの医者が言うようにお隣さんだし……」
 何とか普通に振る舞ってそう言った。だが、言葉がまだカクカクしているのは仕方が無いだろう。
「優しいお隣さんで……得したね……」
 そう言って博貴はすうっと眠りについた。先程打たれた注射の所為かな?と大地は思いながら博貴の顔をじっと見つめた。
 馬鹿なんだよ……お前ってさ。じわっと涙が滲んだ。
 こんなになってもお前はここがいいんだな。
 俺の側が良いって思って良いんだよな。
 俺のことまだ好きだって……信じて良いんだよな……。
 ううん、最初からずっと俺のこと好きなんだよな……。
 大地は時折タオルを替えながら何度もそう思った。
 ベットを背にもたれながら床に足を延ばして大地は天井を仰いだ。博貴の吐息が規則的に聞こえる。以前にもこんな事があったと大地はフッと思い出した。初めて愛していると言われて怒鳴りつけたのだ。なんだか懐かしいなあと振り返って博貴の寝顔を見た。この間病院で見たときよりも顔色が数段にいい。少しずつ回復しているのだろう。
 大地は自分もベットに頭を置いて何故、博貴が死のうと思ったのだろうと考えた。それはずっと心に引っかかっていることなのだ。聞いてもきっと答えてくれないのだろう。大地が忘れていると思っているからだ。
 睡魔に襲われた大地はそのまま眠りについた。
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