Angel Sugar

「監禁愛4」 第3章

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『リーチ!!気持ちは分かるけど、こんな混乱したときに言うべき事じゃないよ!』
 怒るわけでもなく、ただトシはそう言った。
『済まない……つい……』
『もう僕ドキってしたよ。でも誰も聞いてなかったみたいだから許してあげる』
『ありがとう……トシ……』
『それより現状任せてよね』
『任せたよ……』
 リーチは自分がとんでもないことを言ってしまったことを後悔していた。名執がこんな事を計画するわけがないのだ。先ほどの会話でも向こうも繋がらないと言っていたのだ。訳が分からなかった。
 ユキ……。
 一体何がどうなってるんだ……。

 切れた受話器を離せずに名執は呆然としていた。何かが周りで起こっているのは漠然と分かったが、原因が分からないのだ。リーチが何か隠しているのは分かった。そして何かを聞きたそうにしているのも分かった。その上誰かに狙われているようであった。
 何が……一体何があったのです……。
 そっと受話器をおろして名執は手を組んだ。考えても何も思いつかなかった。
 その上リーチは「俺が邪魔か?」と驚くような事を言ったのだ。リーチが何故そんな言葉を言ったのか名執には検討もつかない。
 とにかく分からないことばかりで気がおかしくなりそうであった。
 俺が邪魔か?……と言ったリーチの言葉は名執に何か不審を抱いているようであった。
「リーチ……」
 声が聞きたくて、田村に無理を言った。軽傷とはいえ銃で撃たれたことも知った。帰られるのなら今すぐ跳んで帰りたかった。今、帰らなければ何かを失いそうな気がしたのだ。
 プロフェッサーの事も大切に考えていた。あの人の立場も分かっている。なにより恩がある。裏切りたくは無かったが、今名執はリーチのことで頭が一杯で。いても立ってもいられないのだ。
 そう名執にとって一番大切なのはリーチなのだ。
 帰らないと……
 リーチの所に帰らないと……
 そう思った名執は、まずケインの元へと向かった。
「あれ、スノウ……休んだんじゃ……」
 名執がケインの自室に入ると、レイがそう言って驚いた顔を向けた。
 ケインは部屋の奥にある机に向かい書き物をしており、その横にはレイが立っていたのだ。レイはケインに何か質問をしていたようであった。
「何だ雪久……」
 ケインの方は銀縁の眼鏡を人差し指で直す仕草をしてそう言った。
「私……明日日本に発ちますね……」
「ああ、ああ?」
 ケインは名執の言っている事が最初分からなかったのか、普通に受け答えし、次にようやく驚きの声を上げた。
「私用でどうしても戻りたいのです。ただグランマイヤーさんの事を頼みたくて……」
「プロフェッサーはあと一ヶ月はお前が滞在すると言っていたが……」
 どうしてだ?と言う顔をしてケインは言った。
「今帰らないと……駄目なような気がして……」
 言葉に出来ない不安が名執の中にあるのだ。それを言い表すことが出来ない為に、そう言うしか無かった。
「何が駄目なのだ?」
 困惑したような顔でケインはそう言った。
「隠岐さんが何かに巻き込まれているようなのです……それが心配で……」
 名執はケインに詳しいことは話さずに、リーチが銃で撃たれたこと、電話の最中に何かがあったことを話した。
「でもスノウ……それは警察の管轄で僕たちが口を出せる事じゃ……」と言ったところでレイはケインにコツンと軽く殴られた。
「馬鹿だなお前は。口を出したくて帰るんじゃない。心配で仕方がないから近くにいたいと雪久は考えているんだ。どうしてそう言う気持ちが分からないんだろうな……全く。だからお前にさっさと恋人を作れと言ってるんだ。レイは本当に恋心というものが分からないからな」
 呆れたようにケインはレイにそう言った。
「え……あ……そう。そうだったんだ……済みません」
 頬を赤らめたレイは、そう言って視線を名執から逸らせた
「恥ずかしい話ですがその通りです。朝一番の飛行機に乗ります。それで……明日出る前にケインにプロフェッサー宛の手紙を渡しておきますので、私が出た頃プロフェッサーに渡して頂きたいのです」
 自分から言うと又引き留められると思った名執はケインに甘えることにしたのだ。狡いのかもしれないが、困ると強く言われると断るに断れない事情が名執にはあったからだ。
「ま、事情が事情だから……私は構わないが……」
 ニコリとした笑みで、ケインはそう言って椅子に深く腰をかけると足を組み直した。
「無責任で済みません……ですが今一番大切にしたいことを優先したいのです」
 そう言っている今でも名執の心の中ではリーチの身を心配する自分しか居なかった。
「でも……それはやめた方が……。直接プロフェッサーに言われた方が良いとも思うんですけど……」
 レイは心配そうに言った。
「私はそれで良いと思うぞ。雪久はここの医者じゃないんだからな。それに私が心配しているのは、ずるずるとここにお前を引き留めようとしているような気がするのだ。下手をするとここから抜け出せなくなるぞ。まあ……別にプロフェッサーが何か企んでいるとは思わないがな……」
「……」
 ケインが言ったことは名執が最近感じていることであった。何故だか名執には長期の患者の担当が多い。その上、臨床研究も何年もかかる方法をあてがわれていたのだ。
 これは経験だと割り切って名執は今まで引き受けてはいたが、ケインから見てもそう写るのだから、自分が疑問に感じることもあながち外れてはいないのかもしれない。
「じゃ、今晩はさっさと寝るんだな。顔色の悪いお前と再会してもあっちが心配するだけだぞ」
 ケインはもう一度、笑みを見せてそう言った。
「ありがとうございます」
 名執はホッとしながら言い、暫くケイン達と雑談を交えてから自室に戻った。そうして名執は簡単に荷物をまとめ始めた。
 明後日にはリーチに会える……
 そう考え、名執は自分の中にある不安な気持ちを抑えていた。
「……あ……」
 荷物をまとめならがら、名執はふとあるものが無くなっていることに気がついた。名執はロスに来る前にリーチの写真を日本から一枚持ってきていたのだが、それが何処にも見あたらなかったのだ。
 誰かに写真を見ている姿を目撃されると恥ずかしいと思い、名執は今まで鞄にしまい込んだままであったのだが、その写真が何処にも見あたらなかった。
「変ですね……確かに持ってきたはずですが……」
 確かに持ってきたはずだ。しかし、自分は持ってきたつもりではいるが、自宅の机に乗っている可能性も否定できなかった。
 持ってきたつもりで忘れたのかもしれない……
 たぶんそう言うことなのだろうと、深く考えることなく名執はベットに潜り込んだ。

 次の朝早く、名執は段ボール箱を一つ持って裏口から外に出た。その姿は怪しまれないように白衣を着ていた。
 あとで脱げば良いのだ。
 そうして建物を振り返り、名執は心の中で謝った。
「先生朝早くお出かけですか?」
 研究所の出入り口であるゲートにいる警備員が、名執にそう気安く声をかけてきた。
「ええ。国際便で急いで送りたいものがありまして、少し出かけますね」
 その警備員にニコリとした笑みを浮かべて名執はごく普通に言った。
「そうでしたか、誰かに送らせましょうか?」
 名執の笑みに顔を赤らめた警備員は、そう言ってインターフォンに手をかけた。だがそれをされるとまずいのだ。
「それには及びませんよ。それに個人的なものですし、気晴らしに歩いて行きます」
 実際国際便を取り扱っている店は研究所に続く坂の下にあるのだ。そこは二十四時間空いていており、バイオハザード系のものも取り扱っている。その為、ここの研究所員は急ぎの場合に良く利用していたのだ。そうであるから不審に思われることも無いだろうと名執は思い、国際便に乗せるように見せかけた段ボール箱の中に自分の荷物を入れていたのだ。
「行ってらっしゃい」
 警備員はこれっぽっちも怪しまずにそう言った。
「ええ」
 警備員の笑顔に罪悪感を感じながらも名執は研究所を後にした。表通りに出てタクシーを拾おうとすると自分の横に黒塗りの車が止まった。
「……」
「お出かけですか?」
 車から降りてきたのはグランマイヤーの側にいつも付き添っているレオナードであった。
 レオナードは普段から無口で余り話さない所為か、得体の知れないところがあった。特に一重の瞳に三白眼であった為、その雰囲気を更に濃くしていた。
 クイーンイングリッシュであるのでどうも生まれはイギリスの方ではないかと思われているが、本人が自分の事を話さないので名執には分からなかった。ただ、分かっていることはいつもグランマイヤーの側にいるということのみであった。
「ええ……珍しいですね……レオナードさんが外に出ていらっしゃるのは……」
 そう、レオナードはいかなる時もグランマイヤーの側にいるのだ。
「ご主人様の言いつけなのです」
 表情を変えず、レオナードはそう言った。
「グランマイヤーさんのご用事ですか?」
 名執は困惑したようにそう聞いた。
「先生の帰国を止めるよう言付かって参りました」
「!」
 今日こっそり帰国しようとしていた事が、どこから漏れたのか名執には分からなかった。だが、その事をレオナードは知っており、更にグランマイヤーも知っていることだけは、今のレオナードの言葉で分かった。 
「いえ……そんなことは……」
 レイやケインを疑いたくは無かった。
 ではどこから漏れたのだろう……
 その事で頭が一杯になった名執は動揺を隠せなかった。
「誤魔化さないでください。無駄ですよ。その事は既にご主人様もご存じです。名執先生のお立場も分かりますが、本日の帰国を取りやめて頂きたい。お願いですから……もう暫くご主人様の側に……」
 レオナードの口調はどちらかというと懇願に近かった。
「それは……」
 名執もリーチが心配なのだ。
「あの方は死を覚悟してこちらの研究所に来られたのです。そこで天使のような先生に出会った。手術も成功し、とりあえず今は徐々に回復されております。それは先生が導いてくれたと信じておられるのです。先生なら助けてくれると……。今あの方は先生だけが希望なのです。ずっととは申しません。せめてもう少しご主人様が回復されるまでお願いしたいのです」
 それは名執も充分、分かっている。分かっているのだが……
「……」
「先生は優しい方です。必ず願いは聞いていただけると……」
 優しくはない。
 名執は自分のことをそう思ったことは無いのだ。
 いつだってリーチが一番優先する。例えどんなに重病患者が居ても、側にリーチが瀕死でいたとしたら、名執はリーチを選んでいるからだ。
「申し訳ありませんが……日本にも私の患者がおります。その方達に順番はつけられないのです」
「もう先生しか頼れる方はいないのです」
 レオナードがこれほど話すのを名執は初めて聞いた。その彼の気持ちは良く分かった。しかし医者は失格だと責められようと誰よりもリーチを優先したいのだ。
「申し訳ありません……」
「先生……」
 名執はレオナードの訴えるような視線を避けた。するとレオナードの持っている携帯が鳴った。
「はい……えっ……ご主人様が……分かりました。すぐに戻ります」
 そう言って次はこちらを見た。
「先生、一緒にどうあっても戻ってもらいます。どんなことをしても……」
 そのレオナードの瞳は有無を言わせないものであった。
「グランマイヤーさんに何かあったのですか?」
「今意識不明だそうです」
 名執にはそれを振り切ることは出来なかった。



「うるさいな隠岐」
「いい加減に外に出して下さいよ」
 リーチは内心イライラしていたが、そう答えた。
「馬鹿言うな。お前を狙った奴は病院の中までやってきたんだぜ。ここなら安心だろ」
 篠原はそう言って笑った。
「笑い事じゃないです。外は警官、私は監禁。いい加減うっとうしいですって」
「管理官命令ってやつだ」
 へらへらと篠原はそう言って持っている雑誌に視線を落とす。その姿は相変わらず緊張感が無い。
「……」
「連中が何者か分かるまではじっとしておけよ」
 雑誌から視線を反らさずに篠原はそう言った。
「例え捕まえても依頼人が誰かは分かりませんよ。ああいう人達は捕まっても絶対吐きませんから……」
 だからプロなのだろう……と、リーチは思った。
「そりゃそうだけど……お前も死にたくないだろ」
 チラリと目線だけこちらに向け、篠原は言った。
「そうですけどね……」
 病院での事件からこっち、リーチ達は警視庁に強制的に隔離されていたのだ。うちには一切帰ることを許されなかった。状況が把握できるまで、人の多いところに居るのが一番だと判断されたのだ。
「それより……もし強硬手段で警視庁の人達に何かあったらどうするつもりなのですか」
 不満げにリーチはそう言った。
「人の多いところにいる方がいいと管理官は判断されたんだ。奴らもそこまでのリスクを背負ってお前を殺そうとは思わないだろうってさ」
 それは充分、リーチにも分かっていた。だがこの状態が苦痛なのだ。
「じゃあ私、囮になりますよ」
 にっこりしながらリーチは言ったが、逆に篠原はびっくりした顔で言った。
「守りきれないからこういう状況になったってのが分かってないなお前」
「自分の身は自分で守りますよ」
 満面の笑みを浮かべてリーチは言ったが、篠原には通用しなかった。
「だーめ」
 篠原はそう言って先ほどまで読んでいた雑誌を又読み出した。
『息詰まりそうだよリーチ……』
 滅多にそう言うことを言わないトシがげんなりとそう言った。
『俺も……』 
 場所は警視庁の地下の一室であった。電話は禁止。メールに限ってだけ許されていた。
「篠原さーん……」
 うお~息が詰まるーーーー!
 出せ~
 ここから出せよ~
 と、リーチは心の中でだけ叫んでいた。
「黙れ」
 篠原はもうこちらを見ずにそう言った。何を言っても聞こうとはしない。
「うう……気が狂いそうです」
 死ぬ……
 俺はひからびて死ぬ……
 嫌だこんなところでずっと生活するなんて……
「精神科医でも連れてきてやろうか?」
 篠原だけはこの状況を楽しんでいた。
 変な奴だっ!
 篠原は変わってるぞ……!!
 お前、実は根暗だろう~!
 なんでこんな状況を楽しめるんだっ!
 うう……
 死ぬ……
 なあんてリーチの悪態は止まることを知らない。それでもここに居るしかない状況はどうにも変えることが出来ないのだ。
「……」
『ねーリーチ、メールチェックしたいから交代してよ』
 トシはリーチにそう言った。そろそろ幾浦とのラブラブメールの時間なのだろう。
 良いな……
 俺もユキのアドレス聞いておけば良かった……とリーチは初めて後悔した。どうもリーチはこのインターネット等という関連には弱い。見えないところで情報が錯綜していると言うことがどうにも気持ち悪くて仕方ないのだ。いくらトシに説明を受けても、ちんぷんかんぷんで分からない。
 警察も最近、ITが叫ばれており、情報ネットワークが既に出来上がりつつある。トシはそれを難なく受け入れ、事件の検索などまるで日常の生活のようにこなしているのだが、リーチはやっぱり苦手であった。
 刑事はやっぱり足で仕事するんだーーっと未だにそう言う事を言っているのがリーチなのだ。
 だが、今回は名執の事もあり、メールを使えたら良かったと心底思った。
 ここから出たら……
 俺はあいつの所に行くぞ……
 絶対行くっ!
 引きずり戻しに行くっ!
 もう決めたんだ!
 と、トシにはまだ話していない決心をリーチは付けていた。
『いーぜ。好きなだけメールしろ。俺は寝る』
 ふてくされたように言ってリーチは主導権をトシに渡した。
『うん。後で起こしてあげるね』
 トシがそう言うとリーチはスリープした。

「メールのチェックでもしようかな……」
 独り言の様にトシは言い、部屋においてあるパソコンを開けるとネットに繋いだ。そんなトシを篠原はちらりと見て、又雑誌を読んだ。
 メールはいくつか入っていたが、トシはまず幾浦からのメールを開けた。それは出張先からであった。内容は時間が出来たから明日にでも名執を訪ねるとのことであった。トシは警察病院の田村から聞いた研究所の住所を幾浦に教え、今は電話では連絡が取れない状態であること、至急こちらにメールを入れてくれるように、トシのアドレスを名執に教えて欲しいと書いて、返信した。
 トシは名執を疑ったりはしなかった。
 ただ、あの混乱した時、消去法で考えると残るのが名執だっただけなのだ。だからといって仕組んだのは名執だとはこれっぽっちも思わなかった。リーチの方もあの病院で襲われたとき、混乱し、名執に口を滑らせたようであったが、今はその事を後悔しているようであった。
 とすれば、誰が依頼人であろうか?
 トシは自分達がらみではないと確信していた。まず、自分達の周りにはそんな心配事が出る事件が起こっていないからだ。では残るのは名執の側だ。
 こちらでは分からないが、名執の周りで何かおこっているのではないかと、トシはその方が心配であった。
 もしもう少し近い距離であったのなら、リーチは有無を言わせず連れ戻しに向かったであろう。しかしそれが出来ない距離であるからリーチもイライラしているのだ。何より連絡が取れない。それも変だとトシは思っていた。
 こちらも連絡が取れない。同じように名執も連絡が取れないと言っていたのだ。お互いが取れないと言うのはおかしい。誰かが間に介入しているのではないかとトシは思っていた。だが、その誰かの顔がトシには描けなかった。
 絶対、誰かが間に介入して邪魔してるんだ……
 トシがそう確信する理由は、名執の研究所において、電話は交換手を通すからであった。いつもそこで電話が繋がらないからだ。
 変だよね……本当に……。
 リーチがそれに気がつかない訳は無いのだ。口には出さないがリーチもその辺りを不審に思っているようであった。
 今は幾浦に名執のことを任せることにした。上手くいけば名執を連れ帰ってくれるかもしれないのだ。
 そんなことを考えながらトシは四角い部屋を見回して、ため息をついた。



  幾浦は名執の研究所前に着いた。六階建ての建物は窓がすべてマジックミラーになっていた。それが妙な威圧感と胡散臭さを幾浦に感じさせた。
 建物に続く敷地内の出入り口には警備員の常駐する小さな小屋が建っており、出入り口は頑丈なゲートに閉ざされていた。
 幾浦はそこにいる警備員に名執に面会したいと告げた。
 なんだかものものしいな……
 ゲートの端でそんな事を考えていると名執がやってきた。
「幾浦さん!」
 その表情はとても嬉しそうであった。
「久しぶりだな」
 ゲートを挟んで二人はそう言って再会を喜んだ。警備員の方は名執と幾浦が知り合いだと分かった所為で、ようやくゲートを開けてくれた。
「こんなところで立ち話も何ですが……建物内には案内できないのです」
 ゲートをくぐった幾浦に名執は申し訳なさそうにそう言った。
「そうだな……ではその辺にでも座るか……」
 建物の周りは木々が沢山植えてあり、人工的に作った池や川も流れていた。天気の良い日にここの患者が散歩でもするのだろう。その為に作られた木の椅子が所々に設置されていた。
 幾浦は名執と人工的に作られた池の側にある椅子に座った。その瞬間に甲高い音が鳴った。
「な……何の音です?携帯ですか?」
 驚いた顔で名執はそう言って幾浦の方を見た。
「いや、悪かった……まて……」
 幾浦は名執に口を閉じる仕草をし、鞄から煙草入れより少し小さな機械を取り出した。その機械を名執の方に向けると、中央についているランプが点滅した。
「……」
 名執は驚いた表情でじっと幾浦を見ていた。幾浦は名執の胸の辺りや腰の辺りにその機械を撫でるように滑らせた。
「変な気はない」
 思わず幾浦はそう言った。
「いえ……ですが……一体どう言うことなのです?」
 幾浦は名執の名札を取り、その裏側に隠されていたチップを取ると、地面に置いて右足で踏みつぶした。
「名執……自分に盗聴器がつけられていることを知っていたのか?」
 何だか益々胡散臭いと思いながら幾浦はそう言った。
「今の……今のはそうなのですか?」
 信じられないと言う表情で名執はそう言った。
「ああ、私が持っているのはクライアントと商談をするときに、敵会社が盗聴器を何処かに隠していないかどうか調べる機械だ。広範囲ではないが、商売柄なかなか重宝するので持っているんだが……。どうしてお前に……知っていたのか?」
 知っていて付ける馬鹿は居ないのだろうが幾浦はそう言った。すると名執は当然のごとく顔を横に振って言った。
「どうしてそんなものが……私は全く知りませんでした……」
「全く胡散臭いな……ここは……。そんなことをする奴の見当はついているのか?」
「私には全く……分かりません」
 益々困惑した表情で名執は言った。見当が付かないのだろう。
「まあいい。ところでいつ戻って来るんだ?」
 幾浦はまず本題に入った。盗聴器も問題だが、ここに来た本来の目的をまず話そうと幾浦は思ったのだ。
「……それは……」
 名執は俯いてこちらを見なかった。
「ここは居心地がいいのか?」
 苦笑しながら幾浦はそう聞いた。
「そう言うわけでは……少し大変な患者さんがおりまして……」
 小さく溜息を付いて名執はそう言った。そんな名執の表情も酷く絵になる……と幾浦はぼんやりと思った。
 いや……
 今はそんな事を考えている場合じゃなかった。
 幾浦は気を取り直し、更に言った。
「大変な患者が日本にもいるだろう。あんまり放っておくと重傷になるぞ」
「……リーチは大丈夫ですか?」
 心配そうに名執はそう言った。
「いま電話は繋げて貰えないからな。私も、もっぱらメールでやりとりをしているが、トシもリーチも軟禁生活に音を上げているようだ」
 笑みを見せながら名執に言ったが、名執の方は真っ青になった。
「お、おい……そんなに深刻な顔をするな。あいつらは大丈夫だ」
「リーチは……」
 半泣きの名執を宥めながら、幾浦は事のいきさつを話した。そしてトシがおかしいと考えている話し等を聞かせた。
「トシは交換手が怪しいと見ているようだ。確かに、お互いが電話が通じないと言うのはおかしい。どちらかが嘘をついているか、誰かが間に入って邪魔をしているかどちらかだ。それでだ、お前を信じると怪しいのは、研究所の交換手しかいないだろう」
「……」
 名執は複雑な表情を向けてきた。
「リーチが嘘をついたり居留守と使っていたわけではないぞ」
 笑いながら幾浦はそう言ったが、名執の方はクスリとも笑わずに深刻な表情でいた。
「……」
「それに……これは口止めをされていたのだが……」
 リーチやトシ達が何者かに命を狙われていることを今の今まで幾浦は話すつもり等なかったのだが、名執にも知る権利があるだろうと幾浦は思った。リーチの為にも、出来るなら名執を連れて帰ってやりたい。
 だからこそ彼らの状況をきちんと話し、名執の気持ちを帰国へと持っていきたいと幾浦は考えた。
「何ですか?」
「実はな、トシやリーチが大変なのは理由があるのだ」
「理由……ですか?」
「あいつらは今訳の分からない殺し屋に目を付けられている」
「ええっ!」
 名執は驚きに座っていた腰を浮かせた。
「相手はプロだ。だからあいつらも動けずにいるのだ。警察の方も守りきれないと判断したのだろう。だから警視庁に軟禁されている。あいつらが言うには今狙われるような事件を追ってはいないし、そこまで恨んでいる相手が出所したとは聞いていないそうだ」
 溜息をつきつつ幾浦はそう言った。
「本当にリーチ達は安全なのですか?大丈夫なのですね」
 浮いた腰は再度椅子に下ろされることなく、名執はそう幾浦に言った。
「ああ。今のところはな……」
「一体誰が……」
「リーチは話をしたそうだ……」
「その殺し屋とですか?」
「殺し屋と言っているが……まあその男は、軽くリーチ達を痛めつけろという依頼を貰ったようだ。あいつらの怪我の具合や、状況を見ると軽くを越えているがな。それでだ、名執にも想像して欲しいのだが……」
 こんな事を言うと名執は傷つくかもしれないと思いながらも言葉を続けた。
「殺し屋は外人で海を渡って来たそうだ。そいつが言うには、依頼人はその殺し屋を雇うために何千万か軽く支払えるほどの依頼人で、リーチやトシを良く知っている人物だそうだ。そしてその依頼人は最近リーチやトシを邪魔に思っている。連絡を取るのを止めればちょっかいは出さないと言うようなことを話したそうだ。……で、名執は依頼人の顔をどう描く?」
「わ……私ではありません……。もしかして幾浦さん……私を疑っているのですか?まさか……リーチがあんな事を言ったのはその所為で……」
 急におろおろと名執はそんな事を言った。
「リーチが何を言ったのだ?」
 その話はトシから聞いては居なかったのだ。
「リーチは……私に……俺が邪魔か……そう言いました。……まさか……リーチは私が依頼人だと……」
 名執は幾浦の腕を掴んで今にも泣き出してしまいそうな顔で言った。
「いや、それは失言だろう……あいつはそうは考えてはいない」
 はずであった。
「誰が……そんな事を……」
「さぁな。ただトシが言うにはどうも依頼人をお前に仕立てたい奴がいるのではないかと言っていたが、心当たりはあるのか?」
「……私には分かりませんが……それよりもリーチが一瞬でも私を疑ったことは許せません」
 名執はようやく落ち着いた様子で、今度は腹を立てていた。
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