「暴走かもしんない」 第13章
「大ちゃん、どうしちゃったの?顔、真っ青なんだけど……気分悪い?ね、もう帰った方がいい?」
誰もいないためか、知美は大地を紫織ではなく大ちゃんと呼んだ。だが、大地は知美を見ることなく、洗面台の縁を掴んで息を整えていた。
「……違う」
顔を上げると鏡には、まるで別人の姿が映っていた。
自ら望んだ姿だとはいえ、奇妙なほど滑稽に見える。
「え?」
「違うんだ……」
「じゃあ何?」
「……すげえ、腹が立ってるんだ」
博貴の態度に腹を立てているのか、絵里子という女性に対して腹を立てているのか、自分でも分からない。けれど、無性に胸の当たりがムカムカして、気分は最悪だ。
「……ええっと、あの光さんっていうホストが大ちゃんの恋人なのよね?ちゃんと、おじさまから聞いてるから心配しないで」
どこまで事情を知っているのか分からないが、知美はにっこりと笑う。
「あ……まあ……そうなんだけど……」
「でもさあ、なんでホストを恋人にするの?ひととき楽しむだけなら、良いと思うけど、そういう職業の人って信用ならないと思うよ。どうせ男を恋人に選ぶんなら、おじさまの方が断然いいと思うけどな~」
余計なことを知美はサラリと言う。
しかも、ホストにおだてられて本気になっていないところを見ると、意外に冷静なのだ。
「二つ上だからって、そういう言い方するなよ。何も知らないくせにさ……」
博貴は確かに昔はどうしようもない女たらしだったのだろうが、今は違う。大地のことをちゃんと愛してくれているし、大事に思ってくれている。
そもそも、今、感じている腹立たしい気持ちや、苛立ちの原因は大地にあるのだ。博貴の機嫌を損ねた理由をよく理解しているし、申し訳ないとも思っている。だから、大地がここで文句を言うのも筋違いといえるのだろう。
「……まあ、ルックスは甘くて、目を引くけどね」
「だから、顔と付き合ってる訳じゃないんだっ!」
「……性格良さそうに見えないけど……」
「五月蝿いな……あんたに関係ないだろ。……何、笑ってるんだよ」
大地が怒っているのに知美は、くすくす笑っている。それが余計に大地の気に障る。
「だって、本当に美少女って容貌なのに、『俺』とか『五月蝿い』とか……そのギャップが可笑しくて……中身は男の子って分かってても……笑える」
「……なんかものすごく馬鹿にされてるみたいな気がするんだけど……」
「そんなつもり、ないよ。でさあ、大ちゃん、どうしたいの?」
知美はニンマリ笑いながら洗面台に凭れ、大地を見下ろしている。
「……どうしたいって……」
「だって、大ちゃんのしたいことが、わかんないんだもん。ほら、恋人を嫉妬させるために当てつけたいのか、それとも恋人に近づく女をぼっこぼこにしたいとか、いろいろあるじゃない。で、大ちゃんはどうしたいの?面白そうだし、協力して上げるわよ」
「べ……別に……当てつけたいとか、ぼっこぼこにしたいとか……そんなつもりじゃねえよ……」
「じゃあ、何?」
「あいつが仕事場でどんなふうにしてるのか……知りたかっただけだよ……」
本当にそうなのだろうか。
博貴がどういうふうに客の女性に接しているのか、見たかっただけなのだろうか。
「ホストの仕事なんて、見なくても想像できるじゃない。テレビの特集でも赤裸々にやってるしさ」
それは大地も分かっていた。
大地という恋人がいることで、多少の抑制にはなっているのだろうが、それでもホストという仕事をして給料を得ているのだ。大地から見て多少不愉快な行動や言動があってもしかたがないだろう。
「俺……分かっているのに、自分の目で確かめないと、気が済まないタイプなんだ。ほら、鍋のスープが腐ってるとするだろ?家族の誰かが『腐ってる!臭い!』って叫んだら、分かっていても、自分も腐ったスープを嗅いで、『ほんとだ、臭いっ!』ってやつ」
「……そう言われると、分かるけど。大ちゃんって体験派なんだ。私は臭いって分かってて嗅いだりしないけど。でも、それと今の話しがどう繋がるの?恋人がどんなふうに接待してるのかを確認できて、それでいいの?」
「……そうだよ」
「それだけのために女装してるわけ?」
女装になったもともとの理由は違うが、藤城から知美は聞かされていないようだ。
「……駄目かよ」
「駄目じゃないけど……。それでさあ、彼氏の様子を見てさ、腹を立てて、帰るだけ?自宅に帰ってからバトルとか?」
興味津々の目を知美は向けてくるのを、大地は逸らす。
「しね~よ」
「え~面白くない~」
「あんたを楽しませるために来たんじゃないんだよっ!」
大地は真剣なのだが、知美は面白がっているようだ。
「じゃ、帰るだけ?」
「……そうだよ」
「ね、今、相手をしている女性が気になってるんでしょ?だったらさ、彼女の情報仕入れてあげようか?」
ニヤニヤと知美は大地を見下ろしている。
どういう意味なのかすぐには理解できなかった大地は、知美の突飛な提案に驚きの声を上げた。
「……え?」
「いるの?いらない?」
いや、博貴から営業用ではない笑顔を向けらる女性のことだ。どういったことでも知りたいというのは偽りのない気持ちだ。
「……ど……どうやってだよ」
「彼女が化粧室に立ったら、ついていくのよ。あとは私の話術に任せて。で、どうするの?知りたい?」
「し……知りたい」
「じゃあ、もう帰るなんて言わないで、最後まで付き合ってちょうだい。そうそう、可愛い顔をしてるんだから、もっと笑顔を振りまいてよ。せっかく私が盛り上がっているのに、隣にいる大ちゃんが楽しそうにしてないと興ざめだからさ~」
「……分かった」
「じゃあ、お互いの利益が合致したってことで、戻りましょう、紫織。私、まだまだ飲み足りないし、騒ぎ足りないわ~」
やや、釈然としないながらも、大地は知美に引きずられるようにして洗面室から連れ出されると、もとの席に戻された。
「紫織ちゃん、大丈夫?」
待っていたホストの一人がにやけた笑みを向けてくる。
大地はみんな似たような笑みのホストにうんざりしそうだったが、知美との約束もあることから、とりあえず笑顔を作ってみた。すると、三人いるホスト全員が大地の笑みに魅入られたように言葉を失う。
「やだ~紫織の笑顔って、男性キラーなのよね。そんな、全開で笑わなくても……ね、紫織」
大地は平静な顔に戻し、とりあえず頷き、博貴の様子をそっと窺った。
博貴は相変わらずこちらに背を向ける形で座り、絵里子と話しているようだ。絵里子は身を少し乗り出し、親密な様子で話している。視線は博貴の目から逸らされることなく、向けられ、相づちを打つ仕草も可愛い。
さっさと帰ればいいのにと思いつつ、それでは困るという事情もできた。
彼女のことを知ったところでどうにもならないのに、かといって、知美の提案を断ることもできなかった。
だが、博貴は藤城のことを知っている。
どこで働いているのか、どこに住んでいるのか、どういう人物なのか、大地が知っていることと同じ程度の情報を持っているのだ。けれど、絵里子という女性のことは、何も知らないし、聞かされたこともない。
これは、フェアじゃないような気がする。
いや、フェアじゃない。
だから、知美が少しばかり彼女と話して情報を得たとしても、悪いことではないはずだ。
「あ……じゃあ、ちょっとコンタクトずれちゃったみたいだから、化粧室に行ってくるね」
化粧室に向かった絵里子ををめざとく見つけた知美がそう言って立ち上がる。
大地は急に心臓の鼓動を早めたが、それよりもホスト三人の中に一人にされたことの方が問題だったことに、すぐには気付かなかった。