Angel Sugar

「監禁愛4」最終章

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 リーチは意外に早く帰ってきたが、両手になにやら沢山の荷物を抱えていた。名執はその時ベッドに横になっていたが、身体を起こすと枕に背中をもたれさせた。
「ただいま……ユキ~」
 荷物の間から顔を出してリーチは部屋にある机にそれらを置いた。
「随分……沢山買い込んできたのですね……」
 机一杯に乗せられた買い物袋を眺めながら名執はリーチに笑みを向けた。
「まあな……もちろん幾浦に出させたよ」
 へへへと笑いながらリーチは袋の中身を開けている。すると手には真新しいシャツやズボンが出てきた。一体何を買ってきたのだろうと様子を見ていると、袋から沢山の衣料をだしてリーチは椅子の方に積み上げていた。
「……後で……幾浦さんに私が払っておきますね……」
「あ?んなの、いいっての。幾浦はあれで金持ってるみたいだしな」
 衣料をすべて椅子に積み上げると、空になった袋を丸めて転がすと、次に卵やネギなどを並べ始めた。
「そうだ、何を食べたい?何でも作ってやるぞ」
 ジャガイモを手に持ってリーチは名執の方を向いた。
「リーチが作って下さるものなら私はなんでも美味しく頂けますから……」
「ん~そうだなあ……消化の良いもので、胃に優しいのがいいか……」
 チラリと袋の中身を覗き込み、リーチは腕組みをしたまま考え込んだ。そんなリーチに名執は話さなければならないことを思いだした。
「リーチ……あのう……」
 言いにくそうに言葉を名執は濁した。
「なんだ?食べたい料理があるのか?」
 コンソメスープの素を机に置くと、リーチは名執の座るベッドに近づき、腰を下ろした。
「いえ……あの……」
 ややリーチから視線を外し、名執は言葉を濁した。
「俺のいない間に何かあったか?」
 リーチは名執の手を取ると、自分の膝に置き愛おしそうに撫でた。
「ケインから……聞きました」
「……ん?あいつ……口は堅い男だと思ったけど、結構軽いんだなあ……」
 苦笑しながらリーチは相変わらず名執の手を撫でる。
「いえ。私が……その……問いつめたんです。ケインは話すつもりが無かったようですが、私が頼み込んだ所為で仕方なく話して下さったのだと思います」
 俯きながら名執は言い、リーチの膝から手を離すと、起こしていた身体を倒してすり寄った。そんな名執の髪をリーチはゆるゆると撫でてきた。
「それで?」
「ありがとうございます……」
 名執は目を閉じてリーチからもたらされる心地よい手の動きに身を委ねた。
「……ケインの奴……」
 リーチが、はあ~と息を吐くのが名執の耳に入った。
「リーチには本当に……私……」
 と、言った口をリーチは指先で押さえた。
「もういいんだ。言っただろう?終わったってな……」
 名執の唇に置いた指先を滑らせ、そのまま頬を撫でてくる。
「はい……」
 暫く名執はリーチの手の動きに浸っていた。
「何をつくろうかなあ……」
 ぼんやりとリーチは言った。
「リーチ……あの……それと……」
「なに?」
 見下ろしてくるリーチの真っ黒な瞳を名執は見つめ返した。
「ケインの話では……グランマイヤーさんが私たち二人に一度話をしたいと……」
「お前はどうしたい?」
 柔らかな笑みを投げかけてリーチは相変わらずこちらの頬を撫でている。
「私は……もう会いたくない……」
 自分の姿を見られるのも見せるのも嫌なのだ。なにより名執はどんな話しを聞かされたとしても恨むことしかできない。
 もちろん自分に対してのことではなく、リーチに対して行った事に名執はまだ怒りを持っていたからだ。
「……じゃあそうしよう。俺も言いたいことはもう言った。今更言い訳をだらだら並べられても呆れるだけで時間の無駄だ……。余計にむかつく可能性の方が大だよな……」
 膝の上に頭を乗せている名執を離し、リーチもベッドに身体を倒した。そうして今度は名執の身体を引き寄せて抱きしめてきた。
「……リーチはそれで良いのですか?」
「俺はね……。逆にレオナードにまた会ったりすると、今度こそ息の根を止めたくなるからな……。じじいのことだってさ、いつむらむらって来て、首を絞めないとも限らないだろう?こういう俺はもう会わない方が良いんだよ……。俺はユキを取り戻すことが出来た……それで充分だ……」
 名執の頭に頬を擦り付けてリーチは言った。
「……そうケインに伝えます……。あ、私、疑問に思っていたのですが、レオナードさんを何処に拘束していたのです?」
 名執が顔を上げるとリーチは鼻を掻いていた。
「あのおっさん、警察病院にまでやって来たんだ。信じられないだろう?で、向こうがこっちの隙を狙っているのは気が付いていたから、逆にとっつかまえて霊安室の隣の部屋にあるほら、なんだあれ、死んだ人間を入れる箱……」
 う~んと唸りながらリーチは思い出すように天井に視線を向けた。
「棺桶ですか?」
「そうそう、それ。その箱にあいつの身体をロープでぐるんぐるんにして閉じこめて蓋をしめてさあ~釘まで打ってやったぞ」
 ……
 リーチって……
「それ……死んだりしませんか?」
「んだよ、生きてたじゃねえか。でもな、あんなでっかい病院だから毎日ぼこぼこ死人が出るだろうから、あの箱の需要も沢山あると俺は思ってたんだ。だからすぐに人に見つけてもらえるだろうと思ったんだけど……。こう言うときに限ってだれも死ななかったんだよ。俺、三日目になるとさすがにちょっとやばいかなあ~なんて思いながら、結局あいつのこと忘れてさあ……あははははは」
 わ……
 笑い事じゃないです~
「リーチ……」
「そんな怒った顔するなよ。生きてたんだから良いじゃねえか……死んだところで元々あの箱に入ってたんだからすぐに葬式出せるだろうしなあ~」
 ははははと笑ってリーチは言った。
「誰が見つけて下さったのでしょう……」
 帰ったらそれを確認しなければならないと名執は思った。きっと発見した人は驚いたはずなのだ。それからどういう騒動がおこったかまではここでは分からない。
「どうでもいいよ。あれで運があるってことだろう……」
 興味のない顔でリーチは言った。
「今度からはそんな事はしないで下さいね……」
 名執は心配なのだ。だがリーチはいつもこちらが思いつかないようなことばかりする。多分、リーチを止めることなど誰も出来ないのかもしれない。
「さって~なんか作ってくるよ」
 リーチはがばっと身体を起こし、名執の身体にかかっている毛布を整えた。
「リーチ……もう……」
 都合の悪いことからリーチが逃げようとしているのは明らかだった。
「ほら~少し寝ろ。飯作ってくるよ。さっき廊下でケインに調理場聞いたから、そっちに行って来る」
 ポンポンと毛布の隙間を軽く叩き、リーチはベッドから下りた。
「はい」
 名執は整えられた毛布にくるまりながら、目を閉じた。



 リーチがこちらに到着してから一週間が経つ頃、名執はようやく自分で歩けるくらいまで回復した。だが本来の目的である医者の仕事はもちろん出来ない。
 というのも時間と体力を消耗するオペに耐えられないのだ。
 ただ、名執は医者の仕事を全て放棄していた。責任感という文字が欠如したように、ここでの仕事に対して何の興味も関心も持てなくなっていたのだ。
 それに関し、名執に意見をする人間はいなかった。名執の姿を見て、仕事をしろとは誰も言わない。
 ようやく歩けるようになったとはいえ、名執の身体はまだ細く、何時倒れるか分からないような雰囲気がある。最悪の時に比べると随分頬にも肉が付き、身体にも脂肪が付いたようだが、それでも以前より一回り細い身体は、以前にもまして儚げに見えるのだろう。
 明日……
 ようやく帰られる……
 名執は自分の荷物を鞄に詰めながらそんなことをぼんやりと考えていた。警察病院の院長は名執がどういう状況に置かれていたかを知らない。だが、今の体調ではすぐに医者の業務には戻れないはずだ。
 何処まで事情を話せば良いのか名執は悩んでいた。事情を説明するにしても、自殺未遂をしました等と話せない。
 暫く酷い風邪にかかっていたとでも言うしかありませんね……
 小さく溜息をついて名執はそんな風に思った。
 それにしても……
 リーチ……
 全然私の相手をしてくれない……
 再会したときよりも随分元気になっているにも関わらず、リーチは名執に触れようとしないのだ。名執がいくら誘ってもリーチは最後までせず、じゃれ合っているような触れ方しかしてくれないのだ。
 こんなに元気になったのに……
 名執はここ一週間、お腹が空かなくても、数時間おきに少しずつ食物を口にしていたのだ。早く体力を戻して、元気になろうと決めたからだった。その姿を見て知っている筈のリーチが、どうして名執が必死になっているのかに気が付かない訳がない。
 だが予想に反して、リーチは相変わらず……それも服を着たまま、名執を適当に満足させている様な状態だった。
 ……
 痩せてるから……
 耐えられないと思われているのだろうか?
 それとも、まだ見苦しいほど痩せて見えている?
 名執は立ち上がると、鏡のある洗面台の所に立った。そこにはようやく回復しだした人間が弱々しく立っている姿が映し出される。
 そろそろと名執はシャツの前を開け、自分の身体を鏡に映した。
 やっぱりまだ肉が付いてない……
 これじゃあ抱き心地が悪そうです……
 鏡に映った自分の姿から目を逸らせ、名執は肩を落とすと、洗面所から外に出た。
 要するに本当に身体が元通りになるまでリーチは手を出さないつもりなのだろう。リーチの優しさには感謝するが、今の名執には必要のない優しさだった。
「ただいま~もう終わった?」
 リーチはそう言って扉を開けて入ってきた。
 こちらにきてからのリーチは、昼間はトシに身体の主導権を渡し、夕方また返して貰っているのだ。幾浦がこちらに来ているために、普通なら一週間でチェンジする身体の主導権を、暫定的に時間帯で交替させている。
「送られるものは全部送りました。あとちょっとしたものだけは自分で持って帰らないと……」
 名執はそう言って笑顔を向けた。
「……そっか。俺の方は明日空軍基地から飛べるように手配してきた。それと……お前が書いたリスト通りに土産を買って空輸して貰えるように手続きしてきたよ」
 リーチは土産リストを名執に差し出してきた。
 名執が動けないために、リーチに頼んで土産を手配して貰ったのだ。何も買わずに帰るとやはり職場で困ったことになるからだ。
「ありがとうございます……」
「それと、金を返しておくよ……」
 名執が渡しておいたドル紙幣を、渡したときのままの量で返され驚いた。
「リーチ……また幾浦さんにお金を出させたのですか?」
 この一週間、リーチは幾浦にたかりっぱなしだったのだ。それを心苦しく思っていた名執はリーチが出かける度にドルを渡していた。
 だがいつもリーチは幾浦に精算させていたのだから呆れてしまう。
「だって~恭眞が払ってくれるっていうから~。僕、仕方なかったんだよ~」
 全く似ていないトシの物まねをしたリーチの頬を掴んで名執は引っ張った。
「私が申し訳ないと思っているんですっ!なのにどうして幾浦さんばかりに負担をかけるんですか」
「あたたたたた。幾浦が出すって言うから仕方ないだろう……俺じゃないって……」
 両手を左右に振ってリーチは名執が掴む手を自分の頬から離した。
「本当に……本当ですね?幾浦さんに聞きますよ」
 じっと、リーチを見ていると、素知らぬ顔で視線を彷徨わせた。
「……やっぱり……」
 はあと溜息をついて名執は返してきたお金を封筒に入れた。
「でも、それくらいやってもいいんだぜあいつ……」
 腹立たしそうにリーチは言った。
 どうしてこう……
 幾浦さんと会うといがみ合うんでしょう……
 お互い本気で対立しているわけではないのは名執も知っている。だが事あるごとにリーチと幾浦は子供の喧嘩のようにじゃれているのだ。
 もちろん、本人達がそれをどう思っているか名執は知らない。
 帰りの飛行機の中で渡せば良いですね……
 名執はそれで解決するだろうと考え、リーチには言わないことにした。
「分かりました……リーチに頼んだのが間違っていたんです……」
「あ~ほんとに奴が悪いんだぞ。なんで俺が悪者なんだ?」
 リーチは相変わらず抗議していたが、名執はそれを無視した。
「……むううう……ユキって元気になると、怒ってばっかだな」
 ソファーにどっかりと座り込んでリーチはぶちぶち文句を言い出した。
「……怒ってません」
「いや、最近お前なんか機嫌悪いぞ……」
 ……
 機嫌が悪いのではなくて……
「ケインだ……入るぞ」
 扉からそう声が聞こえ、名執は「どうぞ」と言った。
「明日帰るんだな……」
 ケインはなにやら感慨深げに言った。
「ええ。随分お世話になりました……。私の方からお礼を申し上げに参るつもりだったのですが……済みません……」
 恐縮した顔で名執は頭を下げた。
「いや……私の方こそ……まあ……それは良いだろう」
 軽く咳払いをしてケインは言った。今ケインは名執の予定になっていたオペなどを殆ど引き受けているために自室に戻ってこないのだ。その為、名執は自分から挨拶に行く機会を失っていた。
「あの……気になっていたのですが……レイさんは?」
 リーチがケインにそう聞いた。
 そう言えば最近レイの姿を見なかったことに名執はようやく気が付いた。
「雪久の代わりに今日本に行ってますよ。あっちも随分と忙しいようです」
 笑みを浮かべてケインは言った。
「そうだったのですか……知りませんでした……」
 リーチは利一モードでそう言った。
「ではレイには日本でお礼を伝えます……」
 名執が言うとケインは苦笑した。
「入れ替わりであいつが帰ってくるから、その時にでも雪久の言葉を伝えておくよ。じゃあ悪いがこれで失礼させて貰う。まだ最後のオペが残っていてね……」
 出ていこうとするケインに名執は再度声をかけた。どうしても聞いておかなければならないことがあったのだ。
「あの……グランマイヤーさんの事ですが……」
 話がしたいと聞いていたが、それに対する答えをまだ伝えていなかった。
「ん?グランマイヤーさんからはあれから何も聞いてないな……。雪久が何も言ってこないから、向こうもそれが答えだと理解したのだろう。だから今更、断ることもないだろう……」
 ケインは当然の様な表情で名執に言った。
「……そ、そうですね。ご迷惑をかけてしまいました」
「いや……私は……それより、プロフェッサーが何も最後まで何も言わなかったことに、はっきり言って幻滅したよ。こんな事があると私は来年、ここにいるかどうか分からないな……」
 ケインは意味ありげにそう言いおえると、部屋から出ていった。
「ケインは……ここから出るつもりでしょうか?」
 名執は振り返ってリーチの方を向いた。すると、リーチは聞いていなかったようにもぐもぐとお菓子を食べていた。
「リーチっ!」
「ん?あ、ケインのことか?いいんじゃねえの。自分にあった場所で働こうとするのは個人の自由なんだから、悪い事じゃない。逆にこんな狭っ苦しい世界で一生働くより、より大きな舞台に出ていった方があいつのためだろうしなあ……。ほら、レイは日本に喜んでくるのも、見たことのない場所でいろんな刺激を受けてやる気になっている訳だろう?そういうもんだよ……」
 スナック菓子の袋に手を突っ込んで、リーチはまた口を動かした。
 ……
 真面目なのか不真面目なのか分からない人ですね……
 嬉しそうに菓子を頬張るリーチを呆れたように見つめながら名執は小さく息を吐いた。
「で、幾浦な。明日七時頃、タクシーでこっちに迎えに来てくれるってさ。俺は空港まで見送った後、基地に向かうよ。で、明日乗せて貰うのはC型輸送機でさあ、お前達よりも遅いんだ。だからユキはマンションで大人しくしてるんだぞ。速さがよく分からないんだけど半日位ずれると思う……」
 相変わらず、口元を動かしリーチは言った。
「リーチ……気を付けて下さいね」
 心配そうな名執とは逆に、リーチは嬉しそうだった。
「俺はね。大丈夫。またおやつ一杯買い込んできたから、飛行機の中で食うんだ。今度は食える飛行機だからさ……」
 ……
 どうしてこの人は甘いものをこれだけ食べて太らないんでしょう……
 毎度思う名執の疑問だが、未だに答えは見つけられない。
「あまり食べ過ぎないで下さいね……」
 名執はそう言うしかなかった。
「なあ……ユキ……」
 そう言ってリーチは名執の座っているソファーに座るとこちらを覗き込んできた。
「なんですか?」
「ようやく帰れるな……」
 言いながらリーチは名執の身体を引き寄せた。
「……はい……」
「身体はもう大丈夫か?」
 先程のおちゃらけた表情はそこにはなく、心配そうな顔でリーチは言った。
「ええ……日本に帰るくらいの体力はありますから……大丈夫ですよ」
「帰ったら……うちでゆっくりしたなあ……」
 と、言っている本人にそれが出来るのだろうかと名執は疑問だ。まだリーチの問題が解決していないからだった。
 いまごろ、警視庁では利一を捜して大騒ぎな筈だった。それをどう納めるのだろうと名執には分からないでいる。リーチの方は何とかなるだろう……というだけで、事の重大さを理解していないようなのだ。
「リーチ……私……ん……」
 名執の首元に手を置きながら名執の口内をリーチは味わいだした。
 キスはしてくれるんですけど……
 そんなことを思いながら名執は暫くリーチの舌の動きに酔った。
「……あ……」
 口元を離され、名執は名残惜しそうな表情をリーチに向けた。
「さて……風呂に入って寝るか~」
 リーチはサッと名執の身体を離し、立ち上がった。そのリーチのシャツの裾を名執は掴んで言った。
「あの……私もう大丈夫ですから……」
 ……は……
 恥ずかしい……
「……か……帰ってからな?」
 やや狼狽えたリーチはそう言った。
「……リーチ……どうして?」
 最後の最期まで拒否されたことに名執は胸が苦しくなり、瞳が涙で潤んだ。
「……なっ……泣くなよっ!」
「だって……リーチ……もう大丈夫だって言っても聞いてくれない……。私の身体を心配して下さるのは分かりますが……こんなの酷いです」
 何が酷いのか上手く言えずに名執はギュッと口をつぐんだ。
「俺……あのさあ……すっげーユキとはしたいんだけど……」
 頭を掻いてリーチは言った。
「したいけど?なんですか?」
「……あの幾浦に根暗な嫌がらせをされたんだっ!」
 ムカムカとした顔でリーチは言った。
「嫌がらせ?」
 幾浦がどういう嫌がらせをリーチに出来るかどうか名執には予想が付かない。
「ああ……ああそうだよっ!くうう……むかつく……!覚えてやがれっ!」
「……何をされたのですか?」
 名執が聞くと、リーチは怒っている顔なのだが、やや気弱な顔になった。珍しい表情だ。
「……キスマーク……」
 ぼそりとリーチは言った。
「は?」
「だからっ……俺の身体にあいつっ!キスの痕をつけまくってやがるんだっ!む……むかつく!」
 赤い顔でリーチはまた怒りだした。
 ただ、利一の身体はトシのものでもあるために、リーチが文句を言うのも筋違いなのだ。しかしリーチの気持を考えると、確かにキスマークなどあちこち残されるといい気持ちはしないだろう。
 多分、あまりにもリーチが幾浦をからかったために、あちらも業を煮やしたに違いないのだ。だからトシと二人きりの時に、幾浦は嫌がらせをしてやろうと思ったに違いない。
「……そうなんですか……」
「そうなんですかじゃないんだよっ!俺は……俺はなあっ!こんな恥ずかしい身体をお前に見られたくないんだっ!」
 相変わらず怒っているリーチの姿が名執には可笑しく、思わず声を上げて笑っていた。
「笑い事じゃないっ!」
「だってリーチ……。想像したらおかしくて……」
 だから名執の身体を洗うことや、衣服を着替えるのが困難であったと時、リーチは手伝ってくれたのだが、そこから抱き合ってふたりで……というところまでは至らなかったのだろう。
 その理由を知った名執は本当に可笑しかったのだ。
「あいつ……つい……っていうんだぜ。ついってなんだよっ!ついでか?ついでにそんなもんあちこちつけたってのかよっ!ああもう腹が立つ~!てめえの腕でも吸ってろってのっ!」
 どう考えても同意できないような事をリーチは言った。
「……それで我慢していたのですか?」
 名執が言うと、リーチはチラリと視線を寄越して頷いた。
「でも……もう少ししたら……薄くなるだろうから……俺だって……やりたいのがまんしてるんだからな……何度考えても腹が立つぞ~」
 勢いでリーチはあちこち壊しそうな気配を持っていた。
「別に良いですよ……」
 名執はあっさり言った。
「は?お前何言ってるんだよ」
「気になりませんから……」
 問題の姿を見ていないために、どんな状況か想像は付かないのだが、名執は言った。
「……お前、絶対笑う」
 リーチは不服そうにいった。
「笑いません」
 キッパリ名執が言うと、リーチは暫く考え込むと、そろそろとシャツのボタンを外し始めた。
「笑うなよ……」
 チラチラと名執の方を見て言うリーチに頷いて見せた。
 ……
 …………
「リーチ……あの……笑っても良いですか?」
 胸をはだけたリーチに名執は生真面目に言った。
「ほらっ!やっぱりそう言うだろうっ!帰ってからだからなっ!」
 リーチには珍しく首まで赤くして怒鳴っていた。
「だって……リーチ……それを見て笑うなって言う方が……くすくすくす……」
「けっ……」
 胸元には突起の周囲に円を描くようにキスマークがつけられていたのだ。



 結局何も無いまま朝を迎え、二人はゲートの所で幾浦が来るのを待っていた。考えると確かに暗闇ならという気もしないでは無いのだが、名執自身昨晩笑いすぎた所為で、すっかり気がそがれてしまったのだ。
 そのことについて残念だとは思わなかった。久しぶりに心の底から笑えたことが何よりも嬉しかったのだ。
 ゲート前でリーチは名執の荷物を持ち、研究所前から続くなだらかなスロープ状の道路を眺めている。その姿はとても凛々しく名執の目には映った。
 この人がいるから……
 私は生きていける……
 ある種の感動に名執が浸っていると、ケインがレオナードを乗せた車椅子を押してきた。それに気が付いたリーチは、名執の前に立ち利一独特の笑顔を彼らに向けた。
「悪いな……雪久。レオナードさんがどうしても最後に会いたいと言うから連れてきた」
 ケインは淡々とそう言い、名執の方ではなく何故かリーチを見ていた。
「……なんでしょうか?」
 意外な事に動揺しながら名執は掠れたような声でそう言った。
「これを……」
 レオナードは封筒を差し出してきたため、名執がそれを受け取ろうとした。が、それよりも先にリーチが掴んでいた。
「直接は駄目だ」
 奪った封筒の中身をチラリと確認し、リーチは目を丸くすると名執の手に渡した。
「リーチ……?」
 問いかけた名執にリーチは一言も返事をしなかった。仕方無しに名執は封筒を開けて中身を確認すると、驚いた。
 これは……
 私がこちらに来るときに持ってきたリーチの写真……
 やはり……
「このたびは申し訳ないことを……ご主人様に大変叱られました……」
 深々と頭を下げてレオナードは言った。その声は震えていた。
「……帰ってくれませんか?私は貴方にどれだけ謝罪をされても許すつもりはありません。例え彼が許しても……ね」
 チラリと名執の方に視線を投げ、次にレオナードの方を向いてリーチはあくまで利一の口調で淡々と告げた。 
「じゃあ、私たちはこれで。気を付けて帰って下さいね。さあ、レオナードさん……もうもどりませんと……宜しいですね?」
 ケインはただそう言って車椅子を回転させた。
「貴方が守らなくてはならない人は側にいるはずです。彼は……忠誠を貴方に求めているわけじゃない……」
 背を向けた二人に、リーチは言った。
 するとレオナードのすすり泣きのような声だけが聞こえたが、去っていく彼らの姿が遠くなるほどにその声も小さくなり、最後には消えた。
「おまえ……そんなもんもってるのかよ……」
 リーチは照れくさそうにそう言った。
「済みません……これを私が持っていた所為で貴方を危険な目に合わせてしまったのですね……」
 これを持っていなかったら……
 レオナードはリーチの顔など知ることはなかっただろう。
 いや……
 名執が誰を大切にしていたか分からなかったはずだ。そう思うと名執は後悔で一杯になった。
「それは良いんだけど、なんていうか……。もっとさあ……男前に映っている写真か、無茶苦茶恐い顔したのにしろよ……。そんなのだったら、ちょっかいかけようなんて思わないだろう?それがどうして毛布にくるまって嬉しそうに笑ってる俺の写真なんだよ……なんかすっげー情けねえ……。だって殺し屋連中はそれを見て俺を日本に訪ねてきたわけだろう?うう……やだやだ……」
 リーチははあ~と、溜息をついた。
「だって……可愛かったから……」
 名執にはそう言うしかなかった。
「あ、タクシーが来た来た」
 緩やかな坂を上って、タクシーがやってくるのが見えたが、名執はまた後ろを振り返り、今までいた臨床研究所の建物を眺めた。
 閉鎖された場所……
 自分はここから飛び出し日本に戻った。
 昔はこの建物の中が自分にとっての世界だった……
 何事にも無関心で……
 人間が嫌いだった……
 いつも死ぬことを考えていた自分がここに確かに存在した。
 しかし、日本でそれが間違いだったことに気が付いた。
 それから嫌な自分をすべて置き去りにして生まれ変わろうとしたのだ。
 そう、過去の自分を忘れようとした。
 だがいくら過去にしようと考えたところで、建物はあの時と同じように何時までもここに立ち続けるのだ。
 見る度に名執を威圧し、過去を否応なしに思い出させる。
 だが……
 もうこの場所に囚われてはいない。
 私は……
 リーチと一緒に生きることで、ここからようやく解き放たれたのかもしれない……
「ユキ……行くぞ。なにぼんやりしてるんだよ……」
「あ、はい」
 名執は笑顔でリーチにそう答え、もう二度と振り返ることなく歩いた。
 その胸元には、しっかりとリーチの写真を抱いていた。

―完―
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