Angel Sugar

「暴走かもしんない」 第1章

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 まどろみの中、自分の胸に誰かの手が伸びていることに気づく。それは胸の尖りに触れていて、くすぐったい。
「……ん……」
 触れているだけで安心するのか、指先は動かされることなく、ただ、そこにあるだけだ。けれど、自分の身体の一部ではないものが、胸元にあるという違和感がずっと感じられて、どことなく居心地が悪い。
「……あ……」
 起床時間より少し前、目覚ましが鳴るよりも先に、大地は目覚めた。
「……もう、放せよ……」
 背後からピッタリくっついている博貴の存在に、大地は苦笑しながら、回されている腕を解こうとする。いつの頃からか博貴の手が上着の裾から入れられていて、直接肌に触れているのだ。
「……大良って……」
「う~ん……大ちゃん」
 胸の尖りを掴んでいる手を引き剥がそうとすると、寝ているはずなのに、博貴はさらに手に力を込めてきた。
「大良、起きてるだろ。寝たふりするのやめろよ……」
 背にへばりついている博貴を肘で押しやり、大地は身体を捩った。
「……私は、寝てるよ……ぐーぐー」
 博貴は笑いを堪えるような表情でありながらも、目を閉じてそう言った。とても寝ているとは思えない。
「……どこの世界に寝ながら自分は寝てるって言う奴がいるんだよ……」
 ようやく胸に回されていた手の拘束から逃れた大地は、半分眠ったような顔をしながらも、悪戯をしようとする博貴に、呆れるしかなかった。
「ん~私だよ」
 博貴は大地をもう一度抱き込み、自分の身体の上へ乗せる。悪びれない様子は、いつものことだ。
「何時に帰ってきたんだ?」 
 端正な博貴の鼻筋をそろりと撫でて、大地は問いかけた。大地は、こんなふうに博貴の顔を撫で、輪郭をなぞるのが好きだ。
「三時半頃かな……」
 目をしょぼしょぼとさせながら、博貴は答える。
 博貴は昨夜、ホストとして仕事に出かけ、大地が眠っている間に帰ってきた。
 現在博貴は、今、二人で住んでいる、この高級マンションのオーナーで、収入に困らない生活を送っていた。けれど、一週間のうち数度、ホストクラブでアルバイトをしているのだ。もちろん、アルバイトなど必要がないのだが、ずっとうちの中に籠もるのも性に合わないらしい。だったら、健全な仕事をして欲しいと大地は思うのだが、博貴曰く、やり慣れた仕事がいいそうだ。
 すでにナンバーワンの座を後輩に譲った博貴だ。今では昔からの常連客と、心地よい会話と美味い酒を楽しんでいる。以前は、客との関係を邪推したこともあった大地だったが、今はそういったことがなくなった。
 ホストという職業はやはり気に入らないのだが、今では認めていた。好きな相手ができると、その相手がどういった仕事をしていたとしても、邪推しようと思えばいくらでもできることを大地は悟ったからだ。
「じゃあ、まだ眠いだろ?」
「眠いねえ……」
「だったら、大人しく寝てろよ」
「大ちゃんと寝ていたいんだよ……」
 小さな子供が我が儘を言うように、博貴は大地を抱きしめたまま、頬擦りをしてくる。抱き合っていると暖かくて、思わず睡魔に負け、流されてしまいそうだ。
「俺は日勤。もう起きて、仕事に出かけなくちゃならないの。なんなら、博貴も起きて俺と一緒に朝飯食べるか?」
「……いや……今日は……眠りたいね……」
「じゃあ、今日は一日家にいるのか?」
「そうだねえ……今日は出かける予定がないから、一日ごろごろしてるつもりだよ。ああ、大ちゃんとセックスするなら今、起きてもいいけど」
 博貴の顔は笑っているのだが、眠いからか目が閉じられているので、見ている大地からすると、なんだか不気味だ。
「……朝から殴られたいのか?」
 大地が握り拳を振り上げると、背に回されていた手がパタリとベッドに落ち、博貴は深い眠りにでも落ちたような顔で枕に沈む。
「俺、行くよ」
 博貴の上から身体を起こし、大地はベッドから下りた。
「つれないねえ、大ちゃん。寝室から出て行く前に、キスが欲しいなあ……キス」
 横になったまま博貴は手を振り上げて、大地を呼ぶ。一度は背を向けたものの、大地はベッドまで戻ると、うっすらと目を開けている博貴の唇にそっと啄むようなキスを落とした。
「……じゃ、じゃあな」
 顔を真っ赤にしながら寝室から出ようとした大地に、博貴は「家から出て行く前にもう一つ、濃いのを頼むよ……」と言った。



 よかった……。
 今日は出かける用事がないんだ……。
 外で偶然出会うってこともないってことだよな。
 大地はみそ汁の味見しながら、ホッと胸を撫で下ろしていた。
 これほど気遣う理由が大地にはあったのだ。
 先日、藤城から連絡が入って、大地は今日、会う約束をしていた。何かの偶然や、間違いでそれが博貴にばれると困る。
 藤城とはいろいろあったが、今はいい友人として、時々昼食をともにしたり、日常の話題を電話で話したりする関係だった。もちろん、博貴にはこのことを話していない。故意に隠しているというわけではなく、ただ、話せばいろいろややこしいことになり、誤解を生むことが予想されるため、言わないだけだ。
 藤城にきっぱりと恋愛対象に見られないと告げてから暫くの間は、なんとなく大地の方が気にして、ぎくしゃくしていた。けれど、藤城はそんな大地を気にすることなく、いつもどおり接してくれていた。
 年こそ離れていたが、大地は藤城のことを、いい友人だと思っている。
 けれど、こういう気持ちを博貴が理解してくれるとは思わないのだ。
 博貴は藤城に対して敵対心を抱いている。仲良くしてくれと大地が頼んでも到底無駄だろうし、その理由も分かっていた。けれど、恋愛問題で少しもめたからといって、向こうがにこやかに話しかけてくれるのに、他人の振りをしたり、一切、会わない……ということは大地の性格上、できない。
 だから今も藤城とは話しもするし、時々ランチをともにする。
 博貴に内緒で。
 ちょっぴり後ろめたい気持ちがあるのだが、大地は藤城といい友達でいたいのだ。
 その藤城がいつもとは明らかに違う焦った口調で、大地に相談をしたいと言ってきた。どちらかというと相談に乗ってもらうのはいつも大地の方だから、藤城からの初めての頼みを断るわけにはいかない。
 とはいえ、その内容はまだ聞いていないのだが。
 なんだろう……頼みって……。
 まあ……藤城さんのことだから、無茶なことじゃないと思うけど。
 大地は足元で餌をもらおうとウロウロしているウサギのウサ吉に餌をやった。
「会って話を聞けばいいっか」
 大地はできあがったみそ汁を椀に注ぎ、先に焼いておいた子持ちししゃもを皿に、炊きたてのご飯をよそって、椅子に腰を下ろした。
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