Angel Sugar

「暴走かもしんない」 第4章

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「……ええっと。俺、やっぱりよく分からないんだけど、断れないってことなのかな?」
 コンロにかけていたナメコのみそ汁が沸騰しそうな勢いで湯気が立ってきたため、大地は肩に携帯をひっかけたまま火を止めると、椅子に座った。
『そうなんですよ、ボン。マジでお願いします。俺でできることなら、なんでもしますから、若頭を助けてやってください』
 どうして恋人の振りをする、しないだけで、これほどの騒ぎになるのだろうか。大地にはいまだ状況が把握できていない。ただ、大地が引き受けなければ、藤城も安佐も非常に困るということだけだ。
「……それって、大良には言わないでくれってことだよな?」
 博貴に話せば絶対に首を縦に振らないだろう。
『駄目ですか?』
「あ……う~ん。まあ……藤城さんにはいろいろお世話になってるし、安佐さんたちにも迷惑かけたこともあったし……うん。分かった。博貴には内緒でやってみるよ」
 そう答えながらも、大変なことを引き受けたという、漠然とした不安はあった。だが、藤城のことだ。いくらなんでも大地に無茶苦茶な注文はしてこないはずだった。
『ええっ!いいんですか!ボン、ありがとうございます~。これで俺、安心して寝られますよ』
 暗い声をしていた安佐が、うってかわった明るい声でそう言った。
「おおげさだなあ……もう」
『じゃあ、ボン、若頭のこと、よろしくお願いします』
「……できる範囲だけだよ。あんまり期待されても困るし……」
『ええもう、ボンのしたいようにしてくれたらいいんですよ。じゃあ。若頭にいい返事をお願いします』
 ボンのしたいようしてくれたら……。
 なんとなく大地はその言葉に引っかかりを覚えたが、気のせいだろう。
「そうします……じゃあ」
 大地は携帯をポケットに戻すと、消したコンロの火をまたつけた。
 ヴヴ……。
 ウサ吉の鳴き声が足元から聞こえ、視線を下へと向けると、白と黒の毛の固まりが見えた。
「ウサ吉~。博貴と一緒だったんじゃないのか?また苛められたとか……」
 ふかふかの毛のウサ吉を抱き上げ、頬ずりする。仕事でどれほど疲れても、この柔らかいウサ吉の毛皮にかかれば、すべてがどうでもよくなってしまう。
「あ~ウサ吉の毛って、気持ちいい~」
「ねえ、大ちゃん。今、誰かと電話してなかった?」
 背後、斜め頭上から落とされた声に驚いた大地は、抱きしめていたウサ吉を落としそうになった。
「わああっ!」
「……そんなに驚かなくても……」
「いっ、いつからそこにいたんだ?ていうか、いつキッチンに入ってきたんだよっ!」
「美味しそうなナメコのみそ汁だねえ……。え、いつって……携帯を切ったのと同時かな……誰から電話?」
 博貴は、ウサ吉ごと大地を背後から抱きしめ、コンロにかけられた鍋を覗き込む。肩より少し長い栗色の髪が、大地の頬を掠めてくすぐった。
「……え、あ、会社の人からだったんだ。これでも俺、いろいろ仕事で大変でさ」
 もし博貴があの会話を聞いていたら、こんなふうな穏やかな態度を見せないだろう。ということは、何も聞いていなかったのだ。
「忙しいのはいいことなんだろうけどね」
 博貴は背後から大地の頬にキスを落とし、薄茶色の髪を鼻先で触れる。密着している背からは、博貴の温もりが伝わってきて、大地はその心地よさに目を細めた。
「大良は……暇そうだけどな」
「私と仕事、どっちが大事?なあんてセリフを言わせないようにしてくれよ」
 博貴は冗談めかしにそう言ったが、そこに本音が隠れているようにも見えた。
「俺はそんな仕事人間じゃないって」
「……それは分かってるんだけどねえ……。こう、仕事の時間が不規則なのが、気になるんだよ……」
 博貴は、自分が独りぼっちでこのマンションで過ごさなければならない時間が多く、気に入らないのだろう。
「不規則なのが嫌なのか?」
 大地が見上げると、博貴の目と視線が合った。
「夜遅くなって何かあったら、大変だろう?」
「大良、それマジで言ってんのか?俺は女じゃねえし、仮に襲われたとしても、相手をぼこぼこにしてやるって。それ、言うなら大良の方が危険だろ」
「……やぶ蛇って感じだねえ……」
「俺は今の仕事が気に入ってるし、やりがいを感じてる。それこそ、大良はもう収入に困らないんだからホストをやめたらどうなんだよ?」
 博貴がどういう気持ちでホストをしているのか、理解している。けれど、綺麗な女性が毎日やってきて、お酒や会話を博貴と楽しんでいる姿を想像するだけで、大地はいい気分ではないのだ。
 毎日何紙もの新聞を読み、雑誌も毎月数十種類目を通し、客との会話に生かしている努力は認めるし、それなりの誇りをもっていることも知っている。ただ、大地の中では、やはりホストはあまりいい職業のうちには入っていない。
「毎日ここにいるなんて……ゾッとするよ。仕事をしないで引きこもったら、脳が一気に老けるね。そういう私になってもいいのかい?」
「それはな、屁理屈って……ん……」
 軽く触れただけだと思った博貴の唇だったが、すぐさま舌が差し込まれ、大地のものと絡められた。甘い刺激は簡単に脳を麻痺させ、博貴の抱擁にとろけそうになる。
「あ……ちょっと……ま……」
 唇が離された瞬間を狙って声を出そうとした大地を、博貴はあっという間に抱き上げて、小柄な身体を宙に浮かせた。ウサ吉は大地の腹の上でキョロキョロとしている。
「夕飯が先だろ?」
「すぐに冷めたりしないだろう?」
 博貴はコンロの火を止めて、ニンマリと笑う。
「まあ……そうだけど……」
「大ちゃんは、最近、冷たいからね……。今のうちに温めておかないと」
 嬉しそうに博貴はそう言い、寝室ではなく、リビングに向かった。
「俺、冷たいか?」
 大地はマントルピースの前にある、ローソファに下ろされ、博貴が乗り上がってくる。
「大地はウサ吉ばっかり構っているだろう?たまには、私にも頬ずりして甘えて欲しいね」
 腕に抱えていたウサ吉を、博貴は大地から引き離し、床に逃がした。ウサ吉は後ろ足を跳ねさせて、テレビの隣にある自分の寝住まいとなる籠に入り、丸くなる。状況をよく心得ているウサギだ。
「大良って……ウサ吉みたいに頬ずりされたいのか?」
「……ウサ吉みたいに……というのは余計だけどねえ……」
「ウサ吉は毛が気持ちいいんだよ。分かるだろ、大良も。ふかふかしていて……なんかこう、ものすごく幸せな気分になれるんだよな~」
 博貴に組み敷かれながらも、大地はウサ吉の毛の感触を思い出し、恍惚とした表情でそう言った。
「私にだってふさふさしているところがあるだろう?そこを頬ずりされたら、きっと私はものすごく幸せな気分になれそうだよ」
「……ふさふさ?髪の話をしてるのか?ていうか、お前が幸せな気分になるのか?」
「……なるよ。してくれる?」
「だから、どこのことを話してるんだよ……」
「私の……あ・そ・こ」
 ガキッ!
「いっ……今、今、思いっきり顔面に拳が入ったよっ!どういうことなんだい?」
 博貴は身体を起こし、鼻を押さえていた。もちろん、鼻が折れるような力など込めていないが、痛かったのは事実だろう。
「あのなあ、冗談でも、笑えなかったぞ。何が私のあそこだよ。あんなとこ、普通、頬ずりするか?」
「絶対に……しないって場所じゃないでしょ」
 博貴は鼻を擦りながらも苦笑していたが、大地は思い出したことで顔を赤らめた。
「そっ……そんなこと、言うなっ!思い出させるなよっ!反則だよっ!」
 あそこに頬擦りするのではなく、違うものに頬擦りはしたことがある。そのことを博貴は言っているのだろうが、素面で口にすることではないだろう。
「何が反則なんだろうねえ……。それより、恋人の顔面に迷わず拳を飛ばすなんて……ほんと、愛が足りない……」
 そう言って覆い被さってくる博貴に、大地は笑顔で自らも手を回した。
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