Angel Sugar

「監禁愛4」 第1章

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 私はいつも恐れている……
 大切な人をいつか失うのではないかと……
 どうなるか分からない未来が怖い。
 今までは未来など考えたことなど無かった。
 過去ばかり見ていたからだ。
 それが……
 ある日突然訪れた出会いによって、全てが変わった。
 私は今を……そして未来を見るようになった。
 過去は振り返らなくなった。
 一人で背負えないものを、彼が一緒に背負ってくれたからだ。
 だから……
 今と未来を見ることが出来るようになった。
 ようやく人間らしい生き方が出来るようになった。
 だがそれと同時に今までは思いもしなかった事が私を不安にさせる。
 彼を失うこと……
 いつかそんな日が訪れたとき……
 私は一体どうするのだろう……



 シャワーを浴びたリーチの髪はまだ濡れており、髪先から雫を落としている。そんな頭をがしがしとタオルで拭きながら、ベットに腰を下ろすとリーチは機嫌悪く言った。
「どのくらい行くんだよ……」
「たぶん二週間くらいで帰ってこれると……」
 申し訳なさそうに名執は答えた。
「……」
 暫く考え込むリーチに名執は不安になった。
「リーチが嫌なら……、お断りします」
 名執はどちらでも良かったのだ。リーチが嫌だと思うのならやめようと……
「……うーん……」
 話は三日ほど遡る。名執が元々働いていたロスにある臨床研究所所長のランドルフから協力要請があったのだ。正式な要請は翌日、名執の勤める警察病院の院長に伝えられた。
 院長の巣鴨はそれを快諾し、後は名執次第だと言うことであった。
 ただ名執は余り長く日本を、いや、リーチの側から離れたくない。だが、理由も無しに断るのも気が引けたのだ。気乗りしない本当の理由など持ち出せないからだ。その為、リーチにも意見を聞こうと話を切りだした。
「リーチ……本当に私、どちらでも良いんです」
 実際、名執がこう聞いたのはリーチが嫌だと言えば、断りやすいからだった。そうであるから名執は多分リーチが行くなと言ってくれるだろうと思っていた。
「二週間か……」
 チラリとこちらを見てリーチは言った。
「ええ」
「まあ……断って欲しいと言うのは簡単だけどな。それはユキのためにはならない。俺だって以前は良く海外の警察に研修に出かけたし、そこで得るものは大きかった。ユキが一流の外科医である為に必要なことなんだから行ってくるといいよ。何より俺は井の中の蛙にはなって欲しくない。まあ……ちょっと寂しいけどな。勉強をしてくるといい」
 リーチはそう言ってニッコリと笑った。
「本当に良いのですか?」
 困惑したような顔で名執は言った。そう言う返事が返ってくるとは思わなかったのだ。
「帰ってこないって言っているわけじゃないから……お前が行きたくないって言うなら別だけど……最新の医療にお前だって触れてみたいと思うだろう?その欲求は俺にも分かる。だから行って来い」
 にっこりと笑ってリーチは言った。 
「ありがとうございます」
 名執は複雑であったが、リーチが行って来いと言うなら、行ってもいいかと思い始めた。最新の医療はやはり知らずにはおられない。それで一人でも多くの患者が救えるのなら、知っていて損はないだろう。
 二週間だし……
 名執はそう思うことにした。
「で、いつから準備に入るんだ?」
 リーチはそう言って、頭を拭いていたタオルを床に置くと、名執の身体を引き寄せた。
「明日、院長先生に話しますので、明後日には……」
 熱いシャワーを浴び、体温の上がっているリーチの胸板は、ほかほかしている。そんな温もりを味わいながら名執は身体を更にすり寄せた。
「そっか……」
 二週間会えないことはままあるが、今回のように海外に行くことは無かったので名執は酷く寂しく思えた。しかしリーチにそんなそぶりを見せるわけには行かない。
 折角行っていいよと言われたのだから……
 私が寂しい顔をしたら駄目ですよね……
「リーチ……電話代は請求して下さって構いませんので毎日電話を頂けますか?私からもしますが……」
「うん。でもそんな事言ったら、俺、いたずら電話ばっかりするぞ」
 そう言ってリーチは名執の髪を撫でた。その仕草が心地良い。
「リーチ……本当に良いのですか?」
 まだ決心の付かない名執は、上目遣いにリーチの顔を見た。半乾きの髪が蛍光灯の光を受けて、いつもよりも光沢を増している。同じように黒目がちの大きな瞳が、じっと名執を見つめていた。
「俺、一度言ったことは撤回しない」
 リーチはきっぱりとそう言った。
「これだけは約束して下さい」
 名執は冗談っぽくそう言った。
「なんだよ」
「絶対、浮気は無しですよ」
「あははははは、変な心配するなよ。お前なぁ……そんなのするわけないだろ。俺よりお前だよ。変な奴にちょっかい出されんなよ」
 おかしそうにリーチはそう言って笑った。だが名執は口調は軽かったが、実際は本当にそれが心配だったのだ。
「私は大丈夫ですよ。相手は患者さんですからね」
「二週間で絶対帰って来いよ。帰ってこないと引きずり戻しに行くぞ」
「もちろん帰ってきます」
 そう言って名執は笑みを見せた。
 
 
 
 あわただしく成田からロサンジェルスに向かった名執は、殆ど一日ほど費やして、ロス空港についた。ロスは米国でニューヨークに次いで第二位の市で、人口はロサンゼルス市に350万人、それ以外の郡内で530万人、周辺の郡を含めると全体で約1200万人もいる。日本との時差は季節によって違うのだが、約十七時間遅れで、その時差ぼけをなくすのに暫くかかりそうだと名執は思った。
 ロスの気候は日中と朝晩の寒暖の差が大きい。日中は30度をかるく超える程の暑さだが朝晩は15-17度位まで下がり意外に過ごし易い。
 ああ……
 何だか懐かしいですね……
 空港ロビーでレイを待ちながら名執はそんな事を考えていた。
「スノウ!」
 レイが名執を見つけて走ってきた。ラフなシャツにジーンズという出で立ちだ。やや褐色がかった金髪が、走る動作で揺れる。
 どちらかというと華奢なレイがそんな格好をしていると大学生だ。とても最前線の医療に携わっている外科医に見えない。
「こんにちは……。お久しぶりですね」
 名執がそう言って笑みを浮かべると、レイは照れたような笑みを浮かべた。
「疲れたでしょう?もう、プロフェッサーがわがまま言っちゃったみたいですね。多分ね、スノウがもう戻らないのを僕達から聞いて、寂しくなったんでしょう。だから色々理由を付けてスノウに会いたかったんですよ。何も仕事にかこつけなくても最初から会いたいって言えばいいのにね」
 レイは名執の荷物を持つとそう言って歩き出した。名執はその後に続く。
「それでランドルフ所長はお元気ですか?」
「プロフェッサーは相変わらずです」
 空港の玄関を抜け、レイが車を停めているところまでやってきた。そうしてレイはトランクを開け、名執の荷物を入れると、トランクを閉めた。
「そう言えば……スノウ……あの……隠岐さんは反対しなかったのですか?」
 何となく言いにくそうな声でそうレイは言った。
「ええ。もちろん。私の為になることなのだから行ってこいと言ってくれましたよ」
 そう名執が言うと、レイは急に笑顔に戻った。
「やっぱり優しいなあ隠岐さんは。あ、スノウ、乗ってくれて良いですよ」
 レイはどうもリーチのことを優しい刑事だと思っている。実はそんな性格では無いのだが、利一としてのリーチしか知らないレイなのだから仕方ないだろう。
「ええ。ありがとうございます」
 名執は助手席に座った。
 車を走らせ小一時間ほどすると、臨床研究所が見えた。
 変わっていない……
 懐かしい気持ちと、まだ残る苦いものが名執の心に沸いてきた。
 敷地面積が17,972平方メートル、建築面積が4,235平方メートルあり、建物自体は六階建てであり、窓硝子が全てマジックミラーになっている。外装がコンクリート打放吹きつけタイルになっており、クリーム色と薄茶を基調にしていた。
 外装色の所為で建物の雰囲気は柔らかいのだが、その昔、この中にいると名執はまるで檻の中に居るような気分になっていた事を思い出した。その理由は多分、研究所の中が冷たい硬質な感じがするからだろう。
 尚、バイオハザード施設はレベル三まで完備されている。
 暫くここで働くのだ……
 感慨深く名執はそう思い、ここまで来て急に日本に帰りたいなあ……と思う気持ちを必死に名執は押さえつけた。



「名執の方は現在オペ中でございます。後ほどもう一度おかけ下さい」
 リーチが名執に電話をかけると冷たいオペレーターの声がそう言った。仕方無しに、リーチは電話の受話器を置く。
 忙しいんだな……
 一人リーチは心の中で溜息を付いた。
『あれ、又いないの?』
 トシは心配そうにリーチに聞いた。
「んーオペだってさ、あいつも忙しいんじゃないか?」
 最初の三日まではお互い連絡を取れたのだが、それ以降はかけても席を外しているか、会議中、もしくはオペの最中で連絡がつかなくなったのだ。名執からの連絡も一向に入らなかった。
『そうだよね。雪久さん引っ張りだこなんだよきっと』
 トシがそう言い、リーチを元気づけようとしているのが分かった。
「多分な……」
 名執からは忙しいと聞いていた。研究室に泊まり込みで二十四時間体制だとも聞いていた。ケインとレイと同じチームだとも言っていた。それを知っているためにリーチも文句は言えない。最初連絡が取れた三日間も、実はかなり大変だったのかもしれないのだ。
『寂しい?』
「別に……」
『ホントかな』
 トシはからかうようにそう言った。
「うるせーな」
 そう言うとトシはくすくす笑った。
『こういう時に限って大きな事件が無いんだよね。退屈だろリーチ』
「お前はラッキーだろ。二週間も毎日幾浦に会えるんだからさ」
『リーチが映画見たいんだったらつき合うよ。毎日顔を合わせるのも疲れちゃうし……』
 そんなことはこれっぽっちも思っていない事はリーチにも分かっていた。トシなりに気を使ってくれているのだろう。
「じゃ、久しぶりに二人で見に行こうか?」
『あーじゃ僕ほら、あの怖いの見たい』
 トシはホラーが好きだった。しかしリーチは苦手であった。
「やだよホラーなんて……SFがいい」
『だって恭眞はホラー嫌いだからつき合ってくれないんだ』
 ぶちぶちとトシは言った。
「たりまえだよ……お前、恐がりのくせに見たがるよな……」
 ため息を付きながらリーチは言った。
『ねーねーリーチ。見よ見よ』
「あー仕方ないな……じゃ、行くか……」
 リーチはそう言ってジャケットを羽織って立ち上がった。
『やったーっと、その前に恭眞に連絡入れておくね』
「こんなに急にキャンセルしていいのかよ……」
『大丈夫。恭眞優しいから……』
 照れたようにトシはそう言った。
「あ、そ」 
 一時交代し、トシがメールを終えるのを待って映画館へと出かけた。お互い恋人が出来るまでは暇なときに良く二人で映画を見に出かけたのだ。最近はお互いの恋人に会う事が多くなり二人で出かけることが無くなったのだ。
「久しぶりだよな……こうやって二人で映画を見るの……」
『うん。昔は良く行ったよね……ね、リーチ……これからもたまには二人で映画見に行こうよ』
「そうだな、そう言えば昔は帰るのめんどくさくてオールナイトの映画館に入ったよな……で、朝そのまま登庁したんだ……あれはあれで楽しかったよな……」
 以前を思い出しリーチはそう言った。
『うん』 
「なぁ……トシ……幾浦って良く出張で海外に行くよな……寂しくないか?」
『え、寂しいけど……仕事だし……メールは入れてくれるから寂しく無いかな……ただ恭眞の場合酷いときには一ヶ月も行ってることあるから……それは止めて欲しいと思うけど……僕だって事件に追われるとそのくらい会えないことあるよね……。お互い仕事は大事に思っているんだから、僕だけわがまま言えないよ。それでなくても恭眞は本社にって話しもあるみたいでさ……そっちの方が心配なんだ……』
 トシは心配そうにそう言った。
「偉いな……トシは……」
 名執が一ヶ月も居ない生活などリーチには考えられなかった。
『でもね僕、今回リーチが雪久さんに良いよって言うとは思わなかったんだ。リーチは雪久さんを目の届くところにいて欲しいと思っているから……でもね、それってなんだか信用されていないみたいに雪久さんが感じるんじゃないかと心配してたんだよ。そう言うつもりはリーチに無いの分かっているけど……』
「束縛しているように見えるか?」
『うーん……怒らないでよ。リーチが雪久さんのこと振り回しているように見えるときはあるよ。以前にも言ったことあるよね?』
 以前確かにトシはそう言っていた事があった。だがあの時は色々又名執とあり、別に気を使うことなど無いと思ったのだ。
 だが、トシはやはりまだそう思っているようだ。
「そうだったな……」
 他の人にはそう言う風に見えるのだろうか?リーチは自分を振り返ってみた。
『会いたいから無理矢理時間を取らせたりさ……心当たりあるだろ』
「確かに……ある。けど、あいつだって無理を言えるんだぜ。その話はあの時話し合って、別にあいつは良いってことになって、で、俺は気にしない様にしてるけどな」
 一度、その事が原因でお互い訳の分からない勘違いをしたのだ。あんな勘違いは二度としたくない。
 だからリーチはいつも通りに振る舞うようにしていた。
『雪久さんに言えるわけ無いよ。リーチに惚れてるもん。だから今は良いけどさ、それが鬱陶しく、いつなるか分かんないんだよ』
 トシは困ったようにそう言った。
「そりゃそうだけど……」
 でもあいつはそんなの気にしないで~なんて言ってたから……
 だからなあ……
 俺はさあ~
 うーん……でも鬱陶しくは思われたくないよなあ……
 少しは距離持った方がいいのか?
 でもなあ……
『リーチはもう少し雪久さんを動きやすくしてあげても良いと思ってた。だから今回のことで僕はリーチも大人になったんだなって感心したんだ』
「お前に感心されたかねーよ」
『って、ごめんね偉そうに言っちゃって……』
「いや、お前くらいしかそう言うこと言ってくれる人はいないから、ありがたく思ってるよ。ま、当分あっちから連絡来るまで待つよ。机に帰ってきて俺から電話があったってメモだらけじゃあいつもうんざりするだろうから……」
 これが幾浦からであったとしたら、大喧嘩になっていただろう。
『その方が良いと思うよ。あ、ほら、リーチ映画館見えたよ、いこいこ』
「げ、バットデー・ホラーズってなんだよこれ……。無茶苦茶B級じゃねえのか?しかし……ホラーか……お前交代しろよ」
『えー、叫ぶからこっちで良いよ』
「……」 
 そうして久しぶりにリーチとトシは二人の一日を過ごした。



 名執はため息をついて受話器を置いた。リーチと一週間ほど連絡が取れないのだ。何かあったのだろうかと思いながら、確かめる方法が無かった。幾浦の方に連絡を入れると出張中であった。
「リーチ……」
 まるで電話番号を変えたように電話が繋がらないのだ。交換手の人間は留守だとしか言わない。それほど事件で忙しいのだろうか?日本の新聞をチェックしていたが大きな事件は起こっていなかった。もしかして公開していないが大きな事件に携わっているのだろうか?
 名執は溜息を漏らしながら自室の簡易ベットに白衣のまま横になった。
 身体の関節が痛む。めまぐるしくここは時間が進むので、付いていくので必死であった。ケインやレイは昔からこんな感じだったと言うが、今の自分は勘を取り戻すのだけでも四苦八苦していた。その上身体もなまっていたのだ。
 警察病院でも急患続きで忙しいと思ったことはあったが、今は四六時中急患を相手にしているような忙しさだ。何より最新機器と新しい術式、その上、認可されていない遺伝子治療まで併用しているので、それらを速攻にたたき込むため頭も疲れている。唯一の楽しみがリーチの声を聞くことであったのだが、電話は繋がらない。もう一ヶ月も声を聞いていないような気がして仕方が無かった。
 そんな事を考えていると扉がノックされた。
「スノウ……起きてます?」
 扉向こうからレイの声が聞こえた。
「ええ……起きてますよ」
 ベットから起きあがって名執は答える。するとレイが扉を開けて入ってきた。
「疲れてるみたい……」
「こういう忙しさは久しぶりで……少し疲れていますが、もうしばらくの間ですし……」
 約束では後一週間ほどで帰国することになっていた。
「え、プロフェッサーの話では後一ヶ月はいるって聞きましたけど……」
 あれ?という表情でレイはそう言った。だが名執はそんな話など聞いてはいない。
「そんな話はしておりませんし……何より私にも来週オペのある自分の患者さんがいるのですよ。ですので、いくら何でもそんなにのばせません」
 名執は驚きながらそう言った。
「でも……そう聞きました……何かの間違いでしょうか……」
 レイは困惑した顔でそう言った。
「直接プロフェッサーに聞いて参ります」
 名執はそう言って部屋から出ようとした。
「あ、ところでレイの用事は何ですか?」
「いえ、別に……ちょっとスノウが疲れてるみたいだからケインが様子を見て来いって言ったので……」
 ケインは特に名執を気にかけてくれているのだ。今はもう二人の間にあった垣根は取り払われ、お互い良い同僚の関係を築くことが出来ていた。
「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。では私は行きますね」
「はい」
 名執はレイと別れると、ランドルフの部屋へと急いだ。
「名執です。よろしいでしょうか?」
 ノック後そう言うと中から「どうぞ」と聞こえたので名執は扉を開けて中に入った。
 ここの臨床研究所の所長であるランドルフは、皆からプロフェッサーと呼ばれている。その理由を名執は知らない。だが昔からなので、聞くに聞けずに今まで来た。
 ランドルフは何処にでもいるような初老の人物であったが、アメリカの医学界で彼を知らない医者はもぐりだと言われるほど有名な医者であった。若い頃は有名な病院を渡り歩き、数々の奇跡を起こしたと言われていた。今は臨床研究に心血を注いでいる。名執が尊敬する数少ない医者であった。
「どうしました?名執君」
 持っていた医学雑誌を机に置き、ランドルフは顔を上げた。
「いえ、先ほどレイに聞いたのですが……私の帰国の件で……」
「ああ、日にちがのびたという話ですね。貴方には今晩にでも話そうと思っていたのですが、なかなか捕まえられませんでしたので……。巣鴨には了解を取ってあります。とりあえず一ヶ月ほど延長していただけませんか?」
 にこやかにランドルフはそう言った。だが名執はそれに対して首を縦には振れなかった。
「それは困ります。来週担当の患者をオペしないといけないのです」
「巣鴨は他の外科医に頼むそうだからそれは心配しなくてもいいのだよ」
「そう言う問題ではありません。急に執刀医が変更になると患者さんも不安になられます。私は自分の患者に責任があるのです」
「それは分かるのだが……君が来て早々執刀したグランマイヤーさんが、君をひどく気に入ってしまってね……。確かに成功率二十%といわれていたオペを君は見事にこなした所為もあるのだが……。今後の経過はまだ不透明だが、とりあえず快方に向かっている。死を覚悟してここに来られたグランマイヤーさんが自分の身体が良くなりつつある事を知って、君を気に入るのは仕方のないことだ。そのグランマイヤーさんのたっての希望なのだよ」
 グランマイヤーは七十後半のアメリカ人であった。彼は名執がここに来て初めて執刀した患者であった。実際、成功するとは思わなかったのだが、新しい術式は成功し、新薬の投薬も現在上手く効いていた。
「と、申されましても……あれは運が良かったのと、新しく導入された術式の為で私の力ではありません」
「それはそうなのだが、グランマイヤーさんはそうは思っておらないのだよ。君だから助かったと信じておられる」
 死を覚悟していた人間が生を得ると、時に医者は神のようにあがめられるのだ。
「それは分かりますが……」
 困惑した表情で名執は言った。
「ずっとと言っているわけではないのだよ。ただもう暫く彼のわがままを聞いてあげて欲しいのだ。今度は私の望みを聞いてくれないか?」
 プロフェッサーは名執に初めてそう言うことを言ったので首を縦にふることしか出来なかった。なにより最初ここを飛び出したとき、理由を何も聞かず、送り出してくれたのは他ならぬランドルフなのだ。
「分かりました……」
「済まない。実を言うと困っておった。グランマイヤーさんは昔からこの研究所に毎年莫大な寄付をしてくれている。だからというわけではないのだが、機嫌を損ねたくはなかったのだ。そんな内情を君に押しつける気はないが、断られたらどうしようかと真剣に悩んだのだよ」
 やっと笑みを見せてランドルフは言った。彼も悩んだのだろう。
「ですが……余り長くはおれません」
 何だか嫌な予感がした名執はそう言った。
「分かっているとも。適当な時期に君を帰らせて、私が上手くグランマイヤーさんに伝えるよ」
「宜しくお願いします……」
 それだけ言うと名執は部屋を出た。気分は最悪であった。
 最初に断って置けば良かった……
 また当分リーチに会えない……
 滞在が延びたことをリーチに話すのも気が重い……
 うだうだとそんな事を考え、自室に戻ってくるとレイがまだ待っていた。
「スノウ……」
「もう暫く……いることになりましたよ……」
 ため息混じりに名執はそう言った。
「あんまり嬉しくないみたい……当たり前ですよね……隠岐さんに会えないのが寂しいんですよね」
 レイはそう言って笑みを浮かべた。
「え……違いますよ」
 その通りであったが、名執は否定した。
「でも隠岐さんもきっと寂しいんだろうな……だってスノウのこと本当に大切にしているみたいだから……」
 それに対し、どう答えて良いのか名執には分からなかった。
「暫く仮眠を取ります。何かありましたら呼んで下さい」
 名執はとにかく今一人になりたかった。
「分かりました。余程のことが無い限り、当分起こしません。だからゆっくり眠ってください」
「ありがとう」
 レイが出ていくと名執は又ベットに横になった。
 確かに睡眠不足であった。自分が落ち着いて眠れる場所がここには無い為だ。その上、レイがリーチのことを言った所為で余計に名執は寂しくなった。
 確かにリーチには事件で数週間会えないこともあった。しかし、そんな時は定期的にリーチから電話が入るのだ。今はそれも無い。何よりあまりにも距離が離れすぎ、離れた距離の分寂しさが積もるのだ。
 名執はチラリと時間を確認し、またリーチに電話をかけたが、電話は繋がらなかった。
 忙しいんでしょう……
 分かっているのですが……
 何度付いたか分からないため息が自分の耳をかすめた。声を聞けないだけであるのに涙が出そうになるのを名執は必死に我慢をした。折角リーチがここに来ることを許してくれたのだ。それなのに名執から根を上げるわけにはいかないのだ。
 名執は大陸の向こうにいるリーチを思いながら目を閉じた。

 リーチ達は久しぶりに事件に追われていた。喧嘩が乗して相手を殺してしまった人物を追いかけていたのだ。犯人に殺すつもりは無かったことは誰が見ても分かったが、その事で興奮したのか、自首するどころか反対に立てこもってしまった。
 雨の降る中、警官と刑事が建物を囲み必死に説得を繰り返すが、全く受け付けなかった。
「頑張るよな……やつ」
 篠原は雨合羽から雨水を滴らせながらトシに言った。
「かわいそうに……きっと後悔していますよ。でも突き進みすぎて引くことが出来ないんです」
 立てこもっている建物を見上げながらトシは言った。
「ああ……だろうな……」
 篠原も同情の声を発した。
「気をつけないと……自殺しちゃいますよ……」
「それは上も分かっているみたいだ……ただいつ突撃するか迷っているみたいだな……」
「……早くしないと……」
 そうやって二人で見上げていると心の中のベルが鳴り出した。
『トシ、妙な気配がする。変われ』
 リーチは緊張してそう言った。
『あ、うん。でも妙な気配?』 
「どうした隠岐?」
「あ、いえ、なんだか変な気配が……あっ!」
 リーチは篠原の襟元を掴んでかがむと、その後ろにいた警官が「ひぃっ」と言って倒れ込んだ。かがんだ格好でその警官を見ると肩を射抜かれていた。
「な……なんだぁ……」
 篠原がそう言うと続けざまに銃弾がかすめ、辺りにいる警官がそれに巻き込まれた。突然のことに周りはパニックに陥った。
「誰が撃ったんだ!」
「篠原さん!犯人は私を狙っているみたいです。ですので、逃げますね」
 そう言ったがリーチは素早く射撃してきた方向のビルに走り出した。これ以上巻き込むわけにはいかないのだ。その走っている間も銃弾はこちらを狙い、発射されている。その銃弾はリーチの頬を掠め辺りに朱が散った。
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